第百十七話『将と王』
「では万事、そのように我が領主にはお伝えいたしましょう、聖女マティア様。我らに紋章の導きがあります事を」
傭兵都市ベルフェインの使者が、席を立つ直前にそう言葉を漏らす。わざわざ紋章教徒の祝詞を頭に入れてくるとは、勤勉なものだとマティアは瞼を揺らめかせる。
心の中で下らないと切り捨て、その言葉を最後まで耳に通すことはなく、頷いた。
「ええ、前向きに事を進めましょう。互いの未来がより良きものになるように。神もそう望んでおられるに違いありません」
その一言を境にするように、ベルフェインとの会談は終わった。使者が立ち去った後、マティアは深く呼吸をし、肩を椅子にもたれかからせながら、唇を尖らせる。
これで一先ず、さも同盟を結ぶ気があるような印象は与えたはずだ。眉が下がり、目線が知らず強まる。ベルフェインもそれを信じるかどうかは別として、全く考慮をしないということはできない。これで少々の時間は稼げよう。
今、同盟の打診を断ち切ってしまえば、即時ガルーアマリアとベルフェインの関係は緊張状態に陥る。そうなれば、後は自然と武力による衝突に繋がっていくだけだ。
本来であれば、それは悪い選択でもない。
むしろ未だ纏まり切らぬ部分のある、教徒の意思統一に役立つことだろう。明確な敵の存在というのは、それだけで人の視力を奪い取り、無暗やたらに熱意を掻き叩てくれる。組織にとってこれほどに有難いことはない。
だが、今は不味い。不味く、なってしまった。
マティアは自らを落ち着かせるように吐息を漏らしながら、すらりと長く伸ばされた髪の毛に指を通し、丁寧に短く纏めていく。
緊張状態になれば当然、互いに都市内に送り込んでいるであろう密偵や斥候を炙り出し処断する、積極的に敵対関係になる。
今はまだマティアにしろ、ベルフェインにしろ、ある程度は互いの密偵を受容、見逃している状況だ。
互いに大した情報がない序幕は、一先ず腹を探り合い、今後の方向性を見定める。国家間の争いでもこれは変わらない。ゆえによほどの事がない限り、今は密偵がその首を絞めつけられることはないと睨んでいる。
同盟をほのめかし今の状況を少しでも長く続ければ、ベルフェインに潜入したルーギスの命も延びるはずだ。
いや、それは願望か。マティアは髪の毛に指を通したまま、目を細めた。
ルーギスは正確には密偵でも斥候でもない上、言わば紋章教の要衝の一つ。そうと分かってしまえば、例えこちらとの関係悪化が分かっていても、即座に処断される可能性がある。やはり、急がなければならない。
マティアの行為は、要は緩衝期間を造り上げただけ。互いに攻めはせず、動向を探り合う期間。しかしそれも薄氷の上にのり、いずれ崩壊するのは幼児でも理解できる。
つまり、行動を起こすならば今この時、即座にだ。
マティアは席から立ち上がると、常に整えられ、宙を揺れていた髪の毛をまとめ上げ、仕上げを済ませていく。
思えば、こうして髪の毛を長くしたのも、打算あっての事だった。
長く美しい髪の毛は高貴の証である。そんな馬鹿らしい考えが及ぶ地域では、美しく整えたマティアの髪の毛はよく役だったものだ。時には貴族に成りすまして交渉にあたった事もある。
きっと、これから先もこの髪は役に立つ。今みすみす断髪してしまう訳にはいかない。ゆえに後頭部の辺りで編み上げ、傷つかないように整えていく。
そう言えば、彼は、どのような髪型が好きなのだろう。何の意図もなく、ふと自然に、そのような考えが頭に浮かんでいた。
「失礼します聖女マティア、都市内の動向ですが、今の所大きな混乱はなく――マティア様?」
羊皮紙を腕の中に抱えながら応接間へと入り込んできたアンが、きょとん、と瞳を丸くしてマティアを見つめる。
一瞬、そこに立っているのが誰か分からなかったとでもいうように、アンは睫毛を瞬かせながら瞳を揺らめかせる。
マティアは、アンの様子に何処かおかしそうに唇を歪める。
「どうしたのですかアン。少し髪型を整えただけです。私に違いありませんよ、ええ、他の誰だというのです」
まるで知らぬ人物でも見たような顔をするのですから、と言葉を転がし、肩を竦める。
実際、公の場でも私的な場でも、マティアはこのような姿をさらしたことがない。鏡に映る己の姿を見てみると、なるほど確かに違和感がある。一瞬、自分でその姿が本当に自分であるのかを疑ってしまいそうだ。
だが、それくらいの方が都合が良い。
「アン、鍵を閉じ、化粧の用意をしてくれますか。執務室は……ええ、鏡が使えませんから」
こほん、と声を整えつつアンに指示を出し、応接間の椅子に再び腰かける。大きな姿見があるのは、執務室を除けばこの応接間のみ。身だしなみを整えるのなら、此処が一番都合が良かった。
しかし、少し待てどもアンからの返事がない。果て、どうしたものだろうか。マティアは瞳をくるりと動かして視線をアンに向ける。
そこには、頬をひくつかせたアンの姿。どうにもその顔が、青いようにすら見える。調子でも悪いのだろうか。それは、大いに困る。何せアンにはこれから、一時的に己の代行として働いてもらわねばならないのだから。
「あ、の……聖女、マティア。勿論、ご指示には従います、が。その、何の為に髪化粧などを……?」
今度は、マティアが瞳を丸くする番だった。アンはよく気が付き、頭が回る人材だ。こと、人の動きに関してはより敏感だと言える。
だからこそ、今の問いかけがマティアには不思議でならなかった。それに加えて、己の行動は必然的なものでしかないというのに。
恥じらうことも包み隠されることもなく、あっさりと、その言葉は唇を漏れ出した。
「何を言っているのです――私自ら、ベルフェインへ潜入する用意ですよ」
当たり前でしょう、というように言葉を放つと、アンの青かった顔が、一層、青くなってしまった。血の気が引いたようで、その元から白かった肌が余計に白く見える。
「聖女、マティア。それは、それだけはいけません。御身が危険に晒されることは流石の私にも許容ができかねます!」
珍しい、アンの反抗の言葉だった。思わず、マティアの唇が震える。
アンは、自他ともに認めるマティアの信望者である。
故に、マティアの言葉を可能な限りアンは実行に移そうと努めて来た。例えそれが、己の命や立場を危険に晒す行為であったとしても。
勿論、時に提言をすることはあっても、それは意見を付け加える程度のもの。真っ向から対立することなどまずありえない。アンという人間は、ある意味で紋章教の信徒ではない。聖女マティアの信徒なのである。
そのアンが、今、マティアの言葉に逆らっている。思わず、マティアは自らの心臓に動悸が走ったのを感じた。今まで有り得なかったことが、目の前で起こっている事実に、少なくない動揺が背筋を痺れさせる。
だと、いうのに。いやというほど思考が素早く脳内を駆け巡っていくのを、マティアは感じていた。
「――アン、貴女の言葉は理解しています。そうして、嬉しくも思います」
それは、紛れもないマティアの本心。今まで自身に付き従うばかりだったアンが、自らの事を慮り対立してくれている。それが、どれほどの人間に出来ることだろう。
多くの人間は、大樹に寄りそうことしかできはしない。大樹がその身をゆるがせば、大樹と同様に揺らぐばかりで、支えることも押さえつけることもできはしない。
だが、アンは違った。やはり、彼女は稀有な才能を持っている。主を支え上げ、時には対立する言葉を発せる、王佐の才とも言えるものを。
ゆえに、マティアは本心を隠しもせず、言葉を紡いでゆく。
「しかし、もはや猶予はありません。ルーギス、彼一人をベルフェインに潜入させていては、ただ危険が拡大されていくだけ。私が直接赴き、連れ戻します」
アンの瞳の端には、もはや涙すら溢れ出んとしている。それでも尚眉の端は気丈につり上げられ、唇は固く引き締まる。
「それだけは、あり得ません。確かに、彼に危険な所があるのは承知の上。ですが――彼は言わば替えの利く将でしかありません。聖女マティア、貴女は王だ! 貴女が死ねば全てがそこで終わる! その意味を……お考え、ください……」
もはや涙声となって応接間に響き渡るアンの声を、マティアは胸の奥底で抱き留めた。
そうして、瞳が揺れ動く。マティアの端正な顔つきに、慈愛の笑みとも、魔性のものとも思える表情が、浮かんでいた。




