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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第六章『聖女マティア編』
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第百三話『聖堂騎士ガルラス・ガルガンティア』


 ――こいつは。こいつだけは、此処で始末しておかねばなるまい。


 カリアは霞む視界を跳ね除け、無理矢理喉を鳴らして唾を飲み込む。


 手足の節は悲鳴をあげ、魔猿を相手に大立ち回りを成し遂げた肉体は、もはや限界を迎えていると言って良い。


 とても、戦えるものではない。満身創痍とはこれ此の事を言うに違いないと、心からそう思った。


 だが、それでもカリアは、その二つの脚を折ることはできない。此処に、己には義務が生まれ出でているのだと、そう思う。今、その意志一つで彼女は華奢な身体を支え上げている。


 そうだとも。眼前に、あの猛獣が唸りをあげている限り、倒れることなどできはしまい。


 馬上で朱槍を掲げながら、その獰猛な目つきと態度を隠そうともしない、その姿。かつて未だ騎士の身分にあった頃、此の銀の瞳に捉えた頃から、一切の変わりがない。


 聖堂騎士ガルラス・ガルガンティア。誉の騎士の称号と、槍持つ猛獣の蔑称、その二つを持つ男。その狂暴な在り方を見れば、その意味が良く分かる。


 瞳にうつった獲物の首筋を、片端から噛みちぎるその姿。もはやそれは強者、弱者という話ではない。ただただ、凶悪な猛獣。何とも、手に負えない。


 だから、こそ。そんなガルラスだからこそ、此処でその息の根を止めねばなるまい。


 カリアは、ふぅ、と一度深い吐息を漏らした。愛剣たる銀の長剣は、大猿との一戦ですでに刃が欠けている。もはや、何かを断ち切るという事はできまい。


 であれば、斬るのではなく、砕く。あの狂奔の具現たる男の頭蓋をこの手で、欠片となるまで粉砕すれば良い。


 一瞬、その銀瞳を瞬かせながら、カリアは脳裏で何度もその光景を思い描いた。それを、成さねばならない。この手でつかみ取らねばならないのだと、己に言い聞かせる。


 ガルラスを見た瞬間、カリアには心の最も深い所、臓腑の底で感じているものが、あった。


「確か貴様、名誉の戦死か、絞首刑。そう言ったな」


 カリアの意識が、眼前の光景に吸い込まれていく。体中に響いていた鈍痛が意識の中から弾け飛び、今この一時のみ、疲労が雲消霧散する。


 眼下を見下ろしながら、カリアは唇を動かした。 


「悪いが――私は自分の死に様は自分で決めている。選ばされる気は更々ない」


 ああ、殺さねばならない。奴の息の根を止めねばならない。


 未だ敵は眼下、城門前にいるというのに、カリアはその全身を漲る殺意を、迸る精神を留め切れずにいる。


 その意志を突き動かすもの、それは紛れもない、焦燥という名の情動。身体の内面を舐めまわすような焦りが、カリアを襲っている。


 あれは、天敵だ。あの狂暴さ。一切の小細工や罠を踏み潰してしまうような、その武威。そう、あの在り方は、奴の、天敵だ。


 ――もし、万が一。ルーギスが、此の猛獣と相まみえてしまったならば。


 その嫌な想像が、先ほどからカリアの脳裏を噛みついてはなさない。


 本来ただの夢想にすぎないそれが、幾度も脳内で繰り返され、そして悪寒へと変じていく。銀色の瞳が、知らず、細まっていった。


「来るが良い。死に様を選ばされるのは私ではない、貴様の方だろうに、ガルラス・ガルガンティア」


 安い挑発だと、カリアは胸中で自ら笑みを浮かべた。だが、それでも敵は食らいついてきてくれる。人の数倍血の気が多いのは、確信としてカリアの記憶の中にある。即座に、その朱槍が振るわれる、はずだ。


 だと、いうのに。ガルラスが、軽く歯を鳴らす。


「嫌いじゃあないんだがよぉ。此処がなぁ、戦場でさえなけりゃあなぁ」


 獰猛な獣が、顎に指をやりながら城門をその瞳で舐めまわしている。どうしたものかと、思案でもしているかのよう。実に、らしくないその姿。本能と理性を、その頭蓋の中でせめぎ合わせている。


 じっくり数秒の時が経ったかと思うと、最後に、その瞳が城門を見上げた。銀の瞳と、獣の瞳が、重なった。


「駄目、か。駄目だな、ああ――また会おう、カリア・バードニック。その時は、より良い場である事を願ってるぜ」


 そう、切り捨てて、ガルラスは堂々と踵を返した。一切の躊躇や、背を見せる屈辱のようなものすら見せず、当然とでもいったように。


 そのまま何でもないというような雰囲気で、ガルラスは馬に乗ったままガザリアより離れていく。付き従う少数の兵達が、慌てたようにその後ろに従った。


 カリアは、ぽかん、と思わずその口が開くのを抑えきれなかった。脳髄を、混乱が駆け巡っている。


 馬鹿な。奴が、あの猛獣が、挑発と敵を前にして背を見せられる性質か。むしろ誰よりも率先してその首筋へと食らいつく輩ではないのか。


 事実、ガルラスは今にでもその朱槍を片手に城門を踏み潰さんという意思を、確かにその瞳に秘めていた。


 だと、いうのに。すんでのところで、何か他の考えの介入でも受けたかの様に、その意思をひっくり返してしまった。


 馬鹿な。そんな、馬鹿な事が。


 ずきりと、再びカリアの全身に鈍痛が舞い戻ってくる。思わず、その場に膝をつきそうになった。駄目だ。もう、追う事すら出来ない。


 あの猛獣の瞳が見えなくなった途端、カリアの身体を覆っていた緊張と、その身体を無理矢理に支えていた意志が消え果ててしまった。


 今更に、身体は失われた体力を追い求めてでもいるのだろうか。息が、荒い。体内で肺が狂ったかのように暴れまわる。カリアは思わず、唇を噛んだ。


 ああ、ルーギスめ。貴様、何処にいった。そんな考えが、朦朧とした意識の中に浮かび、強烈な輝きを帯びていく。


 己が満身創痍の身体を奮い立たせてあの猛獣騎士の相手をしたのは、一体何のためだと思っている。ルーギスが、此の事実を知り得ないのは、分かっている。だが、そんな事はどうでもいい。今はただ、此の鬱憤を、奴にぶつけてやりたかった。


 魔猿の喉を抉りだして振り返ってみれば、案の定奴の影はなく。それだけでも、情動の全てが弾けそうだったというのに。

 

 ――ルーギス、これは、高くつくぞ。覚えていろ。私を買いたたけると思うなよ。


  カリアの瞳が、先ほどもまで気高い意志を宿していた色とは、また違う、どろりとした感情に浸らせたような色を、輝かせていた。


 ◇◆◇◆


「騎士、ガルガンティア様」


 道での従者の呼びかけに、気だるそうにガルラスは生返事をした。


 何とも言葉を発することすら面倒くさいとでもいうように。その瞳は細められ、大猿の息の根を止めて回っていた時とはまるで別物のようだった。


「何だよ。盗賊か傭兵くずれでもいたかぁ」


 それなら身ぐるみくらい剥いでやるがよ、と肩を竦めながら、ガルラスは言う。従者はそんな何時も通りの態度に大きく息を吐きながら、声を漏らした。


「いえ、珍しいなと、そう思いまして。挑発をされて尚、易々と引き下がるなどと」


 そうかねぇ、と変わらず軽い返事をして、ガルラスは自らの唇を撫でた。


 言われた通り、自らが頭に血が上りやすい性質であるのは確かだ。それはとても否定できまい。むしろ、ある意味それこそが、己を強くする一面ですらあるのだと、ガルラスは信じていた。


 だが、此の身を全てその情動が赴くままに預けて来たかと言えば、そうでもない。そうできれば、どれほど良かったか。


「此処が戦場でなけりゃあなぁ。それに、こちとら少数だ、無様に攻め込んでみろよ、今頃首が並んでたのは俺達かもしれねぇぜ」


 此れが街中であったならば、なるほど確かに湧きたつ血の赴くままに、拳を振り上げ槍を振るっていたかもしれない。従者にも、似たような所を見せたことがあったのだろう。


 そこでただの愚か者として死ぬだけなら、それはそれで構わない。そういうものだと、ガルラスはよくよく己に言い聞かせている。


 ただ、戦場に出れば別だ。戦場に出ている時は間違いなく、己は聖堂騎士ガルラス・ガルガンティアなのだ。


 その姿で、その名で、無様は晒せない。騎士として、馬鹿げた行動をとることは出来ない。


「それに、それになぁ」


 それに、と、従者が相槌を打つように、呟いた。


 ガルラスはやや冗談めかして、肩をすかしながら、言う。


「『汝の敵を敬え。敵への作法が汝に誉を与える』、ってなぁ。騎士章典にもあんだろ。騎士たる者、傷だらけの敵に槍をふるえるかよ、ってかぁ」


 その言い方が、やはり何処までも冗談染みていて、従者にとってその言葉がガルラスの真意であるのか、それともただの言葉遊びに過ぎないのか。どうにも、判断がつかなかった。 

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