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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第七章『騒乱ベルフェイン編』
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第百四十六話『もはや誰も呼ばぬその名前』

 己の吐息が驚くほど荒れているのが、ヴェスタリヌには理解できた。おかしい。こんな事は、あり得ない。何故私があの傭兵の言葉如きに、これほどまでに胸が揺さぶられ、そして酷く精神が焦燥していくのか。


 出鱈目だ。そうに、違いない。全ては馬鹿らしい虚言に過ぎないのだ。ヴェスタリヌは幾度も、幾度もそう自分に言い聞かせる。その度に、少しではあるが胸は落ち着きを取り戻した。


 だが、それでも、心の奥底は揺れ動いたまま、蠢動を止めようとしない。ブルーダーの声が酒場の中を埋め尽くす度、ヴェスタリヌの全身が揺さぶられる。


 何故なら耳にする内容は、聞いた事がそのまま瞳に映しだされるほどの実感がこもっていて。その声色は薄いどころか、重く、何処までも重く。とても虚ろな偽りとは思えぬ、生命が籠ってすらいるのだ。


 そして、そして。ああ、違う。そんなはずが、ない。


 薄暗い高級酒場の中。此処は、ヴェスタリヌ自らが選んだ籠の中だった。此処に下手人を連れ込み、子飼いの傭兵達に取り囲ませれば、もう誰も逃げることはできない。もう、誰も助けに入ることはできない。そうすれば、己が知りたい事実が知れるはず。そう思い、ヴェスタリヌの手で選んだ場所と状況だった。


 だが、今はどうだろう。まるで此の空間は、己の逃げ道すらも塞ぐ牢獄のようではないか。此の妙な暗闇は、何が現実で、何が虚偽なのか、その境界すらも曖昧にしてしまう。もう脚を駆けさせて逃げ出したしまいたいのに、取り囲んだ傭兵達の視線が、それを阻む。


 鉄鋼姫という二つ名と、鉄よりも強固な自尊心が、逃走という選択肢を自ら踏みにじった。


 ヴェスタリヌの瞳が、素早く瞬く。何度も、何度も。冷徹な仮面を被っていたはずの表情が、酷く、ぐらついた気がした。


 ――ドンッ、ドン


 だから、外界より齎されたその音は、まさしくヴェスタリヌにとっての救世主に違いなかった。そして、その使者は告げる。父が、己を呼んでいるのだと。


 ――そう、己の――する父、モルドーが。


 おお、今此処に、己の胸に指針が帰ってきた。自分が何処に進むべきか、何を目的とすべきかが、頭の中に染みわたっていく。


 ヴェスタリヌは己の喉が、久方ぶりに呼吸をしたかのような感触すら覚える。先ほどまで呼吸を荒げ続け、まるで水中でもがくかの如く狼狽えていたのが嘘のよう。


 もう、良い。彼ら、此の二人の傭兵達の言葉は、もうどうでも良い。相手にしてなるものか。


 逃げる、わけではない。ただ、此処から立ち去らなければ。再びあんな、溺れるような目に遭いたくない。帰ろう。父の下へ。それで全ての日常が帰ってくるはずだ。それで良い。それで、構わない。ヴェスタリヌは頬の形を歪め、瞳は平時の彼女とは比べ物にならぬほど震えを見せる。もはや、何が日常であろうと、何が虚偽であろうと。己にとっての安寧があるのであればそれで、構わない。


 結局の所人間とはそれなのだ。己の傷口を無理矢理に開いてまで、事の真偽など知りたいはずもない。今がただ、ひたすらに平穏であるならば。今日が、無事に過ごせるのであれば。それでいいではないか。目を隠してしまえば、苦い薬を飲むよりも、甘い毒を舐める方を誰もが選ぶ。遠い先にある苦痛など、物好きに任せてしまえ。近くにある刹那的な快楽を、舌を出して舐めれば良い。


 ああ、そうして、己は生きて来たのだ。ヴェスタリヌは空虚とも言える思考をただ繰り返し、そんな、結論を胸に抱いていた。


 鍛錬を行ったのは父に褒められる為、捨てられぬ為。母の死に触れようとも思わなかったのは、それを聞くと父が顔を顰める為。父が気に入るよう、父の望みから外れぬよう、生きて来た。決して対立しようとせず、決してその意に背くことなく。ああ、そうやって甘い飴だけを舐めて生きて来た。


 そうだ結局、自分は何時も逃げていた。逃げて、逃げて、逃げて。怖いから、何も見ず。知って恐怖するのが嫌だから、知る必要がないのだと切り捨てた。今回も、それで終わるはずだったんじゃあ、ないのか。馬鹿らしい、知ろうとする事、それ自体が罪なのだ。自分はただ、救いを乞うて父のいう事を聞いていれば、良かった。


 帰ろう、それで良い。それで父は褒めてくれる。そうして、もう意から離れなければ、良いのだ。


 そう、思い、ヴェスタリヌが足を、酒場の出入り口へと向けた瞬間だった。ブルーダーとルーギスに、その背中を向けた瞬間。声が、響いた。


「――何処へ、いくんだい、ヴェス」


 そんなブルーダーの声が、ヴェスタリヌの背を貫いていた。背筋が、粟立ち、足が凍り付いたかの様に、その動きを止めるのをヴェスタリヌは感じている。


 ヴェス。それは、ヴェスタリヌの愛称。そして、彼女が敬愛する父モルドーにしか許していない、その呼び名。それ以外の者に、その名を呼ぶことを赦した覚えはない。万が一、その名を呼んだものは、二度とその名を呼べぬようにした。


 父以外の者からその名を呼ばれれば、臓腑が湧きたつほどの怒りが、あるはずだった。憎悪に近い感情すら、踵から這いあがってくるはずだった。


 だと、いうのに、何故。今自分の心には、懐かしさすら覚える感情が芽吹いているのだろうか。


 それは、咄嗟の行動だった、ヴェスタリヌは、その場で振り返り、ブルーダーへと視線を向ける。


「貴女はすぐに迷子になるのだから――”私”から、離れてはいけないと、何度も言ったはずなんだが」


 先ほどまでの重苦しい声とは打って変わったような、ブルーダーの口調、声色。ブルーダーは立ち上がり、その頭にかぶっていた帽子を、取り払う。茶色く、そして長い髪の毛が、薄暗闇の中を広がっていった。

 

「あ……あなた、は、誰……。おかしい、そんなの、おかしい。あなたなんて、私は、知らない」


 怖い。知りたくない。知れば、嫌な事が、何かが頭を這いずってくる。


 上ずった声だった。今までの人生で、ヴェスタリヌが出したこともないような、その声。余りにか細く、それでいて何処までも、弱い。ブルーダーへと届く前に消え去っていてもおかしくないような、弱い弱い声だった。


 だが、何処か優し気な笑みすら浮かべて、ブルーダーはその言葉を、受け止めた。


「酷いな、ヴェス。あんなに私になついてくれていたのに――ほら、おいで?」


 茶色く長い髪が、暗闇の中を揺蕩うように、靡く。


 ヴェスタリヌの足が、ぴくりと、揺れた。そして、呼びかけるその声がそのままヴェスタリヌの意思であるかの如く、未だ響く使者の声を背に、彼女の足は再び、酒場の中へと戻っていく。

 

 誰もが、その光景を夢でも見ているかのように見つめていた。何が、目の前で起こっているのか、誰一人として理解が及んでいなかった。それは、ヴェスタリヌさえも例外なく。


 おかしい、何故、何故、何故。ヴェスタリヌは己の思考に狂いでも生じたのかと思うほどだった。おかしい、知らない、こんな事は、知らない。理性はそう告げている。だが、その自分を呼びかける声には、何処か懐かしさすら覚えてしまって。それが酷く恋しくて、涙がこぼれてしまいそうなほどに、嬉しくて。


 一歩、また一歩と、ヴェスタリヌはその距離を縮めていく。


「――――」


 ぼそりと、もうこの世では三人しか知らぬその名を告げながら、ブルーダーの下へと、近づいていった。


 そして、伸ばされたその手を、もはや躊躇もなく、取る。


「おかえり、ヴェス」


 ブルーダーの声が、優しげに妹の耳を撫でる。


「ただい、ま……ねぇ、さん……」


 ヴェスタリヌの瞳が、柔らかく、崩れていった。何かを思い出すように、何かを懐かしがるように、そして、何かを恐怖するように。

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― 新着の感想 ―
女だったのか!? 全く気づかなかった
[一言] 姉さん???? 勝手に無精髭生やしてるもんだと思ってたけどそういやそんな描写なかったな。
[一言] ねぇさん!?
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