作家にはなれない
白河の水に魚も棲むようなこの世の中で、私は作家にはなれない。
そもそも、「作家」とはそんなに高尚なものか。ちょっとばかし日本語の上手い、否、頭でっかちなだけの詐欺師ではないか。私が机に真っ新な原稿用紙をこれみよがしに置いて頬杖をついてみたところで、世間は私を「暇人」と罵り、嘲笑うに相違ない。くたばれ。精々、本の中の妖精と戯れて居れば良い。
第一に、私の言葉を真に聞こうとするものは果たしてどれほどいるのか。凡庸な読書家気取りは、ある言葉を経典の如く崇めたかと思えば、ある言葉はまるで小動物の死骸かのように足蹴にするのだ。読書家とはそんなものであろう。やれ行間だ、やれ情景だなどとご立派に講釈を垂れる姿は浅ましいことこの上無い。
道中は季節通りの雨模様である。無論、そこに感情はない。只の地理的要因に他ならぬ。それを「作家」は肉を付け、脂を付けして、虚飾に侵された文章をつくりだすのだ。原景は死んでいる。やはり、彼らの足元に。
ならば、そこで生き永らえる種を拾って蒔こうではないか。虚構によって踏みにじられた種をもう一度土に還すのだ。そんな時に凡人のすることといえば、切り取られた造花を愛でることだ。好きにすれば良い。見えるものだけ見て生きることが、何と幸せなことであろうか。造花の植った土は痩せるのだ。忌々しい虫たちも消えるのだ。だから、冬の畑に背高の向日葵が茂るようになったのだ。
道端の石ころを左足で蹴る。石ころは転がって排水溝に落ちる。やはり私は作家にはなれないようだ。




