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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第七章『騒乱ベルフェイン編』
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第百四十二話『打ち込まれた杭』

 ブルーダーの声が、高級酒場の中を漂う。それは聞くものの耳に自然に入り込み、思わず唾をのませる。そんな、雰囲気を含ませた声だった。


 雇い主ルーギス、鉄鋼姫ヴェスタリヌ、周囲の傭兵達。誰もが異議すら挟まぬように、一人の声を聴いていた。


「……命を賭けた戦場が傍らにあるなんて状況じゃ、男女の仲ってのは思いのほか早く深まるらしい。とは言っても、母親は傭兵じゃなく村娘に過ぎなかったがね」


 ブルーダーはそう呟いて、唇を躍動させる。


 父が愛した女は、すぐに己を生み落とし母になった。なるほどその頃は、順風満帆であったに違いない。例え傭兵という他人の生をすりつぶし、踏み潰しながらの生き方であったとしても。愛する者があり、家庭があり、そして友がいる。


 愛を信望し、救いを求める父にはこれ以上の理想はなかっただろう。素直に心の底から、そう思う。事実、幼少のころの自分は幸せだった。誰からも愛を与えられ、幸福を願われ、それこそが此の世にある全てなのだと、そう信じ込んでいた。


 ああ、とても幸せな、人生だった。


 だから、あそこで終わってしまっていればよかった。たった数年の人生でも、それが最高に幸福であったのなら、人は十分だ。むしろ苦痛の生をだらだらと、冗長に生き延びる方が馬鹿らしい、そうではないだろうか。何故なら、幸福というのは何時だって、手から零れ落ちるように出来ている。


 当然に、破滅の時は来た。


 父が愛した村娘は、何も父だけが愛したわけじゃあない。綺麗で、やさしい人だった。多くの人間に慕われ、そして愛されたと聞いている。そうしてそれは、父の親友も同様だった。


 傭兵であったモルドー=ゴーンがその功績を貴族に買われ、村の警吏長官を任された。素晴らしい、親友の立身出世を、心から父は喜んだ。


 そしてその喜びの数年後――父は罪人となって冷たい牢獄に、その身を投じられた。


 罪状は、村内での窃盗と殺人。なるほど、傭兵としてなら犯していても無理はない罪だ。誰もがそう思う。 当然だと、そう理解した。


 唯一違ったのが、母。それと、精々加えるなら己くらいだろう。幼かった妹は、罪だの何だのという事が、よく理解できていなかったらしい。ただ、何故か父がいない事だけしか、分かっていなかった。


 傭兵として戦場であれば別、だがそれ以外の場所で、罪など犯す人間ではない。最後までその無実を訴え続けたが、そんなものが聞き入られるはずもなく、いずれ、父の処刑の日がやってきた。


 久方ぶりに見た父は、酷く憔悴していた。そして悄然とした顔で、父の首を斬るための剣を持った、親友の姿を、見つめていた。


 処刑の日、自分たちは最前列に、いた。いや、それは強制に違いなかった。罪人の家族は、その罪人の最後をその身に背負わされる。最前列で、父の嗚咽を聞きながら、絶叫の声を聴きながら、己が家族の罪を実感させられる。それが、村の中にあった掟の一つだった。


 父は、簡単に死ねなかった。


 処刑用の剣は、罪人に絶後の苦しみを与える為、錆びさせてある。そんな剣が、そう簡単に人を殺せるはずがない。むしろ幾度も肉に食い込み、神経を叩き割り、首骨を露出させて尚生命を繋がせる。


 モルドーは、何度も、何度も父の首に剣を振り落とす。意識を失えば、その度に水を掛け意識を取り戻すまで儀式を中断して。最期まで、父に苦しみを与え続けた。モルドーの表情は、兜に覆われ、見る事が出来なかった。


 その、末期。ようやく、その命が絶たれようとしていた頃になって――父は言った。嗚咽を漏らしながら、涙を流しながら、血の唾液を零しながら、言った。


 ――すまねぇ、なぁ。ヴェスタリヌを頼む、な。



 ◇◆◇◆



 其処までブルーダーが口にした所で、ヴェスタリヌの指が鳴った。今まで抑えてきていたのがおかしかった。


 ヴェスタリヌが敬愛する父、モルドー=ゴーンをまるで悪人のように語られ、聞き入れさせられる。その瞳に憎悪のようなものが宿っても、何らおかしくはない。


 周囲の傭兵達が、その意思をくみ取ったかの様に、鈍い光を放った凶器を構える。知らず誰かの喉が鳴る音が、響いた。ルーギスは、何も言わなかった。ただ少しばかり腰を浮かせるようにして、ヴェスタリヌの動向を見つめていた。


「……その作り話に、私は何処まで付き合えば?」


 ヴェスタリヌの、何処か震えたような声があった。ブルーダーの話そのものを、拒絶する色を含んだ声。だが、そんなものブルーダーにしてみれば、どうでも良かった。もはや、これはヴェスタリヌに語り聞かせるためのものではない。


 己の胸のうちに溜まった泥を、呪いの鎖となっていたものを、ひたすらに吐き出す。ただ、それだけだった。


 ヴェスタリヌの声など、何ら繋ぎ止めにはならないとばかりに、ブルーダーの声が、再度響く。


「もう、村の中に俺様達が生きる場所はなかった。誰に言われるでもなく、村の外れ、木々が生い茂る中に隠れるように住んだよ。そうして、ほとぼりも醒めたかという位に、その日がやってきた」


 ヴェスタリヌの眉が、瞬いている。この声を、聴いてしまってよいのだろうかと、迷うように。全ては悪戯な虚偽に過ぎない、そう断じていながら、それでもブルーダーを殺すようにとの声が、ヴェスタリヌの喉からは出てこなかった。その逡巡の間にも、ブルーダーは言葉の羅列を唇から発している。



 ◇◆◇◆



 森の中での生活は貧しく惨めだったが、それでも静かだった。そしてその生活を悪くないと、少しずつ思い始めた頃に、それはやってきた。かつての頃のように、突然に。


 その日森を掻き分けるようにして、モルドー=ゴーンが己たちの住処を訪れた。それは、旧交を深める為などでは、勿論なく、警吏隊を引き連れて母の罪を問いにやってきた。


 信じられなかった。母が罪を犯したかもしれぬ、ということではない。どうしてモルドーが、そのような有り得ぬ罪科を、母に与えるのかという事が、分からないし、信じられなかった。


 少なくとも、モルドーという人間は父の親友であったはずだし、母とも懇意の仲だった。モルドーは独り身だったが、家に招いて食卓を囲うことも多々あり、己にとってすら、優しい叔父のようなものだったのだ。


 父を罰した際は、怨んだ。悲しみもした。だが時が経つにつれ、もしかするとそれはその職務に忠実であったが故なのかもしれないと、そう思えた。そう思う程に、モルドーという人間は悪でないと、己もそして母も信じていた。


 だが、今此処に、母は有り得ぬ罪を着せられようとしている。その罪状は、詐欺と姦淫。日々の暮らしに困り善良な人々を騙し金を奪い取り、時にはその身を売りにだして所得を得ていたと、モルドーは冷たい言葉でそう言った。


 有り得なかった。


 母は森に移り住んで以来、独りで村に近づいたことすらない。むしろ村の人間たちを過敏なまでに恐れ、村に僅かな必需品を得に行く際は、必ず己が同行していたのだ。村民たちとは、殆ど口もきいてすらいないだろう。


 あり得ない。そんな罪は、あり得ない。だというのに、何故、そのような事を。


 此処に至って、己は自分の頭が如何に愚かしいものであるかを理解した。全てを信じこんでしまう、憐れな羊のごとき思考であったことを、よく理解した。


 ――騙されて、いたのだ。母だけでない、父も、己も。皆、この男に騙されていた。


 父の罪も、此の男が造り上げた。それが確信できる。瞬間、己の腹の内に臓腑をも湧きたたせる情動があったのが、分かった。


 奪う、つもりだ。


 略奪者モルドー=ゴーンの名にたがわず、父の命も、母の身も、この男は奪っていく気なのだ。ぞっと背筋が粟立ち、冷たい氷の舌が体中を舐めていくのが分かった。父が騙され、陥れられたのは、分かった。では、それは何故。


 分かりたくは、なかった。想像したくもなかった。ああ、だが脳が理解を求めてしまう。


 あれほどに仲が良かった父と、モルドー。だと、いうのに。モルドーはその胸に想像を絶する怨恨か、それに近しい感情を抱いていたのだ。数年、いや下手をすればもっと以前から。


 尚、モルドーは口を開く。


「――その一生を牢獄で過ごし、己の罪を悔いるが良い。残された娘は、私が預かろう」


 その瞬間に、理解する。


 この男が、その怨恨とも言える感情を抱いていたのは、父だけではない。母も、その対象なのだ。そうして、その二人から命だけでなく、全てを奪い取ろうとしている。


 それが、此の男の、略奪者モルドー=ゴーンに秘められた思いに、違いない。



 ◇◆◇◆



 ヴェスタリヌにとって、そこが限界点だった。


「……やめなさい。もう、結構。口を、閉じろ!」


 大きく、テーブルを叩かれる音が鳴った。周囲は、その音だけで埋め尽くされ、一瞬の余韻の後静寂に包まれていく。誰もが、言葉を発さない。誰もが、ヴェスタリヌの動向に目を見張らされている。


 彼女の行動を意に介さないのは、ただ、一人。


「鉄鋼姫様よぉ、幼少の頃の記憶ってのは、あるかい」


 ブルーダーの声が、地を這うような低さをもって、告げられる。苛ついた声が、それに応じる。当然に、ヴェスタリヌのものだった。


「ええ、勿論。貴方が語る言葉が戯言に過ぎない事を証明するように、父モルドーが傭兵として戦場に赴く姿まで、明確に」


 そう、この人間の話は全て作り事だ。そうに、違いない。何故なら私は覚えている。父モルドーが戦場へと出陣する姿、その勇ましい背中を見て、己は育ったのだ。大きな剣を持ち、戦場を目指すその姿を。母の記憶といえば、そのぬくもりが暖かかったことくらいだが。父の事は、よく覚えていた。


 ヴェスタリヌのその言葉を聞いて、どこか、軽くなったようなブルーダーの声が響く。


「――なぁ、鉄鋼姫様よ。嘘はやめにしようや」


 かぁ、っと頭が水分を蒸発させるかのごとく、熱を持ったのをヴェスタリヌは理解した。


 よりにもよって、己の輝かしい記憶を否定し、言葉を虚偽だと此の傭兵は言い張った。もう、良い。もう構わない。此処で殺してしまえば、その鬱陶しい言葉は消え失せる――。


「冗談だろ。てめぇが物心つくような年齢じゃあ、とっくにモルドー=ゴーンは警吏長官か、その上の役職についてるさ。傭兵として戦場に出るはずがあるかよ」


 ――この無礼者を、斬り殺せ。


 出かかったその声が、喉から胸へと滑り落ちていく。心臓が痛い程の動悸を鳴らし、まるで何かが打ち込まれたかのような痛みを発しているのが、分かる。


 此の、人間は、何を言っているのだろう。何を馬鹿な事を、言っているのだろう。


 そんな、はずが。あるわけがない。だって、私は確かに見ている。そうだ、きっと私の記憶違いだ。きっと、あの背中は、警吏長官として見回りに赴く父の姿に、相違なくて。


 そんな、止めどない思考が渦を巻く。何が、真実で、何が、虚偽であるのか。それが分からなくなる、一種の空白が、脳内に、あった。


「……もう一度聞くがよ、鉄鋼姫さま」


 そんな、所に、ブルーダーの声が響く。脳に直接語り掛けるように、空白の中を埋めるように。


「幼少のころの記憶は、本当に、あるのかい」


 ヴェスタリヌは、己の心臓に針が、いや、それよりも大きく鋭い杭が、打ち込まれたのを感じていた。

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