第百二十六話『あの日約束したこと』
視界が、ぼやける。アリュエノは瞼に溜まった熱を誤魔化すように、睫毛を瞬かせた。
これはそう、丁度、水中で眼を開いた時に得られる視界。世界は潤いの中でその姿を出鱈目に震わせ、揺らめかせる。何処までも安定しないその光景は、まるでこの世がこの世でないようにすら感じる。
かつて子供の頃、それがどうにも不思議でならず、アリュエノは幾度も水の中を覗き見たのを覚えていた。水の中がまるで、別世界への入り口のように感じていた。
それは、今も、同じ。視界が揺れ動き、馬車の窓から見える光景が、まるで別の世界のように感じられた。
アリュエノの大きく、黄金を煌かせる瞳が、瞼と同じく熱を帯びていく。頭の芯からは鈍い痛みが断続的に、脳全体に染み渡るようにして這い出ていた。
視線の先には、彼がいた。アリュエノと共に育ち、共に生き、そして再会の約束をした幼馴染、ルーギス。その彼が、今、馬車を駆け降り手を伸ばせば届く距離にいる。
だというのに、アリュエノの脚はまるで鉄の棒となったように動かず、喉は痙攣して声を出すことすら出来ずにいる。
大聖教の神アルティウスの啓示に従い辿りついた、傭兵都市ベルフェイン。
そこに、大罪人ルーギスが足を踏み入れているやもしれぬ、最初にその話を耳にした時、二つの意味でアリュエノの心臓がその身を跳ね上げた。
一つは、幼馴染であるルーギスに、再びこの都市で会えるかもしれないという、胸から溢れ出んばかりの喜び。そうしてもう一つは、本当に、あの幼馴染が紋章教の麾下にあった場合、己はどうすれば良いのだろうという、動揺。
もし大聖教の敵としてルーギスが在るというのならば、大聖教の聖女候補である己はどう行動を起こすべきなのか。敵としてあるべきか、それとも幼馴染としてあるべきか。そもどうして、紋章教の麾下にあるのかを問いただすべきなのか。
分からない。本当に、分からないことだらけだ。
もしかすると今まで胸に浮かべていた不安は全て杞憂で、ガーライスト王国にいけばルーギスが相変わらず孤児院に顔を出している可能性だってある。
ゆえにアリュエノは、大罪人に酷似した人物、その姿を見に行くと決めた。もし、その人物が己の知るルーギス本人であった場合、彼がどの立場にあろうと、アリュエノはベルフェイン領主のモルドーに、こう告げるつもりだった。
――全ては勘違い、人違いです。彼は、大罪人ではありません。
なるほどそれは、もしルーギスが大罪人であった場合、紛れもなく大聖教への背信行為に違いない。聖女候補として、大聖教の教徒として、あってはならない事だろう。
しかし、だ。万が一、己の幼馴染が紋章教に属してるのであれば、それは何らかの事情あってのものであることは疑いようがない。
少なくとも、アリュエノが知るルーギスという人間は、自ら大罪を犯すような性質をしていなかった。そのような兆候も、どこをとっても思い当たらない。
それに彼は言っていた、冒険者として大成し、己を迎えに来るのだと。
ゆえに、もし大罪人と呼ばれる者と、己の幼馴染が同一人物であるならば、それはもはや何者かの悪意に依る物に違いないと、アリュエノは考えていた。
そしてそうであった場合は、私が手を差し伸べルーギスを救わねばならない。昔であればともかく、今は私もただの小娘ではない。大聖教の聖女候補として、彼に口添えする事くらいは出来る。上手くいけば、命くらいは救えるかもしれない。
そう、道中での馬車で考えていたというのに。今、目の前にある光景にアリュエノの思考は放棄され、ただ自らの瞳が揺れ、頬が歪む感覚だけを受け取っていた。
ベルフェインの大通り、人も疎らなその中に、幼馴染はいた。
懐かしい。その姿を見るだけで、思わず安堵すら心に抱いてしまう。余りの懐かしさに、胸は張り裂けそうなほど。最初その姿を瞳がとらえた時は、ほぉっと、胸にため込んだ吐息が溢れ出た。
久しぶりに見るルーギスの顔はどこか精悍さを増している。しばし会わぬ間に相手も成長を遂げている事への喜びと、一抹の寂しさ、本来なら、胸に浮かぶ感情はそれだけで済む、はずだった。
ルーギスが、名も姿も知らぬ女性を、抱きしめてさえいなければ。
瞼が、熱い。アリュエノの肺が、喉が、何者かに締め上げられたかのようにその身を縮め、息が苦しくなる。
誰だろう、あれは。どうしてルーギスは、彼女を抱きしめているのか。そうして、どうしてベルフェインに、いるのか。
分からない、何も、分からない。何も、分かりたくない。
足元が、ぐらつく。踵から、這い上がってくるような震えがあった。
アリュエノの頭の中で、思考が溶けていく。どろどろとした情動が揺らめき、理性が形を成さないまま、脳が眼前にある事実を無理矢理に処理していった。
その強引とも思える処理の中で、一つの疑念が、胸の内に溜まる泥からゆっくりと芽を出した。嫌だ。考えたくなぞ、ないというのに。
――もしかすると本当の本当に、己の幼馴染は紋章教の大罪人ルーギスなのでは、ないだろうか。
確証はない。たまたま此処ベルフェインにいるだけかもしれない。なるほどその可能性だって幾らでもある。恐らくただこの都市で出会っただけであるならば、アリュエノは全てを偶然と片付けるに違いなかった。
――そうして、そうして、だ。理由は、紋章教にいる理由というのは、あの女性なのでは、ないだろうか。
だが、見知らぬ女性を抱きしめているという姿が、憶測を疑念にすり替える。まるで悪魔が、その思考の泥に指を入れ、かき混ぜているかのようにして。黄金の瞳が、小さく、瞬いた。
分かっている。別に、ルーギスと私は恋人でも、婚約を交わしたわけでもない。子供の頃に真似事くらいはしたかもしれないが、言ってしまえば、ルーギスと私はただの幼馴染以上の関係ではない。だから、ルーギスがどんな女性と、どんな関係をもっていようと、自由だ。
アリュエノの、顎が痛んだ。そうして初めて、知らず自らが歯を食いしばっていることに気付く。
口の中に、大聖堂での修練中幾度も思い浮かべた、練り菓子の味が広がっていた。別れの間際ルーギスからもらい受けた、普通のものよりは少し値段が張る、意地っ張りの彼らしい餞別品。
それは、アリュエノにとって救いの象徴だった。
大聖堂での日常は、孤独と苦痛が耐えず襲い掛かり、神経を鋭い刃でなぞられるような日々。膝を折り、何度全てを投げ出してしまおうかと思っただろうか、その日々の中で、どれほどルーギスとの想い出が救いになったことだろうか。
もし、あの想い出が、約束がなければ、己は聖女候補になどなっていなかった。きっと、何処かで過酷な日々に耐えきれず、何もかもを捨てて逃げ出してしまっていたに違いない。そうして何者にもなっていなかったはずだ。
そうだ。あの日の事があったから、ルーギスとの約束があったから、今日まで、耐えてこれた。だが、それが今、自らの手を離れようとしている。アリュエノは、自らの胸の中で何かが大きく変質しようとしていることを、理解していた。
――次会う時は見てろよアリュエノ。もしかしたら騎士様になってるかもしれんぜ。
――そう、なら安心ね。待ってるわルーギス。
アリュエノの脳内では何度も、何度もあの最後の日が思い返される。自分と、ナインズさんと、ルーギス。三人で冗談を交わしながら、それでも再会を約束した、あの日。
両手が、馬車の窓枠にかかる。もはや立っておれず、その場に膝をついてアリュエノは俯いた。情動が胸を散々に踏み荒らし、楽しかった日々を黒く塗りつぶしていく。
駄目だ、決めたのに、誓ったというのに。大聖堂での過酷な日々を乗り切る為、約束を守るため、強い人間になるとそう、誓ったのに。
アリュエノは俯いたまま、馬車の床が濡れていくのを、じっと見つめていた。それはどうにも止まりそうになく、勢いを増していく。
――神よ、どうしてこの土地に、私を導いたのです。知ることがなければ、苦しみもまたないというのに。
それはもはや神への祈りであるのか、それとも恨み言であるのか、それすらもアリュエノにはよく分からなくなっていた。ただ、口の中には想い出が蘇っていた。
ああ、あの練り菓子、美味しかった、なぁ。