一難次難コマーシャルファシリティ
寝苦しさと喉の渇きと尿意を催して、起きたときには昼近くになっていた。
昨夜はちょっと三杯のつもりが、やめられない止まらないBIGサイズのポテチをパリパリとやりつつ、大きな焼酎パックをロックで一本カラにしてしまった。次から次へとユーチューブの沼に完全にはまった。目が疲れたら横になってFMラジオを流しているが、これがまた面白い番組が多くて気に入っている。お酒もはかどるわけだ。
高収入最優先で見つけた派遣の仕事で食いつないでいるが、カネのない休みの日は大体こんな調子で、給料がでるとパチンコをするかボートレースに行っている。
日曜日。憂鬱な例の頼まれごとさえ済ませば、他には何もすることはない。
暑い。スマホを見ると、まだ四月にもならないのに日中の最高気温は二十四度予想になっている。いったいどうなってんだ地球は。寝汗でTシャツもビシャるわけだ。脱ぎながらユニットバスのドアを開け、すぐ横の洗濯機のドラムの中に服を突っ込んだ。嫌な臭いが鼻を突いた。
小を済ませて戻ると、冷蔵庫からミネラルウォーターの五百ミリペットボトルを取り出して、その場で一息に飲み干し、容器をねじってから、ごみ袋めがけて放り投げる。入らずに袋の奥のガス台下の開きに当たって消えた。脱ぎっぱなしで万年床の布団のそばに落ちている目についたカットソーとカーゴパンツを手にして、鼻先にもっていき匂いを嗅いだ。若干匂ったが自己判定では青寄りの黄色だったので身につけた。袖にくっついているポテチの破片を払い落とす。基本、服は汚れが目立たない黒か濃紺だ。
朝食は一人暮らしが三年目を迎えるころ抜くことにした。元来料理は好きで、はじめの頃こそ自家製ベーコンやら薫玉など凝った料理を作り、それでカルボナーラをこしらえて独り悦に入っていたのだが、所詮独りよがりで、今では食パンを焼くのも目玉焼きも味噌汁も作るのが面倒になった。二年間でとんでもない量の食材を腐らせて学習した。洗い物も一切したくない。我が家のワンルームで唯一きれいな場所はシンクだ。ガス台には雪平なべが常時あるだけ。もう料理はまったくする気がしない。今の食事は近所のスーパーで値下げシール待ちの同じ弁当を飽きることなく何年も食べている。腹が膨れればなんでもいい考えになった。百均の紙コップと紙皿は使い捨て。カップ麺のスープは飲み干すか無理ならトイレに流す。つまりシンクは汚れない。
いつどうやって手に入れたか思い出せない黒のキャップを被ると、スマホとキーケース、財布を手にした。ため息を一つ吐いて、片方の踵ののりが剥がれかけているスニーカーを履いて家を出た。
目的地の商業施設は、三連休の中日の日曜日とあって、いつになく混雑しているようだ。
燦々と照りつける日差しを浴びながら、満車サインに追いやられて同施設の屋上に五年落ちのアルトを停めて、二基あるエレベーター室へ向かうと、運悪く箱はどちらも地階近くにあるようなので、あきらめて階段で屋上の七階から四階まで降りた。すでに脇と額に玉のような汗をかいている。
日用雑貨を主に扱うフロアの一角に、妹から伝えられていた”パフューム”という香水店はあった。
それにしてもフロア全体に人が多い。なんなんだこの混雑ぶりは。みんな他に行くとこないのか?と、自分を棚に上げてみる。
香水専門店はそこかしこの棚に、数多の鮮やかな彩りとデザインの香水が整然と並べられている。これまで嗅いだことのない香りのオーケストラが店内を包んでいる。
ぼくは気後れして、踏み出そうとした足を引っ込めて入店をためらった。”場違い”という言葉が脳裏をよぎる。アールデコ調の模様が刻まれた、ガラス張りで囲われた店内にいる客や店員はもれなく女性だ。服装もコーディネートに関してもぼくは無知無関心だが、みんなお洒落で華やかな印象だ。どこから腕や足を通して着ればそのようになるのかまったく理解できないファッションの人もいる。ヘアスタイルも同様で、対してキャップを取れば寝ぐせが爆発して、フケがポロリと零れるかもしれないぼくがいる。
改めて自分自身を見下ろした。全身黒のキャップとカットソーにカーゴパンツ。すでに汗で肌にくっついて、内側に空気を入れて体勢を前傾にしないと乳首マークがどうにも隠せない。パンツはしわくちゃ。そして洗濯日不明。キャップに関しては手に入れてから一度も洗ったことはない。連休に入ったから浴室の扉も一昨日、昨日と開けていない。つまり三日風呂に入ってない。などと考えていると、カーゴパンツのポケットのところにポテチの欠片がくっついているのを見つけた。素早く払い落とす。どうする?
いったん回れ右をして、フロア内のベンチシートがある場所まで移動して腰を下ろした。額に手をやるとびっしょり汗をかいている。ハンカチなんて洒落たものは持参していないので、足元に手を振ると、汗しぶきが床のセラミックタイルに飛び散った。
地方の実家に住む妹から、東京・大阪限定の店舗先行販売の香水を買って送ってくれないかな、と頼まれたのは先週末のことだった。
兄想いの良くできた妹で、風来坊を心配して三月に一度くらいの頻度で消息を尋ねてくる。
平和島競艇の本場で、11Rが終わるころそのラインを見たわけだが、その日は神がかって舟券が的中し、八万円ほど勝っていたこともあって気分は最高。発泡酒もいつになく旨く感じていた。
買い物の頼まれごとと、香水という自分とは一生無縁の品と、¥20350という高額の数字に一瞬固まったが、たまには妹孝行でもしてやるかと気まぐれを起こし、それくらいなら買ってやるよ、とラインを返したら、大喜びの文面と絵文字が秒速で返ってきてニヤニヤしていたのだが、12Rが終わるころには一転激しく後悔していた。さらに、我ながら何を思ったか、その後パチンコ店に入ったのは良くなかった。ドラム式リールは横と斜めに、ただの一度も『7』が三つ揃うことなく、機械に千円札が面白いように吸い込まれ、茫然自失の態で駅のホームで財布を広げたら、札は一枚だけ。千円しかなかった。昼過ぎの出発時には最高額の紙幣が三枚あったのに……。
何をやっている。馬鹿なのか?ぼくは馬鹿なのかぁっ?!イカレてる。なんで八万勝ってるときに帰らない?「にしても最終レース外したら、まっすぐ帰れや、このぼけぇ~~~ッ!!」
ぼくは人目もはばからず、両膝を地につけ絶叫していた。周りの、おそらく冷めた視線はどうでもよかった。どうせ二度と会うことはない人間ばかりだ。スマホでカメラを向けたやつにだけ、恰好だけ足を向けるとそそくさ逃げ去った。
いまさら妹に、やっぱり自分の金で買ってね、という勇気はぼくにはなかった。
消沈の電車内で、妹とのライントークに前言撤回の文面までは作り、指先をスマホ画面の一センチ上でずっとうろうろさせていた。内心、吊革を掴んで目の前に立っているサラリーマン風が、うっかりぼくにぶつからないかな、などと思っていた。電車の急ブレーキさえあれば、などと考えていた。うっかり送信されたラインはぼくのせいじゃないなどと。……最低だ。どうせちっぽけな人間なんだよ、ぼくは。
自宅の最寄り駅に電車が着くころ、脳がよじれるほど悩みに悩んで、先ほどの文面を消すと、文章を作り直して妹にラインした。
『香水 来週日曜に買いにいって 月曜にゆうパックで送るから楽しみに』
速返を見て、ぼくはとぼとぼ帰路についた。その日の夕食は抜きにした。
店の前を行ったり来たりして、客がいなくなるのを待ったが、人気店らしくなかなか客は途切れない。
黒ずくめで風采の上がらない男が、あまり同じ所をうろちょろしていては怪しまれて警備員が飛んでくるのは目に見えているので、意を決して、おばさん客しかいない時を狙って店に入った。
入店から購入、退店までのシミュレーションは頭の中で何度も繰り返している。左手に持ったスマホを滑り落としそうなほど手汗をかいている。脇汗もえげつないほどかいていて、たぶん服を絞れば小さな水たまりができるだろう。
ゴクリと意を決すると、ぼくは店内商品には脇目も振らず足を踏み出した。
早足で一直線にレジまで来る、怪しい者ではありません、が最も響かない存在のぼくにロックオンされた二十代前半らしき女性店員は、ずんずんと自身に向かってくる変質者に目を見開いて、ひっ!という怯えた反応を示したが、逃げ出す前に手を伸ばして、彼女にスマホ画面を向けながら、脳内で何度となくリピートしたセリフを口早にいった。
「す、すみません。こ、こ、これなんですけど、ありますか」見事に声が裏返った。
半身になって肩もみをするような体勢でのけ反って機械仕掛けのように驚いた表情のまま、店員はゆっくりとぼくから視線を落とした。そしてゆっくりと画面に顔を近づける。
「あ、ありま……ございます。……昨日入荷したばかりの新作です」
「それください」自分のものとはとても思えない高い声。
「少々お待ちくださいませ」
店員はそそくさと入口正面の平台に回ると、小さな箱を一つ取って元いた場所に戻り、恐る恐るぼくに両手で差し出した。
「こちらでお間違いないでしょうか」
お間違いなく妹から送られた写真と同じ品だった。おそらくいつもの冷静さを取り戻しつつある店員は、パンフレットなのかテスターでも薦めるつもりなのか、商品をガラスケースに置いて、どこかへ行きそうだったので、ぼくは慌てて引き留めた。
「あっ、ちょっと!会計を!あの、急いでるから。えっと、現金で大丈夫っすよね」
一分一秒ここに長居したくない思いだった。上半身とブリーフはすでにびっしょりと不快な様相を呈している。顔はワイパーをかけないと前方が見えないほどの状態になり、ぽたぽた足元を濡らしている。
「お客様、ですがそれは……」困り顔の店員はきょろきょろと誰かを探している。
「これでいいから、ね、早く。急いでるから」
話を折って、ぼくはいった。
店員は顔だけ振り向くと、こんどはポカンと「は、はぁ……」とレジに向かいながら、店長らしきスタッフに視線を送っていたが、当の本人も口を半開きにしてポカンとしたまま指示的なサインはなく静観していて、若手スタッフはおどおどと戻って操作した。
保存袋にきっかり二万三百五十円用意していたものを、震えるべたつく手でキャッシュトレーに逆さになんとか出して、「袋もレシートも大丈夫です」といって、ひったくるように保存袋を持つ手で商品を掴むと、そそくさと踵を返した。不審者に思われようが、頭のおかしい奴だと思われようが知ったことではない。もう二度とここには来ないのだから。
三人ほど店員がいたはずだが、とうとう誰一人からも、ありがとうございました、の声を背中に聞くことなく店を後にした。
本来、空調は快適なはずのフロア内にあって、ぼくは上半身もパンチーも、それどころか靴下までもビショビショだった。びちゃった生地が肌に張り付いて不快指数はMAXだ。それに汗臭い。極度のストレス性ワキガ臭も漂っている気がする。一刻も早く帰宅しなくては。
あー、水風呂に飛び込みたい。頭の先から爪の先まできれいさっぱり浄化したい。
人混みと思いがけない坊やとお嬢の変則的動きを交わしつつ、エレベーターホールへ向けて早足で歩きながら、ぼくは少し迷っていた。階下に降りてユニクロで最安の上下の服を買って、いま着ているすべてをゴミ箱へ永久出向させるか、はたまた、一刻も早く帰路に着くか。
秤は一度、ユニクロに大きく振れたが、次から次へと引かない汗に、着替えてもあまり意味はないかと思い直し、エアコンだと風邪をひくから車窓全開で辛抱するしかないという秤に軍配は上がった。なんなら素っ裸で運転したいくらいだ。自宅までたかだか四十分の我慢だ。大仕事は終わったんだ。もう何も怖くない。
エレベーターホールに着いて、無意識に二つのデジタル表示に視線がいった。ひとつは『B1』へ下降中とあり、もうひとつは『4』で止まっている。
フロア全体は大混雑だし、自分自身の現状がこの惨状だけに、車を停めてある屋上の七階まで階段やむ無しと考えていたのだが……。
階段室に向かっていた足を止め、エレベーターの階数表示を二度見した。
『4』
階段室の壁に階層表示の数字が大きく見えた。
『4』
えぇっ!どういうこと?背後を振り返ると信じられないくらい人がいっぱいいる。だけど、エレベーターホールにはぼくしかいない。停止している『4』のエレベーター。そろりとドアに近寄って『△』のパネルを押してみた。ドアが左右に開くと、そこには無人の箱があった。
思考することなく速やかに乗り込むと、ぼくは屋上を示す『R』を押すより先に『閉』ボタンを一秒間に荒々しく十六連射した。
誰かが乗り込もうにも、もう間に合わないところまでドアが閉まったところで、ようやく安心して『R』をやさしくプッシュした。それと同時に何かを失念している気がしたが、あまりの安堵感に、よろよろと操作パネルの背後に寄りかかった。なんなら座り込みたいくらいだ。
エレベーターが緩やかに上昇をはじめた。
長かった……。それにしても、返す返すも……。たかが、香水一個買うだけでなんでこんなにバタバタしなければいけないのか……。はじめてのおつかいじゃねんだよ、くそっ! くそっ!罵詈雑言の他の言葉を考えようとしたが体臭が思考の邪魔をした。臭い。げんなりするとかじゃ済まされないほど臭い。汗臭いのはともかく、二十八年間生きてきて初めてのコレは何?
片腕を上げて脇に鼻を近づけた。
「うぉぇっ!!」
なんじゃ、こりゃ。紛れもなく疑いようもなくワッキーガの匂いじゃんか。くさすぎる……。うぉぇっ。あー、もうっ!ちんたらしてないで早く屋上に行けよ、うぉぇっ。このおんぼろベーターがっ!!
内心に呼応するようにエレベーターが、チーンとやさしいメロディーを奏でた。
え?!
箱内の表示ランプは『5』を示している。まもなくドアが左右に開いた。
我が目に映るその情景に、ぽかんとなり、手から香水がぽろりと床に落ちてカシャリと音を立てた。後を追うようにくちゃくちゃの保存袋がぽとりと落ちた。
映画の出演者の集合写真のパンフレットのようだった。
正面に車椅子の老人。その背後でハンドルを握る老女。左手に見えますのは八歳くらいの少女と手をつないで背後に控える三十五歳の美人。つづきまして右手に見えますのは大学生風のメガネ男。その後ろに青い目の外国人女。と、その友人らしき金髪巨漢男が二人。それと老女の背後に茶髪でオールバックのメンズが一人いるようだ。額から上しか見えない。
無意識に特急電車に乗ったつもりだったが、各駅停車もあることを、そんな当たり前で当然のことを見落とすなんて……。
あまりに想像外の出来事に頭がパニックになり、”ここで降りる”という考えには及ばず、ぼくはのろのろ香水と袋を拾って、角で身をすくめた。
真っ先に乗り込んだ学生風が操作パネルの前に陣取り、『開』を押して全員が乗り込むのを待った。ぞろぞろと車椅子を筆頭にすべてが箱内にぴっちりと納まった。ぼくは車椅子と老婆に挟まれることになった。
『6』を押す人はいないようで、十人全員が屋上行きのようだ。
密閉空間の箱が上昇をはじめて間もなく、車椅子の老人が、「うぅ・・・」と苦しみ出したかと思えば、外国人女が、「マイガァッ!!」と叫んで、ドアをどんどんと叩いて扉の合わせ目に両手をあてているが無論開くことはない。
ぼくは縮こまって声を上げない他の人の様子をさりげなく観察したが、全員が手や服で鼻を覆っていた。無意識に力が入っていたのか、握っていたものから汗ではない何かが滴りだした。キャップが緩んだ香水がぽとぽと落ちているのだった。
それはとてつもない化学反応だった。香りという面で、多くの人が感じる最高峰のかぐわしいものと底辺に感じるであろうお下劣の融合。十の良人と悪人。十のポジティブとネガティブ。いついかなるときでも対等の環境や状況においてでは圧倒的に負のエネルギーが勝る。
巨漢男の一人が声にならない声をあげて、コンパネの方へふらふらと体勢を崩した。びっくりしたメガネ男が涙を流して鼻をつまみながら片手で男を支えた。
すべてがスローモーだった。
車椅子の老人は呻いて片手で頭を抱えている。
ハンドルを握る老女は、伴侶の肩に手を置き、もう片方の手はハンカチを添えた手で鼻をふさぎ俯いている。
少女は母親に顔ごと抱き着いてぴくぴくと声も出ない様子。
その美人母はただ俯き目を閉じて息を止めている様子が斜め後ろから見て取れた。
メガネ男は倒れてきた巨漢を片手で支えつつ、涙目でもう一人の巨漢に非難の目を向けている。
外国人女は呪いの言葉を吐きながら、開くことのない扉を懸命にこじ開けようとしている。
巨漢の一人は失神し、もう一人は友人の心配をしているどころではなく、うぷうぷと膨らんだ口を押さえているが、両手の肘からぴちょぴちょと汗ではない何かが滴りおちている。
茶髪オールバックは後頭部しか見えないが、肩が上下に揺れているのが見て取れた。まるで、クックックと笑っているかのように……。
思考が目まぐるしい速度で回想をはじめていた。
パフューム。香水専門店。店員に見せた妹からのライン写真。店員が店内入口正面の平台から取ってきた香水の箱。会計を急ぐぼく。ぴったり用意してあったお金をキャシュトレーに落として、ひったくるようにして商品を掴むぼく。びっくりしたように目を見開いたまま固まるスタッフとおばさん客たち。店を出る直前に商品の平台に何気なく視線がいく。ぼくが手にした香水の化粧箱をさらに正四角形の透明アクリルケースが包んでいる。
テスター……。右手からぽたぽた滴る液体。
いつの間にか失禁していたが、もう、すべては今さらだった。この狭い箱内に十人もの人がすし詰め状態で、くさやもシュールストレミングでさえも、おそらく太刀打ちできない匂いが箱内に充満している。目が痛い。
エレベーターが『6』を通過していたが、これほど時間というものを長く感じたのは初めてだった。誰もがそれぞれで限界を超えて耐えていた。一人は失神しているが、ほとんどの人たちは一点を見つめながら必死に耐えていた。また犯人捜しを今することが無意味であることも全員が理解していた。ドア上の階数表示は『6』で点滅したままいっこうに『R』を示さない。
それは永遠ともおもえる時間旅行だった。
やがてエレベーターは『R』で止まり、チーンと涼やかな音色を鳴らした。
外国人女が我先にと両開きの合わせ目に手をあてたまま一秒でも早く扉を開けようとしている。五階で乗り込んできた人たちは、三十秒にも満たない短時間で重篤患者のように変わり果てている。
扉が開くと半身になって外国人女が飛び出し、他も続いた。四つん這いになり嘔吐している人もいる。老人と老女が苦し気だが、慌てず騒がず出ていくと、最後の一人になったぼくもふらふらと閉まりそうになったドアを香水を持った手で押さえた。ぴちゃりと液体が再度こぼれた。
乗り合わせた誰もがエレベーターホール内で回復に努めているようだったが、やはり茶髪オールバックだけが握り拳を口にあててクックと笑っていた。そして時折ぼくに視線を送っている。
ふと手の中の香水を目の前に持ち上げてみると、液体は容器内に残り三分の一ほどだった。しっかりキャップを締めて保存袋へ落とし入れると、苦しむみんなを尻目に駐車場へ出た。
愛しのアルトへふらふらと足を向けながら、妹はコレを送ってどう思うだろうとぼんやり考えていた。賢明な妹なら、怒ったり詮索したり質問攻めにすることはない気がした。ただ、ありがとう、と根拠なくいってくれる気がした。
アルトのキーロックを解除したところで背後から声をかけられた。
「失礼ながら、あなたはとてもファンキーな人ですね」
首だけ振り返ると、先ほどの茶髪オールバックが小走りに歩み寄ってきた。そして懐から名刺入れを取り出し一枚抜くと、片手でこちらに差し出した。
受け取った名刺には見覚えのある文字があった。”Pafume"とある。他もすべて日本語ではない文字で印字されていたのでさっぱり分からないし、紙面中央のがこの男の名前なのだろうが、それすら読めなかった。頭がずっと沸いていて冷静な思考に至らない。
ぽかんと立ち尽くすぼくに、身なりの整った茶髪はやさしく口角を上げて口を開いた。
「失礼ですが、あなたはお仕事は何を?」
「派遣で工場で働いてます」
十分前まで一刻も早く帰路につきたいと願っていたが、事がここまで至ると、もはや何もかもどうでもよく、眼前の茶髪がこちらの職業など訊かずにさっさと鬼文句を吐いて立ち去ってほしかったのだが、まるで思ってもいない言葉がこの男の口から出た。
「よろしければ私たちのオフィスで共に働いてみませんか。私も香りの業界には長く携わっているが、先ほどの香りは未経験のエクスタシーでした。待遇はあなたの現状より高いものをお約束します。三日以内に決断なさるなら、私へのダイレクトコールをお待ちしています。それではくれぐれも安全運転で」
茶髪はぼくの返事を待つことなく踵を返したが、ポンと手を打つと反転して、ジャケットのポケットから四角い小さな箱をぼくに握らせた。
「車に新作をいくつか載せておいて正解だった。これは私からあなたへのプレゼントです。これを受け取る人も未開封の香りを喜ぶと思いますよ」
こちらの内心をスキャンしたようなことを笑顔でいうと、ぼんやり立ち尽くすぼくを尻目に、「では」とMJのように再度反転すると、すたすたと自身の停車場所まで行った。そこには帽子をかぶったスーツ姿の黒人が待ち受けていて後部ドアを開いてルーフに片手を添えた。茶髪が屈んで白く長い車に乗り込んだ。すかさず男が白手袋の手でドアを緩急をつけて閉めると運転席に回った。
車は音もなく静かに滑らかに料金所のバーへ進むと、あっというまにスロープの下へ消えていった。
思考回路が停止して呆然と見送ったが、改めて名刺を顔の前にやった。やっぱりさっぱりわからない。もう一方の手を顔の前にもってくると、妹から送られた写真の香水と同一のものがアクリルケースに包まれていた。アルトの運転席のドアを開けて二つの香水が入った袋と名刺を助手席へぽいっと放ると、ドアを手に空を見上げた。ギラギラとした太陽様がぼくを焼いている。ここに至って香りも匂いも何もわからなかった。
無。その場で目を閉じ深呼吸をしたら少し楽になった気がして、ぼくはアルトに乗り込んだ。エンジンをかけて窓を全開にすると、ゆっくり発進した。




