第百五十一話『彼女らの軌跡』
再び、街道に鉄の焦げる匂いが漂った。鉄と鉄が接合し、擦れ合う、匂い。
戦斧と銀剣が触れ合う瞬間、カリアは咄嗟に手首を返し、銀剣を横にしながら、戦斧を刃の上で滑らせそのまま受け流していく。ぎぃい、と鉄が奇怪な悲鳴をあげ、火花が幾重にも重なり、散った。
受ける重圧は外へと押し流したはずだというのに、それでも指先からにじみ出るような痺れがあった。カリアは思わず、その小さな唇を引き締める。その時胸の中に沸いて出た感情が何であったのか、カリアには今一つわからなかった。
そうして、カリアは手首を返したまま半身の態勢をとり、己を叩き割らんと振るわれた戦斧を、地面へと吸い込ませる。己の誘導したままに、無理矢理力の道筋を作るが如く。
——瞬間、風も身を捩るかと思われるような、轟音が、街道に響いた。
鉄鋼姫ヴェスタリヌ。確か、そういう名前だった女の戦斧が、したたかに地面を抉り抜く。街道に張られた石板が剥がれ、大地がその内部を露呈させながら中空を舞う。自由に空を駆ける飛沫となった小石が、勢いよくカリアの頬を撫でた。
なるほど、流石に並みの力ではない。鉄鋼姫という厳めしい二つ名は、伊達ではないようだ。これだけの膂力があれば、それだけで都市随一の勇士になれてもおかしくはない。それに、彼女には戦斧を自在に操る技術もある。十分に、傑物とそう言えるだろう。
だが、とカリアは銀の双眸を揺らめかせる。
だが、あの空中都市ガザリアの魔猿は、更にその上をいった。今でもこの腕が、覚えている。あの痺れを、あの背筋を覆いつくす悍ましいほどの震えを。人間の膂力など問題にならぬほどの剛力を、この身は味わっている。
ならば、何という事はない。この程度で、あれば。一度乗り越えた困難であれば、嗚咽をあげて膝をつくことなどあり得ない。
カリアは銀の長剣を横にして戦斧を受け流した態勢のまま、再び手首を返し、切っ先をヴェスタリヌへと突きつける。もはやヴェスタリヌは戦斧を振り切り、己を守る術を持たぬだけの獲物となった。今一度戦斧を振り回すような猶予を、決してカリアは与えない。
何故なら、敵は勇士だ。紛れもない、倒す価値のある人間、敬意を払うべき人間だ。なればこそ、侮りという名の辱めを与えるべきではない。此処で見逃すような真似は、彼女の精神を踏みつけにするに等しい行為だ。
此処で、その頭蓋を割ってやろう。誇りを持たせたまま、天上の調べを与えてやろうじゃあないか。それが、戦士への礼儀というものだ。カリアの銀瞳が、細まる。そうしてそのまま、銀の剣先が天を向いた。
長剣が、断頭台の如きかぐわしい匂いを纏わせながら、ヴェスタリヌの頭蓋へと、落ちる。
——血の飛沫が、砂煙と混じり、風に揺られ宙を舞った。
◆◇◆◇
領主館の少々埃臭い一室が、フィアラート=ラ=ボルゴグラードに与えられた部屋だった。いやむしろ、軟禁施設と言い換えてもよいかもしれない。備え付けられたベッドに腰かけながら、思わずフィアラートは黒い瞳を瞬かせ、ため息を漏らす。ベッドの質自体は、それほど悪くはなかった。
ちらりと眼を揺らし扉の方を覗き見れば、妙に整った立ち姿を見せる兵士が、警護という名の見張りについている。恐らくフィアラートが外に出る素振りを少しでも見せれば、すぐさま応援を呼ばれることだろう。
ならばと窓の方を見ても、その位置自体がまずフィアラートには届かない、部屋の上部に存在する。魔術を用いれば手を届かせる事くらいは可能だろうが、見張りに気づかれずに、という条件を満たすことは不可能だ。
煩わしい。正直な所、フィアラートにしてみれば今の事態は少々意外だった。確かに、領主であるモルドー=ゴーンに懐疑の念を抱かれるところまでは想定していたし、カリアと引き離される事も考えの内にはあった。
だが、よもや己にこうも厳重な見張りをつけられるとは思ってもいなかった。何故、己如きにこのような対処を行う必要があるのか、どうにも理由が分からない。モルドーがよほどの臆病者であるのか、それともただただ、懐疑心を骨の髄まで流し込んだ人間であるのか。
フィアラートの黒い瞳が、僅かに大きく揺らめいた。しかし、だからといってただ此処に留まり助けを待つなどという選択は、有り得ない。論外と言っても良い。
いずれ、此処にはルーギスが来るだろう。当然とでもいうような顔をして、忍び込んでくるはずだ。いやひょっとすると、正面玄関から堂々と入ってくるかもしれない。どんな形にせよ、彼が街中で追い詰められれば、いずれ此処にたどり着くことは間違いがない。
ルーギスには、独特の思考回路がある事を、フィアラートは理解し始めていた。彼は窮地に陥れば陥るほど、その思考がまるで火炎を噴く歯車の如く、勢いを増していく。
言ってしまえば、周囲から見れば極端と思われるほどに、思考が傾くのだ。ああそう、その様はまるで天秤のよう。最後の時に至るまでは、両手の皿に何をのせられても、均衡を保っている。例えそれが怨嗟を漏らすような苦痛であろうと、臓腑を爛れさせる炎であろうと。
だが、最後の最後。その切っ掛けが何であるのかは、フィアラートも明確には理解していない。しかしその何かが訪れた時、ルーギスの天秤は均衡を大いに崩れさせ、支えの糸を振り切ってしまう。
それは、あの地下神殿での出来事から始まり、そうして今に至るまで変わらぬルーギスの性質。
しかし、それが良いものかと問われれば、フィアラートも判断に悩み、眉を顰めざるを得ない。ルーギスの持つ性質によって己達が救われてきたのは、確か。だが、あの極端すぎる思考の振れ幅。あれは一つ間違えれば、自ら地の底へと身投げをするに等しい思考回路だ。そう、それだけを見ていると、まるでルーギスは。
いや、とフィアラートは眉を歪め、その考えを咄嗟にかき消す。それは今まで幾度も思考の末にたどり着き、その度に頭蓋の底に埋め直して来た考えだ。そうして、頭に浮かべること自体、無意味極まりない考えに違いない。
馬鹿らしい。思考とは、学問とは至高の絹糸だが、自分で絡まらせてしまっては意味がない。それを上手く、紡ぎあげることこそが大事なのだ。
そのルーギスが有する性質が、今回も働くのであれば。間違いなく、この領主館を最後には目指すだろう。彼の目的は、ベルフェインを陥落させる事なのだから。なればこそ、彼は此処に来るに違いない。フィアラートは頬を崩しながら、瞳を緩める。黒い髪の毛が、すぅっと宙を揺蕩った。
ならやはり、自分も相応の準備をしておかねばならない。こんな所で、立ち止まっている暇は、ないのだ。フィアラートはベッドに腰かけていた体を立ち上がらせ、睫毛を瞬かせる。そうして、細い指をくるりと、回した。
そうだ、今なら、きっと出来るに違いない。かつて、ルーギスに望まれた魔術。自分がそれを使えないと知った時、彼がどれほど落胆していた事か。そうして自分はどれほど己の情けなさを呪ったことか。
それ以来、眠りの時間すら削り研究を続けていたのだ。使えるようになったと彼が知れば、きっと歯を見せて喜ぶに違いない。想像するだけで、眉が上がる。ああ、それは何時だったか、彼が語った、奇跡の如き魔術。
——思考誘導の魔術。優雅な花の香りで人の意識をうっすらと奪う、そんな魔術だ。
フィアラートが軽く、くるりくるりと回した指の先から、僅かに、香しい花の香りが、漂い始めていた。




