第百二十一話『重なり合う道筋』
朝起きると、やけに日が高かった。もう、昼だ。
陶器に入ったままのラム酒を唇に重ね、一息に飲み込む。眠気が取れない日には、此れが一番だった。ブルーダーにとって、それは殆ど日課のようなものだったが。
何年も、ぐっすりと熟睡した日はない。だから、何時も酒を飲むことにした。濁りけのあるラム酒が、喉を流れ込んでゆく。質の悪いラム酒ほど、頭は痛むがすぐ眠りにはつけた。
早死にするだろうと、何度も言われた。碌な死に方は出来ないと、忠告もされた。だが、別にそれで良かった。長く生きたいとも、ベッドの上で安らかに死にたいとも思った事はない。
それくらい、全てを投げやりにするくらいの生き方でないと、とても生きておれない日々だった。もしかすると、奴もそうなのかも知れないなと、ふと思った。
未だ安いベッドの上で熟睡をしている、男を見やる。一切起きる様子というものがない。まぁそれはそれで都合はいいが。こちらにも、準備というものがある。
名は、ルーギス、紋章教に属す裏切り者で、大罪人という噂だがどうにも、そうと思われない。むしろ人違いなのではないだろうか。というのも、あの向こう見ずな態度が理由だ。
ベルフェインの支配者にして守護者、鉄鋼姫ヴェスタリヌ。彼女に罵声を投げつけるなどというのは、もはや死にたがりでしかない。勿論、ブルーダーにしろ人の事は言えないのだが。
それに加えて、昨晩のあの酔いの果てに零れ出たとしか思えぬ言葉。
――ベルフェインの両輪、その片方を取り外すこと。それだけさ。
聞いた瞬間、僅かに耳の端が揺れた。茶色い髪の毛が、視界の中で跳ねたのを覚えている。何処まで、本気なのか。悪酔いの末の愚痴に近いのか、それとも心の奥底から這い出た言葉なのか。それが、分からない。問いただすべきか、迷った。
だがどちらにしろ、それは考え無しか、命を捨てたい者が考える事ではある。
此のベルフェインという都市は煩雑なようで精緻に、単純なようで複雑に練り込まれている。高々、一介の傭兵が付け込めるような隙は、ない。
結局、こいつも、ルーギスも同じだろうとブルーダーは思う。腕は多少たつようだが、だからといってこの都市をどうこう出来る存在だとは思えない。その表情にも、強者が持つ自信らしきものが浮かんでいない。
なら、彼はきっと夢を見ているのだ。心地のよい、己だけが持てる夢を。
夢を見るだけなら、付き合ってやってもいいかと、ブルーダーは思う。夢は、好きなだけ見てしまえば良い。望むとも望まざるとも、いずれはその夢におぼれることすらできなくなり、その内に全てを諦めて、生きることすら手放そうとするようになるのだから。
自らも、そう、自らもきっと、そうだ。ブルーダーはラム酒で顔を洗いながら、床板を軋ませる。大きなため息が、胸の奥から込み上げそうだった。
己には余りにも、この世界で生きていくという気力が湧いてこない。意味もなく日々を歩き、意味もなく飯を食い、意味もなく酒を呑んで眠る。
ただそれだ、それだけが人生だ。人生とは惰性そのものだ。
かつて父親が親友と呼んだ男に裏切られ、その命と尊厳を失い、それと同時に自らも妹と全てを失った。その日から、この暮らしは変わってはいない。
復讐だと、心を溶鉱の如く燃やし尽くせる人間が羨ましい。己には、そのような気力すらも残っていない、ただ日々を無為に生きる惰性しかないのだ。
ふる、とブルーダーの鼻が震える。何時もと違う匂いが、部屋からした。それがまた、大きなため息となっていく。ふとベッドを見やると、未だ瞼を閉じたままのルーギスがいた。
どうして、あんな人間を泊めてしまったのだろう。男は勿論、女とて泊めたことはない。いやむしろ、誰かを泊める気になぞ、なったことがなかった。だというのに、何故。
それがどうにも、ブルーダーには不思議でならなかった。何より自分のことだからこそ余計に。
◇◆◇◆
ゆっくりとその瞼を開いた時、すでにブルーダーはその部屋にいなかった。太陽はもはや東から登るよりも、そろそろ西に傾こうかという頃合いで、随分と眠りこけていたのが分かる。
疲れがたまっていたというわけでもないと思うのだが。時折、妙に睡魔に襲われる時がある。欠伸が、喉を伝って唇から漏れ出ていった。
昨晩、ブルーダーから好い返事が貰えたとは言いづらい。考え事をしたまま、なるほどと呟いて。言葉をそのままラム酒とともに飲み込ませてしまった。
彼が何を思い、言葉を漏らさなかったのかは、分からない。勿論、未だ俺が信用できないという事もあるだろうし、この都市そのものを傾けるなどというのは、そう易々と頷ける依頼ではないのも理解している。
胃が、緩やかに揺れるのが分かった。身体の中で、内臓が軋む音がする。妙な不安が、心の中で踊っていた。ああ、そうか不安なのだな、俺は。
今此処に至って、分かった事がある。俺は意識せずとも、無意識の何処かの中で、ブルーダーをやはり頼りにしていたらしい。
かつての友であり、仲間であり、そうして俺を先へ先へと、導いてくれた存在。なるほど頼りとするには十分すぎる。
それがどうにも、俺には情けなかった。
英雄の資質を、何をもって英雄と成るのかを示す為に、一人で此処に来たはずだった。己の足で地面を踏みしめ、この手に何かを得る為に、ベルフェインへ来たはずだ。
だというのに、俺は知らず奴を頼りにしていたのだ。ああ、何とも、無様な事この上ない。此れではかつての頃と同じまま。彼を、ブルーダーを死の淵で見殺しにしてしまった時と、なんら変わらないではないか。
嫌になる。やはり、人間というのは早々に変わってくれるものではないらしい。むしろ此処でこうして、ブルーダーに依頼をしている事自体が、何も変わらぬという証明ではないのか。
頭の隅が鈍く痛む。胸を抉り殺すような自己嫌悪に、頬には歪な笑みすら浮かんでいた。
駄目だな。どうにも悪酔いしたらしい。今日は何時にもましておかしな気分だ。部屋にこもっていて、良いことはないらしい。
そんな折、ぎぃい、と安宿のドアが鳴る。どうやら、今のはノックされたらしい。とてもそうは聞こえなかった。
「お客さん。お連れさんがお待ちだよ。早く来てやんなぁ」
扉の向こう側から婆さんのしゃがれた声が、どこか鬱陶しそうにそう告げた。
連れというと、ブルーダーの事だろうが、珍しいことだ。
奴は人を待つくらいなら、自分一人で前へ前へと行ってしまう様な男で、俺が夢の中で時間を潰していたくらいで、待っていてくれるということなどはなさそうなのだが。
しかし、呼ばれた以上無駄に待たせるわけにもいくまい。
今はいったいどんな顔を合わせれば良いものかも良く分からんが、どうせ奴のことだ、未だ外を出歩くのは危険だというに酒でも飲みにいこうというに違いない。
まぁ、それならそれでまだ気は晴れる。そう思い、床板を軋ませながら、小汚い部屋を出た。
売春宿というのは禄に金もかけぬのに使い込むものだから、やけに床だの扉だの、木という木が軋む気がする。夜ともなれば、そりゃもう寝れんほどの騒音が固まりとなって襲ってくる。空いた部屋が格安で貸しに出される意味も分かった。
上着を羽織りつつ、軽く欠伸が出て目が細まった。
玄関口に立つその姿が、瞳に入る。他に、待ち人らしきものはいない。婆さんが、ちらりとこちらを覗き見た。なるほど、紛れもなく、その人物こそが、俺を待っていた人物なのだろう。
「――相変わらず、良い身分ですね。一人ふらふらと出て行ったかと思えば、このような場所で昼までご就寝とは、呆れかえります」
長い髪の毛を後頭部で纏めあげ、凛とした目つきを隠さずに、しかし僅かな笑みすら浮かべている彼女。見間違えではない。決して、そんな事はない。
紋章教の首魁、彼らの旗印、聖女マティアの姿が、場違いにもそこに在った。
売春宿という、余りにも彼女に似合わないその場所。しかしそれでも、彼女は輝きを失わず、むしろその存在を際立たせている。
なるほど。その姿を目にした瞬間、悟った。今俺はどうやら、最悪の事態にぶち当たってしまっているらしい。




