第百二十三話『私の福音』
「私が皆を導く冠であるならば、ルーギス、貴方は剣なのです。それも、替えの利くことはない」
ベルフェインの大通り。今は、人が最も疎らになる夕方。これからもう少し夜に傾けば、仕事帰りの傭兵たちが溢れ出てくる。
僅かな沈黙が続く。マティアは、何処か困惑でもした様子のルーギスを前にして、仕方がない、そう言う様に視線を絡めた。
こんな言葉をかければ、ルーギスが動揺を露わにし、言葉に詰まるのは理解していた。だが、今言っておかねばならない言葉でもあった。
ルーギスは、欠けている。それがマティアのルーギスに対する理解だった。
どうしようもなく、病的なまでに、執拗にその魂が鑢に削り取られている。理由は分からない。事情も知りはしない。だが、そんな事はマティアにとってどうでも良かった。今の彼に必要となるのは過去を探られることではなく、与えられることだ。そうして、欠けた部分の埋め合わせをさせる事。
アンが僅かなりともルーギスの性質を感じとっていたのと同様、マティアもまた、未だ彼の多くを知らずとも、その本質に近いものを手にとり始めていた。
「王冠と剣は、分かたれて存在する意味がないのです。そのどちらもが、王権を示すもの。片側が足を踏み外せば、もう片側も崩落してしまう」
共に在るのか、それとも離れ道を踏み外すのか、道筋はその二つしかありません。そう、唇を揺らしながら身体をルーギスに近づけると同時、マティアはむず痒さのようなものが背筋を走るのを感じていた。
似合わない。自分に甘い台詞や他人を労わる言葉など、どう足掻いても似合いはしないと、マティアは感じていた。
特にルーギスに対しては、今まで散々毒をまき散らしていたようなもの。だというのに、今になって手の平を返したかの様な言葉を唇から零れさせている。
恥だ。紛れもなく恥の感情が、今マティアの胸を噛んでいる。
勿論、建て前であればこんな言葉を弄すのは容易い。打算ゆえに相手を労わり、慈しむのは慣れたものだ。その程度のことであれば、幾らでもこなしてみせよう。
だが、これは、建て前とはとても言えない。今マティアは、己の情動の揺れ動くままに口を開き、言葉を吐き出している。こんな経験は、初めてだ。マティアの頬が、夕陽に照らされたように染まっていった。
今まで聖女として、聖女の仮面を通しての言葉でしか禄に人と話したことがない。であればこそ、一度仮面を外してしまえば、言葉など早々思いつかぬものだと考えていた。だというのに、今は、マティア自身が驚くほどに言葉が次から次へと、胸に浮かんでくる。
「あ゛ぁー……だが、何もこんな所に足運ぶ必要もなかろうに。どうせなら俺一人の方が安全だろうさ」
ルーギスが、苦し紛れに言葉を喉から滑り落とす。それは言い訳というよりは、むしろ照れ隠しのように思えて、知らずマティアは唇を波打たせた。
「いいえ、貴方が一人でいる方がよほど危うい。貴方は険しい道が好きなのでしょう。違いますか、ガルーアマリアでも、ガザリアでも貴方は何時だって危険の傍にいたと思いますが」
ガルーアマリアでの決闘もそう。ガザリアでの無茶な単独行動にしてもそう。いずれにしろルーギスの行いは自らを蔑ろにする無茶無謀、安全とは程遠い有様だ。
「なるほど、険しい道ね……違いない。だがそれでも、無事には帰ってきてただろうに」
それを無事と言えるのは貴方だけです、とマティアの唇が勝手に動く。無事というのは命が無事というだけで、何時だって満身創痍で帰ってきた癖に。
今までは、それで構わなかった。
ルーギスが一人で勝手に馬鹿をして、傷ついて、血みどろになったとしても、それが紋章教の為となるならば、好きにすれば良い。むしろ、最後の結末は大功を立てた後に死んでくれて構わないと思っていた。そうすれば、後は英雄化も神格化も思いのまま。死んだあと、その遺骨の髄まで、利用してやれる。そう考えていた。
だが、今は、違った。少なくとも、マティアにとっては、違う。
「貴方は、危う過ぎる。それが自分でもわかっていない。きっとこの言葉だって……他の方、誰かに、言われた覚えがあるのではないですか」
本当に、仕方がない。そんな様子を滲ませながら、マティアはルーギスの肩を引き寄せる。それは有無を言わせない、妙な力強さで行われたものだった。
「――分かった、ご忠告は良く分かったよ。言葉も有りがたいことこの上ない。俺には勿体ないくらいさ」
言って、ルーギスが頷く。そうして視線を逸らしやや気まずそうにしながら、マティアをそっと引きはがした。
分かったというのであれば、別に己を引きはがす必要はないだろうにと、マティアは唇を尖らせる。
それにこう言ってはなんだが、絶対に、分かっていない。此れだけ言葉を投げかけても、尚、彼は自分を大事にするという事を知ろうとすらしないだろう。
それは此の都市に至ってからの行動からも見て取れる。マティアが彼の情報を集める時、どれほど容易くその位置を知れたことか。その容易さが、余計にマティアの中で不安を募らせた。
あの人は、何処まで己という存在に鈍感なのか、と。己を軽視するというより、まるで誰も己を気に掛けるはずもないと、意識の底で盲信しているようですらある。カリアにフィアラート、そうしてエルフの姫君エルディスまで、呆れかえるほどに意識を傾けていたというのに。
それに、先ほどの言葉もそう。俺には勿体ない、などと。
マティアは、今が問答をすべき時間でない事は分かっている。可能な限り早く、ベルフェイン脱出の用意を整えるべきだ。だが、
「ルーギス、もう一度言います。聞きなさい、そうして、忘れてはいけません」
逸らされた彼の顔に両手を添え、正面を向かせる。そう言われてみると、何時も何処か飄々と捻くれていたルーギスの顔を、真正面から見つめたのは数えるほどしか、なかった。
いざ言葉を口から放つ段になって、マティアは喉が詰まりそうになる。気恥ずかしさというものが、胸に戻ってきた思いだった。マティアの唇が幾度か開かれ、そうして言葉を選び取るようにしながら言った。
「貴方が覚えているかは分かりません。ですが、私は覚えています。貴方がガルーアマリアで私の命を救ったことを」
それは、揺るぎない事実。その事に、感謝も、恨みもした。未だそこに関しては、複雑な感情が渦巻いていることも、事実だ。
「それは紋章教自体も同じこと、貴方に救われ続けている。もしかすると紋章教も、そうして聖女マティアも。貴方がいなければ、今こうして此処に立っていなかったかもしれない――言わば、貴方は私の福音そのものだった」
だが、それだからこそ、言わねばならない事がある。人を救っておいて今更、自分を卑下するような物言いを繰り返すのは、謙虚を通り越して無礼に違いない。
「良いですか、ルーギス。己には何もない、そう思い込むことは簡単でしょう、感傷の美味にも浸れましょう」
ゆっくりと、言い聞かせるように。言葉をかみ砕くようにして、伝える。声だけでなく、視線で、頬を掴む体温で。
私に似合う言葉でない事は、重々承知している。だが、聖女と呼ばれる身であるならば、こんな時くらい見事に演じきらねばならない。
「しかし、それは決して険しい道ではない。険しい道とは、全てを抱えながらでも懸命に前へと進む道のこと――ルーギス、貴方もそろそろ、自分に誇りを持っては如何です」
それとも、何も持たぬ甘美な道の方がよろしいのならご自由に、そう言葉を放って、暫くの沈黙があった。
しかし今度は沈黙の中でもルーギスも目を逸らすことはなく、じっとマティアを見据えている。彼の瞳の中に映る色は困惑でも動揺でもない、何か別の色だった。
夕暮れ時の街道を、馬車が蹄を鳴らして通り過ぎていく。




