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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第七章『騒乱ベルフェイン編』
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第百六十話『魔術師の謀り事』

 沈みかけた陽光が、窓を通してベルフェイン領主館の廊下を照らす。水瓶を運んでいた使用人が恭しく頭を垂れる姿と、それに応ずるように揺れる黒髪が、窓に映り込んでいた。


「……どうぞ、フィアラート様」


 そう唇を動かし、瞳を虚ろに揺らめかせる使用人の前を、フィアラートの黒髪がゆったりと通り過ぎていく。


 ありがとう、フィアラートはそれだけを告げ、堂々と、領主館の廊下を横切った。まるでそれが、当然の事だとでもいうように。何もおかしな事はないのだと、強調するように。その指の先からは、甘い、花のような香りが零れ落ちていた。


 ゆっくり、ゆっくり廊下を通り、そうして使用人の視界の外へと出た所で、ふぅ、とフィアラートは安堵のため息を漏らした。


 ――良かった、どうやら、上手くいったらしい。


 そうして壁にもたれかかりながら、自分の指先を見つめる。黒い瞳が、ふるりと揺れた。


 思考誘導の魔術。なるほど便利ではあるが、万能というにはほど遠い。ある意味では、魔術らしい魔術と言えるのではないだろうか。


 出来る事はあくまで思考を誘導し、事実を誤認させるだけ。それも余りに違和感がありすぎれば効果が弱まる。今フィアラートに出来るのは、精々が客人である自分が、館を散策する事はおかしな事ではないと、そう相手の脳へと刷り込ませてやるくらいだ。


 これでは、ルーギスが言っていたような、大勢の人間を無理矢理に扇動するなどということは、まだまだ先の話であるらしい。


 思わず、フィアラートの黒眼が瞬く。こんな事では、ルーギスに披露するのはまだまだ先になりそうだ。何とも、じれったい。どうせなら今すぐに成果をルーギスの耳へと吹き込み、その唇から漏れる声を聴きたいのだが。


 だが、我慢だ。あまりに焦りが過ぎると、大きな成功をこの指から零れさせる事になる。準備は、万端にしなければならない。一滴の水も、一匹の虫も入り込む余地がないほどに。


 それに、思考誘導も、今は此れだけ出来れば構わない。必要だったのは少しばかりの自由だ、それさえあれば十分に用は成せる。だから、焦る必要はない。


 だと、いうのに、胸の中にどうしても逸る思いがあるのが、フィアラートは理解していた。怪しまれぬよう、誰かに感づかれぬように足音を忍ばせようとするも、知らず身体の動きが速まっていく。情けない。これではまるで、情動を制御できない子供のようではないか。


 だが、もうすぐ、ルーギスは此処に至るだろう。それはある種の予感であり、彼の動きを想定してのことだった。ああ、きっと、来るはずだ。此のベルフェインという都市を奪い取るために。ルーギスとは、そういう人だから。


 ならば私は、彼の為に全てを整えておきたい。道筋を作り、彼の為の舞台を用意し、待ち望もう。そうすれば、彼は喜んでくれるだろうか。自分を、褒めてくれるだろうか。少しばかりは、目を向けてくれるかもしれない。その想像が脳の端を過るだけで、フィアラートの胸中に何か暖かいものが流れ込んでくる。どうにもそれを押しとどめることができない。


 今はまだ、ルーギスは此方を見てくれていない。それは、事実だろう。知りたくも、理解したくもない事だが、その事実から目を逸らすことは出来ない。しては、ならない事だ。


 何故なら目を逸らすということは、ルーギスのその行為を、受け入れる事に等しい。此方を見てくれずとも、それで良いのだと、受け入れてしまうことだ。


 きっと、かつての己であれば易々と受け入れてしまっただろうと、フィアラートは思う。必死に手を伸ばして、その手を追い求めて、それでも、背を見せられてしまったのであれば。仕方がないのだと、己には、手が届かぬのだと、フィアラートはきっと受け入れた。受け入れてしまったに違いない。


 だが、どうにも不思議な事なのだが、今此処に至ってそんな気持ちは僅かたりとも己の胸に姿を見せようとはしない。むしろ、受け入れ、諦めるという選択が最初から存在しなかったかのよう。


 それはもしかすると、ルーギスに感化されたのかもしれない。はたまた、フィアラートの精神の奥底には、もとからそのような性質が埋め込まれていたのかもしれない。


 そうして、その精神が告げるのだ。此処で、ベルフェインにて全ての事を成し遂げるべきだと。ルーギスに、決定的な杭を打ち込んでしまう必要があるのだと。


 そう、彼がいずれ私を頼り、そうして手を差し伸べてくれるようになる為の、杭を、今此処で。フィアラートの黒い瞳が、瞬いた。


 甘く見て貰っては、困る。確かに私は、戦場の英雄たるカリアや、紋章教の聖女マティアと比べるれば、この手に与えられたものは少ないかもしれない。神はこの身に、栄光を与えず侮蔑をすら与えたのかも知れない。


 元々からして、私は何もかも軽々と成し遂げられる天才ではなかった。瞳を何度も苦渋に濡らし、拳を握りしめて屈辱に耐えねばならなかった。何度も諦念の壁を見た。何度も己を卑下させられた。所詮己には出来ぬのだと、己のような存在には手が届くはずもないと、何度も、何度も。そうして、その度に、爪から血を滲ませてきた。


 そうだとも、この身は才能ある者達に囲まれながら幾度も諦めの壁を見た。そうしてその度に頭を垂れてしまった愚か者だ。だからこそ、ああ、だからこそ。


――貴方だけは、諦めたくない。ルーギス、そう簡単に、私から離れられると思わないでよね。


 例え爪が削れ落ち指が血を流そうと、この眼から光が失われたとしても、知った事か。諦念の嗚咽に比べれば、身を剥がれる激痛の方がよっぽどましだというものだ。


 フィアラートの頬が緩み、足が、領主館の廊下を進む。行先はすでに決まっていた。


 領主、貴族、そう呼ばれる者の館には、必ずある部屋。その土地の知啓が搔き集められた場所、書庫へと、フィアラートの足は、ゆっくりと伸びていった。その足取りは、明確な意志と、目的をもっている。


 影が、ゆっくりと、廊下を伸びていった。



 ◇◆◇◆



 黄金の眼が、何かに怯えたかの如く、ぞくりと揺れた。


 唇が酷く、乾いているのをアリュエノは感じた。肺に、妙な息苦しさを感じる。先ほどまで吸っていた空気が、何かべつのものに変質してしまったような違和感を、臓腑が訴えている。


 何だ。何が、起こった。数回、瞼が瞬き、妙に揺れる頭の中で、思考を回す。何も、本当に空気が変質したわけではない。それに近い、何かが、揺さぶられた。


 そうか、魔力だ。魔力の流れが、一瞬、歪に曲がりくねった。それがまるで空気が変質したかの様な感覚をこの身に与えたのだ。思わず吐き気すら覚えそうになり、アリュエノは口元を手で抑える。


 恐らく本来は、ただの違和感で終わるそれ。ただの人間であれば、軽く首を傾げる程度で終わるだろう。魔術に造詣が深い人間でも、軽く眉を顰めて気づかなかったことにしてしまうかもしれない。


 だが、聖女と、そう呼ばれ尊ばれる身体に溢れんばかりに注がれている魔力が、明確な異常をその身に告げている。魔力そのものが揺さぶられ、本来あるはずの流れが逆流するような気色悪さ。言うならば、全身を巡る血液が自ら行き場を忘れ、全く見当違いの場所へと血液を運んでしまっている様な。


 ――此れは、駄目だ。何か、大きく間違った何かが、起きている。


 黄金の髪の毛が、揺れる。僅かに頬が青白くなっているのを、アリュエノは感じていた。知らず、その身が立ち上がった。今、一瞬感じた、魔力の捻れ、乱れ、奔流。その出どころを探るように、ふらつく脚が私室を飛び出し、廊下へと至る。


 窓から入り込んだ夕陽が、アリュエノの瞳を優しく撫でる。もうそろそろ、日が暮れようという頃合いだった。長い睫毛が、揺蕩う。


 ――。


 その夕暮れの景色に胸を揺さぶられたかのように、アリュエノの唇が、僅かに波を打った。その微かに漏れ出た声は何者に届くこともなく、空に紛れ、消えていった。

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