名前
突然だが『東京湾』という名前はいつから使われてきたんだろう?
まぁおそらく、少なくとも明治以降なのは間違いない。なぜならそれ以前には東京ではなく江戸だったからだ。
しかし、ならば昔は江戸湾と言ったかというと、それはなかったらしい。
なぜか?
そもそも昔の日本人には、東京湾や太平洋に個別の名前をつけなかったからだそうだ。岩礁や岬、島に名前をつける事はあっても、水平線が見えるような広い海に名前をつける必要性を感じなかったというべきか。
まぁ、そりゃそうだわな。日本海の向こうには異国があるけど、太平洋の向こうの異国と言われてもあまりにも遠すぎる。船でたどり着く可能性が限りなくゼロなのに、そこに名前をつける必要性はないよな。
え?だからどうしたって?
いや、だからさ。
わざわざサイカ商会に相談してまで書類を揃えてもらった俺は、クリネルの図書館にやってきた。
「……でかい」
「でっかいねえ」
それは、実に「大」図書館と呼ばれるにふさわしい規模だった。
少し解説しよう。
クリューゲル隧道の開口部のように目立つ建物ではない。図書館本体は大きな丘の『中』に作られているんだけど、上は大きな公園になっているんだよな。だから知らずにたずねていくと、こざっぱりした図書館が森の中の公園に建っているというか、そんな印象しかない。
だけど中に入り、温度や湿度を半永久的に一定に保っているという蔵書スペースまでくると、話は変わる。
「向こうが見えんぞ。なんなんだこりゃ」
巨大なフロア。ところどころに立っている頑丈そうな柱。
「しかし書籍数自体はそれほどでもないのです。現在、四百万冊を越えたあたりでしょうか」
「いや、立派なもんだろそれ」
誇らしげに言う羊の案内さん……そう、山羊ではないけど羊だった……に、俺は思わずツッコんだ。
「そうなの?」
「そうだよ」
この世界、まだ印刷技術ができてそう長い時間が経ってないらしい。それで四百万はとんでもねえよ。
「四百万ともなると……そうだな、日本は印刷技術ができて久しいけど、それでも有数って言っていい蔵書量だと思うぞ。この数を小さいって言い切れるところなんて、おそらく国会図書館、それから旧帝大系の図書館くらいしかないんじゃないかな?」
「へぇ。すごいんだ」
「ああ」
アイリスとそんな話をしていると、案内羊さんはニコニコと微笑んだ。
「なるほど、ハチ様は図書館にお詳しいのですね?」
「本は好きだよ。だけど全ての本が買えるわけじゃないもんな。読みたいと思えば図書館は強い味方だろ」
「はい、そのとおりです。そして、そうした方に少しでも本を読む機会を増やしていただく、それこそがクリネル大図書館の使命でもあるとされております」
「ああ、よくわかるよ」
立派な図書館なんだけど、なんていうか、肩肘張ってないんだよね。静粛にしてくださいねって雰囲気はあるのだけど、庶民はおことわり、みたいなところはないというか。
「貴賓室はもちろんございますよ。あと、悪臭がひどい、他の方への迷惑行為をする等、あんまりな方にはご退場願う事もございます。そこはまぁ、秩序の維持のためと申しますか」
「なるほど」
あるのか貴賓室。
まぁ、とんでもないお金持ちとかが堂々といて、ヘンなトラブルになったりしたらお互いにイヤだもんな。そういう区分けが必要な事もあるに違いない。
さて。
「それでハチさま、本日はどのような本をご覧になりたいのでしょう?」
「この世界の歴史だね。なるべく各国の思惑が入ってないヤツというか」
ヘンな言い方だと思うかい?
実際、歴史なんてのは各国の思惑なんかでバラバラに伝えられている事が多い。ありもしない事件を捏造して叩いてみたり、そういうのが多い分野だ。
ここで「真実はひとつだ」なんて、したり顔でのたまうヤツは、そういう「捏造する側」といってもいいくらいに。
「わかりました。でしたらこちらへ」
案内羊さんは、もちろんそのあたりは承知ずみのようだった。大きく頷くと、俺たちを案内してくれる。
どこまで続くはわからないような本、本、本の世界。ところどころに獣人や魔族といった人間種族の姿や、あとは明らかに人工物っぽいやつ……ゴーレムか何かなのか?それが移動しているのが見える。
「あのゴーレムみたいなのは何だ?」
「管理用ゴーレムです。ひとの手だけでは足りませんので、結界からゴーレムの操作まで、あらゆるところに魔道技術が使われております」
「エネルギー源は?」
「この図書館はもともとドワーフ時代のものでして、当時の動力炉が現在も動いております」
「保守はしてるの?」
「ここだけの話になりますが、もちろん管理はしております。詳しくは保安上の理由によりお話できませんが」
「なるほど」
やっぱりドワーフの研究者とかいるのかな?何人かは残っているっぽい話だったもんな。
まぁ、今はとりあえずどうでもいい事だけど。
しばらくして、他の書籍とは明らかに違う書架のあるブースに到着した。
「ここから先には一般のお客様は入る事ができません、ご注意ください。あと、おふたりであってもこの中の本は貸し出しができませんので、お手数でもこちらでお読みください」
「複写するのはいいの?」
「本を傷つけたりしない前提ならば、問題ありません」
「わかった、ありがとう」
「いえ。ではごゆっくりどうぞ。お呼びの場合はそちらのベルを使ってください」
言われてみると、何かベルみたいなのが置いてある。
「こんなの鳴らして大丈夫なのか?」
「このベルの音は、私のように管理服を着た職員にしか聞こえないのです。ゆえに問題ありません」
おおなるほど。こういうとこはファンタジーなんだな。
とまぁ、そんなわけで読み始めたわけなんだけど。
「この世界って、なんて名前なんだ?」
「は?なんのこと?」
いきなり、ここで頓挫する事になった。
いや、だってさ。
ここは地球ではない、異世界なわけで。
でも。
今まで出会った誰も「この星」の名前を知らない。
今まで出会った誰も「この世界」の名前を知らない。
いや、わからない事はないんだよ。
明治維新以前の日本だって、東京湾を江戸湾とは言わなかったらしい。海は海であり、浅瀬や岩礁に名前をつけても海に固有名詞なんてつけなかった。
そして実際、太平洋側ではそれでも問題なかった。
だって太平洋側に他国の船なんて来なかったわけじゃん。黒船来るまではさ。
おそらく、この世界も同じ。必要がないから呼ばれない。
でも。
日の丸の旗が実は国歌国旗法なんてなくても事実上、何百年も前から暫定的に日本の識別として使用されていたように。
なんかこう「正式な呼び名」みたいなものがどこかにあるんじゃないかと期待してたんだよね?
なのにさぁ。
「世界に名前って……ねえパパ」
「ん?」
「パパの世界では、自分たちの住む世界に何か名前をつけてたの?世界は世界、なんじゃないの?」
「……それは」
まぁ、そう言われると確かにそうなんだけどさ。
確かに、世界は世界だ。俺たちの世界にだって「世界そのものを示す固有名詞」なんてないわ。
え?絢爛舞踏?
それはゲームネタだっつの。
んで。
「宇宙時代もあったんだろ?なのにその時代にもないとはね……」
「『地球』にあたる表現はあったらしいよ?」
「お、なんて呼んでたんだ?」
「『大地』だって」
おい……地球と何が違うんだよ、それ。
「なんかこう、ないの?こう、中二病的にピピッとくるようなカッコいい名前とかさ」
「……ねえパパ」
「ん?」
「……お子様?」
「……やかまし」
思わずアイリスの頭をコツンとやろうとしたが、逃げられた。
むむむ。
さて。
それはともかくとして、歴史の方だ。
だいたいの略歴というか、まずは科学的な文献を見てみた。
ドワーフ時代ものらしい文献、それから近年の研究書。宗教色のありそうなものを排除しつつ、三冊くらい取り出してみた。
「あ、創造神話ってやっぱりあるんだ」
「あるよ。それこそ種族の数ほどあるけどね」
「ほほう」
それはそれで面白そうだ。
そんな事を考えつつ、いよいよ読書タイムが始まった……。




