祖父の部屋からセクシーなネグリジェ姿の女マッサージ師が飛び出してきて、「襲われた」と叫ぶ
よく通っていたリラクゼーションサロンのセラピスト、水野莉奈が、じいちゃんのロト7当選を知った途端、年末年始を俺の実家で過ごしたいと言い出した。将来は結婚も考えている、とまで言った。
前の人生の俺は、その言葉を信じた。
大晦日の深夜。莉奈は破れた薄い下着姿で、八十歳になるじいちゃんの部屋から泣きながら飛び出してきた。
「無理やりされた!」
その一言で、じいちゃんの人生は壊れた。
親戚や近所の人間から好奇の目を向けられたじいちゃんは、その場で倒れた。救急車を追って病院へ向かった親父も、凍った山道で事故を起こした。
二人とも、その夜に帰らぬ人になった。
その後、莉奈は「重蔵さんの子どもを妊娠した」と言い出した。子どもが生まれたら認知を求め、遺産についても争う――そんな話を持ち出し、裏で手を組んでいた親族と一緒に、何も分からなくなっていた俺を追い詰めた。
気づけば、じいちゃんが当てた一億円も、家も、ほとんど残っていなかった。
そしてもう一度目を開けたとき、俺は莉奈が初めて「実家に連れていって」と言った夜に戻っていた。
「大輔さん。今年の年末、私も一緒に行っていい?」
施術台の横で、莉奈が笑っている。
俺も笑った。
「いいよ」
1
柊川駅の近くに、個室型のリラクゼーションサロンがある。
建設会社で現場仕事をしている俺は、肩や腰がきつくなると、たまにそこへ通っていた。水野莉奈は二十六歳。そこで働くセラピストだった。
見た目は派手すぎず、話し方も柔らかい。客との距離の取り方がうまく、ここ数か月は予約を入れると莉奈が担当になることが多かった。
その夜も、肩と首の施術が終わったあと、莉奈は施術台のそばに残った。
「大輔さん、もうすぐ実家に帰るんでしょ?」
「まあな」
「私、今年の年末年始、予定ないんだよね」
莉奈は施術台の脇に腰を寄せ、少しだけ身を乗り出した。
「一人で柊川にいても暇だし……一緒に連れていってくれない?」
同じ台詞を、前にも聞いた。
あのときは胸が高鳴った。三十五歳になっても現場仕事ばかりで、女と付き合うのも得意じゃなかった俺に、十歳近く年下のきれいな女が「家族に会いたい」と言ってくれたのだ。
舞い上がるなというほうが無理だった。
「行くのはいいけど、じいちゃんの宝くじ、ちょっと面倒なことになっててさ」
タオルを畳んでいた莉奈の手が止まった。
「面倒って?」
「当たった番号の一部は自分が考えたって言い出してる親戚がいる。金を分けろって」
「え……」
「弁護士にも相談してる。しばらく動かさないほうがいいって話になってるよ」
莉奈がこちらを向いた。その反応は、思っていたより早かった。
「一億円、もう口座に入ってるんだよね?」
「入ってるけど、好きに使えるって感じじゃない」
「そっか……」
ほんの一瞬、表情が止まった。すぐに柔らかい笑顔が戻る。
「大輔さん、大変だね。でも、お金なんて私には関係ないよ。私は大輔さんと一緒に行きたいだけ」
「無理しなくていいぞ」
「無理してないって」
笑いながら答えたものの、莉奈の視線は何度かテーブルの上のスマホに向いていた。
前の人生でもそうだった。じいちゃんが高額当選したと知ってから、莉奈は急に質問が増えた。
いつ入金されるのか。実家はどこなのか。じいちゃんは元気なのか。親父は何をしているのか。
あの頃は、俺の家族に興味を持ってくれているのだと思っていた。
「じゃあ、また連絡する」
上着を着て部屋を出ようとすると、莉奈がもう一度呼び止めた。
「大輔さん」
「ん?」
「その一億……本当にしばらく使えない感じ?」
目を見た。
「そうだな」
「そっか。ただ気になっただけ。気をつけて帰ってね」
店を出たあと、まっすぐ自宅には帰らなかった。
冷たい風の中でスマホを取り出し、じいちゃんに電話をかける。
「もしもし」
懐かしい声がした。
胸の奥が詰まる。
「じいちゃん。宝くじのこと、誰かに聞かれても金額とか口座の話はしないでくれ」
「何だ、いきなり」
八十歳とは思えない大声だった。
「もう金は入ってるぞ。今さら何を隠すんだ」
生きている。
声が聞ける。
それだけで、しばらく言葉が出なくなりそうだった。
「とにかく頼む。特に徳也おじさんには言わないで」
「徳也?」
じいちゃんの声が少し変わった。
安藤徳也。親父の従弟で、じいちゃんにとっては甥にあたる。
「あいつがどうかしたのか?」
「まだ何とも言えない。ただ、当選の話がかなり広まってる」
少し間を置く。
「年末は家の戸締まりもちゃんとして。夜は部屋の鍵もかけてくれ」
「大輔」
「何?」
「お前、何かあったのか」
死んで、昔に戻ってきた。
そんな話をしたところで、じいちゃんを不安にさせるだけだ。
「一億なんて当たったら、人が変わることもあるだろ。念のためだよ」
電話の向こうで鼻を鳴らす音がした。
「八十年生きてる俺に、人を見る目を説教する気か」
「そういうことじゃないって」
「分かった分かった。鍵はかける」
電話が切れた。
しばらく、その場から動けなかった。
大晦日の夜が頭に浮かぶ。破れた下着。泣き叫ぶ莉奈。ベッドの上で何が起きたのかも分からず、呆然としていたじいちゃん。
「俺は何もしてない」
何度言っても、周囲の空気はあっという間に莉奈のほうへ傾いた。
じいちゃんは人一倍、誇りの高い人だった。その場で倒れ、親父は救急車を追いかけた。
凍った山道でハンドルを取られ、ガードレールに突っ込んだ。
二人とも帰ってこなかった。
けれど今は、まだ生きている。
スマホをポケットにしまった。
戻ってきた理由なんて、それで十分だった。
2
その後三日ほど、莉奈から「実家に行きたい」という話は出なかった。
店で顔を合わせれば普段どおり笑う。けれど以前のように、意味もなく距離を詰めてくることは減った。
十二月二十七日。
現場の休憩時間に、莉奈からLINEが届いた。
『大輔さんの地元でロト7の高額当選が出たって聞いたんだけど、もしかしておじいさん?』
やっぱり調べている。
話を流したのは、たぶん徳也おじさんだ。
前の人生でも、年末の酒の席で徳也おじさんが言いふらした。
「重蔵伯父さん、億万長者になったぞ」
そこから話が一気に広がった。
『じいちゃん、この前スクラッチで三千円当てたよ。それじゃない?』
そう返すと、すぐ既読がついた。
『でも、もっとすごい金額って聞いたよ?』
返信はせず、徳也おじさんへ電話をかけた。
「おじさん、じいちゃんの宝くじの話、誰かにした?」
「何だよ急に。家でちょっと話したくらいだぞ」
「もう話さないで」
「何でだよ。めでたい話じゃないか」
「番号のことで金をよこせって言ってる人もいる。変な人間まで寄ってきたら困るんだよ」
あえてそれだけにした。
「じいちゃんも八十だし。何かあってからじゃ遅い」
しばらく沈黙があった。
「……分かったよ。もう言わない」
最後に、少し不機嫌そうな声がした。
「最近のお前、神経質すぎないか?」
「そうかもな」
電話を切った。
一度広まった話は戻せない。それは分かっていた。
その夜。
『大輔さん、考えたんだけど』
『宝くじのことは宝くじのことでしょ?』
『やっぱり一緒に帰りたい』
『大輔さんの家族にちゃんと会ってみたい』
画面を眺める。
前の人生の俺は、「ちゃんと」という言葉に弱かった。
遊びじゃない。本気で付き合うつもりだ。
勝手にそう受け取った。
『分かった』
返信すると、すぐに喜んでいるスタンプがいくつも届いた。
『ほんと? じゃあ手土産買わなきゃ』
『大輔さんも実家帰るなら、仕事着じゃなくてちゃんとした服着なよ』
スマホを伏せた。
莉奈を連れて帰る理由は一つ。
俺の目の届くところで動かせるためだ。
前の人生では証拠がなかった。泣いている莉奈と、混乱している八十歳の老人。周囲は見た目だけで判断した。
今回は同じ形にはさせない。
十二月二十九日。
柊川から篠守町へ向かう高速バスに乗った。
莉奈は淡いピンクのダウンを着て、髪もきれいに巻いていた。窓際に座ると、すぐに質問が始まった。
「大輔さんのおじいさんって、今も元気?」
「元気だよ」
「一人でも普通に生活できるくらい?」
「毎朝散歩してる」
「すごいね。お父さんはずっと一緒に住んでるの?」
「ああ」
他愛のない話に聞こえる。
けれど事情を知っていると、全部違って見えた。
「実家って広い?」
「古い家だよ」
「へえ。田舎のお正月ってちょっと憧れる」
窓の外へ目を向けた。
前の人生では、その家に自分で莉奈を連れて帰った。その結果、じいちゃんを失った。
篠守町に着くと、親父が軽トラックで迎えに来ていた。
莉奈を見るなり、目を丸くする。
「大輔、その人……?」
「水野莉奈。今、付き合ってる」
親父の顔が一気に明るくなった。
「そうか! 寒いだろ。荷物は後ろに乗せるから、早く乗って」
莉奈が丁寧に頭を下げる。
「はじめまして、水野莉奈です。急にお邪魔してしまって、すみません」
「いやいや。年末は人が多いほうがいいよ」
親父が嬉しそうに笑った。
助手席に座り、その横顔を見る。
あの夜、この人は同じ軽トラックで、じいちゃんの救急車を追いかけた。そして事故を起こした。
膝の上で手を握る。
今年の元日は、親父も家にいる。
3
安藤家は、篠守町の北側にある。
築四十年以上になる二階建ての木造住宅で、母屋の横には昔客を泊めるために使っていた小さな離れもあった。
じいちゃんの部屋は一階の一番奥で、縁側に面している。親父は反対側の部屋を使い、俺が帰省したときは、じいちゃんの部屋に近い古い和室で寝る。
玄関を開けると、じいちゃんは居間でテレビを見ていた。
古いカーディガン姿で、髪は真っ白。それでも背筋はまだしっかりしている。
俺の後ろに莉奈がいるのを見つけると、大きく目を開いた。
「大輔、お前もやるじゃないか」
「会っていきなりそれかよ」
莉奈は慌てて頭を下げた。
「はじめまして。水野莉奈です。急にお邪魔してしまって、すみません」
羊羹と少し上等な煎茶の入った紙袋を差し出す。
じいちゃんは上機嫌だった。
「気を遣わなくていいのに。まあ、上がれ上がれ」
親父まで嬉しそうにしていた。
前の人生でも、こんな空気だった。
夕食になると、莉奈はよく動いた。
皿を運び、茶を入れ、食べ終われば食器まで下げる。親父の見る目がどんどん甘くなっていった。
莉奈が台所へ行ったところで、親父が俺を玄関のほうへ呼んだ。
「いい子じゃないか」
声を落としているのに、顔は笑っている。
「お前も三十五なんだから、真面目に付き合うなら大事にしろよ」
「親父、本当にそう思う?」
「何が?」
「数か月前までは、客とセラピストだったんだぞ」
親父の笑顔が少し薄れた。
「じいちゃんの当選を知ってから、急に連絡が増えた。結婚の話が出たのも、そのあとだ」
「……金目当てだって言いたいのか?」
「そうじゃなきゃいいと思ってる」
台所のほうを見る。
「でも、念のため見ててくれ。宝くじの金額とか口座の話を聞かれても答えないで」
親父はしばらく黙っていた。
「そこまで怪しいと思ってるなら、何で連れてきた」
「もう篠守町まで知られてる」
視線を戻す。
「目の届かないところで動かれるより、ここにいてくれたほうがまだいい」
親父がじっと俺を見る。
「大輔。お前、まだ何か隠してるな」
「年明けたら話す」
納得していない顔だったが、それ以上は聞かなかった。
その夜。
莉奈には離れを使ってもらうことにした。暖房もトイレもあり、布団も新しいものに替えてある。
ところが荷物を持って向かう途中、莉奈が母屋との間の廊下で立ち止まった。
「大輔さん、離れに一人ってちょっと怖いかも」
振り向いて笑う。
「母屋に空いてる部屋ない?」
「離れのほうが気楽だろ。暖房もあるし」
「でも……」
「大丈夫だよ」
莉奈の視線が廊下の奥へ向いた。
じいちゃんの部屋がある方向だ。
ほんの一瞬だった。
「分かった」
笑顔のまま離れに入っていった。
扉が閉まるのを見届けてから、じいちゃんの部屋へ向かった。
事前に用意していたのは、家庭用の防犯カメラとドア・窓用の開閉センサー、それから室内側から掛ける補助錠だった。
カメラはじいちゃんの部屋の中を映さない位置に設置した。映るのは共用の廊下と扉、縁側へ向かう通路だけだ。
親父にもじいちゃんにも、設置場所は説明してある。
「大輔、お前は銀行の警備員にでもなったのか」
布団に入りながら、じいちゃんが呆れた。
「数日だけだから」
「大げさだな」
「夜中に誰か来ても、すぐ開けるなよ」
「俺は八十であって八歳じゃない」
「分かってるよ。でも頼む」
じいちゃんは俺の顔を見た。
何か言いたそうだったが、最後は小さく手を振った。
「分かった分かった」
俺が部屋を出るとき、少し笑っていた。
自室に戻り、スマホで防犯カメラの映像を確認した。じいちゃんの扉、廊下、縁側へ続く場所まで全部見えた。
前の人生で莉奈が動いたのは、大晦日の深夜だった。
二時過ぎ。
家中が寝静まったころ。
だから今年は、眠らない。
4
十二月三十一日、大晦日。
朝から親父がおせちの準備を始めた。市場で買ってきた魚も捌いている。莉奈は髪を束ね、台所で手伝っていた。
何も知らなければ、息子が連れてきた恋人が実家の年越しを手伝っているだけに見える。
俺は居間でスマホを触りながら、時々莉奈の動きを見ていた。何度か、じいちゃんの部屋の方向へ目を向けていた。
昼前になると、徳也おじさん一家が来た。
清酒と年末用の菓子折りを抱え、玄関に入るなり俺の肩を叩いた。
「大輔、やるなあ。いつの間にこんな子と付き合ってたんだ」
「最近だよ」
徳也おじさんが莉奈を見た。
「柊川の人?」
「はい」
「若い人が街で暮らすのも大変だろ」
「そうですね。でも大輔さん、優しいので」
「こいつは昔から真面目だけが取り柄なんだよ」
徳也おじさんは笑いながらみかんを剥いた。
「まあ、大輔と一緒なら将来も……安心だろ」
途中で一度、俺を見た。
莉奈が笑った。
二人の視線が、一瞬だけ重なった。
俺は何も言わず、湯飲みに茶を足した。
午後。
親父が玄関にしめ飾りを掛けている間に、じいちゃんを捕まえた。
「今夜、補助錠ちゃんと掛けてよ」
「昨日も聞いた」
「今日は特に」
「お前なあ……」
じいちゃんが眉を寄せた。
「この数日、本当に変だぞ」
少し迷ってから、肩に手を置いた。
「嫌な夢を見たんだ」
「夢?」
「じいちゃんがひどい目に遭う夢」
目を見た。
「だから今夜だけは俺の言うとおりにして」
じいちゃんの表情から、からかうような色が消えた。
「……分かった」
肩を叩かれた。
「入れちゃいけない奴は、俺の部屋には入れない」
夕方。
家族で大晦日の夕食を囲んだ。テレビでは年末特番が流れ、そのあと紅白歌合戦に変わった。
莉奈はじいちゃんの湯飲みに茶を足しながら、昔の話を聞いていた。
「昔から体丈夫だったんですか?」
「若い頃は、今のお前らより働いたぞ」
「今も十分お元気ですよね」
「まだまだ死なんよ」
じいちゃんが笑った。
莉奈も笑った。
しばらくして、何でもない話の延長のように尋ねた。
「最近、何かいいことあったんですか?」
じいちゃんが俺を見た。
先に口を挟んだ。
「スーパーの抽選で米当てたんだよ」
「米?」
「五キロ」
じいちゃんも平然と頷いた。
「そうそう。結構いい米だった」
「いいですね」
莉奈は笑って箸を取った。
向かい側では徳也おじさんが眉をわずかに動かし、莉奈の口元も一瞬だけ緩んだ。
夜十一時を過ぎたころ、徳也おじさん一家は帰っていった。
「大輔」
靴を履きながら、また肩を叩かれた。
「せっかくの彼女なんだから、余計なこと言って逃げられるなよ」
「分かってるよ」
笑って見送った。
莉奈も片付けを手伝い、そのあと「もう眠い」と離れへ戻った。親父も二階へ上がった。
じいちゃんの部屋から、補助錠を掛ける小さな音が聞こえた。
自室に戻り、照明を消した。
スマホの画面だけが暗い部屋に浮かんだ。
午前零時。
一時。
一時半。
遠くから除夜の鐘が聞こえる。
午前二時十七分。
離れへ続く扉が開いた。
黒い影が廊下へ入ってきた。
莉奈だった。
5
黒いロングコートを羽織り、音を立てないように歩いてきた。
じいちゃんの部屋の前で止まり、扉に耳を寄せた。中から、眠っている老人の呼吸音が聞こえていた。
莉奈がドアノブに手を掛けた。
一度押した。開かない。
少し間を置いて、もう一度試した。
補助錠がある。
当然、開かない。
しばらく扉を見ていた莉奈は、その場にしゃがみ込んだ。ポケットから細長い工具を取り出した。
前の人生では、あの扉に補助錠などなかった。高齢者に何かあったとき、家族がすぐ入れるようにと親父が気にしていたからだ。
莉奈は簡単に中へ入った。
そこで服を乱し、身体にも何か細工をした。そのあと叫び声を上げ、泣きながら飛び出した。
俺と親父が駆けつけたときには、もう莉奈のための「現場」ができあがっていた。
スマホの中では、莉奈が何分も扉の前で作業していた。
やがて諦めたのか、立ち上がった。
次に見たのは、縁側側の窓だった。じいちゃんの部屋へ外から近づける場所は、そこしかない。
冬は隙間風が入るので、親父が透明の断熱フィルムを貼っている。
莉奈が窓枠に手を掛けた。
そこで部屋を出た。
「そこで何してる?」
肩が跳ねた。
莉奈が振り返った。
顔に浮かんだ動揺は、ほんの一瞬だった。
「だ、大輔さん?」
すぐにいつもの表情へ戻った。
「トイレ行こうと思ったら、間違えちゃって」
「離れの中にあるだろ」
「寝ぼけてたの」
右手がコートのポケットへ入っていった。
「大輔さんこそ、まだ起きてたの? もしかして待ってた?」
少し笑って、近づいてきた。
動かなかった。
「右手、何持ってる?」
莉奈が止まった。
「何のこと?」
「さっきじいちゃんのドアに使ってたやつ」
数秒、目が合った。
ゆっくり手が出てきた。小さな金属工具が乗っていた。
「午前二時十七分」
工具を見た。
「八十歳の老人が寝てる部屋の前で、それ使って何してた?」
莉奈から笑顔が消えた。
「……私のこと監視してたの?」
「廊下には家庭用の防犯カメラがある」
「は?」
「じいちゃんも親父も知ってるよ」
スマホを出し、映像を再生した。
離れから出てくるところ。じいちゃんの扉を触るところ。工具を取り出すところ。縁側へ回るところ。
全部残っている。
莉奈の顔色が変わった。
「いつから……」
「帰ってくる前に付けた」
「最初から疑ってたってこと?」
「ああ」
唇が震えた。
次の瞬間、莉奈が俺の腕を掴んだ。
「大輔さん、待って。話聞いて。私だってやりたくなかったの。脅されてたの」
手を外した。
「誰に?」
「言えない」
「じゃあ警察で話せばいい」
目に涙が溜まった。
「お願い。帰らせて。私、今すぐ出ていくから。もう大輔さんにも連絡しない」
離れの方向へ身体を向けた。
「帰っていいよ」
振り返った。
「ただし、映像は警察に出す。その工具もな」
莉奈の顔から、泣きそうな表情が消えた。
「大輔」
さん付けが消えた。
「警察なんか呼ばないほうがいいよ」
「何で?」
「呼んだら、私も“大輔に頼まれた”って言うから」
低い声だった。
「そのカメラだって、大輔が用意したんでしょ? 私が何を言われてここに来たのか、警察に全部話すよ」
まっすぐこちらを見た。
「どっちが本当のこと言ってるか、全部調べてもらえば?」
前の人生で俺たち一家が負けた理由は、それだった。
準備が何もなかった。
スマホで110番した。
莉奈の顔色が変わった。
「ちょっと、大輔!」
「もしもし。家に来ている女性が、八十歳の祖父の部屋へ深夜に侵入しようとしています」
住所を伝えた。
「防犯カメラの映像があります。本人もまだここにいます」
電話を切るより先に、背後から錠の外れる音がした。
じいちゃんの扉が開いた。
寝間着姿のじいちゃんが、杖を持って立っていた。
「大輔。さっきから何を騒いでる」
莉奈を見た。
床に落ちた工具を見た。
顔つきが変わった。
「じいちゃん」
スマホを渡した。
「今、莉奈がこのドアを開けようとしてた」
じいちゃんは黙って動画を見た。
最後まで見終わると、杖の先を床に強くついた。
「うちに来て飯食って、正月を一緒に過ごして」
莉奈を見た。
「夜中に俺の部屋の鍵までいじるのか」
「違うんです。本当に、私は――」
「もういい」
低い声だった。
「俺は八十だが、何も分からなくなったわけじゃない」
二階から足音が響いた。
親父が上着を羽織りながら下りてきた。
「何だ? どうした?」
スマホを渡した。
親父の手が、動画を見るうちに震え始めた。
「何でうちの親父の部屋に入ろうとした?」
莉奈は壁際に立ったまま、答えなかった。
6
警察が到着すると、俺たちは別々に事情を聞かれた。
俺は防犯カメラの映像を見せ、莉奈が離れを出てから、じいちゃんの扉を触り、縁側へ回るまでの経緯を説明した。
床に落ちていた工具も、その場で確認された。
莉奈はそのまま警察署で、さらに詳しく話を聞かれることになった。
連れていかれる直前、一度だけこちらを見た。
唇を噛み、顔は真っ白だった。
夜が明ける前に、警察から連絡が来た。
防犯カメラの元データを提出してほしいという。
さらに元日の朝、もう一度電話が入った。
「安藤大輔さんですか」
「はい」
「水野莉奈さんが事情聴取の中で、安藤徳也さんとのやり取りについて話しています。スマートフォンも任意で提出されていて、確認したいことがあります」
その後、警察から分かった範囲を聞いた。
莉奈の荷物の中には、薄い下着が入っていた。皮膚に赤黒い色をつけられる舞台用の化粧品と、小さなスプレーボトルもあった。
スプレーの中身は鑑定に回された。
さらに、簡単な住宅の見取り図も見つかった。じいちゃんの部屋と縁側の窓が書き込まれ、その横には『二時以降』と記されていた。
スマホには、さらに一人の人間とのやり取りが残っていた。
『一番奥の部屋』
『縁側側に窓がある』
『二時過ぎなら寝てる』
『騒ぎになったら予定どおりでいい』
警察官が電話番号を読み上げた。
聞き覚えがあった。
安藤徳也。
親父の従弟で、じいちゃんの甥。俺が三十五年間「おじさん」と呼んできた人だった。
前の人生では、莉奈が一人でやったと思っていた。
けれど、これなら全部つながる。
どうして莉奈が当選額を知ったのか。どうして初めて来た家なのに、じいちゃんの部屋ばかり気にしたのか。どうして縁側に窓があることまで知っていたのか。
裏で案内していた人間がいた。
「徳也おじさん、今日たぶん新年の挨拶に来ます」
「分かりました」
「どうしたらいいですか」
「ご自身では問い詰めないでください。来たらこちらへ連絡してください」
了承して電話を切った。
窓の外が明るくなっていた。
元日の朝。
前の人生なら、この時間にはじいちゃんはもういなかった。親父も事故に遭っていた。
部屋の扉が開いた。
着替えたじいちゃんが出てきた。
「大輔。湯、沸いてるか?」
鼻の奥が熱くなった。
「今やる」
「何だ、その顔」
「何でもない」
台所へ行った。
親父が雑煮の準備をしていた。
二人ともいる。
少しだけその場で立ち止まってから、親父の横へ行った。
7
午前十時を少し過ぎたころ、徳也おじさんが来た。
清酒を二本と年賀用の菓子折りを持っている。
「伯父さん、兄貴、大輔。明けましておめでとう!」
いつもどおりの大声だった。
靴を脱ぎながら家の中を見た。
「あれ? 莉奈ちゃんは?」
親父の表情が固くなった。
じいちゃんは何も言わず茶を飲んでいた。
「おじさん」
「ん?」
「莉奈に何か用?」
「用ってほどじゃないよ。お前の彼女だろ?」
笑った。
「昨日いたのに、今日は見えないからさ」
「警察にいるよ」
笑顔が止まった。
「……何?」
「昨日の夜、じいちゃんの部屋に入ろうとした」
「は?」
「午前二時十七分。ドアが開かなくて、縁側にも回ってる」
徳也おじさんの喉が動いた。
「何だよそれ。どういうことだ?」
「俺も聞きたい」
一歩近づいた。
「莉奈のスマホに、おじさんの番号が残ってた」
徳也おじさんの目が揺れた。
「十二月二十八日に電話してる」
「……電話くらいするだろ」
「どうして?」
「大輔の彼女だっていうから、ちょっと話しただけだ」
「じいちゃんが二時過ぎには寝てることも?」
「……」
「縁側側に窓があることも?」
徳也おじさんが少し後ろへ下がった。
「大輔、それは……」
徳也おじさんが居間へ上がったあと、俺は玄関に戻るふりをして、警察へ短く連絡を入れておいた。
親父が立ち上がった。
「徳也」
低い声だった。
「何をした」
「兄貴、違う」
「何が違う」
「俺はただ――」
言葉が止まった。
数秒後、声が一気に大きくなった。
「あの金、全部伯父さんのものってのがおかしいんだよ!」
家の中が静まった。
「番号決めるとき、俺に聞いただろ?」
徳也おじさんが自分の胸を指した。
「06と22。俺が言った数字だ!」
親父の顔が赤くなった。
「だから何だよ」
「当たってるだろ、その二つ!」
「一緒に買うかって聞いたとき、お前は一円も出さなかったじゃないか!」
「でも数字は俺が――」
親父が前へ出た。
慌てて間に入った。
「親父、手出すな」
「大輔、どけ」
「警察が来る」
徳也おじさんの顔色が変わった。
「警察?」
「ああ」
まっすぐ見た。
「莉奈とのやり取りも、もう警察が見てる」
「お前、俺だって身内だぞ!」
「分かってる」
「じゃあ何で――」
「じいちゃんの部屋の場所を教えたのは何で?」
徳也おじさんが黙った。
「二時過ぎって時間まで伝えた理由は?」
「ただの雑談だ」
「窓の位置も?」
答えなかった。
外で車が止まる音がした。
玄関へ目を向けた。
「来たみたいだな」
徳也おじさんが反射的に外へ出ようとした。
親父が玄関の前に立った。
「逃げるな、徳也」
警察が来たあとも、徳也おじさんはしばらく「普通の会話だった」と言い張っていた。
しかし莉奈の供述、スマホの記録、住宅の見取り図、防犯映像、莉奈が持っていた道具が、少しずつ一本につながっていった。
徳也おじさんは最後には玄関の段差に座り込んだ。
「……不公平だと思ったんだよ」
頭を抱えた。
「番号、俺も考えたのに」
じいちゃんが湯飲みを置いた。
「徳也」
その日、初めて名前を呼んだ。
徳也おじさんが顔を上げた。
「もううちには来るな」
それだけだった。
徳也おじさんの肩が落ちた。
8
その後の捜査で、計画の全体像が見えてきた。
当選の話を莉奈へ流したのは徳也おじさんだった。
莉奈が俺と親しくしていることも知っていたし、金に困っていることも聞いていたらしい。
最初は、俺に近づいて実家へ入り込めないかという程度の話だったという。
それが少しずつ膨らんだ。
徳也おじさんは家の間取りを教えた。じいちゃんの寝室も、縁側の窓も伝えた。
最終的に何をするつもりだったのかは、警察と弁護士から後になって聞いた。
大晦日の深夜、莉奈がじいちゃんの部屋へ入り、自分が襲われたように見える状況を作る。
その後は妊娠したと主張し、子どもが生まれたら「重蔵の子だ」と認知を求め、遺産についても金を要求するつもりだった。
そこで徳也おじさんが、親族の立場で出てくる。
「こんな話を裁判までやれば、重蔵伯父さんの名誉がもっと傷つく」
「金を払って終わりにしたほうがいい」
そう言って、こちらに和解を勧める。
一億円を取れたら、あとで二人で分ける。
そこまで聞いたとき、しばらく言葉が出なかった。
前の人生では、実際にそこまで進んだ。
それどころか、二人にとって都合のいいことが続いた。
じいちゃんは倒れて死んだ。
親父も事故で亡くなった。
母親は、俺が小さい頃に家を出ている。
葬式を二つ抱えた俺だけが残った。
弁護士から書類が届いても、何をどうすればいいか分からなかった。親戚に何を言われても、それが本当に正しいのか判断できなかった。
徳也おじさんは何度も言った。
「このまま争ったら、伯父さんの名誉までずっと残るぞ」
莉奈も金を要求した。
結果、俺は何枚もの書類に判を押した。じいちゃんの金は削られ、家まで揉め事に巻き込まれた。
警察からは、莉奈の荷物にあったスプレーについても連絡が来た。
中からは、眠気や意識の低下を引き起こす可能性のある成分が検出されたという。
実際に使われていない以上、どの程度の影響が出たかは分からない。
ただ、じいちゃんは八十歳だ。
使われていたらどうなっていたか、考えたくもなかった。
その話を聞いた日の夜、親父は縁側に座って煙草を吸っていた。
「大輔」
「ん?」
「徳也とはさ……子どもの頃、本当に兄弟みたいだったんだ」
煙を吐きながら庭を見ていた。
「向こうの親が忙しいと、うちで飯食ってた。泊まることもあった」
隣に座った。
「知ってる」
「お前のじいちゃんも、あいつのこと半分息子みたいに見てたよ」
煙草が短くなった。
「一億って、そこまで人を変えるのか」
少し考えた。
「金が変えたっていうより、ずっと持ってたものが金で出てきたのかもしれない」
親父は何も言わなかった。
しばらくしてから、ぽつりと呟いた。
「お前が気づいてくれてよかった」
返事はしなかった。
幸運と言うには、前の人生で払った代償が大きすぎた。
何日かして、徳也おじさんの妻、美佐子さんが家へ来た。
門の外で何度も頭を下げた。
「正志さん。徳也、本当に後悔してるの」
親父は居間に座ったままだった。
「捜査にも協力してるって聞いた。だから……弁護士さんに、少しだけでも伝えてもらえない?」
親父が長く黙った。
「美佐子さん」
やがて、かすれた声で答えた。
「あいつは、うちの親父の人生を全部壊そうとした」
「……」
「俺が代わりに許していい話じゃない」
美佐子さんは泣きながら帰った。
じいちゃんは一度も玄関まで出なかった。
その夜は、ずっとテレビで相撲の再放送を見ていた。
俺も親父も、徳也おじさんの話はしなかった。
9
年が明けてしばらくすると、莉奈と徳也おじさんは起訴され、事件は裁判へ進んだ。
じいちゃんの部屋へ侵入しようとしたこと。
性的な被害を受けたように装い、その後の金銭要求につなげようとしていたこと。
法律上どの行為がどの罪にあたるのかは、弁護士から説明を受けたが、細かい名前までは覚えなかった。
俺にとって大事なのは、もっと単純なことだった。
じいちゃんが生きている。
親父も生きている。
裁判が続いている間、莉奈側から示談の申し入れがあった。
自分の貯金を出すから、少しでも刑が軽くなるよう示談に応じてほしいという。
弁護士に聞かれた。
「どうしますか」
「受けません」
それだけ答えた。
徳也おじさんは、捜査の途中からかなり詳しく話したらしい。
けれど、自分から関わった事実まで消えるわけではない。
莉奈には拘禁刑三年六か月、徳也おじさんには二年八か月の実刑判決が言い渡された。
判決を聞いた日、裁判所の外にしばらく立っていた。
冬の日差しは弱い。それでも背中に当たると、少しだけ暖かかった。
前の人生では、同じ冬に二人の葬式を出した。
じいちゃんの葬儀が終わる前に、親父の事故の手続きが始まった。金を借り、仕事も休み、そのうえ莉奈と徳也おじさんから財産の話を持ち込まれた。
町には、じいちゃんの噂まで残った。
知り合いに会うのが嫌になり、友人とも少しずつ連絡を取らなくなった。恋愛や結婚を考える気力も消えた。
そのまま現場で働き続けた。
四十を過ぎても資材を運び、五十代になったころには腰を悪くした。重いものを持てなくなり、仕事も減った。
周りの人間は、それぞれ家族を持って生活していた。
俺だけが安いアパートで一人だった。
死ぬまで、あの大晦日から先へ進めなかった。
今は違う。
裁判所を出て、書類を鞄へ入れた。
篠守町へ帰る途中、スーパーに寄った。じいちゃんがよく飲む無糖の缶コーヒーと、親父がいつも飲んでいるビールを一箱買った。
ロト7の一億円については、その後じいちゃんが税理士や司法書士にも相談した。
大半は自分の名義で残し、老後の資金を確保したうえで、古くなった家の修繕にも使うことになった。
俺についても、建築関係の資格を取ったあと独立したくなったら支援してやる、と言い出した。
「そんな急いで俺に金回さなくていいよ」
そう言ったら、杖で脛を叩かれた。
「誰が今すぐやるって言った」
「痛いって」
「俺はまだ死なん」
「分かってるよ」
「分かってない」
じいちゃんが睨んだ。
「お前こそ三十五だぞ。今度女を連れてくるときは、ちゃんと見ろ」
「十分反省したよ」
「顔がいいとか、愛想がいいとか、それだけで浮かれるな」
「はいはい」
「返事が軽い!」
思わず笑った。
家に着くと、じいちゃんは玄関先で日向ぼっこをしていた。
親父は庭で、植えたばかりの木に支柱をつけていた。
買ってきたものを玄関に置き、椅子を一つ持ってじいちゃんの横へ座った。
白い髪に冬の日差しが当たっていた。
「じいちゃん」
「何だ」
「長生きしてくれよ」
じいちゃんが横目で見た。
「俺が何年生きるか、お前に決められる筋合いはない」
「じゃあ百まで」
「百なんて通過点だ」
湯飲みを持ち上げた。
「まだまだ元気だぞ」
鼻の奥が熱くなった。
前の人生では、あまりにも急だった。最後にまともな話すらできなかった。
今度はゆっくり年を取ればいい。
俺に文句を言って、親父と喧嘩して。
いつか俺が結婚して子どもができたら、今度はひ孫がうるさいと怒ればいい。
庭の向こうで親父が立ち上がった。
「大輔! 座ってないで手伝え!」
「今行く!」
椅子から立った。
親父もいる。じいちゃんもいる。
古い家も、冬の庭も、ちゃんとここに残っている。
日差しの中を、親父のほうへ歩いた。
もう、あの大晦日に縛られて生きる必要はなかった。




