おでかけ前の
あの日の夢を見た。
青いコンビニから出てきたところで、唐突に、瞬時に、問答無用に別の世界に転移。あの瞬間の事は強烈なトラウマになって、俺の心に刻まこまれている。
何が恐ろしいかって、なんの前兆もなく瞬時にというのが恐ろしい。
だってそうだろう?
つまりそれって、いつ、どんな瞬間に起きるかもわからないって事なんだぞ?
君も、あなたも、そして僕自身すらも。
ふと立ち上がった瞬間、あるいは瞬きした一瞬、全く知らない場所に唐突に放り出されていたら、どうする?
おそろしい。
そう、どう考えても、それは物凄くおそろしい事なんだ。
ドラゴン氏に話を聞いて、この世界に転移者がくる事が珍しくない事を聞いた。そして反面、この世界から、さらにどこかに転移したような事例は確認されていないらしい事も教えてもらってはいるのだけど、だからといって、あの瞬間の衝撃までは忘れられるわけがない。
『そんな……そんな、そんな馬鹿な!!』
夢の中で、タブレットをまさぐりながら何度絶叫したか。何度泣き崩れたか。
あの瞬間の絶望は忘れられない。
こうして、仲間が増えて安全な旅になった今もなお、悪夢としてよく現れる。
実際。心配そうに起こしてくれるアイリスがいなかったら、俺はとっくに狂っていたかもしれない。
え、情けないって?そうかな?
じゃあ、話を変えようか。
あなたは、親元を離れて一人で生活した事があるだろうか?
そんな一人暮らしの中、アパートで体調を崩し、寝込んでしまった事があるだろうか?
一人暮らしなのだから、どんな体調だろうと食事も、何もかも自力で何とかしなくちゃならない。
病院は、体調不良程度じゃ入院なんかさせてもらえない。
でもその反面、38度も熱があれば、それだけでもかなり日常作業は厳しくなってくる。特に平熱の低い人なら最悪だ。
そうして、ひとりでいる時の不安感。
あるいは、夜中にとんでもない悪夢を見てしまい、飛び起きた時でもいい。
普段はひとりで平気な人でも、そんな瞬間だけは、心が塗りつぶされそうなほどに寂しかったり、どうしようもなく不安になるのではないか?
少なくとも僕はそうだ。
もうずいぶんと長く一人暮らしだった。
寂しさにも慣れてしまい、ひとりが当たり前だと思っていた。もしかしたら最後に待つのは孤独死ではないかと不安にもなったけど、だったら、それはそれで仕方ないなとも思ったり。
だけど。
そんな僕でもやっぱり、悪夢からの孤独な目覚めだけはやっぱりきついわけで。
だから。
「……」
目覚めると、アイリスがじっと見ていてくれる事の意味。
そっと抱きしめて、大丈夫だよ、もうちょっとおやすみねって優しく囁かれる事が、どんなに幸せな事かを僕は知っていたから。
「……」
「……」
だから僕はその朝……盛大に朝寝坊する事になった。
ちょっと立ち寄っただけのはずなのに、色々ありすぎた村での一幕。
まぁ、中央大陸の方ではそもそも長居できなかったからなぁ。襲撃者をはねのけられるようになった事、人間族の国が遠のいて余裕が出てきた事などから、俺もまた、本来のスタイルに戻りつつあるって事だろうか。
なんていうか。
見知らぬ異世界の旅なのに、まだ青少年と呼ばれる身だった昔、はじめて北海道を旅した時みたいな、不思議な気持ちになるんだよな。
あの時も色々あったよなぁ。
だけど、あの時の俺と今の俺には大きな違いがある。
俺は自分が賢い人間とは思っちゃいない。でも、さすがに青少年の頃よりは少しはマシになったと思う。恥知らずな行動も少しは改善したつもりだし、自分なりにベターな行動がとれるんじゃないかな。
たとえば、あまりにもホイホイと人を信じず。でも、最初から色眼鏡で見ないように。
たとえば、自分の勝手な目線で他人を評価しないように。
たとえば、旅の恥はかきすてとロクでもない行動をとらないように。
そういえば、昔読んだ、とある異世界トリップ物語。
不安なのはわかるけど、周囲にお姫様のように守られるだけで何もしない主人公に憤慨したっけ。
でも、俺だって怠惰な面はある。それに見知らぬ異世界なんて不安で当たり前だろう。だから守られるっていうのも当然、それはアリだと思う。
そこで重要なのは、思考停止しない事だと思うんだよね。
わざわざ縁もゆかりもない異世界人を守ってくれてるんだ。感謝するのは当たり前だけど、おんぶにだっこでは話しにならないだろう。せめて、自分がどういう立ち位置で守られているのか、それだけでもきちんと知っておくべきではないか?
うん、あの頃、そんな青臭い事を考えたもんだ。
おっさんと言われるくらいの時間を生きた今となっては、そういう人生もアリかなとは思う。
別にヒーローに、ヒロインにならなくてもいいだろう。
いやむしろ、異世界転移なんて事実の前には、平穏無事な人生こそ難しかろう。だから、それ自体が目標というのは充分にアリだと思うんだよね。
まぁ一般論はいい。
それじゃあ、俺はどうする?
改めて思う。
帰る事は今もまだ目標として掲げている。本当に帰るかどうかは少しずつわからなくなりつつあるけど、少なくとも絶対やりたい事はある。
それはつまり、
なぜ、異世界転移が起きているのか?
そして、どういうタイミングで、起きてしまっているのか?
……これだけは最低でも、俺は解明したいんだ。
俺ひとりでは無理かもしれない。
だけど俺にはアイリスやルシア姉妹もいる。という事は、その背後にいるドラゴン氏や大樹精様の知恵だって借りられると思うんだ。そして、もしかしたら魔族関係も。
これほどのコネがあれば、可能かも。
最悪、俺にできなくとも、できる人を、力を集められるかもしれない。
「移動ですか」
「えっと、まだ何か問題がありますかね?」
俺が今いるのはジーハン役場の簡易出張所。なんか村の入り口になぞの建物があるのが初日から気になっていたんだが、そこがそうだった。厳密にいうと公民館みたいな多目的設備で、役場兼結婚式場兼産院兼葬儀場みたいな感じらしいのだけど、例のクラーケン事件の事があり、しばらくは役場関連として機能するとの事だった。
で、山羊人のカルティナさんに、そろそろ出立する旨について話をしていたというわけだ。
「できればクラーケン問題が仮でも解決するまではいらしてくださると色々ありがたいんですけれど、旅の方ですものね。お止めできないのは存じております、ええ」
「だねえ、でもそうやって遠回しに行くな行くなって涙目で訴えつつ言う事じゃないよねえソレって」
「あははは、気づいているのなら行かないでくださるとありがたいのですが?」
「だが断る」
「いえ、意味はわかりますが。そんな紋切りにおっしゃらなくても。お怒りになられましたか?」
「ごめん、ちょっとネタに走ったんだよ。今のは俺が悪かった。旅立ちは譲らないけど」
「残念です……」
そんなネタともマジともつかない会話の応酬の後、俺たちは旅立つ事を正式に告げた。
「どうもお世話になりました。アリアさんにもよろしくお伝えくださいね」
「あ、はい。そういっていただけると母も喜びます。またいらしてくださいね、今度はもっとゆっくりと」
充分にゆっくりしたと思うのだけど。
「ありがとうございます。
俺は旅の目的がありますから行きますけど、たぶん状況次第ではコルテアに再訪する可能性は充分あると思います。そのときはまた寄りますよ」
「こちらの村に……ですか?」
「あー、それはその」
カルティナさんは村の人じゃないからな。アリアさんなんてコルテア首長だし。
確かに、おっちゃんたちみたいに気軽に会いには行けないな。
「ま、縁があればまた逢えますよ」
「エン?」
おや、こっちの語彙には縁ってないのか。
「んー、日本でよく使われる言葉ですけど、因果律、あるいは運命という名の糸が再び交差するって感じのニュアンスですかね。この広い世の中でその人と知り合い、何らかの関係をもてた事を、ご縁があった、なんて表現をしたり、運命が導いてくれたらっていうような意味で、ご縁がありましたら、なんて言うんですよ」
「ほう。ふむふむ、それでエンですか。短いのに深い意味のある言葉ですね……」
「そうですね。言われて見れば俺もそう思います」
「言われてみれば、ですか?」
「いや、縁ってごくごく普通に使うもんで、そんな意味を考察するなんて考えてもみなかったんで」
「ああ、そういう事ですか。
なるほど、そこまで生活に深く、深く密着した言葉って事なんですね。なるほど……」
感心したようにカルティナさんは頷いた。
「そういえばですね、全然話違うんですけど」
「はい?」
「びっくりしたのは、こっちの言葉って、ちゃんと日本語同様に兄と弟、姉と妹を区別するんですねえ。おっちゃんたちと飲んで話してて、はじめて気づきましたよ」
「え、そうなの?」
「はい」
そうなんだよ。これ、本当にびっくりしたんだよな。
念のために少し解説すると、日本語では兄、弟、姉、妹は別の言葉だけど、欧米なんかでは「兄弟」「姉妹」でひとっからげなんだよね。あと「先輩」って言葉もないんだよ。
だから昔、ドイツで日本の学園ものマンガが翻訳されているのを見たんだけど、後輩キャラの女の子が「先輩!」って呼んでくるところが「SENPAI!」って、そのまんまローマ字になってたりね。あと、ネットで海外のオタクな人が「日本は凄いぜ!だって『妹』って言葉が存在するからさ。姉妹モノとかいって、ババアを見せられなくてすむんだ!」とか意味不明な主張を掲示板でぶち上げてたりね。
まぁその、趣向の是非はともかくとして言いたい事はわかるよな。
自分が好きなもの、愛してやまないものをサクッと表現できる。
なるほど、それは確かに、本当にすばらしい事だ。
「ハチさん?」
「あ、すみません。ちょっとボーッとしちゃって」
「そうですか。彼女さんの事をお考えになられたんですか?」
「へ?……あ、あはははは、そんなアイリスの事なんて考えてないですし!」
「ほほう、やはりアイリスさんでしたか。なるほどー」
「……カルティナさぁん」
「あ、すみません、つい」
まったくもう。
しかしま、世の中にはいろんな趣向の人がいるからなぁ。
まったくの蛇足なんだけど、俺が今までネットで見た究極の「意味がわからない」やりとりっていうのは、こんなのだったんだぜ?
Q:「ドリルちん○んが登場するエロ漫画を忘れちまったんだ。困った、思い出せない」
A:「ああ、その作品はね─以下解説」
おそろしい事に、質問から十五分ほどで返答がついてた。
質問自体も意味不明だけど、それに対してさっくり返事できるヤツがいるっていうのがまた凄すぎる。
ていうか、ストーリーも見たけど、それってエロ漫画なの?って内容でもあったし。
世の中には、俺の知らない、知るべきでない事がたくさんあるんだなぁって、しみじみ思った瞬間だね、うん。
おっと、話を戻そう。
「それで、これからのご予定は?といっても南に向かう事はないでしょうけど」
「これから南はなぁ」
この世界では、南半球がこれから冬なのだ。ゆえに南には行かない。
「では東ですね?タシューナンから運河のあるオルテガを経由して、東大陸に入るって感じになるのでしょうか?」
「予定ではね。実際は気分と天気で変更ばかりだけど」
「なるほど、旅なさってますねぇ」
「え、わかるの?」
「はい、わかります。
実は母も若い頃は無謀な旅をしたそうで、わたしは小さい頃、まわりの方々に母の昔の武勇伝ばかり聞かされて育ったんですよ。強力な魔導士で、ずいぶんとお茶目もしたそうですけど、何よりも旅って事自体が大好きだったそうです」
「そうなんだ……」
旅なんて、長くなると天候とか気分とかで予定が狂いまくるんだよな。
前にも言った気がするけど、奥の細道だって初日は雨で連泊したって聞いた事がある。そんなもんなのさ、うん。
それにしても。
いろんなとこを放浪して、挙句にコルテアの首長か。
あの人も、なかなかに濃い人生歩んでるんだなぁ。
「おっといけない、おっちゃんたちにも挨拶しに行かなくちゃ。カルティナさん、それじゃあまた」
「きっとまたお会いしましょうねハチさん、きっとですよ?」
「……」
「ハチさん?」
「ああ、ごめんなさい。ええ、是非また」
「はい!」
なんでだろう?
今なんか、カルティナさんが仕事上でなく、私情で俺に「行かないでほしい」と言っているような気がしたんだけど。はい?
はは、まさかね……。
そんな、どこぞのハーレム主人公じゃあるまいし、ねえ。
さて、いよいよ東への旅立ちかな?
「……ふう」
異世界人ハチを見送った後、カウンターの中でカルティナはためいきをついた。
「ハチさん行っちゃいますかぁ。いいなぁ、またお会いできるといいんだけどなぁ……」
カルティナはまるで、恋する乙女のように、うっとりとしている。
そこに村長がやってきて、カルティナの顔を見てにやにや笑い出した。
「あ、なんですか村長さん?」
「嬢ちゃん、本当にリア嬢に似てるなぁ。魔力の強い男に弱いとこも」
「な、なななな、何いってんですか!わたしは!」
「違わんだろ?ん?」
「……うぅ」
リアというのは、カルティナの母アリアの愛称である。
「わかってたら、いじめないでくださいよぅ、おじさん……」
「いや、すまんな。
しかしリアもそうじゃったが、肝心なところで不器用なのは変わらないんじゃな。そんなに気になるなら追いかければいいのに」
「ダメですよぅ。ママほっといたらお家の中めちゃめちゃになるんだから。わたしがついてないとー」
「そうかいそうかい、ま、そういう事にしとこうかのぅ。
ところでティナ、食事ができたでな。昼にしようではないか、ん?」
「わ、いきます!今日はなになに?」
どうやら家ぐるみのつきあいらしい。
田舎の役場出張所も、遅めの昼食タイムのようだった。




