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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第七章『騒乱ベルフェイン編』
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第百三十一話『手の中』

 視界を、いくつもの銀光が煌く。そしてほぼ同時、金属が跳ねる時に吐き出す、あの独特な快音が鳴り響いた。


 ――キィ、ン゛


 長針を叩き落とすその一閃は、もはや銀ではなく黒の一撃。


 先端が黒く、そして研ぎ澄まされた戦斧、いや、槍斧とでも呼べばいいのだろうか。鉄鋼姫ヴェスタリヌが己の得物としたのは、単なる斧ではなく、槍の穂先に斧を付け足したような歪な武器だった。傍から見る限りでは、先端の重心に振り回され、常人ではろくに扱えそうに見えない。


 だから、かつては思ったものだ。あの鈍重そうな武器であれば、ブルーダーの長針が届く余地も、十分にあるのではないかと。


 なに、それも全ては、淡い貧者の夢に過ぎなかったのだが。


「――降参なさいますか。それも宜しい。安心なさい。貴方では例えこの先足掻いても、私には勝てません。早いか、遅いかの違いです。早い方が、より賢明でしょう」


 軽装でありながら肩で息をするブルーダーを前にして、鉄鋼姫は重鎧を身に纏っているにも関わらず、吐息に僅か程の揺れ動きすら感じ取れない。その声はまるで透き通るかのよう。


 再び、中空が銀に照らされる。呼吸の合間を縫うようにして、ブルーダーの指が針の射出台となっていた。


 全身を鎧で包み込んだ相手に、ブルーダーが取り得る手段は限られる。何せ長針の投擲では、鉄で精製される鎧は貫けない。狙える場所は精々が関節の露出部、もしくは口元に空いた呼吸口といった程度。


 ああ、しかしそんなもの、無茶な芸当に決まっている。そもそも、長針を得物に真っ向から重鎧に立ち向かうというのが正気ではない。その上今相手は、馬上にいる。馬を狙おうにも、その馬すら鉄鋼で肌を覆い隠してしまっている。


 だと、いうのに。あいつはいったい、何をしているんだ。


 再び、ヴェスタリヌの槍斧が振るわれる。針の数本、少し手首を捻れば関節を避け、鎧で受けきれるだろうに。ただそれすらも、強固な自尊心が許さないとでもいうのだろうか。脆弱な襲撃者を振り落とさんと鉄鋼姫の腕が揺れ動き、黒色が旋風となって宙を舞った。


 空間が、断裂される。


 槍斧が薙がれたその振動が、臓腑をも震わせかねない。そう、思わせるほどの一撃。重いのは事実。単なる槍よりも、剣よりも、そして戦斧よりも遥かに重く、そうしてそれでいて尚、鋭い。


「もう一度、聞きましょう」


 馬の蹄を数歩分、鳴らし。ヴェスタリヌは声を響かせる。その声は鎧の中で反響されるためか、妙に歪な音色となって耳に届いた。


 槍斧が軽々とその手で持ち上げられ、ブルーダーの真上に、昇った。


「降参なさいますか。なさいませんか」


 不味い。こいつは、実に不味い。


 路地の裏側から様子を伺いながら、俺は自分の歯が、カチリと鳴るのを、確かに聞いていた。



 ◇◆◇◆


 

 朝日がその吐息を地に吹きかけ、酔いがとうに引いたであろう頃になっても、ブルーダーが前言を翻すことはなかった。むしろ、濁らせていた瞳を澄ませて尚、繰り返す言葉には重みがある。


 ――俺様が行かせてもらう。おお、行くとも。奴らの歯車、親子の絆ってやつを、俺様直々に、踏み潰してやるさ


 俺自身、別段ブルーダーが仕掛けに出ること自体には、異議はない。いやむしろ、ブルーダーという人間の立ち位置を考えるとそれはより良い選択肢のように思われる。


 人を惑わすには、人の魂に釘を打たねばならない。抜けぬ釘を、酷く深い所まで突き刺さってしまう釘が必要だ。


 なるほど、ブルーダーとヴェスタリヌの関係を考えれば、これ以上に良い役者はいまい。脚本は幾らでも書きあがる。上手くいけば、俺なんぞが口を開くよりずっと効果があるはずだ。


 だから、俺が心配している事は、ただの一つだけだった。


 ――果たしてブルーダーはヴェスタリヌと対面して尚、真面でいられるのかという事。


 それは酔いが醒めてるだとか醒めてないだとかいう話ではない。


 人間は例え酒の力も、薬の力も借りずとも、何時如何なる時でも真面でなくなりうる。切っ掛けさえあればそれは簡単だ。


 時にその切っ掛けは戦場や金であるし、時に恋人や、そして家族でもあったりする。そうしてブルーダーの場合は、それがより複雑だ。


 俺はそこの所が、どうにも昨晩から引っかかって仕方がなかった。


 なにせ、此処ベルフェインは、ブルーダーにとって混沌の坩堝のような場所。親の仇と肉親が、同一に暮らす都市なのだから。


 果たしてその胸の奥には、どれほどの滾りを抑え込んでいるのかも知れない。はたまた、幾度慟哭でその喉を枯らしたのかも分からない。


 ただこの時は、その水面は乱れながらもある種の静けさを保っている。ただ、それだけだ。


 今思えば、きっとあの時、ブルーダーは真面ではなかったのだ。


 俺と手を組み、そうして此のベルフェインの根源を断ってやるのだと、歯を見せて笑っていた彼は、きっと真面ではなかった。当時、俺は未熟過ぎてそれにすら気づけなかった。


 ただ寄る辺もなく、力も技術も、人の伝手も持たない俺にとって、手を差し伸べてくれたブルーダーという友の存在はあまりに、有難かった。


 ああ、そうだとも。俺はきっと、ブルーダーという存在であるならば、きっと何とかしてくれるに違いないと、期待していたのだろう。馬鹿げた妄想も、まるで事実のように感じ取ることができるほどに、若く愚かだった。


 そんな俺の所為で、ブルーダーは一度死んだ。一度、というのも変な言い方だ。死ぬのは一度だけで十分なのだから。


 木窓からは陽ざしが降り注いでいる。謀り事を行うには、明るすぎるほどに。思わず、瞼が瞬き、瞳が細まる。噛み煙草が歯の上を転がって、妙な感触を伝えていた。


 今心は二つの感情に挟まれて軋みを上げている。片側では、かつての雪辱を果たしてやれ、屈辱を、友を目の前で殺された恨みを晴らしてやれと叫びをあげ。また片側では、同じ道を俺は辿るのではないかと、不安が動悸を漏らしている。


「浮かぬ顔をしてどうしました、ルーギス」


 額が、知らぬ間に汗を噴出していた。マティアの言葉が、ふっと夢から起き上がらせるように耳に届く。マティアの瞳の色を見るに、どうやら俺の様子を気にかけての言葉らしい。


 俺は、何をやっているんだ。人の心配をしておいて、自分が人に心配されるなど馬鹿らしい。何でもないとそう答え、軽くベッドに腰を掛ける。吐息が肺の奥底から漏れ出てくる心地だった。


 ああ、どうにも、駄目だ。


「大丈夫ですよ、きっと上手くいきますとも、なにせ私がいますから」


 そのマティアの漏らした声は、なるほどまさしく聖女らしい、慈愛に満ち溢れた声のようだった。きっと聞くものが聞けば、感動の涙すら流したかも知れない。


 しかし俺としては、余りにそのような声を聞きなれていなかったものだから、知らず怪訝に眉を浮かせて、マティアを見つめた。


 その様子を見てだろうか、マティアが喉を鳴らして頬を崩す。


「心配はいりませんよ、ルーギス。もし貴方の考えが上手くいかずとも、私が、私たちの道を残しています。だから、安心なさい。例え貴方がこの手から零れ落ちそうでも、掬い上げてあげますから」


 これはまた有難い。紋章教聖女様の後押しを頂いたようだ。何とも、安心して良いのか悪いのか。せめて失敗することを前に出して話さないで欲しいがね。


 肩を竦めてこたえつつ。しかし心が多少落ち着いた。


 そうだとも。俺とてそう何度も、手から零してたまるものか。かつては、この手の中に残ったものは何もなかった。人としての尊厳も、僅かばかりの栄誉も、掛け替えのない友も、そして、アリュエノも。


 だから今度は、今度、こそは。

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