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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第六章『聖女マティア編』
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第百十九話『ベルフェインの鉄鋼姫』

「――お前さんのそういう所、俺は大嫌いだよ。今も、昔も」


 吐息が唇から漏れ出ようとして、そのまま固く閉じた歯に押し返される。


 今一度半身になり、剣を腰元に構える。一つの動作で、相手の息の根を止められるように。


 構えた後、肩が、その動きを止める。膝も、腕も、それどころか体躯全体が動きを見せようとしていなかった。それは、ブルーダーも変わらない。


 まるで周囲の時間そのものが止まってしまったかのように、俺とブルーダーの時は静止していた。


 喉の中を、唾が滑り落ちていく。勝敗がつくのは、一瞬。今此処で剣と長針が振るわれれば、瞼が瞬く間に決着がつくと確信している。頬を冷たい風が撫でた。


 表面には一切変化を見せないまま、心臓が、一度その鼓動を大きく鳴らす。今のこの状況を見て、どうして、こうなっているのだと、そう問いかけるように。


 そんな事は、俺自身にも分かったものではない。ただ、俺が何処までも浅はかであった事自体は間違いなかった。かつて、手を取り合い命を預けたからといって、今回もまた、今一度手を取り合えるとは限らない。何故そう思う事が出来なかったのか。人と人との繋がりなど、その程度のものでしかないというのに。


 なにしろ、以前の旅で対立していたカリア、フィアラート、そしてエルディスとその動向を共にしているのだ。その逆があった所で、全くおかしな話ではない。


 だから、今ここでこうして対立している理由は知らない。切っ掛けは分からない。だがこの状況で確かなことがただ一つ。


 かつての友、仕事仲間であったブルーダーは、今明確に俺と敵対している。そうして、この命を奪い取りに来ていると、それだけの事。


 呼吸が、白い靄となって空を昇っていく。


「不思議な言葉だな。まるで、俺様を見知っていたかのような口ぶりじゃねぇか。有名人になっちまったのかねぇ、俺様も」


 軽口を唇に舐めさせながら放たれる、懐かしいその声。しかしその言葉を放つ間に、一切の弛緩のようなものは見せはしない。ブルーダーも、もはや瞳に明確な殺意を浮かべている。


 互いの距離は、もう間合いだ。俺の宝剣はブルーダーの首を跳ね飛ばせ、突けば心臓を抜き取れる。またブルーダーの長針は簡単に俺の急所を抉り屠れる、それこそこの距離なら、一瞬の内に。


 それを競おうと、ブルーダーは言っている。その速度を、天秤の上にのせ測り合おうと。


 彼はこういった命を溝に晒す行為に、高揚を覚える人間だ。命を簡単に、放り投げてしまえる人間だ。そうして何故か、絶対の自信を持っている。己は負けぬのだと。失敗は、あり得ないのだと。


 ブルーダーのそういう所が、俺は羨ましくもあり、妬ましくもあった。羨みと妬みというものは、表裏一体だ。尊敬と嫉妬が同じ項目に当てはめられるのに似ている。


 言ってしまえば、ブルーダーは天才などではない。もって生まれた資質は英雄には遠く及ばない。カリアのように身体全体を鋭く貫く気迫もなければ、フィアラートが持つ凡夫を跳ねのける天賦も、エルディスの暴力的な力もその手にはしていない。


 悪く言えば、何処までも凡庸そのもの。俺とさして変わりはない。だからだろう、あの天才達の威容に心は勿論、精神の細部に至るまで浸りきってしまった俺には、これほどの間合いでもブルーダーに気圧されるという事はない。


 それに先ほどの一撃で理解した。ブルーダーの力量は、かつての頃からさほど大きな違いを見せてはいなかった。ある意味で、それは当然でもあるが。


 ブルーダーという人間の才は極々俺に近しく、だからこそ、俺と手を組んでいたといっても過言はない。天才が仲間と認めるのは、何時の時代も天才のみ。凡夫は天才英雄に焦がれれど、傍らに仲間として在るのは、やはり凡人だ。


 ブルーダーも、同じ。とてもではないが、その力量と才覚は自信が持てるものとは思えない。


 そう、そのはずだった。だというのに何故、ブルーダーは、こうも、命を高揚させられるのだろう。心臓をわが物とし、自信に満ち溢れた表情を浮かべることができるのだろう。それが、俺には羨ましかった。そうして、


 ――ギィイ、ンッ!


 どこまでも、憎らしかった。ああ、俺というやつは、やはり果てなく小人物だ。


 何の、合図もない。ただ、互いの呼吸が重なった、その時点。


 針が、空間を貫き穴をあける音。剣が走り鉄を鳴らす音が、裏通りに響き渡る。



 ◇◆◇◆



 傭兵都市ベルフェインには、他都市とは趣の異なった秩序があった。


 それは、荒くれや粗暴な人間が多く集まるベルフェインにとって、必ず守らなければならない、鋼鉄の法。


 即ち、彼女という存在は、絶対であるという事。ひいては、彼女そのものが、法であるという事。


 がちゃり、がちゃりと鉄が擦れる音が大通りに響く。鋼鉄の甲冑をその身に纏わせ、馬型の魔獣を乗り回すその姿。


 背丈は女性とは思われぬほどに高く、細身ではあるもの、その纏った鉄鋼を一切苦としていない。表情の変化は乏しく、瞳は空を見上げるようにぼぉっとふらついている。


 最初にそう呼び始めたのは、誰なのか。ベルフェイン領主の一人娘であり、都市の守護者として魔獣の手綱を握る彼女を、人はこう呼んでいる。


 鉄鋼姫、鉄の信奉者、ベルフェインそのもの、ヴェスタリヌ=ゴーン。


 その身を鋼鉄に包み込み、手綱を引く馬型の魔獣にまで鉄の装甲を当て、背後に複数の従者を伴いながら彼女は街道をゆらり、ゆらりと闊歩する。普段は騒音が鳴り響き、耳を掻き潰さんとするベルフェリアの街道も、この時ばかりは静かに、そうして誰もが自然と彼女に道を譲っていく。


 ある者は彼女を畏れて、ある者は彼女を慕って、またある者は彼女を疎んで。しかし敢えて関わり合いにはなるまいと、道を開けていく。


 紛れもなく、彼女はこの街の支配の象徴だった。


 実質的な政務を担っているのは、勿論、彼女の父であるが、都市の住人達の心根に鉄の杭として打ち込まれ、頭を垂れさせる存在となっているのは、間違いなくヴェスタリヌ=ゴーンである。


 理由は、単純明快に、ヴェスタリヌという存在が、都市の住人達にとって恐怖そのものだからだ。


 この都市は、頭脳たる父と、その豪腕たる娘、ヴェスタリヌの両輪により治められている。怪物とも思われる馬型の魔獣、その蹄が音を鳴らすだけで、裏道に身を隠す犯罪者はその背筋を鋼鉄に撫でられたかの如く震わせた。


 ――ギィイ、ンッ!


 がしゃり、がしゃりと重量を思わせる音を鳴らしながら進んでいた馬が、蹄を止める。僅かな嘶きが、街道を薙いだ。


 鉄鋼姫のぼんやりとしていた瞳が、強固となっていく。今、耳にしたのは紛れもない、鉄と鉄の接合音。少なくともこの通りに、鍛冶屋はない。それに、鍛冶にて聞こえてくる綺麗な音ではなかった。何処か淀み濁った、そんな音。


 街道の住人、傭兵たちが思わず、喉を鳴らして音を潜める。誰もが、彼女に、ヴェスタリヌに眼を付けられたいとは思っていない。此のベルフェインという都市は荒くれものには大層くらしやすいが、彼女の意識内に入り込んでしまえば話は別だ。


 鋼鉄姫に睨まれ、目をつけられた。ただそれだけの悪評が、この都市での暮らしを困難なものへと変えていく。


 ヴェスタリヌが、目を付け、耳を立てるもの。それが、鉄と鉄の接合音。諍いの証。ベルフェインにて騒動を起こす者を、排除する為に。鉄の信奉者たるヴェスタリヌは、絶対にその音を聞き逃したりはしない。


 くいと、ヴェスタリヌが手綱を軽く右に引き、音の発生源へと馬首を向ける。背後に付き従う従者たちは、何も口を挟もうとはしない。彼らも、理解しているからだ。


 ヴェスタリヌこそが、此の都市において絶対であり、その方針に嘴を無理矢理に入れ込むことは、鉄剣の前に自ら身を乗り出すことに等しいと。

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