第百十三話『ラルグド・アンの懸念』
――ガッ、シャァンッ
早朝、ガルーアマリアの城門内部に、硝子が砕かれるような音が響き渡った。
よく訓練された兵士の動きは機敏だ。即座に音源へと辿りつき、そうして顔を青く変貌させる。その音が鳴った場所、いや部屋は、紛れもない聖女マティアの執務室。見張りの兵と共に、血相を変えて扉を叩く。
「聖女マティア様ッ 何事かがございましたか!」
少なくとも、尋常な音ではない。何か相応の事が起こったと考えるのが通常だ。その大声に呼び起こされるように、また、扉前に集まる兵士が増えた。
聖女マティアは、間違いなく紋章教を導く象徴であり、皆の心を支える支柱。その彼女に万が一のことがあれば、それだけで紋章教という勢力は倒れかねない。少なくとも、一つの勢力に纏まりきるような事はもう出来まい。
事実であるかは別として、大多数のものがそう信じている。誰もが愛し、誰もが信頼する、それが、聖女マティアという存在だった。
聖女マティアに、何事かがあったのではないか。そんな妄想に兵士達が囚われ初め、扉を破り部屋へ入り込もうかという、その時。
「――し、失礼しました。私が寝ぼけて、花瓶を割ってしまっただけですから。お気に、なさらず」
マティアの側近である、ラルグド・アンが扉の隙間から顔を出した。何故か、ごく僅かにだけ隙間を開くような形で。
それだけ告げると、再びアンは、室内へと入り込んでいく。
兵士達は戸惑い目を丸くし、どうしたものかと目を配らせる。しかし、何事もなかったと、側近のアンが言うのである。アンのマティアへの忠誠心は、人一倍。それは誰もが知ることだ。
多少の騒がしさを置き去りにしながらも、兵士達は再び、元の持ち場へと戻り始めた。
朝は、何事もなく過ぎ始めていた。
◇◆◇◆
早朝、ラルグド・アンは、その頭に懊悩を抱え込んでいた。
懊悩というと大袈裟かも知れないが、また一つ厄介事が転がり込んできたのは確かだ。その原因は誰でもない、紋章教の同胞にして英雄、ルーギス。
思わずアンは眉間に皺を寄せて、腹部の上あたりの痛みを抑え込んだ。また、まただ。またもや彼の行いを後ろから拭って回らねばならない。
ようやく一先ずの状況が落ち着き、政務と人心の調整に移れると思っていたら、これだ。大きなため息が自らの胃の奥に沈み込んでいるのが、アンには分かった。
ラルグド・アンは、紛れもなく対人交渉という才がある。ゆえにマティアに重用され、紋章教でもマティアとの繋ぎ役という地位を得ている。
しかし、それゆえの不都合も多い。人と人が集まれば衝突が起こるのは当然の事、それ故に、アンという人事が重宝されるのだが、当たり前の様に厄介事も背負い込まされる。
それは、仕方がない。むしろそれを上手く処理した時こそ、自らの価値が上がるのだとアンは理解している。
だがどうにも此処のところ、その厄介事というのは常に彼、ルーギスから引き起こされるのだ。
――英雄、色を好むというのは、やはり本当なのでしょうか。
思わず、アンは心の中で愚痴を呟いた。決して、口にはしない。一度口にすれば些細な事でも風にのり、何処に漏れたものかはわかりはしない。交渉を自らの能とするものは、そんな愚かな事はしないものだ。
だが、胸の奥で呟くくらいは許されるだろう。
彼、ルーギスはどうにも、女性関係の難が多すぎる。
別に多くの女性に手を出そうが、夜の関係が乱れようが、好きにすれば良いとアンは思う。だがそれならそれで、何処かで決着はつけてもらいたいものだ。
例えば正妻と妾の分別を付けるだとか、せめて全員を大人しく抑えるほどには手綱を握って欲しい。そうなれば、いずれは旗頭と仰ぐために、自分もその一員となるのも悪くない。
何せ、紋章教において今有力な男性はルーギスが頭一つ抜き出ている。自らの地位を万全にするためにも、彼に取り入っておくのは悪い選択肢ではない。
勿論、好みとしてはもう少し落ち着きを持ってほしいのだが。
今回の件をとっても、そうだ。聞けば、夜にふらりと散歩に出歩くといって、馬を借りてそのまま帰ってこないだとか。
本当に、勘弁してほしい。あの人は、時に命を賭けて人の為に身を投げ出すかと思えば、時にはまるで人の事を考えぬ勝手を行う。
いや、だがやはり英雄とはああいうものなのか。他者に行動を読み取ることが出来ないから、英雄と、そう呼ぶのかもしれない。アンは瞼を重くし、目を細めながらも、自らの心に落ち着きを取り戻していく。
それにしても、彼が一時的にとはいえいなくなったとなれば、また彼を慕う彼女達の扱いが難しくなる。とてもではないが、居場所が知れぬ内には彼女達に報告は出来ない。それはただ騒動を無暗に大きくするだけだ。
門番には口留めを、そうして、報告するのは一人に留める。相手は己の直属の上司、聖女マティア。此のガルーアマリア、そうして紋章教の指揮官であり、常に冷静な彼女であればこの件を報告しても何も問題はない。
そう思い、執務室の扉の前に来た所で、アンは少し、脚を止めた。ノックをするはずの指先が、自ら縮こまっていく。
ふと、アンの中に芽生えている対人交渉という才能が、警鐘を鳴らしている気がした。
この件は、もしかすると私一人の心の中にしまい込み、せめて解決までの道を照らしだしてから、聖女マティアにまで報告をするべきではないだろうか。
そう思うのも、最近どうにも、聖女マティアに僅かな違和感をアンは感じていた。
他の者が感じない、常に近くにいたアンだから感じ取るほどの、僅かなもの。それこそ、アンの勘だと言い切ってしまっても構わないほど。
理性と打算を以て指針を決め、人の感情すらも計算し尽くして行動を発する。何時如何なる時でも聖女マティアのその有り方は変わらず、アンはマティアのその在り方に尊敬と共感を覚えてきた。
まさしく、それこそが人を率いるものが持つ資質なのだと、そう信じている。
だがそれにしては、とアンは思うのだ。
それにしては、聖女マティアのルーギスに対する言葉には、余りそのような計算が見えない。むしろ何処か突き放すような言葉遣いは、明らかにルーギスに相応しいものではない。アンは僅かに唇を噛み、脳を走らせる。
彼という人間の本質は飢えと渇きだ。
彼は、飢えている獣のようなもの。持たざる尊厳と、人から与えられる言葉に彼は飢えきっている。何処までも満たされず、砂漠の砂が水を吸いつくして尚乾ききっているように、癒えぬ渇きと飢えに嗚咽をあげている。
少なくとも、アンはそのようにルーギスという存在を理解していた。
ならば、それを与えてやれば良い。恩賞を与え、英雄という地位を与え、彼を満たしてやれば良い。事実、彼はそれだけの事をしている。むしろ喝采を浴びてもおかしくないだけの働きだ。
だと、いうのに。聖女マティアには、何か考えがあるのだろうか。何故かルーギスを突き放したがる。それだけが、どうにもアンには懸念の棘となって胸に突き刺さっていた。
――いや、有り得ない。それに、流石に彼の事を聖女に伝えないことは怠慢に当たる。
アンは自らの直感に蓋をした。それは、己の直感より、聖女を信望する、アンの信仰心の表れ。そうして、起こった事実を統括者たるマティアに報告しない事など、余りに不合理だという生真面目さがにじみ出た行動だった。
「聖女マティア、失礼致します。英雄殿、ルーギス様の事なのですが……」
扉が閉じられ、数度、言葉が交わされる。
――ガッ、シャァンッ
ガルーアマリア城壁内に、硝子を叩き割ったような音が、響き渡った。




