第1話:異世界転移、魔力ゼロの宣告と「醤油」の光 -2
与えられたのは、王宮の奥、日の光も差さないような片隅にある、窓もない質素な小部屋だった。
壁はひび割れ、床は冷たい石造り。湿っぽい空気が、重くのしかかる。
牢屋と呼んでも差し支えないほど簡素な空間に、花子の心は沈み込む。
王宮の華やかさとはあまりにもかけ離れた、まるで捨て置かれたかのような場所に、花子は一人取り残された。
そして、夕食として差し出されたものを見て、花子の絶望は頂点に達した。
木の器に乗せられたのは、水と、見るからに硬く、何の味もしない干し肉。
そして、薄茶色をした、具材のほとんど入っていない薄いスープ。
どこか土臭く、生臭いような匂いが、わずかに漂っている。
視覚も嗅覚も、食欲を減退させる要素でしかなかった。
「……っ!」
花子は思わず顔をしかめた。
B級グルメをこよなく愛し、コンビニスイーツからデパートのお取り寄せまで食べ尽くしてきた自分にとって、これはもはや拷問だった。
故郷の味が、強烈なノスタルジーとなって胸を締め付ける。
熱々のラーメン、香ばしい焼きそば、ジューシーなハンバーグ、ホクホクのたい焼き……。
どれもこれも、今は夢のまた夢だ。
味覚だけでなく、視覚、嗅覚、そして心までもが、この貧しい食事に打ちのめされる。
飢えは感じていたが、この食事を前に食欲は湧かない。
一口食べれば、胃が拒否反応を示すのが分かった。
故郷の、あらゆる「美味しい」が脳裏を駆け巡る。
あの頃は当たり前だった、温かくて、香ばしくて、甘くて、塩辛くて、辛くて、そして何より「美味しい」ものたち。
それら全てが、今、自分からあまりにも遠い場所にある。
故郷への激しい郷愁が、花子の心を締め付けた。涙が、知らず知らずのうちに瞳の奥に滲む。
「ああ、せめて醤油があれば……」
無意識のうちに、そう口に出していた。
乾いた唇から零れたのは、ただの願望だったはずなのに。
その瞬間、花子の目の前に、半透明の光る板のようなものが浮かび上がった。
それはまるで、空気中に映像が投影されているかのようだった。
恐る恐る手を伸ばすと、その板は花子が現代で使っていた、見慣れた通販サイトの画面に酷似していた。
画面の上部には、鮮明な文字で「Amezon.co.jp」と書かれている。
───『現代物資召喚』発動。
小さく、しかしはっきりと文字が浮かび上がる。
そこには見慣れた商品がずらりと並ぶ。
醤油、味噌、マヨネーズ、レトルトカレー、そして家電製品までも。
まるで夢でも見ているかのようだ。
花子の心臓が、ドクンと大きく鳴った。これは一体、何なのだろう。
手元には、転移時に謎の力でなぜか持たされていた、見慣れない金貨や銀貨、銅貨が数枚入った小銭入れ。
夢か幻か、半信半疑のまま、その中から一番安かった小瓶の醤油を指でタップしてみる。
画面に表示された価格は「銀貨1枚」。異世界の通貨が、現代の商品と交換できることに、花子はさらに驚いた。
『お買い上げありがとうございます。対価として銀貨1枚を消費します。』
画面が消えた次の瞬間、花子の手に、確かに小瓶の醤油が握られていた。
ひんやりとしたガラスの手触り、ズシリとした重みが、これが幻ではないことを告げる。
指でラベルを撫でる。見慣れたあのロゴ、あの色。それは確かに、故郷の「醤油」だった。
その存在が、花子の心に、一条の光を灯した。
「ほんとに……!?」
信じられない思いで、花子は震える手で醤油の蓋を開けた。
ツンと、鼻腔をくすぐる独特の発酵臭。
焦がし醤油のような香ばしさと、穀物の持つ奥深い甘みが混じり合った、まさに故郷の匂いだ。
嗅覚が、故郷の記憶を呼び覚ます。
この数日間、常に胃の奥で感じていた重苦しさが、微かに和らいでいくのを感じた。
目の前の薄いスープに、一滴、また一滴と丁寧に垂らした。
琥珀色の液体がゆっくりと広がり、微かに香ばしい、懐かしい香りが鼻腔をくすぐる。
スープの色が、わずかに濃い茶色へと変化していく。
まるで魔法のように、透明感のあった液体に深みが生まれていくようだった。
一口、スープをすする。
「っ……!」
故郷の味がした。
深みのある塩味と、発酵食品独特の複雑な旨味。
鼻腔を抜ける香ばしさ、舌の上で踊るような風味……。
それは、単なる塩味ではなく、米や大豆が持つ本来の甘み、そして熟成によって生まれる奥深いコクが幾重にも重なった、豊かな味わいだった。
脳が痺れるような衝撃だった。
これまでの人生で、こんなにも醤油が美味いと感じたことはない。
喉を通り過ぎた後も、じんわりと温かい余韻が体の芯まで染み渡っていく。
冷え切っていた胃袋が、温かく満たされる感覚。
心が、体の中から解き放たれるような、幸福感に包まれた。
たった一滴の醤油が、味気なく、絶望の象徴だったスープを、忘れかけていた「美味しい」に変えた。
それは、単なる調味料ではない。
故郷との繋がり、そしてこの異世界で生き抜くための、確かな希望の光だった。
乾ききっていた喉と心に、温かい水が染み渡るような感覚。
この味気ない世界で、唯一の救いとなる醤油。
小瓶をぎゅっと握りしめた花子の目は、先ほどの絶望とは違う、確かな光を宿していた。
全身を打ちのめしていた不安や恐怖が、微かな希望へと変わっていく。
(魔力ゼロの偽聖女? 落ちこぼれ? 関係ない)
花子の唇が小さく動く。声には、先ほどまでの弱々しさはない。
「私はこの力で、絶対にこの世界を変えてやる。まずは、このまずい食事からね!」
彼女の言葉は、小部屋の壁に、そして彼女自身の心に、力強く響き渡った。
この小さな醤油瓶が、この異世界での彼女の人生を、大きく変える最初の「一手」となることを、まだ彼女は知る由もなかった。
だが、その瞳には、未来への確かな決意が宿っていた。