第百三十二話『親愛の情』
人は誰かを愛す為に生きるのだと、父親は言った。きっと己も、子供の頃にはそれを信じていたのだと、ブルーダーは思う。目の前には最愛の父と母、そして守るべき妹がいた。
あの頃、世界は己の腕の中で完結し、何一つ零れるものなどなかった。きっと此の世には愛が満ち溢れていて、隣人を愛することこそが全てなのだと、そう、思っていた。
だがきっと、心の何処かでは分かっていたのだ。ただひたすらに、見たくないから、見なかっただけ。目を逸らしたかったから、目を逸らし続けていただけで。
傭兵などという、人の心臓を金貨に代える事を生業にする人間が、人から何かを奪うことを楽しみとする人間が抱えるには、愛という存在は重すぎる。
だからこそ、略奪者でありながら人を心から愛した、そんな歪んだ父だったからこそ、最期には全てを失う羽目になったのだ。
母の命も、妹も、自らの命すらも、親友と呼んだ男に奪われ、自分の人生を台無しにされた父。そんな父が末期、自分に何を託したか、ブルーダーはよく覚えていた。
くだらない。本当に、くだらない。息をするのすら苦しいだろうに、それでも父は言葉を吐いた。
そんな事なら、託さなければよかったのだ。最後の最後、苦しみながら、嗚咽を吐きながら、涙を流しながら託すくらいならば。告げなければ、よかった。その方がずっと楽に、死ねただろうに。
言ってやればよかった。人間は愛する為に生きたりなんかしない。ただ惰性で生きてるだけなのだと。父の子である己が、きっと言ってやるべきだったのだ。
「――すまねぇ、なぁ。お前には――の、幸せに――ヴェ――頼む、な」
◇◆◇◆
ブルーダーは、己を貫く槍斧の影を見つめながら、そんな事を思い出していた。全ては、儚い、崩れ去った子供時代の事でしかない。
「――降参なさいますか。なさいませんか」
女の声が響く。鎧を通しての声は反響を繰り返し歪な音色を奏でたが、それでも透き通って聞こえる声は、彼女の育ちの良さを感じさせる。きっと子供時代、不自由はなかったに違いない。
ああ、よかった。よかったよ、嬉しい事この上ない。お前はきっと、今幸せこの上ないだろう。愛に包まれ、今此処に至るまで、幸せに育まれているという事を知れた。本来なら、手放しで祝ってやりたいよ、ヴェスタリヌ、我が最愛の妹よ。
ブルーダーの目が細まった。久々に酒が抜けたその視線は、妙に鋭くヴェスタリヌを貫く。
本当に、それだけだったのであれば。お前があの男を、自分たちから全てを奪っていった男を、父と、そう呼んでさえいなければ。
あの男に向けて笑顔を見せるお前が、そこにいさえしなければ、きっと己は、此の世に縋る必要もなく死んで行けたのに。
ブルーダーの頬が、歪む。皮膚が震え、歪な笑みを作っていく。何時だって余裕があるように見せかける、自信があるように振る舞える。それはブルーダーの持つ特技の一つだった。怯えかけていた手先に気力が戻り、針が肌に吸い付いていく。
あの奇妙な雇い主、ルーギスも、その仲間とかいう女も、きっと何処かで見ているはずだ。精々、見せつけてやろうじゃないか。綺麗な綺麗な親愛の情というやつを。
「嫌な言葉だな――大体、降参ってぇのは、負けてる方がするもんだろ、憐れな女だねぇ」
瞬間、空間が歪んだ。
ヴェスタリヌの腕から振るわれた槍斧が、視界すら捻じ曲げながら、一直線にブルーダーを目がけて振り落とされた。何の慈悲も、戸惑いもない。それは相手を殺害するのでも、引き裂くのでもなく、ただ破壊するための渾身の一撃。
唾を呑む、そんな一瞬すらブルーダーには与えられなかった。瞬きをすれば、その僅かな間に心臓が死神の手に落ちる。そんな直感が、確かにあった。ああしかし、ブルーダーはこの瞬間をこそ待っていた。
茶色い髪の毛が揺れ、視線を横切る。すでに、ブルーダーの身体は動いていた。
ブルーダーのその指先から、針が生き物のように飛び出していく。ヴェスタリヌの槍斧のように、唸りをあげることも、空間を無理矢理に引き裂くこともない。むしろずっと静かで、囁きほどの音も聞こえぬ。
それでも、確かにその長針は、人の命を刈り取れる。その身が半分も急所に埋まれば、あっさりと人は息絶える。轟音を鳴らす槍斧と静寂を保ったままの長針の、一瞬の交差。
槍斧は敵の頭蓋を、長針はその鎧の首元に空いた僅かな隙間を、共に狙いすましている。そうすることこそが、互いの義務だとでもいうように。
息を呑む間もない、一閃の攻防。ああ、酒に呑まれたままの腕では、此れはできなかったなと、ブルーダーは歯を見せた。
――そうして、長針の先が、肉を抉る。
血が、迸った。その針は、確かにヴェスタリヌの肉を、貫いていた。
しかしそれは、妙技とでも言えば良いのだろうか。
ヴェスタリヌが針を視認してから、判断下すまでの時間は、一瞬ほども無い、それ以下の間だったはずだ。そうして確かにブルーダーの指先は、その首元目がけて放たれていた。その、はずだ。
だと、いうのに、今その針はヴェスタリヌの左手首に突き刺さり、肉を好きなように貪っている。ブルーダーの指先に狂いはない。久々に酒が入らぬ視界は良好で、両手の五指は触覚を取り戻していた。
だがその上をいくように、ヴェスタリヌが、ほんの少し身を捩った。それだけで、ブルーダーの最後の一撃は、防がれた。
ごぅ、とそんな音がブルーダーの耳を、打つ。ヴェスタリヌの槍斧が、すぐ間近まで迫っていた。
ああ、なるほど。此れは、止められない。例え何をもってしても止まらないだろう。己の身体全てをその留め具に使ったとしても、地面まで抉り取るに違いない。
情けない。相打ちすら覚悟の攻防が、妹相手に完全に防がれ、今此処で己は息絶える。本当に、情けない。
父の最後の願いも聞けず、母の無念も晴らせず、そうして、妹ヴェスタリヌをその甘い悪夢から引き下ろすこともできなかった。
結局、自らには何も残らない。ブルーダーは最後に、目を、閉じた。此れで良い。構わない。惰性で生きて来た自分が、今更生きようなどと虫が良すぎた。奮起さえすれば何もかもうまくいくならば、此の世に努力という言葉は存在しない。何とも、酒崩れの自分には妥当な結末だ。
寄る辺もない、縋るものもない、生きる意志も大してもってはいない。そんな己が、何かを手に入れられるはずが、ないのだ。
妹は、ヴェスタリヌは全てを持っている。愛する父がいるらしい、部下がいるらしい、そして幸せになるための材料を、手に入れている。それが例え偽りに過ぎずとも、死ぬその時まで騙され続けていれば、きっとそれも一つの幸せだ。
ふと、ブルーダーは瞼の裏で、奇妙な依頼人の事を思い出していた。ルーギスと、そう名乗った依頼人。
変な、人間だった。妙に親し気に接してくる上、見透かしたような口ぶりが気に入らなかった。まるで分っているのだと、理解者なのだとでもいうような態度に腹が立った。
ああ、だがまぁ、何故だろうな。良く分からないが。それでも、嫌うという程ではなかった。
きっと、何か妙な縁でもあるのだ、奴とは。そうに違いない。どうせならもっと、違う方法で出会いたかったなと、ブルーダーは胸の奥で呟いた。
その細身の身体を、衝撃が、襲う。
頭に被っていたつば広の帽子が跳ね飛び、茶色く、そして伸ばされた髪の毛が中空を、撫でた