第9話 幼年期の終わり
リザが手首から夥しい量の血を流し、苦鳴を漏らすのを見てアーチャーの男は哄笑をあげ続ける。
「馬鹿な女だ。実力差が分かっているならとっとと逃げればいいものを。まあ、逃がすつもりはないんだがな」
男の指が再び弦を弾く。リザの胸元が服ごと切り裂かれて血が舞う。二度、三度と同じようにリザの肉体が切り刻まれる。
「なんだ、もう無抵抗か? 魔法使いってのは杖がないと弱くていけねえ。おまけに女じゃ根性が足りなくてもしかたねえよなあ」
下卑た笑みを男は浮かべる。
こいつは完全にリザをいたぶるつもりだ。動け、動け、動いて何かしないとリザが殺される。
「い、雷の精よ、我が呼び声に応えよ、ライトニング・ボルト!!」
震える声でなんとか詠唱して雷光を呼び出し、アーチャーめがけて降らせる。だが直前で一歩動かれただけで回避されてしまった。
「なんだよ頑張るじゃねえか。そうこなくっちゃ面白くない」
当たれば致命傷といわなくてもダメージにはなるはず。だがその一撃が全く当たらない。完全に詠唱から魔法実行までのタイミングを見切られている。
確かに強い。というか魔法使いじゃ勝てる気がしない。
僕に戦意があると見たようで、男は再び弦に指をかける。
まずいまずいまずいまずいまずいこのままじゃ本当に死ぬどっちと言わず両方とも死ぬ絶対に死ぬ。
頭の中が焦りと恐怖で真っ白になっていく。こんな状況ですぐ動けるような才能は僕にはない。
「ぁああああああああああっ!!」
リザが雄叫びと共に突撃。残った片手には短剣を握りしめていた。
「お、っと!」
金属同士の激突音。短剣が弓に防がれて力で押さえ込まれる。
「女だから根性無しってのは訂正してやってもいいな。中々の気迫だ」
「リディ、何してるんだ早く逃げろっ!!」
リザの叫び声が鼓膜を叩く。聞こえている。でも頭に入ってこない。全身が硬直して動かない。
「ガキに無理言うもんじゃないぜ。どうにもできないことは、できないんだよっ!」
当て身されてリザの身体が後退。弦の弾かれる音が響き、静寂。
糸が切れるような音と共にリザの首元から血飛沫が吹き出し、力なく彼女は地面に倒れ込んだ。
死んだ。リザが、死んだ。呆然とした僕の脳内に無味乾燥な事実が浮かび上がった。まるで悪い冗談のようだ。何も面白くないし、現実味が全くない。
眼の前の光景が信じられない。なのに全身が冷や汗でぐっしょりだし、寒気がするし、顔は燃えているように熱い。
「さて、後は坊っちゃんひとりだ。さっきみたいに何かしてみるか?」
「はっ、はっ、はっ、はっ……!」
心臓の鼓動が早鐘となっていた。呼吸は浅く、全身の感覚が薄れていく。
殺される。殺されるのか? せっかく転生してきた世界で、こんな酷い方法で僕は死ぬのか?
男の指が動く。死神となったその手が弦に触れる直前で、笛の音が響いた。男が舌打ちをする。
「撤収の合図か。どうするかな、殺してから戻っても十分間に合うんだが」
しかし男はふ、と笑うと弓を背中へと回す。
「ここで殺すよりは、後に取っておこう。そのうち殺しに行ってやるから、せいぜいそのときまで怯えて暮らせ。復讐に来たいならそれも構わんぞ。どちらでも好きにしろ、ハハハ!」
嘲り笑いながら、火の手のあがる街中へと男は消えていった。
僕は、助かったようだった。全身から力が抜けてその場に座り込む。倒れそうなほどの疲労感だった。
遅れて全身の感覚が戻ってきた。酷い熱波が肌を焦がす。周囲を見渡しても、誰ひとりとして生き残りは見当たらなかった。
父さんと母さんを、妹を、探さなくてはならない。頭では分かっていたが、身体はぴくりとも動いてくれなかった。
「げほっげほっ!」
灰を吸い込んだのか、咳が込み上げてきたことで、ここにいても死ぬだけだと気付かされた。
力の入らない脚を無理やり動かして、僕は街から逃げ出した。
それから、どれぐらい経っただろうか。
街から離れ、草原を抜けて森へと逃げ出した僕は、何もできないままただ座り込んでいるだけだった。
時間の感覚も分からなくなってきた頃に、雨が降ってきた。しとしとと、空が泣いているように見えた。あるいは、単に僕が泣きたかっただけなのかもしれない。
雨が降り始めてからさらに時間が経ってから、ようやく僕は立ち上がり、街へと向かった。
そこにはもう何も残されてはいなかった。優しげな風も、豊富な稲も、人々の笑顔も何もかもが消えていた。
あるのは灰の塊と、死体だけ。
こんなことなら火に包まれて隠されていた方がよっぽどマシだ。もしくは、炎が本当に全てを消してくれていれば、見ずに済んだ、とさえ僕は思った。
雨の降りしきる中を無心になって歩く。ほどなくして、僕はリザの死体にたどり着いた。
彼女の顔に触れる。優しく微笑んでくれていた表情は、死の恐怖で凍りついていた。指先から伝わる感覚は酷く冷たくて、彼女の死が現実のものだと突きつけてきた。
僕は涙を流さなかった。流せなかった。
彼女は僕を庇って死んだ。僕が弱かったせいじゃない。僕が、彼女の言うとおりに逃げることさえできないほどに弱かったせいだ。
涙を流すのは許しを請うようで、できなかった。
せめて埋葬をしよう。考えついたのはそれぐらいだった。
倒れていた彼女の身体を引き起こして背負う。次に向かったのは自分の家だった。
この街で一番大きい家だったそこは、炎で焼け崩れて面影さえもなくなっていた。
家の手前には三つの死体があった。大きいのが二つと、小さいのが一つ。父と母と妹だった。
リザを降ろして近づくと、三人ともそれほど火傷を負っていないことが分かった。死因は胴体を切り裂かれたことだ。
傷はあの男がリザに与えたものと比べてかなり太く、剣によるものだと見て分かった。
あの男には仲間がいたのだろう。
僕はここでも涙を流さなかった。襲撃者に見逃された後、僕は真っ先にここに来ることができなかった。もう一度見つかり、死ぬのが怖かったからだ。
僕は家族を助けるどころか、助けようとすることさえできなかった。
雨が降り続ける中で、僕は家のすぐ傍に穴を掘り始めた。湿った土を両手でかき分けて、少しずつ広げていく。
最初にできた小さな穴の中に、妹を、ミラを入れる。無力でなさけない兄ちゃんでごめんな、と胸中で謝り、土をかぶせた。
次の穴に母を、その次の穴に父を入れて埋葬した。少し前にはあれだけ熱で焦がされて熱かった両手は、今は正反対に濡れた土で汚れ、寒さで感覚がなくなっていた。
最後の穴を掘り終えて、リザの元へ向かう。恐怖で凍った目を閉じさせて、抱きかかえる。
全身がずぶ濡れになっていて、氷のように冷たかった。身体の至る所に切り傷があり、片手もなくなっている。あまりに、無惨な姿だった。
彼女を作った穴の中に降ろし、少しずつ泥となった土をかけていく。両手で泥をすくい取りながら、少しずつ。
やがて彼女の全身を埋め終わり、最後に顔を埋めた。
彼女の笑顔は、僕の中から永遠に消え去った。
「……ぅ……うぁ……」
涙が頬を伝っていた。冷たい身体に触れ、家族と共に埋葬し、もう永遠に触れることも見ることもできないと分かった今になってようやく、リザが死んだことが分かった。
僕は泣き叫んだ。力の限り叫び続けた。
なぜこんなことになったのか。誰が悪いのか。自分が悪いのか。
何かを悪いとし、誰かを責めなくては気がすまなかった。そうしなければ心が耐えられなかった。
頭のどこかでは、誰も悪くないことも分かっていた。僕たちは全員被害者だ。誰かに殺されるようなことなど、何もしていない。
だから悪いのだとしたら殺した側だ。そんなことは分かっていた。
だけどあいつらはここにはいない。責め立てるべき相手はこの場にはいないのだ。
ここにいるのは自分だけだった。だから、自分を責めるしかなかった。父さんや母さん、妹が死んだのは、リザが死んだのは自分のせいだと思うしかなかった。
リザは、とても良い人だった。いつか彼女に認められ、共に生きていきたいと思っていた。二人で歩く姿を、両親に見せたかった。妹の成長を見守っていたかった。
その全てはたった一晩で永遠に手に入らないものになってしまった。
泥だらけの地面を、何度も拳で叩いた。手が痛くなろうと、腕が痛くなろうと、感覚がなくなろうと、何度も、何度も。
そうしている間に、僕は気を失っていた。
気がつくと、朝日が昇っていた。雨はあがっていた。
全身に痛みがあった。それを無視して周りを見渡す。夢に変わってなどいなくて、灰まみれの街がそこにはあった。
身体を起こして、近くにあった燃え残った柵を、墓標として突き立てる。
「……ごめんなさい」
父さんと母さん、ミラとリザに一度だけ謝罪をして、僕は歩き始めた。
どこへ行けばいいのか、どこに行くつもりなのか、自分でも分からなかった。
けどここにはいられなかった。皆がそれを許してくれないような気がした。
――これが、僕の子供時代の終わりだった。
この出来事から、本当の意味で、僕の人生は始まった。




