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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第七章『騒乱ベルフェイン編』
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第百六十二話『胸奥の泥』

 太陽がその瞼を落とし、ベルフェインの街並みが夜の暗さに食いつくされた。本来であれば、もはや地上を照らすのは月の淡い明かりのみ。人も、獣も、誰もが早足に自らの寝床へと駆けていく。そう、本来で、あれば。


 ――だが今、暗いはずの街並みを照らし出す何かが、唸りをあげている。


 それは、まるで沸き立つ炎のようだった。噴きあがる濁流のようだった、何かを求め暴れ狂う、竜のようだった。


 煌々とした灯りを夜の街に降り注ぎながら、魔力の奔流がベルフェインの中心部より立ち昇っている。異常だ。明確な、異常に違いない。


 そも、魔力なぞというものは、そう簡単に人の瞳に映りこむものではない。魔術師や魔法使いの類が行使し、何等かの形にして初めて、その姿を捉えることが出来る。一定の濃度にならねば、魔力というものはその姿を見せぬ、まるで薄絹の如く、淡い存在でしかない。


 それが、今、そら恐ろしい薄緑の姿を人々に見せつけながら、空を裂いて天へと昇り続けている。余りに高密度の魔力が、天へと駆けのぼり光の柱を形作っていた。もはやそれは御伽噺の中か何かに出てくるような、そんな、光景。


 誰もが、その瞳を奪われている。


 人々は瞼を閉じる機能すら失ったかのように、表情を作り上げることも忘れたかのように、その光景に張り付けにされていた。貧民も、庶民も、貴族も、この時ばかりは身分の垣根なぞ忘れたのだと叫ぶように、一様に同じ行動をとっていた。


 そうして、誰もが、口に出さずとも胸の中にその言葉を、抱き始める。


 ――ああ、恐ろしい、そら恐ろしい何かが、起こるに違いない。



 ◇◆◇◆



 頬が、空気の流れに撫でられるのを、感じる。あの立ち昇る魔力の奔流が、少しずつ、ほんの少しずつだが、勢いを増しているようだった。


 目を細め、カリアの身体に掴まるようにしながら、身を起こす。肺の中で何かがぐるぐると渦を巻きながら暴れているような感覚が、あった。


「――勘弁してくれ。フィアラートも、来てたのかよ」


 知らず、唇がそう呟いた。誰に聞かせるための声でもない、ただの愚痴に近い声だった。カリアが銀の瞳を丸くしながら、分かるのか、と呟く。何とも、何時も堂々と張りのある声を出すカリアにしては、珍しく小さな声。どうやら、肩だの腕だのに傷を浮かべた俺の身体を、多少は気遣ってくれているらしい。何時もこれくらいに甲斐甲斐しければ、俺としては言う事がないのだが。


「分かるさ、勿論。当然だろ、あんな異常を引き起こせるような奴が、他にいるのかよ」


 そう、言葉にした通り。瞳に映りこんでいる姿は紛れもなく異常、異端、日常茶飯の真逆といった所。こんなもの、過去に遡ろうが、未来へと脚を進めようが、出来る人間なんて限られている。そうして、俺が知る中では、ただ一人。


 天候すらも、世界すらも己の手の中で作り変えてしまう、あの女しかいないだろう。


 しかし、どうしてまた、ベルフェインに。と、そう呟こうとして、思わず唇が閉じられた。カリアの前で、再びその言葉を漏らすのは、余りに気遣いが出来ていない。


 自尊というわけではない、己を過信するわけでもない。だけれども、フィアラートがこの身に、何らかの想いに近いものを抱いてくれていたのは、知っている。そうして恐らく、フィアラートがベルフェインへと至ったのも、その情動が口笛を鳴らしたのが切っ掛けになったのだろう。


 それは、俺にとっては望外のもので、この胸には喜びに近い感情と共に、もう一つの感情が這いあがってしまう。かつてその存在すらも認められていなかった俺が、フィアラートに、あの英雄に情動を寄せられるなどあってはならないのだと、何処か忌避してしまう感情も、確かに存在したのだ。


 馬鹿らしい。愚かしい。そんな事は、誰よりも己が分かっている。だが、人の情動が理性に従うのであれば、どれほど楽な事か。どれほどに、人は今よりもずっと幸福に生きて行けることか。それが出来ぬからこそ、人は皆、懊悩をその頭蓋の奥に押し込みながら、日々を無理矢理に生きている。そうして、俺もやはり例外では、無かった。


 だが、だ。


 僅かにふらつく脚に無理やり力を籠め、カリアの肩から手を離す。己の胸元に手を入れると、どろりとした感触が、指先に触れた。肩から噴き出すように流れていた血が溜まってしまったのだろうか。


 思わず眉間に皺を寄せ、耳を震わせながら、噛み煙草を取り出し口に当てる。随分と久々に、唇がその感触を味わった気がした。


 鼻孔を、独特の匂いと、鉄の匂いが、通っていく。瞳を細めながら、息を二度、大きく吐き出した。


「どうにも、分からんものだな。自らあの魔窟に足を踏み入れにいく気か」


「そりゃあな、ああ、行くさ」


 短く、語尾を食い取るように告げながら、脚を揺らめかせる。一歩踏み出すことに、骨髄から痛覚が染み出してきそうだった。


 カリアの銀の瞳が、何等かの情動を残しながらこちらを見据えているのが、分かった。しかし、それを口には出すまいとしているような、そんな、どうにもカリアらしくない表情が顔に浮かんでいる。というのも、彼女はかつての旅の折、俺に対して遠慮だの、何かを思いとどまるだのといった事は、一度もなかった。


 ああ、まったく。らしくない事、この上ない。カリア、と、そう小さく呼びかける。噛み煙草を指で転がしながら一歩、足を前へと進めさせた。


「お前は、俺の仲間さ。紛れもなく。そうして……フィアラートも」


 それは、胸の奥底から吐き出されたような、、そんな、言葉だった。今まで決して吐き出すまいと臓腑の奥で凝り固まっていた泥が、今、言葉へと形を変えてゆっくりと、空気に晒される。


「あの魔窟の中にいるのが、カリア、お前でも俺は同じ行動をとるさ。ああ、そうだろう。仲間だっていうのなら、そいつが、危なっかしい所にいるのなら」


 妙に、言葉が纏まらないのが、理解できた。まるで情動がそのまま唇からあふれ出してしまっているような、そんな感覚が、あった。


 ああ、そうだとも、俺はきっとこの言葉を何よりも、唇から吐き出してしまいたかったのだ。胸を張って、あの英雄たちと肩を並べて、こう言えることを、何よりも、願った。


「――力になりたいと、そう思うもんさ。違うか、ええ?」


 もはや、カリアに顔は見せられなかった。含羞この上ない。背中を見せながら、また一歩、よろけながら前へと踏み出す。はぁ、と、大きなため息が後ろから聞こえ、そうして、何か強い力が、俺の身体を支えた。カリアの声が、耳元で囁かれる。


「大馬鹿者め。いいか、それなら貴様も、少しは仲間の肩にもたれかかる事を覚えるんだな」


 唇を尖らせてそう言いながらも、カリアの長い睫毛は何処か機嫌良さそうに弾んでいた。全く、何時もこの調子なら、何の苦労もないのだが。


 私兵も、傭兵も、俺とカリアの歩みを止めようとはしなかった。誰もが、魔力の奔流に瞳を奪われ、そうして世界の理から一歩はみ出たような異常な光景に、自分が何をすれば良いのか、何をすべきなのか、理解しかねるような顔を、していた。

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