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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第六章『聖女マティア編』
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第百十四話『管理者』

「聖女マティ、ア……? ど、どうか冷静に……」


 冷静に。ラルグド・アンの口から出たその単語に、思わずマティアは首を傾げてしまいそうだった。冷静になれ、などと、そんな言葉を掛けられたのは初めてだ。


 何せこの身は常に冷静さを欠いたことなどないし、それは、今現在も変わらない。


 私は、今も冷静だ。頭は凍えてしまいそうなほど冷たい。


 マティアは瞳を瞬かせながら、鏡を粉々に砕いた右手を軽く開いた。熱を持ったように、傷口が痛む。ただ、それだけ。


「私は今も冷静ですよ、アン。それより、重要な事は他にあります。彼がガルーアマリアを出奔したのが、いつ頃か分かりますか」


 ぽたり、ぽたりと右手から血が滴る感覚がある。何故このような事をしたのか、己でも分からない。マティアは眉を顰めながら、それでも表情と胸中に冷静さを保とうと、呼吸を整えていた。


 アンが、マティアの右手から鏡の破片を抜き取り、丁寧な手つきで包帯を巻あてつつ、口を開く。


「詳しくは、分かりません。ただ二つ目の星が輝く頃にと……本当に、どうなさったのです、聖女マティア。このような無茶をなさるなどと」


 貴方らしくもない、というアンの言葉を耳に届かせながら、マティアはゆっくりと、胸の中で言葉を転がしていた。果て、なんと応えたものだろうかと、そう自らに問いかけるように。


 己にしても、右手が動いた理由がよく分からない。


 ただ、彼が、ルーギスが夜遅くに此処を出奔し、未だ帰りつかない。その報告を事実だと認識した時、知らず右手側にあった鏡が砕けていた。否、自らの右手が、鏡を砕いていたのだ。


 ああ、なるほど、そういうことか。今になってようやく思考が追いついたかの様に、マティアは一人頷いた。


 右手から這い上がってくる痛みが、殆ど気にならないでいた。むしろ自らの背骨を燃え上がらせる決意に近いものが、心を湧きたたせている。


 マティアは、自身の理性が冷静さを保とうとした結果、身体を動かし鏡を破壊させたのだと、そう理解した。


 それは胸元から喉にまでせりあがる感情をとてもではないが、我慢できそうになかったから。だから、己の身体がそれを押さえつけようと、無理やりに右手を暴れさせたのだ。


 こんな事は、当然に初めてだ。感情が、身体を無理矢理に暴れさせるなどと。


 しかし、それも致し方ない。ああ、仕方がないとも。


「それに、帰られぬと言っても、まだ日が明けただけ。何処かで一休みをして眠りこけているだけかも知れません」


「それは違いますよ、アン。そんな楽観が赦されるのは、精々野良猫くらいのもの。貴方とて本意ではないでしょう」


 包帯を丁寧に巻き付け、応急処置を終わらせたアンが、場を取り繕う様に放った言葉の端をマティアが食い取った。さも、そのような事はあり得ないと、当然の事実を告げるように。


「彼が今この時いなくなったのなら、その向かう先は明白です。目を閉じていてもわかる」


 そう言って、机上に置かれた地図を、マティアは無事な左手で、指さす。


 その先は、傭兵都市ベルフェイン。今このガルーアマリアにおいて、どう取り扱ったものかと、未だ決めかねている都市。


 アンが、目を丸くして、地図とマティアを見比べる。一体どういうことかと、何を根拠に、話しているのだとでも言う様に。


 だがそんなアンの困惑を置き去りに、もはやマティアにとって、ルーギスがベルフェインへと向かったという事は、間違いなく確定した事実に過ぎなかった。


 思えば、それを察する場面は幾度もあった。あの自らを自らの手で窮地に追い込まねば気が済まない気性の彼が、ベルフェインとの同盟への反対を唱える所から始まり、次にはわざわざ執務室まで押しかけて、普段はせぬような書物の読み込みまではじめた。


 浅はかだった。マティアはルーギスではなく、己自身を呪う。


 理解できたはずだ。彼が、ルーギスという人間が人のいう事などまるで聞きはしない存在だという事を。


 あれだけ先走った事はしないようにと言葉の釘を打っても、何もなかったかのようにすり抜けていく。


 もはや、あれはそういった人間なのだ。言葉で言い聞かせても聞きはしない。道理を説いてもむしろ道理など存在せぬとばかりに我が事を貫き通す。


 何と、身勝手で、周囲の事を考えない人間であるのか。いや、だがもはや其れが彼なのだ。それこそが、彼の生き方なのだ。今回のことで、よく、わかった。


 マティアは、自分の脳を行き渡る思考が恐ろしいほどに冷静である事が不思議だった。身体は、胃の中が泡立ちそうなほどに熱く、血液が全身を行き渡る感覚が鮮明に分かる。


 一度、大きく空気を吸い込み。深く、深く呼吸をした。目を、細める。アンが不安そうに、自分を見つめているのが見えた。落ち着かせるように、緩く、微笑む。


 心配をかけた、もう問題はないと、そう言い聞かせるようにして。


「アン、一つ貴方に指示を与えます。紋章教の指令者としての命令です。何よりも優先して解決してください」


 唇を濡らすようにして、言葉を継ぐ。驚くほどに、言葉は滑らかだった。そうして、その言葉が果たして本当に自らの計算の先に出たものであるのか、マティアには分からない。


 アンが、神妙な、何時も通りの表情を取り戻して、頷く。彼女は、やはり良き側近だ。例え己がこのような不様を晒しても、ついてきてくれる。だから、この言葉の意味も、汲み取ってくれるはずだ。


「対ベルフェイン戦略を修正します。今すぐ、ベルフェイン使者との会談を調整してください」


 一瞬、その瞳が見開き、声なき声となってマティアに告げる。


 それは、本当に正しき判断なのかと。考えあっての事なのかと。しかしそれもほんの、一瞬の事。マティアの冷徹な瞳が知性の光を煌かせ、アンの視線に言葉なき代弁者となって返答をする。その様を見て、アンの行動は決まった。


 アンが頷き、部屋を飛び出ていく。やる事は山ほどだ。ベルフェインとの調整だけではない。ガルーアマリアの人心掌握、重鎮との折衝も必要になってくる。本当に、彼女には苦労を掛け倒しだ。必ず、報いなければならないだろう。


 一人になった執務室で、マティアは天上を見上げながら、僅かな吐息を漏らした。


 ――よく、わかりましたよ、ルーギス。貴方は一人では、己の管理すら出来ないのですね。


 もはや、暴れ馬以上に手がつけられない。正しい事、善き事は、分かりきっているはずだ。人を助けることもそう、今此処でベルフェインに無理に手を出すべきでないことも、そう。彼とて、それくらいの理解はしているはずだ。だというのに、彼は止まれない。止まる術を知らない。


 思えば、ルーギスは何時も私の思惑を崩してくれる。ガルーアマリア奪還戦、空中庭園ガザリアの攻防、そうして今回。


 よく、分かった。彼に必要なのは、理性でも、地位でも、栄誉でもない。


 誰かに、管理されるという事だ。大きく、ため息が漏れだす。仕方がない、本当に、仕方がない。マティアの瞳が、何処か優し気に緩む。まるで、何かを慈しむような、まさしく聖女と呼んで一切の過言がない、そんな瞳の色。


 カリア・バードニックでは駄目だ。彼女ではただルーギスの勢いを更に加速させるだけ。フィアラート・ラ・ボルゴグラードも変わらない。彼女にしても、ルーギスの暴走を助長させる。


 管理が、必要だ。正しく、善き事へと導き、理性の下で彼を行動させる。その生活の一切に至るまでを管理する存在が、彼には必要だ。


 それが今回の一件で、よく分かった。もう、彼は眼を離して置ける存在ではない。紋章教においてもその影響力は大きく、いなくなったからと見放せはしない。


 そうか、それで、己の感情も休まらなかったのだ。


 マティアは、ようやくルーギスに向けていた、ざわつく感情の置き場を見つけた思いだった。そうしてむしろ、ルーギスに謝罪の念すら覚えている。私が気づけなかったばかりに、あんな辛い思いをしてしまって、無茶をさせてしまっている。


 彼は、一人ではそれに気づけないのでしょう。


 ――ああ、本当に、仕方がない。


 聖女。そう呼ばれる瞳は、確かに穏やかで慈しみを湛えた者だった。


 しかし、その頬に浮かべられた微笑は、何といえば良いのか。紛れもない美しさ、しかしそれはとても全てを包み込む聖女の如きものではなく、まるで魔性のものとでも思える美しさだった。

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[一言] 最高だな
[一言] 性女かな?
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