第百六話『俎上の肉』
大城壁内に存在する作戦室。そこが今回の議場だった。
席には紋章教の脳たるマティア、その側近ラルグド・アンに、幾人かの紋章教の主要人物達。後は、カリアにフィアラートと、よくは分からんものの俺も末席に座っている。
そして後は、ガザリアからの使者が来るという話だったのだが。
「――何さ、ルーギス。ボクの顔を忘れたとでも言いたいのかい。随分と、変な顔をしているけれど」
そう、耳を擽るような声が議場に響いた。
当たり前だ。むしろ俺だけでなく、この場にいる大半の人間がその表情を歪にしている。むしろ、彼女を見て平然としている人間の方が少ない。
マティアの隣を席としているのは、紛れもない、紋章教の同盟者であり、今やガザリアを統べる存在。フィン・エルディス。ガザリアで一時を共にしたエルフの姫君に違いなかった、いや今は女王様というわけか。
勿論、態々ガザリアから此処まで使者をよこす方が手間だとは思うが、普通国の頂点がそう簡単に他勢力の会議に出るものでもないだろう。それに、ガザリアから此処まで幾らの距離があると思っている。それでもそんなに易々と幻影を飛ばせるものなのか。
「とはいえ、同盟国としてある以上、頂点が来る方が話は早いに決まっている。よくあるように、幾度も使者をやり取りさせるのは手間だろう」
そう言いながら、カリアが大して興味もなさそうに、俺にしなだれかかる身を揺らめかせる。
それはそれで、事実だ。大国間のやり取りでは、使者の一存で決められるない事など幾らでも飛び出てくる。
その度に使者は国へと戻り指示を受け取り、再度他国へ渡るとかいう、馬鹿な事をしなくてはならない。
何せ、国王の言葉となればただ魔術で通信するというわけにもいかない。
由緒正しい封蝋に、使者を跪かせる儀礼。その一つ一つが、上にいくほど厳格になっていく。どうにも、そういった段階というのが上流階級にとっては重要であるらしい。
「私の祖国でも、互いの尊厳を守るために、わざわざ使者を出し合うことがあったくらいだもの。無くならないのよ。そういう無駄っていうか、凝り固まったものは私嫌いなのよね」
フィアラートが俺の右肩に手を乗せながら、辟易したように声を出す。
なるほど、カリアもそうだが、フィアラートの家自身も、確か上級階級の家柄のはずだ。そういったやり取りも、中にはあってもおかしくない。俺としては、随分と遠くの世界の話すぎて、実感とやらが全く湧きはしないが。何にしろ、手早いのは悪い事じゃなかろう。
「私からも、感謝を。フィン・エルディス。貴方が直々に出席くださる事を、嬉しく思います」
マティアが、恭しく礼を捧げながら、言葉を告げる。その姿勢は随分と様になっていて、ため息でも出てしまいそうなほどだ。
なんだかそう見ると、この会議に出席している奴らは誰も彼も育ちがよさそうに見えて来た。俺のような人間が末席とはいえ出席して良いものか、思わず胸の奥が動揺にうねりをあげる。
礼を捧げられたエルディスは、同様に礼を返しながら、唇に微笑をさざ波の如く浮かべた。
「聖女マティア。ボク達ガザリアは紋章教との親交を忘れはしない。力を合わせる事を誓おう……だけれど、余り固くなるのはやめようじゃないか。礼儀ばかり整えていては、駄目だと教えられてね」
礼を失しない程度のエルディスの朗らかさに、室内の緊張が、ゆっくりと解けていくのを感じる。どうやら、アンや周囲の紋章教の代表者たちは、俺達以上に緊張していたのだろう。無理もない、なにせ、エルフを見ることすら初めてという輩も多いはずだ。
何にしろ、会議なら会議で早く始めてくれれば良い。
俺が大して口を出すこともない。戦略などというのは、俺が口だし出来る幅など限られている。むしろ、出来ることがあるのか疑問だ。
思わず、肘を卓につけながら、目を細めた。前を向くと、知らず、エルディスと視線が合う。
途端、その碧眼が、不機嫌そうに歪んだ。
「君はそこで何しているのさ、ほら、早く来なよ」
はて。何の、話だ。
エルディスの唐突な言葉に、周囲の面々の顔が再び緊張、というより困惑に染まっていく。一体、何の事を言っているのか、どうにも分からないという風に。勿論、それは俺も同様だ。
だが、その碧眼が貫いているのは、紛れもなく、俺だ。周囲の視線が、つられるようにして少しずつ俺に集まっていく。それはマティアも、そして、カリアとフィアラートのものも、含めて。
「……ルーギス、君さぁ、ボクの騎士だろう。それなら、主君が来たからにはその隣に控えるのが筋ってものじゃあないのかな。今は不満を押し殺して、君に自由を赦してあげてるんだから」
焦れたような、エルディスの言葉。
その時、空気が質量を持つらしいということを、俺はこの身で感じる事になった。
いやむしろ左腕に巻きつけられたカリアの腕と、右肩に乗せられたフィアラートの手が、それぞれ締め付けるように痛覚を伝えていたからかもしれないが。いや、痛みというくらいではすまんな。これは、下手をすると折れるぞ。
視線を僅かに動かして周囲の様子を覗き見る。思わず、眉が跳ねる。
カリアはこちらの顔を覗き込みながら満面の笑みを浮かべているが、その頬がひくついているのが分かる。彼女の性格を考えると、今此処で何らかの行動を起こさないのが不思議なほどだ。
反面、フィアラートはといえば、その黒眼の端に淡い液体が浮かんでいる。ぎゅうと、肩が強く握られた。
周囲に存在する瞳、視線という視線が、こちらを向いている。何故か聖女マティアすら、その視線を強め、まるで軽蔑の視線を向けているかのようだった。出来るならば俺の思い違いで有って欲しいが。
数秒、その空間が続き、流石にいたたまれなくなり、固くなった唇を、開く。
「いやぁ、まぁ……その、何だね。アレは――」
「――アレ? 貴様、思い当たる節でもあるのか、ええ?」
唇は開いた瞬間、無理矢理に閉じられる事になった。
カリアが満面の笑みから瞳を見開き、俺の言葉の端を食い取っていく。なるほど、別に笑顔というのは許容という意味ではなかったらしい。むしろもっと、凶悪な意思を秘めた何かだった。
助け船を求めるようにして、エルディスへと視線を返す。要はエルディスが言葉を撤回するか、言い換えてくれるかすれば場は一先ず収まるはずだ。勿論、その場しのぎには違いないが。
視線が合うとエルディスは長い睫毛を軽く瞬かせ、そうして、顔に細い線を引いたかの様な笑みを、浮かべた。
そうして、そのまま一言も発さず、無言を貫いている。自分からは何も言いだすことはないとでも、言外に告げるように。
重たい空気が、より一層、その重圧を増した気分になった。何だ、これは。
よくよく考えると、カリア、フィアラート、エルディス、かつての救世の旅の頃のメンバーの大部分が一所に集ったのは、この時代では此れが初めてだろう。
しかし、だ。かつての旅の頃はこんな重圧というか、空気というものがこれほどまでに人を押さえつける様を見たことがない。
流石に当時、俺だけが気づいていなかったというわけではないだろう。むしろ圧迫や迫害に近いものを受けていたのは、俺一人だったと言っても良い。パーティは基本的には円満に交流を抱いていたといって、間違いはないはずだ。
だというのに、何だ今の状況は。どうして、かつてと同じ事が起こっているだけだというのに、こんな事になっている。
勿論、此処にいるのが英雄ヘルト・スタンレーではなく、俺に過ぎないというのも、一つ理由としてあるのだろう。
しかし、果たして理由はそれだけだろうか。俺は、やはり何か間違ったことを、誤った道の方に足を踏み出しているのではないだろうか。今更ながら、その懊悩が唾液となり、喉を流れ込んでいく。ごくりと、喉が鳴った。
「……え、ええと。も、申し訳ありません。時間も、押しておりますし、一先ず議題の方を進めながら、という事に致しませんか」
俺の方に向けられていた視線が、進行役であるラルグド・アンに向き直った。ぴくりと、アンの肩が跳ね上がり、瞳が丸くなる。
一瞬の、沈黙。出席者の間で思惑が重なり合い、ぐるりぐるりと、空気の中を駆けまわっている様な、そんな感触があった。
「……そうですね。フィン・エルディス。今はそれでよろしいでしょうか」
マティアの無理やり喉奥からひねり出したような、そんな言葉に、エルディスは片目をつりあげながらも、こくりと、頷く。後で時間はもらうよ、とそう付け足しながら。その言葉を契機に、周囲の空気は少しずつ緩和していく。妙な緊張感は含んでいたものの。
反面、俺の左腕と右肩への圧力は全く緩んでいなかったが。むしろその重圧を増していき、ある種カリアとフィアラートの代弁者となって俺を締め上げている。
不味い。非常に不味い。会議の白熱の隙を見るようにして、この場から去るという事すら出来ない。
「それでは、改めまして。今回、エルフの国家たる空中庭園ガザリアと、我が紋章教との間で、無事に同盟が結ばれた事、喜ばしく思います。ではこれより――我らが同盟が定めるべき指針。その細部を、最初の議題として提案致します」
全ての重圧を跳ねのけるよう、震えを隠し込みながら、アンの言葉が、議場に響いた。




