第百二十五話『拠り所』
――彼と私の行方は、内密にしておいてください。実にそれらしい、適当な理由を作っても構いません。
ラルグド=アンは与えられた聖女よりの命令を、閉じた瞼の中で思い返していた。
己が引き留めても尚、ルーギスを追ってベルフェインへと向かった聖女。最終的にアンは、その判断を信じた。それが聖女にとって必要な事であるのだと、受け入れた。やはりどう足掻いても、自らはマティアの信仰者なのだと、アンは思う。
ゆえに、出発間際に受け取った言葉も、従順に守る、そのつもりだった。
アンは、瞼を痙攣させながらゆっくりと、目を開く。視界には銀の瞳、そして黒い髪が舞っている。
「アン。ガルーアマリアではよくよく、貴様に世話になった。出来ようものなら、貴様を脅しつけるような無礼はしたくない――簡単だ、奴の行き先を言えば良い、それだけだ」
嘘だ。カリアがいつもよりも早口になって呟くその言葉に、アンは口をひくつかせる。
もし心の底からそう思っているのであれば、何故自分は廊下の壁際に抑えつけられているのか。そしてどうして、カリアの銀眼は猛禽の如き獰猛さを見せているのか。
その視線から逃れるように目線を逸らすと、その先にはフィアラートの底の見えない黒い瞳が待ち構えている。アンとしては、カリアよりもフィアラートの方がずっと恐ろしい。カリアは未だ、見える脅威だ。剣を振り回されるのは恐ろしいが、最悪の度合が理解できる。
しかし、フィアラートはそうではない。己の中に秘めた感情を、瞳の中に埋めさせている。それが最悪の結果を生んだ場合、何が引き起こされるのか分かったものではない。
いや勿論、二人とも放っておけばろくでもない結果を引き起こすであろうことは、間違いがないのだが。
端的に言えば、アンは窮地にいた。他でもない自らの主、聖女マティアとルーギスを庇いたてた為に。
「その……わ、私に聞かれましても、ルーギス様の行き先は分かりかねるのですが……」
その場を濁し、無理やり取り繕う様に言葉を漏らす。時間さえ稼げれば、その内二人があっさり帰ってくることも有り得るのだ。いやむしろ、アンにはその僅かな希望に縋るしかない。
しかしその言葉は、物事を取り繕うのには余りに脆い糸だった。
「そう、じゃあ聖女様、マティアは何処にいるのかしら。今すぐに、目通り願いたいんだけれど」
フィアラートが、瞳を細くしながら、平坦な言葉を紡ぐ。
アンの脳裏に、細い糸が断ち切られる光景が思い浮かんだ。此れは、駄目だ。少なくともフィアラート、恐らくはカリアも、事の大部分を把握し始めている。その確証を取るために、此処に来ているのだ。
ただ、事実としてアンもルーギスの正確な居所を知っているわけではない。マティアがベルフェインにいるといったから、そう信じているだけ。実際の所は、本当に何処かで居眠りをしているだけかもしれないのだ。しかしまぁ、それで二晩も帰ってきていないというのは、流石に無理があるとアンも理解しているが。
ここぞとばかりに、アンの中にルーギスへの恨みが芽生えてくる。
本来、それは聖女マティアに覚える必要があるのかもしれないが、マティアを信仰しているアンに、そんな事は出来ようはずもない。ただ、今だけは胸に浮かぶ情動をぶつける先が見つからなければ、やりきれなかった。
ルーギスはどうして、自分の不始末を人に押し付けて身勝手な行動ばかりを行うのか。
人は誰かに恋い焦がれる時、その身を二つに引き裂かれるという。片方は己の手元のままだが、片方は恋した相手に差し出される。ルーギスは、カリア、フィアラート両名の半身を奪い取ってしまったに違いない。ならばせめて、その手綱は握る義務がある。勿論、その恋い焦がれの首筋を断ち切る選択肢も有るだろう、全てを受け入れる選択肢もあるだろう。
だが、人から半身を奪うだけ奪っておいて、手綱を放り出すなど論外だ。恋心というのは何時だって、本人達に迷惑をかけはしない。決まってその周囲に大きく被害を及ぼす。
凡庸な人間の恋心でも迷惑極まりないというのに、カリア、フィアラート、そうしてルーギスは紛れもない英雄傑物。その彼らの恋模様が及ぼす影響を思うと、アンは言語を絶する。
アンは震える唇を引き締めながら、何とか己が主の命を果たそうと、声を捻りだす。
◇◆◇◆
「その――聖女マティアも、今は周辺村落の視察に向かわれていまして」
そう、呟かれたアンの言葉に、フィアラートは唇を湿らせる。なるほど、今の一言でおおよその見当がついた。
間違いなく、アンはマティアを庇おうとしている。
政務に関しては未だ知識の浅いフィアラートですら、理解できる。今はどう考えても、ガルーアマリア内部の政務を放っておいてまで、呑気に村落の視察に迎えるような時期ではない。未だ、紋章教の主要拠点であるガルーアマリアですら真面な態勢が整い切っていないのだ。
命令系統、組織体制、商人との取り決め、整備することは山ほどある。その中で、政務全てを取り仕切っていたマティアが身を動かす必要など何もない。それこそ、アンや部下を使えば良い話。マティアという女性は計算高い。その辺りに頭が働かない人間ではないと確信できる。間違いなく、村落の視察などに行ってはいない。アンは、嘘をついている。
では何故、虚言を吐いてまで、アンが主を庇う必要があるのか。それは、告げてしまえば不味い事になると、考えているからだ。ああ、なるほど。聖女マティアはルーギスと共にいる。アンの狼狽は、そこに起因しているのだろうと、フィアラートは理解した。
その二人が出向いている場所も、勿論幾つか候補はある。しかし、ルーギスの性質と照らし合わせて考えれば、一つしかない。
フィアラートのか細い指、その小指から親指に至るまでに力が籠り、魔力の筋が通っていくのが分かる。
まだ、まだ足りないというのだろうか。
城壁都市ガルーアマリアの戦いでは、受けた恩を返した。己を助けてくれた恩。理想を見せてくれた恩。そうして、自らの手を取ってくれた、恩。
空中庭園ガザリアでは、功を成したと思った。彼の期待に応え、自らの力を誇示し、周囲の天才達に引けを取らないと証明した。
だから、期待してしまった。もう、そろそろ、私の手を取りこう言ってくれるのではないか、と。
――付いてきて欲しい。お前を、心の底から頼りとしたい。
奥歯が割れそうなほどに、食いしばられる。心臓が幾本もの針を突き立てられたかのように痛みを伝えだす。
ルーギスは、彼は、きっと私の事など何とも思っていないのだ。私が自らの全てを放り出してまで、彼に駆け寄り、彼を拠り所としたというのに。
それが、悔しい、悲しい、口惜しい。
私はルーギスを拠り所としている。だから、彼にも己を拠り所としてほしい。過ぎた願いである事は分かっている。それでも、ああ、それでも願ってしまう事を神は責めるだろうか。裏切られると分かっていながら勝手な期待を抱くことを、意味がないとあざ笑うのだろうか。
世界が、私に興味を持っていないのは分かっている。そんな事は、もうどうでもいい。世界が振り向かずとも、ルーギスに振り向いてほしい。
今回も、私は手を取られなかった。それどころかカリアにすら声をかけず、ルーギスは聖女マティアとその道を共にしている。
嫌だ。もう、選ばれないのは嫌だ。見放され、失望の目を向けられるのは、嫌だ。名門のボルゴグラード家に生まれ落ち、そうして一度見放されたフィアラートには、それは余りに耐えがたい。
フィアラートの黒い瞳が、より、一層、黒く染まった。凍えそうなほど冷徹な頭の中が、ルーギスの居場所を告げている。
もはや、躊躇する意味は、ない。




