第百四十三話『依存は陶酔にも似て』
フィアラート=ラ=ボルゴグラードは、カリアとは違い余り激情をその身に宿さない性質だ。
むしろ抱いた感情は全てその胸の奥底にしまい込み、ふとした日に暗い情動となって弾けだす。そんな、人間だった。
今までもその性質は変わらず、そしてこれはこれからも変わるようなものではないだろうと、フィアラート自身思っていたし、別段、変えようという意思もなかった。それほど、不便なものではないし、それも自分の性格に過ぎないのだと、受け入れてすらいた。
その、はずだった。
「そう結局の所、貴方達は――ルーギスなるものと、赤の他人に過ぎないのですから。想いを心に積み重ねるのは、貴方達を罪深くしてしまうだけ」
そのアリュエノの言葉を聞いた瞬間、フィアラートは己の視界が、ぼやけたのをまず感じた。
そうして同時に、脳が頭蓋を弾けさせるような痛みを訴える。思わず、頭をふらつかせた。吐く息が、炎と変じたかの如く、熱い。
それが何なのか、フィアラートには一瞬判断がつかなかった。身体がこんな不具合に襲われた覚えは、早々ない。それに先ほどまでなんら問題は、なかったのだ。だと、いうのに。唐突に身を襲うこの衝撃、此れは、なんだ。
しかし自分の現状を考えるより、先に、言葉が出ていた。唇が自然と動いていく。そんな体験も、フィアラートは初めてだった。
「聖女アリュエノ、お気遣いは嬉しい限り。しかし、そのようなご心配は不要です」
声だけが、妙に流暢だった。それは感情がどうにも上手くのらず、ただ機能として言葉を発している様な、そんな感覚。
未だ心境は全く整理というものが出来ていないというのに、自分勝手に唇は言葉を練り上げる。それが、必要だとでもいうように。
フィアラートの言葉に、アリュエノがその眉を、揺らす。ほんの、僅かに。
「それは、どういう――」
その発された疑問を、フィアラートの言葉が、食い取る。そのころになって、ようやく、フィアラートは自分の中に蠢き、そして形を成そうとしている感情の正体が、分かり始めていた。
「――私とルーギスは、大切な、それこそ他人では結べぬような契約を結びました。もはや、赤の他人とは申せません。彼の成したことは、私が全て責任を取るべきでしょう」
己が、胸の中で形を成した、もの。それは、紛れもない憤激。
ああ、いやそのようなものでとても言い表せるものか。憤激などと、憤怒などと、怒りなどと、そのような安い言葉で言い表せるほど、この感情は容易くない。
この、女は、この聖女と名乗る女は、己とルーギスをただの他人だと、そう言った。なるほど、確かに彼女、聖女アリュエノから見れば、それはそう見えるのかも知れない。むしろ大罪人と呼ばれる彼と関係がある方が、普通であれば問題だろう。
だが、どのような不利益が降りかかろうが、フィアラートにとって、その言葉だけは許容しかねる。
ルーギスは、フィアラートにとっての理想に他ならない。己と同じ鉛の者でありながら、黄金へと手を伸ばし、そして崩れ落ちながらも、それでも歩みを止めぬ彼。その姿は、余りに痛々しくて。彼の背中を見つめる己の胸は、何時だって動悸と不安を与えられている。
ああ、出来るならその歩みを止めさせて、二人で何処かに逃げ去ってしまいたいのに。それすら許してくれず、彼は前へ進んでいく。
だからこそ、フィアラートは此処にいる。ルーギスがいるから、此処に、いるのだ。
契約を交わしたというのも、嘘ではない。かつてガルーアマリアで交わした、誓いの詞。あの契約は、未だ此処に生きている。何故なら契約が途切れるのは、ルーギスへの依頼が完遂した時のみ。そうしてあの依頼は――未だ中断させられたままなのだから。ルーギスが、自らそう言いだしたのだと、ヘルトから聞いた。
ならば、まだあの契約は生きている。私が依頼は完遂されたと宣言し、全てを解消しない限り、私とルーギスには途切れぬ契りが絡まっているのだ。それこそ、魂に絡みつく、契りが。
それを想うだけで、フィアラートの心は陶酔に溺れてしまいそうになる。この契約は、カリアも、あのエルフの女王だって持ってはいない、魂の契約だ。それを、己はルーギスと結んでいる。ああ、永遠に解消などするものか。決して、手放してやるものか。
例えルーギスが己に背を向けたとしても、その魂は己に縛られたままなのだ。
それを、その契約を交わした自分たちを、目の前の聖女は赤の他人などと踏み躙った。それは、許せることでは、ない。
「……なるほど、そのお話は大聖教の聖女候補として、詳しくお聞かせ願いたい、ですね」
アリュエノの、その精緻とも思われた動きが僅かに鈍ったのが、フィアラートには分かった。それもすぐ戻ってしまったが、それでも、確かにその表情が歪んだのを、フィアラートは見た。
今、この部屋は空気が凍り付いたかのようだった。呼吸の一つ一つが、重く感じる。だが、その中でも尚、フィアラートの激情は消えようとしない。
「――アリュエノ様、暫し。ご歓談は続けて頂いて構いません。しかし、一つ先にお伺いしたい事が」
その何処か、緊迫とも言える雰囲気の中、最初に言葉を発したのは領主モルドー=ゴーンだった。
表情には、先ほどまで浮かんでいた人の良さそうな笑みはもう浮かんでいない。紛れもない、ベルフェインの領主たる彼の顔。厚い唇を揺らしながら、モルドーは告げる。
「……私にも、幾つかの懸念もございます。もし、本当に大罪人ルーギスが此のベルフェインにとどまっているというのであれば、捕縛の為、僅かでは御座いますが私兵を差し向けましょう」
その口ぶりから察するに、モルドーがその言葉に含ませたものは、ただ表面上のものだけではなさそうだった。勿論、聖女への献身であるとか、功績を立てる、などという思惑もあるのだろうが。それだけではなく、何か、他にもたくらみ事があるような、そんな言葉。
フィアラートは少なからず怪訝には思いつつも、だが、それでも、その言葉はフィアラートとカリアが引き出そうとした言葉、そのままだ。なら、大した問題はない。
「しかし、確信が頂きたい。此の街に侵入した人間、それが、紛れもなく大罪人であるのかの確信が」
此れは、どう、説得したものだろうか。フィアラートの瞳が、瞬く。黒い髪の毛が、僅かに視界を横切った。
流石に、仲間であるから知っているなどと言えるはずもない。モルドーが、今ガルーアマリア、紋章教に懐柔工作を行っていることはフィアラートも十分に、承知している。
であればこそ、モルドーとしても易々と私兵を投ずるような事は避けたいはず。そんな事をすれば、その動向は当然にベルフェインへと侵入している紋章教の間者に気付かれるだろうし、むしろ気づかれないような小規模の私兵投入など無意味だ。
そして気づかれれば、もはや紋章教との関係構築など不可能。関係を築けるかもしれないと、淡い期待を抱かせることすら不可能になるだろう。そうなれば、ベルフェインが行っている工作そのものが水泡の如く消えてしまう。
紋章教の立場としては、それは望むべくものであるし、そして私兵の投入はルーギスを追い詰める為に、必要なことでもある。
フィアラートは、今回の件でよく理解した。ルーギスは今、私の事をどうとも思っていない。頼りにするどころか、ベルフェインに赴くにつけ、声すらかけてくれなかった。
ああ、それゆえに、もう躊躇する意味などないのだと、フィアラートは理解したのだ。
ルーギスが私をどうとも思っていないのならば、意識すらしていないのであれば、私をその意識に植え付けて、忘れられないようにしてしまえば良い。私をこそ拠り所とするように、種を植えこんでしまえば良い。私が彼から離れられないように、彼も私から離れられないようにしてしまえば良い。簡単だ、何せ私には、最大の武器がある。
――大丈夫よ、ルーギス。決して、貴方の不利になるような事はしない。貴方に、絶対の幸せを与えてあげる。だから、私を見捨てないで? 私も、何があっても貴方を見捨てないから。
その、為にも。今何としても、此処でモルドーを動かさなくてはならない。言葉を頭の中で練り上げ、フィアラートが唇を開こうとした、瞬間。
「――ええ、私も此の瞳で、確認をしました。あれは、間違いなく大罪人ルーギスに違いありません。モルドー様、どうか、必ず彼の身柄を捕らえて頂けますよう」
慈愛を秘めた微笑を湛えながら、聖女アリュエノが、透き通ったような声を、響かせていた。




