残高ゼロからの再出発
「……あー、腰が痛くない」
それが、満留(52歳・元設備管理会社勤務)が異世界で最初に発した言葉だった。
見渡す限り、目に優しい緑の草原。空気は排気ガスの匂いが一切せず、肺の奥まで洗われるようだ。
目の前には、ぼんやりと光る半透明の板――「ステータス」が浮いている。
神様とやらとの面談は、夢の中のようで曖昧だったが、授かった力ははっきりと体に馴染んでいた。
【保有能力】
召喚魔法:既知の物質を呼び出す。※対価として同価値の「素材」が必要。
空間魔法:Lv.1 インベントリ。
全世界翻訳:言語の理解・発話。
身体強化:旅で死なない程度の基礎能力向上。
基礎知識:世界の一般常識および、経験に基づく情報の表示。
「さて……まずは喉を潤したいところだが」
試しに「ミネラルウォーター」を思い浮かべ、召喚魔法を念じた。
しかし、指先から魔力が抜ける感覚とともに、脳内に冷徹なシステムメッセージが響く。
【エラー:対価が不足しています】
召喚対象:富士の天然水(500ml)
推定価値:銅貨1枚相当
現在の捧げ物:なし
「なるほど。等価交換、か。社会と同じだな。働かざる者、飲むべからず」
苦笑いしながら周囲を観察した。
足元には、元の世界では見かけない、青白く光る筋の入った草が生えている。
すると、視界の端に控えめな文字が浮かび上がる。
【名称:ミント草】
種別: 薬草
価値: 銅貨2枚相当
「身体強化」の恩恵を感じながら、軽やかに膝をつき、その草を数束摘み取った。
指先で葉をこすると、スッとした清涼感が鼻を抜ける。その瞬間、表示がわずかに更新された。
【名称:ミント草】
更新: 強い清涼感あり。食用、あるいは香料として利用可能。
「なるほど、経験した分だけ情報が肉付けされるわけか。」
神様がくれたのはあくまで辞書の索引のようなもので、中身を書き込んでいくのは俺自身の役目なのだろう。
それを「空間魔法」のインベントリに放り込む。わずかに魔力が消費されるが、重い荷物を背負う苦労に比べれば安いものだ。重さを感じない収納は、おじさんの膝と腰にこの上なく優しい。
「よし。ミント草を対価に……『プレミアムモ〇ツ』。いや、まずは水だな」
【召喚:実行確認】
対象: 富士の天然水(500ml)
必要コスト: 銅貨1枚相当
支払い素材: ミント草(価値:銅貨2枚)
※お釣りは魔力として還元されます。実行しますか?
欲望を理性で抑え込み、先ほどのミント草1束を媒介に「天然水」を召喚する。
目の前の空間が歪み、見慣れたペットボトルがポロリと落ちてきた。
「……美味い」
ぬるい水のはずなのに、これまでの人生で飲んだどの高級酒よりも美味く感じた。
しがらみも、納期も、クレームもない。あるのは自分の空腹と、それを満たすための「素材」だけ。
「まずは、人が住んでいる場所を探すか。この足なら、日が暮れる前には着くだろう」
身体強化された軽い足取りで歩き出した。
目指すは、のんびりとしたスローライフ。だがそのためには、この世界の「相場」を知らなければならない。
おじさんの異世界放浪記、その第一歩は、道端の薬草摘みから始まった。




