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縁切り公爵に見抜かれた古い刺繍が、冷遇令嬢の人生を変えました

作者: くるみ
掲載日:2026/07/13

 夜会の壁際は、思ったより居心地がいい。


 誰にも踊りに誘われない。

 誰にも話しかけられない。

 流行遅れのドレスを笑われても、壁紙の一部になったつもりでいれば、案外やり過ごせる。

 もっとも、壁紙にももう少し上等な布が使われているので、今日の私よりは待遇がいいかもしれない。

 私は手にした薄い葡萄水を見下ろし、心の中でため息をついた。


 私の名前はロザリア・ベルティ。

 ベルティ子爵家の長女である。

 ただし、家の中での扱いは長女というより、古い戸棚に押し込まれた使い古しの布に近い。


 母は十年前に亡くなり、父はすぐに後妻を迎えた。

 後妻が連れてきた義妹リリアーヌは、ふわふわの金髪と大きな青い瞳を持つ、いかにも守ってあげたくなる少女だった。


 一方の私は、母譲りの黒髪に、祖母譲りの薄灰色の目。

 笑わない。

 可愛げがない。

 黙っていると怒っているように見える。

 そう言われ続けた結果、私は本当にあまり笑わなくなった。


 人は、つけられた札の通りに扱われると、だんだんその札に近づいていくものらしい。


「お姉様、そんなところでじっとしていると、また陰気だと言われますわよ」


 リリアーヌが通りすがりに、扇で口元を隠して言った。

 彼女のドレスは今年流行の薄薔薇色。

 刺繍も宝石も新しい。

 私のドレスは、母が若い頃に着ていた深緑のものを仕立て直した古い品だ。

 布は良い。

 ただし、流行は二十年前に置いてきている。


「壁際は落ち着きますから」


「負け惜しみがお上手」


「ええ。練習量が違いますので」


 リリアーヌは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに可愛らしく笑った。


「まあ、お姉様ったら。今夜はせいぜい、よいご縁を探してくださいませ。お父様が決めたお相手より、ましな方が見つかるといいですわね」


 それだけ言って、彼女は若い令息たちの輪へ戻っていった。

 私は葡萄水を一口飲む。

 ぬるい。

 実に今日の気分に合っている。


 父が私の嫁ぎ先として考えているのは、五十を過ぎた辺境の男爵だ。

 妻を二人亡くし、三人目を探しているという。

 財産はある。

 息子もいる。

 つまり、私に求められているのは妻というより、家政婦と介護人と、都合のよい持参金の器だろう。


 それだけなら、まだ耐えられたかもしれない。

 でも、私には祖母がいる。

 母方の祖母、エヴァ・リンデル。

 かつて王妃付きの刺繍師だった人だ。


 リンデル家は、代々、王家の礼服や婚礼衣装に刺繍を施してきた職人の家系だった。

 今は祖母が足を悪くし、ベルティ家の離れで暮らしている。

 後妻は祖母を嫌っている。

 祖母が持つ図案帳と権利書だけは欲しがるくせに、薬代も暖房代も惜しむ。

 私が男爵家へ嫁がされれば、祖母はきっと離れに置き去りにされる。

 あるいは、祖母の図案だけを奪われて、もっと静かに消される。


 だから私は今夜、壁の花をしながら探していた。

 祖母ごと私を引き取ってくれる相手を。


 贅沢は言わない。

 祖母に暖かい部屋と薬を用意してくれるなら、私は帳簿係でも、介護人でも、後妻でも構わない。

 そう思っていた。

 けれど本当は、もう一つだけ望みがあった。


 祖母から教わった刺繍を、捨てたくなかった。


     *


 私の深緑のドレスは、ただ古いだけではなかった。

 裾から胸元にかけて、細い銀糸で蔦模様が刺されている。

 一見すれば、流行遅れの地味な刺繍。

 けれど、リンデルの刺繍を知る者ならわかる。


 これは、祖母エヴァが得意としていた「ほどき刺繍」だ。

 表から見ればただの模様。

 けれど糸の順をたどれば、いつ、誰のために、どの図案を作ったのかが記録として読める。

 王妃の婚礼衣装にも使われた、刺繍師だけが知る署名のようなものだった。


 幼い頃、私は祖母の膝元でそれを教わった。


「いい、ロザリア。針は飾るためだけのものではないの」


 祖母は、細い針を布に通しながら言った。


「布は残る。糸は残る。紙が燃えても、誰かが嘘をついても、正しく刺された糸は証人になるわ」


「糸が、証人に?」


「ええ。だから、針を持つ手を軽んじてはいけないのよ」


 父も継母も、私の刺繍をただの暇つぶしだと思っていた。

 リリアーヌは、「お姉様は暗い色の糸ばかり選ぶのね」と笑った。

 けれど私は、祖母の教え通り、古いドレスの裾に銀糸を重ねた。


 祖母の本物の図案。

 偽造された署名の違い。

 後妻が商人へ売った刺繍図案の控え。

 それらを紙として隠すだけでなく、糸の流れとしても布に残していた。

 針は飾るためだけのものではない。


 祖母の言葉を、私はずっと覚えていた。


     *


 夜会の途中、小さな騒ぎが起きた。

 異国の大使夫人の袖口に施された刺繍が、何かに引っかかってほつれてしまったのだ。

 夫人は青ざめていた。


「困ったわ。これは亡き母の国の刺繍なの。今夜の挨拶で、どうしても身につけていたかったのに」


 周囲の令嬢たちは困ったように顔を見合わせる。

 誰かが針を持ってくるよう使用人に命じたが、誰も手を出そうとはしなかった。

 高価な衣装を傷めれば責任問題になる。

 私は少し迷った。

 目立ちたくはない。

 けれど、刺繍がほどけていくのを見ていると、胸が落ち着かなかった。


 私は杯を置き、夫人の前へ進み出た。


「恐れながら、拝見してもよろしいでしょうか」


 大使夫人が私を見た。


「あなたは?」


「ロザリア・ベルティと申します。祖母から少しだけ刺繍を教わりました」


「直せるの?」


「完全には難しいかもしれません。ですが、これ以上ほどけないようにはできます」


 夫人は一瞬迷い、それから袖を差し出した。

 私は侍女から針と糸を借り、袖口をそっと支えた。

 異国の刺繍は、糸の重ね方がリンデルとは違う。

 けれど、布の呼吸は同じだ。


 引きすぎれば歪む。

 緩すぎればまたほどける。

 私は息を整え、銀糸の端を拾い、裏側から小さく留めた。

 祖母が何度も言っていた。

 直す時は、元の糸に勝とうとしてはいけない。

 元の糸が帰る道を作るのだ、と。


 数分後、袖口のほつれはほとんど目立たなくなった。

 大使夫人が息を呑む。


「まあ……」


「応急処置です。後で専門の方に見ていただいたほうがよろしいかと存じます」


「いいえ、十分よ。あなた、とても丁寧な手をしているのね」


 その言葉に、胸の奥が熱くなった。


 丁寧な手。


 そんなふうに言われたのは、祖母以外では初めてだった。

 私は頭を下げて下がろうとした。

 その時、背後から静かな声がした。


「リンデルの返し針ですね」


 私は針を持つ手を止めた。

 振り返ると、黒い礼服の男性が少し離れた場所に立っていた。

 銀に近い淡い金髪に、夜の湖のような青い目。

 顔立ちは整っているのに、周囲の令嬢たちはうっとりするより先に一歩引いている。


 カイル・グレイヴ公爵。

 若くして公爵位を継いだ、王都で一番関わってはいけない男。


 通称、縁切り公爵。

 婚約破棄、離縁、相続争い、後見権の剥奪、家門の監査。

 彼は貴族社会の面倒な揉め事を、法と契約で片づけることで有名だった。

 誰かが泣こうが、倒れようが、彼は微笑んだまま書類を差し出す。

 恋人たちを別れさせ、親子の縁を切り、屋敷から当主を追い出す。


 もちろん、すべて合法。

 そこが一番怖い。

 私はすぐに膝を折った。


「グレイヴ公爵様におかれましては、ご機嫌麗しゅうございます」


「堅い挨拶ですね」


「初対面の公爵様に、柔らかい挨拶をする勇気はございませんので」


 そう答えると、公爵様はほんの少しだけ目を細めた。


「今の返し針は、リンデル家の手筋に見えました」


「祖母に、少しだけ教わりました」


「少しだけ、で大使夫人の袖を直せるものではありません」


「応急処置でございます。正式な修復には、専門の職人が必要かと存じます」


「その謙遜も、リンデル家の教えですか」


「いえ。これは、目立たずに生きるための私個人の処世術です」


 言ってから、少しだけ余計だったかもしれないと思った。

 けれど公爵様は怒らなかった。

 むしろ、興味深そうに私を見ている。


「ロザリア・ベルティ嬢」


「はい」


「後ほど、一曲お相手いただけますか」


 周囲が小さくざわめいた。

 私は一瞬だけ言葉に詰まる。

 縁切り公爵に夜会で誘われる。

 それが何を意味するのか、考えないわけにはいかなかった。


「私でよろしいのでしょうか」


「あなたがよいのです」


「……光栄に存じます」


 私はもう一度、丁寧に礼をした。

 公爵様はそれ以上何も言わず、静かにその場を離れていった。


 私は手元の袖口へ視線を戻す。

 針先が、わずかに震えていた。

 リンデルの返し針。

 それを一目で見抜く人間が、王都にいるとは思わなかった。


 あの公爵様は危険だ。

 けれど同時に、祖母の刺繍をただの古い手仕事として見なかった。

 そのことが、私の胸に小さな棘のように残った。


     *


 しばらくして、本当にグレイヴ公爵様が私の前に現れた。


「ロザリア嬢。一曲、お願いできますか」


「先ほどのお言葉は、社交辞令ではなかったのですね」


「社交辞令で縁切り公爵と踊る令嬢を増やすほど、私は親切ではありません」


「それは、安心してよいのでしょうか」


「判断は踊りながらでも」


 私は差し出された手を見た。


 白い手袋。

 長い指。

 書類で人を殺せそうな手だ。

 危険だ。


 でも、今夜の私は、危険なものを避けている余裕などない。


「承知いたしました」


 私はその手を取った。

 広間の中央へ進むと、視線がいくつも刺さった。

 義妹リリアーヌが、信じられないものを見るような顔をしている。

 父は眉をひそめていた。

 後妻は、扇の奥で何かを囁いている。

 公爵様は、そんな視線など気にした様子もなく言った。


「先ほどの刺繍ですが」


「踊りながら刺繍のお話ですか」


「お嫌いですか」


「いいえ。ただ、公爵様方はもっと華やかな話題を好まれるものかと」


「私は、華やかな嘘より、正しい糸のほうが好きです」


 その言葉に、私は思わず公爵様を見上げた。


「……変わった方ですね」


「よく言われます」


「褒め言葉ではないかと存じます」


「知っています」


 少しだけ、口元が緩みそうになった。

 危ない。

 この方の調子に乗ってはいけない。


「それで、公爵様。私に何のご用でしょう」


「あなたの家との縁を切るお手伝いをしに来ました」


 私は一拍だけ足を止めそうになった。

 けれど、止めなかった。

 踊りながら、静かに微笑む。


「ずいぶん物騒なお誘いですこと」


「縁切り公爵ですので」


「では、最初からそう名乗っていただければ、もう少し警戒いたしました」


「今も十分警戒しているように見えます」


「ええ。公爵様相手に警戒しない令嬢は、少々危機感が足りないかと存じます」


「そのくらいのほうが、話が早い」


 公爵様は声を低めた。


「あなたの祖母、エヴァ・リンデル夫人の刺繍権利書が偽造されかけています」


 胸の奥が冷えた。

 私は笑みを崩さないまま、静かに尋ねた。


「証拠は、おありですか」


「半分は」


「残り半分は?」


「あなたのドレスに」


 私は公爵様を見た。

 この人は、本当に危険だ。

 けれど、危険なだけではない。

 私がずっと隠してきた糸を、見つけた人だ。


「公爵様」


「はい」


「女性のドレスの中身まで見抜く男性は、あまり好まれませんよ」


「あなたに嫌われない程度なら、仕事に支障はありません」


「では、すでに支障は出ておりますね」


「それは困りました」


 全然困っていない顔だった。

 私は少しだけ息を吐いた。


「なぜ、私を助けるのですか」


「依頼がありました」


「誰から」


「あなたの祖母です」


 息が止まりそうになった。


「祖母は、離れから出られません」


「手紙は出せます」


「見張られています」


「刺繍の図案に暗号を縫い込める方を、ただの病人扱いするのは危険です」


 私は思わず目を見開いた。

 祖母が。

 あの離れの中から。

 この男に助けを求めた。


「祖母は、何と」


「ロザリアを外へ出してほしい。自分は後でもいい、と」


 胸の奥が痛くなった。

 祖母らしい。

 あの人はいつもそうだ。

 自分の薬より、私の靴を心配する。

 自分の毛布より、私の嫁ぎ先を心配する。


「後では駄目です」


 私は小さく言った。


「祖母も一緒でなければ、私はどこにも行きません」


「そう言うと思いました」


「では、なぜ聞いたのですか」


「確認です」


 曲が終わりに近づく。

 公爵様は、ほんの少しだけ声を低くした。


「今夜、あなたの屋敷へ監査が入ります。王立特許院、後見裁判所、医師会の三者合同です」


「ずいぶん大掛かりですね」


「ベルティ子爵家は、王妃付き刺繍師の登録図案を不正に売却した疑いがあります。加えて、保護下にある高齢者への療養放棄」


「父は抵抗します」


「でしょうね」


「後妻は泣きます」


「でしょうね」


「義妹は私のせいだと叫びます」


「ええ、全部そうでしょうね」


「公爵様は、それを聞いても心が痛まないのですか」


「多少は」


「意外です」


「泣き声は書類が湿るので」


「やはり、少し嫌いです」


「嫌われるのには慣れています」


 曲が終わった。

 私は手を離そうとした。

 けれど、公爵様は私の手を軽く留める。


「ロザリア嬢」


「何でしょう」


「逃げますか」


 私は広間の端を見た。

 義妹がこちらを睨んでいる。

 後妻は別の貴婦人に何か言っている。

 父はまだ、私がどんな書類を裾に隠し、どんな証拠を糸で刺しているかも知らない。

 私は十年間、待っていた。

 祖母を連れて出るために。

 失敗したら終わりだから、ずっと従順なふりをしていた。


 今が、その時なのだろう。


「いいえ」


 私は答えた。


「逃げません」


 公爵様がわずかに目を細める。


「では?」


「切ります」


 私は、彼の手を握り返した。


「ベルティ家との縁を。今夜、ここで」


 公爵様は初めて、本当に楽しそうに笑った。


「承りました」


     *


 屋敷へ戻る馬車の中で、リリアーヌはずっと怒っていた。


「どういうことですの、お姉様! グレイヴ公爵様と踊るなんて!」


「誘われましたので」


「断ればよかったのに!」


「公爵様のお誘いを断るのは失礼かと思いまして」


「いつもは失礼なくせに!」


 それは反論しづらい。


 父は不機嫌そうに私を睨んでいた。


「ロザリア。グレイヴ公爵に何を吹き込んだ」


「何も」


「おまえのような娘に、あの方が興味を持つはずがない」


「そうですね」


「その態度が気に入らん」


 私は窓の外を見た。

 夜の王都を、馬車が走る。

 胸の内側で、心臓がうるさい。

 怖くないわけではない。

 これから私は、家を壊す。

 正確には、家が私と祖母を閉じ込めていた檻を壊す。

 それでも、壊れる音はきっと痛い。


 屋敷に着くと、門の前に馬車が何台も止まっていた。

 父の顔色が変わる。


「何だ、これは」


 玄関前には、カイル様が立っていた。

 その隣には、医師らしき男性、書記官、そして王立特許院の役人。

 さらに、後見裁判所の紋章をつけた騎士が二人。


 父が怒鳴った。


「これは何の真似だ!」


 カイル様は、穏やかに一礼した。


「夜分に失礼いたします、ベルティ子爵。王立特許院および後見裁判所の令状に基づき、屋敷内の調査と、エヴァ・リンデル夫人の保護状況を確認いたします」


「馬鹿な! 我が家のことに口を出すな!」


「その我が家で、王妃付き刺繍師の登録図案が無断で売却されている疑いがあります」


 父の顔が引きつった。

 後妻はすぐに泣き声を作った。


「誤解ですわ。ロザリアが何か嘘を」


「ロザリア嬢」


 カイル様が私を見る。


「お持ちのものを」


 私は静かに頷いた。

 そして、ドレスの裾を少しだけ持ち上げる。

 縫い目に隠した細い糸を抜くと、薄い紙が何枚も出てきた。


 権利書の写し。

 祖母の署名見本。

 後妻が商人に渡した図案の控え。

 父が押した偽の承認印。

 それだけではない。

 私は裾の銀糸を指でたどった。


「この蔦の三つ目の葉から、裏の糸を見てください」


 王立特許院の役人が、布の裏を確認する。

 私は説明した。


「これはリンデル家のほどき刺繍です。葉の数は図案番号、返し針の向きは制作年、蕾の内側の糸色は依頼主を示しています。このドレスには、祖母が王妃様の婚礼衣装に使った図案と同じ署名が入っています」


 役人の顔が変わった。


「確かに。古い登録図案と一致します」


「そして、こちらの偽造された売買契約書には、その署名の読み方が間違っています」


 私は後妻を見た。


「リンデルの蔦は、右から読むものではありません。左の根元から読むのです」


 後妻の顔が真っ白になった。

 父が叫ぶ。


「そんなもの、ただの刺繍だ!」


 私は静かに答えた。


「いいえ。証拠です」


 祖母が言っていた。

 紙が燃えても、誰かが嘘をついても、正しく刺された糸は証人になる。

 今、その糸が、私たちを守ってくれている。

 医師が離れから戻ってきた。

 担架には、毛布にくるまれた祖母が乗せられている。


 私は思わず駆け寄った。


「お祖母様」


 祖母は痩せていた。

 けれど、目ははっきりしていた。


「ロザリア」


「ごめんなさい。もっと早く」


「いいの」


 祖母は、私の手を弱く握った。


「あなた、ちゃんと糸を読めたのね」


「はい」


「よかった」


 その一言で、私は泣きそうになった。

 でも、ここで泣くと後妻が喜びそうなので我慢した。

 祖母はカイル様を見た。


「グレイヴ公爵。約束通り、孫を外へ出してくださったのね」


「まだ途中です」


「いいえ。十分よ」


「不正の処理はこれからです」


「あなた、本当に噂通りね」


「どの噂でしょう」


「人の情より契約書を信じているという噂」


「契約書は嘘をつきませんので」


「人は?」


「嘘をつきます」


 祖母は小さく笑った。


「でも、ロザリアはいい子よ」


「存じています」


 その一言に、私は思わずカイル様を見た。

 彼は何でもない顔をしていた。

 まるで、当然のことを言っただけだというように。


     *


 その夜、ベルティ子爵家は調査対象となった。

 父は後見権を停止され、後妻は祖母の図案売却と署名偽造に関わったとして取り調べを受けることになった。

 リリアーヌは泣き叫んだが、少なくとも彼女自身が直接書類を偽造した証拠はなかった。

 ただし、しばらく社交界に顔を出すどころではないだろう。


 私は祖母と一緒に、グレイヴ公爵家の保護施設へ移った。

 保護施設、と聞いていたので冷たい石造りの建物を想像していたが、実際は小さな庭のある穏やかな屋敷だった。

 暖炉には火が入り、薬の匂いがして、看護師が静かに歩いている。

 祖母は久しぶりに暖かい寝台で眠った。

 私はその寝顔を見て、ようやく息ができた気がした。


 翌朝、カイル様が書類を持って訪ねてきた。


「ロザリア嬢」


「はい」


「ベルティ家との法的な縁切りは、数週間で完了します。あなたは成人前ですが、祖母の正式な後見補助人として認められる見込みです」


「ありがとうございます」


「それから、あなたの今後について」


「はい」


「選択肢は三つあります。ひとつ、母方の遠縁の修道院へ入る。ふたつ、王立刺繍院の見習いになる。みっつ、私の契約調査室で働く」


 私は少し考えた。

 修道院は静かだろう。

 契約調査室も悪くない。


 でも、昨夜、私は知った。

 祖母が教えてくれた針は、ただの飾りではなかった。

 私の人生を取り戻す力だった。


「王立刺繍院へ行きます」


 カイル様は、ほんの少しだけ目を細めた。


「よろしいのですか」


「はい」


「刺繍院は厳しい場所です」


「祖母のほうが厳しかったので」


「では、大丈夫でしょう」


 彼は少し笑った。


「ただし、必要であれば契約調査室はいつでも協力します」


「有料ですか」


「あなたには割引を」


「祖母の薬代一年分より高いなら考えます」


「では、顧問契約にしましょう」


「商売がお上手ですね」


「仕事柄」


 私は初めて、少しだけ素直に笑った。


     *


 数か月後、私は王立刺繍院の広間に立っていた。

 目の前には、祖母エヴァの古い図案帳。

 そして、ベルティ子爵家が偽造して売ろうとしていた刺繍図案の写し。

 審査員たちは、どちらが本物のリンデル刺繍を継ぐ者かを見極めようとしていた。

 広間の後方には、祖母が椅子に座っている。

 膝には柔らかな毛布。

 顔色は以前よりずっとよい。

 その隣には、なぜかカイル様が立っていた。


「公爵様」


「何でしょう」


「なぜ審査にいらっしゃるのですか」


「顧問契約の準備です」


「まだ結んでいません」


「では、見学です」


「お暇なのですか」


「あなたの人生が決まる日を見る時間くらいはあります」


 そういうことを、平然と言う。

 非常に困る。

 私は顔が熱くなるのを誤魔化すように、針を取った。


 課題は、リンデル家の古い図案をもとに、新しい花嫁用の袖飾りを作ること。

 ただし、ただ模写するだけでは駄目だ。

 リンデルの手筋を継ぎながら、自分の糸を入れなければならない。


 私は深緑の布を広げた。

 銀糸を通す。

 蔦を伸ばす。

 小さな蕾を開かせる。

 その蕾の裏に、リンデル家だけが使う返し針を入れる。

 けれど、私はそこにもう一色、淡い白金の糸を重ねた。

 祖母の蔦は、守るための蔦だった。

 証拠を隠し、真実を残し、燃えてもほどけないように刺す蔦。


 私の蔦は、そこから少しだけ外へ伸びる。

 隠れるためではなく、道を作るために。

 私は針を進めた。

 指先は落ち着いていた。


 家で冷遇されていた頃、私は自分が何者でもないと思っていた。

 でも、違った。

 私はずっと、祖母の跡継ぎだった。

 まだ誰にも認められていなかっただけだ。

 最後の糸を留め、私は針を置いた。


 広間が静かだった。

 審査員の一人が布を持ち上げ、裏を確認する。

 そして、息を呑んだ。


「これは……エヴァ・リンデルの手筋だ」


 別の審査員が言った。


「いや、ただの模倣ではない。蔦の終わりが開いている。これは新しい図案になる」


 祖母が、静かに笑った。


「ロザリア」


「はい」


「よく刺しました」


 その言葉だけで、十分だった。

 審査員長が立ち上がる。


「ロザリア・ベルティ。いえ、ロザリア・リンデル。あなたをリンデル刺繍の正式な後継者として認めます」


 私は深く頭を下げた。

 胸の奥が震えていた。

 ベルティ子爵家の不要な娘ではなく。

 誰かの妻として買われる令嬢でもなく。

 王妃の衣装を飾った刺繍師の血と技を継ぐ者として。

 私は、ようやく自分の名前で立った。


     *


 その後、私は祖母とともに小さな工房を開いた。

 名は、リンデル刺繍工房。

 最初の仕事は、大使夫人からの依頼だった。

 あの夜会で私が袖を直した夫人だ。


「あなたに正式に頼みたかったの」


 彼女は笑って言った。


「亡き母の国の刺繍と、リンデルの蔦を合わせたショールを作ってほしいの」


「光栄です」


 私は心からそう答えた。

 祖母は椅子に座り、若い職人たちに糸の扱いを教える。

 私は図案を描き、針を持つ。

 祖母の手ほどきは相変わらず厳しい。


「ロザリア、そこは糸を引きすぎ」


「はい」


「布が苦しそうよ」


「布の気持ちまで読むのは難しいです」


「跡継ぎでしょう」


「はい、先生」


 祖母は満足そうに笑う。

 その笑顔を見るたび、私はこの道を選んでよかったと思う。


 ベルティ子爵家は、父の親族が継ぐことになった。

 父と後妻は、財産管理の不正で社交界から姿を消した。

 リリアーヌは遠縁の家へ預けられたらしい。

 時々、私を恨んでいるという噂を聞く。


 それを聞くたびに、私は思う。

 恨む元気があるなら、何か学べばいいのに。

 たとえば、糸の結び方とか。


     *


 ある冬の日。

 工房の閉店後、カイル様が訪ねてきた。

 手には、書類の束。

 私は針を置き、彼を見た。


「公爵様」


「はい」


「またどなたかの縁を切ってきたのですか」


「今日は結ぶほうです」


「珍しいですね。雪でも降りますか」


「すでに降っています」


 窓の外では、白い雪が静かに舞っていた。

 カイル様は書類の束から一枚を取り出す。


「リンデル刺繍工房との顧問契約書です」


「ようやく正式に?」


「はい。あなたの工房は、今後、王家や貴族から多くの依頼を受けるでしょう。権利書、図案登録、契約条件。面倒ごとが増えます」


「そこで縁切り公爵様の出番ですか」


「縁を切るだけではありません。悪い縁を避け、よい縁を守る仕事もします」


「少し格好よく言いましたね」


「努力しました」


 私は契約書に目を通した。

 条件は明確。

 費用は適正。

 工房側が不利になる条項はない。

 ただ、一箇所だけ妙な文言があった。


「公爵様」


「はい」


「この“工房主の夜会同行に関する相談”とは何でしょう」


「必要かと思いまして」


「なぜ?」


「あなたはまた壁際に戻りそうなので」


「戻りません」


「なら安心です」


「公爵様」


「はい」


「もしかして、私と夜会に行きたいのですか」


 カイル様は黙った。

 珍しい。

 非常に珍しい。

 私は少し楽しくなってきた。


「縁切り公爵様が、刺繍師を夜会に誘うのですか」


「不都合ですか」


「いいえ。ただ、意外です」


「あなたはもう、壁の花ではありませんから」


 カイル様は、静かに言った。


「リンデル刺繍の後継者として、堂々と広間の中央に立てばいい」


 胸の奥が、少し熱くなった。

 私は契約書を机に置いた。


「では、公爵様」


「はい」


「まずは顧問契約を結びます」


「ありがとうございます」


「夜会同行については、別契約です」


「条件は?」


「祖母の好きな焼き菓子を、毎回持参してください」


「安い」


「では、私の好きなお茶も」


「承知しました」


「それから」


 私は少しだけ視線を落とした。

 言うべきか迷った。

 でも、もう壁の花ではない。

 自分で選ぶと決めた。


「夜会では、一曲踊ってください」


 カイル様が目を見開いた。

 そして、ゆっくり笑った。


「喜んで」


「二曲目を望まれた場合は、追加料金です」


「祖母君の薬代一年分?」


「今はもう足りていますので」


「では?」


「工房の新しい看板代を」


「安いですね」


「高すぎると、契約が重くなります」


 カイル様は、どこか嬉しそうに頷いた。


「では、軽やかに結びましょう」


     *


 それから少しして、私は王宮の夜会に招かれた。

 今度は義妹の付き添いでも、父の都合でもない。

 リンデル刺繍工房の主として。

 私が着ていたのは、あの深緑のドレスを仕立て直したものだった。

 古い布は丁寧に洗われ、新しい銀糸と白金の糸で蔦が刺し直されている。


 裾には、祖母の手筋。

 胸元には、私の新しい図案。

 隠れるためのドレスではない。

 私が私の名前で立つためのドレスだ。


 広間に入ると、何人もの視線がこちらへ向いた。

 以前と同じ夜会。

 同じ灯り。

 同じ音楽。

 けれど、私はもう壁際へ向かわなかった。


 カイル様が隣で手を差し出す。


「ロザリア・リンデル嬢」


「はい」


「一曲、踊っていただけますか」


「私と踊ると、どなたかとの縁が切れるのでしょうか」


「いいえ」


 彼は静かに笑った。


「今夜は、よい縁を結びに来ました」


 私はその手を取った。

 もう、怖くはなかった。

 祖母が残した糸は、檻ではなく道だった。

 そしてこれからは、私自身がその道を刺していく。

 冷遇生活に、私はようやく別れを告げた。


 壁際にはもう戻らない。

 たとえ夜会に出ても、今度は壁の花ではなく、リンデル刺繍の後継者として立つ。

 必要なら、相手の契約書の不備も指摘するだろう。

 かなり嫌がられそうだ。

 でも、それでいい。


 私の隣には、嫌われることに慣れた縁切り公爵がいる。

 そして私はもう、嫌われることを恐れて、自分の人生を差し出したりしない。


 音楽が始まる。

 カイル様の手が、私の手を包む。

 私は広間の中央で、静かに一歩を踏み出した。

 針を持つ手で。

 糸を読む目で。

 祖母から受け継いだ誇りを胸に。

 私は私の人生を、これから自分で刺していく。


 その最初の一針のように、銀糸の蔦が、夜会の灯りの中で柔らかく輝いた。

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