第百二十二話『柱となる者』
――どうして此処が。いやその前に、どうして、此処に。
瞳を瞬かせ、肩をぞくりと震わせながら、踵を鳴らす。
不思議だ。脳は疑問で覆い尽くされ、疑問を解消する為の言葉は次から次へと浮かんでくるというのに、喉は全く、ぴくりとも音を出そうとしない。
どうにかして喉を鳴らそうとするも、唇からはただ吐息だけが漏れていく。思わず地面を蹴って、砂を散らした。
流石に売春宿でそのまま立ち話をするわけにもいかず、夕暮れ、やや人通りが薄くなった街道を、人の流れに合わせてマティアと共に歩く。
「どうして此処が、というような顔をしていますね。いいでしょう、貴方に教えてさしあげます」
黙りこくる俺を前にして、マティアが随分と気分がよさそうに、声を囁かせる。
横目に見えるその風貌は、男装の麗人とでも言おうか。長い髪をまとめ上げ、男物の服装に身を委ねながら、切れのよい瞳を輝かせるその姿。
なるほど、こうしてその顔の造形だけを覗き見れば、その印象は穏やかというよりも、むしろ苛烈というのが分かる。それもカリアのように苛烈さを露わにしたのではなく、奥からにじみ出てくるような、それ。
「一つ、貴方は目立ちすぎです。昨日には実質的な支配者に歯向かったとか。愚かさは時に貴重ですが、多くはその命を削るものですよ」
それは、確かに否定しかねる。俺も自分を賢者と思うよりも、愚者と思った記憶の方が多い。
この都市、ベルフェインにおいて鉄鋼姫様に逆らう奴なんて、そういるはずもない。となれば、否応なく人の記憶にも残ることだろう。特に、俺のような余所者であればなおさら。
そうか、あれが原因か。あれが縄となって俺に括りつけられ、そうして聖女様を俺の下に引き寄せてしまったと。
我が事ながら、本当に、馬鹿なことをしてしまった。それを再び、口の奥で噛みしめる。
だがまぁ、仕方がないといえば、やはり仕方がない。今一度あの鉄鋼姫様から見下された時を思い起こしたが、俺としてはむしろ、あれくらいの言葉で事を済ませたのを褒めて欲しい心地でもある。
「そうしてもう一つ、私は何も箱入りではありませんよ。地下への潜伏、情報収集というのは、私にとっては得意の内。それに加えて、事前に此処に入り込んでいる同士もいます」
その表情はやはり、何時もと同じように冷静さを張り付けてはいたが、マティアの瞳に宿る光は何処か誇らしげでもあった。
そうか、確かに。その美麗な立ち居振る舞いによく手入れのされた長い髪の毛、そうして言葉遣いの節々に時折騙されそうになるが、何も彼女は安穏と暮らした結果、今があるわけじゃない。
むしろ、紋章教徒の聖女などという地位をその身に宿しているのだ。時に石を投げて迫害され、時に危険から逃れる為その身を隠さざるを得ないなんてことは、数え切れぬほどあった事だろう。事実、俺が初めて彼女とあった際も、マティアは地下神殿にその身を隠していた。
そう思うと、分かってはいたのだが、マティアというのは何とも逞しい人間だ。肉体が、という意味ではなく、その精神の根本が、折れぬ強さを持っている。例え逆境と地の底にあっても尚、汚れ切れぬ高潔さを、彼女は持っているのだろう。
こればかりはなるほど、汚れ切った俺には到底、真似できそうにもない。間違いなくマティア自身の特性というやつだ。
しかし、違うそうじゃあない。
彼女が俺の居場所が分かった理由は納得した。腹の中に飲み下したさ。だが俺が聞きたいのは、何で此処が分かったか、じゃあない。どうしてお前が此処にいるのかって事なんだよ、聖女様。
「……政務はアンの奴に投げつけて来たのかよ。そりゃあ恨まれるぜ」
俺はいったい、なんと切り出したものか迷いに迷って、無理矢理その言葉を捻りだした。
どうして此処にいるのかと、真っすぐにそう聞くのが何となく躊躇われたからだ。というより、そう聞けば、何と言葉が返ってくるかが分かっていたからかもしれない。
「あの子、アンと私の側近達は、貴方が思うほどに無能ではありません。私がおらずとも……暫くは、もたせるでしょう」
つまり、その場を凌ぐことしか出来ないという事だ。
当然といえば当然。傍から見ていたって、マティアの仕事をこなす様は何処か悪魔染みていた。それはただ迫力があるというだけでなく、その何処か人間はずれした能力に起因する。
見ていて理解したことだが、聖女マティアは、話の端を受け取るだけで、その事情の大部分を把握する能力に長けているらしかった。それは彼女が今まで積み重ねて来た智謀ゆえか、それとも生まれ持った才能ゆえなのかは分からない。
だが、その能力こそが、マティアに人間離れした政務を可能とさせる所以の一つ。
一を聞けば百には届かずとも九十九までは知り得る、想像する事が出来る。それが彼女の何よりの強みであり、また統治者として必要な能力でもあった。
だからこそ、マティアは此処にいるべきではない。如何な秀才凡夫が揃おうと、一人の天才に敵うものか。彼女の代用品など存在はしない。暫くはもたせる、それは、本当に一時しのぎでしかないはずだ。
今のガルーアマリアは、紋章教という組織は、マティアという支柱を失っては立ち上がることもできないほどに脆弱に違いない。此処ベルフェインで彼女に万が一の事があれば、それだけで全てが終わる。
それに、ベルフェインからの密偵だって、いやというほどガルーアマリアには忍び込んでいるはずだ。そいつらに聖女マティアが不在などと知れたら、何が起きるかわかったもんじゃあない。
ああ、最低だ。嫌な想像ばかりが頭の中から湧いて出てくる。どうして、本当に、こいつは。
忌々しげに歯を噛みならし、顎に手をやりながら、聞いた。
「聞きたくなかったがよ、あ゛ー……どうして此処にいる。此処はあんたが、一番いちゃいけない所だ」
そう、言葉を言い切る前。マティアは冷静なその顔つきに、何処か意地の悪い笑みを浮かべて口を開く。
「では、聞きましょう。どうして貴方は此処に。それも誰にも、私にも告げずに、一人で」
おお、分かっていたとも。そう聞き返されるのは分かっていた。だから、聞きたくなかったんだ。言葉を探すように、唇を噛む。よもや、言えるはずもない。
カリアにも、フィアラートにも頼らずに、一人で、力の証を立てる為に此処にいるのだと、そんな馬鹿らしいことがどうして言えようか。
はぐらかすように、視線を逸らして、無理やり言葉を転がした。
「……俺とお前とじゃあ、違うだろうに。全く立場が違う。俺なんざ、死んでも代わりは幾らでもいる。だがよぉ――」
全く、その通りだ。俺の言葉に、間違いは一つもない。
俺という存在は、所詮、紋章教にとっては客将のようなもの。その存在が死のうが生きようが、大勢に影響なぞありはしない。
逆に、マティアは特別だ。その存在がなくなってしまえば、もはや紋章教は立ち上がれない。何時も計算高い彼女が、そのようなこと、分からないはずがないというのに。
「――いいえ、違います」
そんな、一片の間違いがなかったはずの俺の言葉を、マティアはその場で脚を止め、こちらに顔を向けながら、断ち切った。
その強く身体を刺し貫くかの様な視線に、俺は思わず縫い付けられたかの如く動きを止める。逸らしていたはずの視線が、吸い込まれるようにマティアの瞳の、深い部分を見つめていた。
大通りに人が行き交う中、俺とマティアは瞳を重ね合わせながら、向かい合う。
「ルーギス、覚えておきなさい。そうして二度と、忘れぬようにしなさい」
視線を合わせたまま、吐息が重なるほどに距離を近く、そうして俺にだけ言葉が聞こえるよう、そうして言い聞かせるように、マティアは告げる。
「私が死ねば、なるほど福音戦争は終わるでしょう。ですが、ルーギス、貴方が死んでも、もはやこの戦争は続けられぬのです」
言葉が、上手く呑み込めなかった。納得や理解というものから、程遠い。
その、何処までも真摯とも思える言葉遣いと、声の調子に、俺はいったいなんと応じれば良いのか。それがどうにも、分かりはしなかった。




