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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第六章『聖女マティア編』
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第百四話『城壁の聖女』

 頬を、風が撫でる。それは心地よいというよりも、むしろ少々肌寒さを感じさせた。


 ガルーアマリア、大城壁。其処から見上げる空というのは、随分と広かった。こんな空は、俺は初めて見たかもしれない。


 子供の頃見上げた空といえば、狭い路地裏の中で縮こまり、その身を屈折させた空ばかり。そうして年を取れば、今度は空なんざ見なくなった。


 だから、こんなにも空が広々とした姿を真っすぐに見つめたのは、やはり初めてだろう。


 何となしに右手の指を軽く曲げる。僅かな痺れが、指先から肩を駆け抜ける。だが、それだけだ。痛みまでは残っていない。


 身体は、だいぶ元の姿に戻ってきているようだ。むしろ、十分に休ませた所為かかつてない心地よさすら感じている。


 だから、問題があるとすれば、あの日以来止むことのない声だ。


 ――俺の前を行け、英雄。それが勝者の義務だ。


 思わず眉間に皺が寄り、腹の下あたりを、重いものが踏みつけていく。城壁の上に寝転がりながら、大きく、吐息を漏らした。


 下らない、何とも、下らない言葉だ。あんな言葉に、惑わされているとでもいうのだろうか。この俺が。


 身の程は良く知っている。己がどの程度まで出来る人間か、重々承知だ。英雄なぞ、憧憬こそすれこの身を重ねたことなど、そうない。精々、身の丈を知らない餓鬼の頃くらいのもの。


 英雄、その言葉を思い浮かべた瞬間、知らず、ぞわりとさせるような感触が肌を撫でていった。


 英雄。強き者、歴史のペンを取る者、届かぬ者達、輝かしい煌きを持った者達。


 ああ、やはり、駄目だ。かつての頃も、今に至ってさえ、その影は俺の心を焦がし続けている。目を逸らそうとしても無駄だ。この眼そのものに、その姿は焼き付いているのだ。


 思考は困惑したように頭の端から端を走り回り、寝転がろうとも一向に休もうとしてくれない。身体は十二分に休み切っているというのに、心の方はどうにも休まらなかった。


「――良い身分ですね。他人は働かせ一人、熱心に悪だくみという事ですか。ええ、貴方にお似合いです」


 ふと風に乗って耳朶を打ったその声は、耳に良く残る、そんな声だった。声質の良さ悪さは別として、流石にそんな毒をまき散らしたような言葉は、残って欲しくないものだが。


 寝転がった身体を起き上がらせ、視線を声へと向ける。視線の先にあったのは、勇ましい将軍殿の如く立ちながら、その瞳を細めてこちらを睨み付ける聖女様の姿。何とも凛々しい事だ。


「そうでもないですぜ。むしろ一人休む身こそ、精神が締め付けられる事もある。聖女様にも、一度くらいそんな経験があるでしょうに」


 喉を軽く鳴らしながら、彼女の言葉を流すようにそう言った。


 聖女マティアの顔が、あからさまに歪むのが見える。相変わらず、計算高さに反して感情を表に出す女だ。勿論、そちらの方が、やりやすくて良いが。それに、見ていて飽きるという事もない。


 両手を軽く上げながら、冗談だと示し、頬を崩す。


 しかし、聖女様から声を掛けられるというのは何とも、久しぶりな事だった。


 ガルーアマリアへと帰還して暫くの日にちが経ったが、その間に俺と彼女は殆ど言葉など交わしていない。


 紋章教の実質的な指導者である聖女様は日々、多忙を極める身というのはあるのだが、それでも、顔も合わせない日が暫く続いたりしたのは、聖女様の方から俺の事を避けている故だと思っていた。


 何せ嫌っている相手を前にして、自ら近づきたいと思う奇矯な人間はそういない。


 だから、今日彼女が声を掛けて来たのは、俺にとっては何とも奇妙な事だった。何かよほどの事情でもあったのだろうかと思うが。それならそれで、伝令を使えば良い。やはり、どうにも事情は分からなかった。


 マティアが、僅かに肩を張りながら、口を開く。


「えぇと……えぇ、探されていましたよ、貴方の事を」


 言葉を探すようにしながら、ぽつりと、マティアが呟く。


 俺はもはや誰が、と聞く事が躊躇われた。いや、というより、俺をつけ回す影の正体が誰であるのか、よくよく分かっているのだ。もはや、聞くまでもあるまい。思わず目と口が強張ってその動きを止めた。


 ああ、分かっているとも。その正体は銀髪の戦女神と、黒髪の魔術師。カリアとフィアラート・ラ・ボルゴグラードに違いない。


 鳩尾の辺りに、重たい岩ができたような感覚があるのが分かる。


 別に彼女らの事を嫌っているだとか、避けているだとかいうわけでは、ない。


 むしろ、自らにある種の感情を向けられることは、妙な高揚感すら与えてくれる。それと同時に、食道から込み上げてくるような違和感も。全くどれもこれも、清々しい感情とは言い難いものに違いないが。悪いものではない。


 だが、だ。今この時。今日この時だけは、カリアとフィアラート、二人と顔を合わす気には、どうしてもならなかった。

 

「行けばどうです。ただ降りていくだけで人助けになるのですよ。本当、良いご身分ですね。不埒な真似を昼間からなさる事だけはないように」


 唇を尖らせながら突き放すような声で、マティアは言う。


 なんだ、こいつは。まさか用事はそれだけなのだろうか。となると、俺に嫌味を言う為だけに態々城壁の上、その隅っこにまで足を運ばせたのか。何とも、嫌な方向に情熱を捧げる奴だな、こいつ。


「人助け、大いに結構ですがね。ですけど、それで人生縛られてちゃあ、楽しくもなんともないでしょう」


 瞬間、マティアの大きな瞳が、ぴくり、と震え。その眉が跳ね上げられる。その表情は何といえばいいのか、ぽかんとしたような、言ってしまえば間の抜けた顔。


 何時も計算高く、怜悧な光をその瞳に宿している姿からは想像もできない、そんな表情が聖女様の顔に張り付いてた。


 思わず、俺もつられたように目を見開く。嫌味を返されることくらいは重々覚悟していたが、その何とも、とぼけたような表情は想定の中にすら入っていなかった。


「……そう、でしょうか。そういう、ものなのでしょうか。」


 一瞬、それが何に対する問いなのか、理解が及ばなかった。数秒、風が空間を撫でていき、ようやく唇を動かせたのは、その後だった。


「そりゃあ、ええ、勿論。人助けなんてのは、人生の余暇にやれば良い。誰だって、自分を助けるので精いっぱいなんですから」


 その返答を聞いて尚、マティアは俺の言葉をかみ砕くようにしつつ軽く目を丸めている。


 俺の言葉が随分と意外とでも言う様な表情だが、俺にとっても、マティアのその表情と問いかけは、何とも意外なものだった。


 聖女マティアという人間は、間違いなく、常人ではない。


 かつての歴史からもそのカリスマ性は読み取れていたが、こうして直に会話をして、マティアを聖女、英雄たらしめたものがよく分かる。


 それはその打算と計算高さ、そして冷徹とも思える判断力。俺のように下らぬことで悩み耽るような事はなく、全てをその計算で切り捨ててしまえる。


 その鋭い刃物の如き振る舞いといったら、なるほど確かに人を惹き付けるだろうさ。


 多くの民衆というものは、得てして何も決められず怠惰に一日を過ごすだけ。空気を口に含み、意味があるかもよくわからず瞳をうろつかせているだけだからだ。


 ああ、何とも懐かしいじゃないか。何一つ決めることなど出来ず、ただただ、日々を生きるだけ。肉が歩いているだけのかつての頃が。


 それを知るからこそ、マティアという聖女が魅力的な象徴である事は、よく分かる。


 その彼女が、今ほんの小さなことに頭を悩ませているのが、何とも意外だった。人を助ける事の良し悪し。そんな事はとうの昔に切り捨ててしまっていても、おかしくないというのに。


「しかし、それでも。人助けをするということは、良き事でしょう。良き事は、人の喜びでは」


 やはりどうにも、分からないという顔で再びマティアが問いかけてくる。

 

 今度は、俺がぽかんと口を開く番だった。


 そうか、そういうことか。なるほど、聖女とはつまり、そうして出来上がっているのか。


 頭蓋の中でぐるぐると回り、動揺しはじめる思考を抑えるように胸元を探る。指先で探り当てた噛み煙草を口に噛ませながら、大きく、息を吐いた。


 城壁の上に座り込み、石の壁にもたれかかりながら、鼻の中に噛み煙草の香りを通していく。マティアの瞳が、視界に入る。その色はやはりどうにも、困惑の色を秘めていた。

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