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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第七章『騒乱ベルフェイン編』
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第百五十八話『支払うべき代償』

 ベルフェインの街並みを太陽の光が焦がしきり、夜の闇がゆったりとその身を起こす。


 傭兵と領主私兵、そうして俺とカリアが剣を構える街道からも、少しずつ、日の光がその姿を失おうとしていた。


 俺と、カリアの間に存在する距離はもう殆ど、ない。後一歩どちらかが踏み込めば、そこは剣がその顎を開いて相手を斬獲する地点。


 カリアの銀髪を、日光が最後の煌きとばかりに、撫でた。そうしてゆっくり、ゆっくりと、光は身を削り取られ、そうして、消えた。


 瞬間、薄い夜闇を紫電が、駆ける。一挙動の間に宝剣を振り切り、カリアへと剣を突き付ける為に。呼吸は、ない。そのような存在を挟み込ませるような余裕はなく、何かを意図する事すら出来ない。カリアの首筋へと刃を沿えるのであれば、それでもまだ足りぬと思えるほど。


 カリアの剛たる剣撃を受け止めるような事は、俺には出来ず、そうして長期戦もとても望めない。そうしてもはや今の彼女には、小細工も通じはしないだろう。それに今回の決闘には、かつてガルーアマリアで用意したような品は、手元にない。


 であるならば、取り得る手段は一つ。こちらより事を仕掛け、カリアへ此の刃を至らせるしかない。それも、早く、何ものよりも、早く。


 例えあの英雄の如く音は切り刻めずとも、ただカリアよりも早く剣を運べれば、それで良い。その為には思考も、呼吸も、剣を振るった後の身体の無事も、何もかも投げ捨てよう。この身をより軽くして、ただその空に揺れる銀色の姿を目がけて、剣を放っていた。右手の指へと力を籠め、柄を強く、握りこむ。


 無論、事がそう簡単に運ぶはずもない。


 瞬きほどの間もなかっただろうか。夜闇へと混じりこんだ紫電に応ずるが如く、目の端で銀光が唸りをあげたのが、分かった。


 カリアの、空間そのものを捻り潰すような剛撃。それこそその勢いだけで、俺なぞ跳ね飛ばされてしまいそうだ。明確に俺の首筋を狙ったであろう斬撃が、左手側より、迫る。


 ――その時点で、直感した。脳裏が、理解、してしまった。やはり俺の力量は、カリアに遠く及ばない。

 

 後頭部の辺りを何か悍ましいものが舐めていく気配があった。俺の剣と比べればそれこそ随分と悠長に振るわれたはずの、カリアの銀剣。


 だと、いうのに、それはまず間違いなく、俺がカリアに宝剣を突き付ける以前に、この首に触れるだろう。それがどうにも現実的な予測として脳裏に浮かび上がっている。そうしてきっと予測は、瞼を瞬かせでもすれば現実のものになる。


 ああ、何たる事だ。全く世界というものは、こうも残酷に人へ差異というものを設けてくれる。凡夫の決意に意味などなく、その勇敢さに値札は付けられぬと温情もなく教えてくれる。


 だから、こそ。持たぬ者は、何かを得ようとするその時、この身から血を溢れさせ代価とするしかない。


 柄頭に沿えていた左手を、離す。宝剣の軌道に問題はない。もとより、右腕をもってその身は振るわれている。


 そうしてまるで障壁とするかの如く、左腕を首横に、置いた。それはもはや、カリアの剛撃を見てからの動作であったのか、それともそれ以前にすでに想定していた行動であったのか。どうにも分かりはしなかった。ただ殆ど反射に近い行動であったのは、確かだ。


 俺の左腕は無事では済むまい。当然だ。あのカリアが、戦いというものに誰よりも真摯であり、敬意を払っているカリアが、こんな事で剣を止めるはずがない。一切の迷いを挟まずに、俺の左腕は両断されるだろう。


 だが、それで、構わない。


 当然だ。当然の事だ。そうすれば、必然首筋に銀刃がそえられるまで、一瞬の猶予が与えられる。それが、俺は何よりも、欲しい。その猶予をカリアという大いなる英雄から買おうというのだ。俺如きの左腕一本、どれほどに惜しいものだろうか。


 それだけで、良い。例えこの首筋そのものを差し出したとしても構わない。最後、此の決闘の最後の時に、紫電の輝きが銀光より僅かでも早く、カリアの首筋に沿えることができるのであれば。これ以上の事は、ない。


 左腕に、熱い、ただ熱をもった何かが触れたのが、分かった。



 ◇◆◇◆



 そんな、所だろう。カリアの胸中に抱かれた言葉は、ただ、それだけだった。銀の瞳が首筋へと左腕をそえたルーギスを見つめている。実にらしい選択だと、カリアは微笑すら浮かべそうになった。


 最初の小細工もなく、ただこちらに意志そのものを向けるかの様に振りぬかれた剣は、素晴らしかった。勿論、技量は遥か遠く自分に及ばない。踏み込む速度は凡庸だ。剣が描く一閃も、熟し始めているが尚明確な輝きを有していない。


 取るに、足らない。それだけを見れば本当にただ取るに足らない一撃に違いない。


 ――ああ、だが、それでも。誰がこの胸の動悸を止められるだろうか。


 カリアは、己の力量を理解している。かつてガザリアにて魔猿を単騎で討滅した際に、何等かの一線を越えたかのような感触を、確かにその手に得ていた。


 この領主私兵と傭兵が争う戦いの中で、それは確信へと変わる。もはや、ただ凡庸に振るわれるだけの剣や、突き出されるだけの槍がこの身に届くことはない。この身が雑兵に噛み切られる事など、あり得ない。


 それは、カリア自身の胸が語るよりも早く、他者の視線が教えてくれた。自らが振るう銀剣に、敵の瞳は怯え、竦み、まるで化け物でも見るかの如く揺れ動く。そうして背後から突き刺さる味方の視線は、英雄や戦神を称えるかの如く煌いている。それをもって、カリアは理解した。もはや己は、彼らとは違う地平にいるのだと。


 そのような敵の、怯え、竦み、そんなものを有した武器は、絶対に己には、届かない。傷一つ、皮一枚を剥ぐことすら、出来まい。何故なら彼らはこの首に手を掛けられるなどと、露ほども思ってはいないのだから。


 だが、奴は、ルーギスはどうだ。技量は雑兵と同じくやはりこの身には届かず、指先をかすってもいない。それでも、尚、その視線はこの首を貫いている。

 

 ああ、なんと、素晴らしい。


 カリアは本来、ルーギスの身体を切り刻むことなど、頭の内に置いてはいなかった。ただ少しばかり、仕置きをしてやろうと、そう思っていただけ。それだけに過ぎなかった。


 だけれども、そんな考えはもはや、カリアの胸からは消え去っている。


 ルーギスが、懸命に、まさしく命を放り投げ己と向き合っている。決闘という舞台を心の底から受け入れている。そんな、彼に対し、その身を傷つけぬよう手心を加えるなど、何と無礼なことだろう。なんと、敬意を失した行為だろう。


 傷つけたいとは思わない。むしろ出来る事なら、満身創痍の今の身体を休めて欲しいとすら、思う。


 だが、今のルーギスの姿を、在り方を、その覚悟を見て、それを意味がないなどと踏み躙ることが出来ようか。侮蔑し、唾を吐きかけ嘲笑うことができようか。手心を加えるというのは、それに等しい行為だ。


 ――行くぞ、ルーギス。貴様が此の首に手を掛けるというのなら、私もその覚悟に応じよう。


 銀光が、更なる唸りをもって空間を飲み込む。肉を断裂する確かな感触が、カリアの手の内に、あった。


 戦場の決闘。その決着が、今、此処にその身をあらわそうとしている。此の決闘を見守る誰もが、その事を理解し始めていた。

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