第9話:故郷への想いと、異世界での「居場所」 -2
エルウィンは、広げられた資料の中から、一枚の古びた羊皮紙を取り出した。
「この世界の古文書に記された『次元の狭間』に関する記述と、あなたの故郷の『量子力学』という概念を照らし合わせた結果、ある結論に至りました。」
彼は、花子の目を見つめた。
「どうやら、あなた様が召喚されたのは、この世界の『聖女を求める強い祈り』、特に飢えに苦しむ人々の切実な願いと、あなた様の『故郷の味への強い渇望』、そして『美味しいものを分かち合いたい』という強い思いが、次元の壁を一時的に歪ませた結果ではないかと……。
その歪みは、まるで、二つの異なる世界を結ぶ、一時的な『門』のようなものです。」
エルウィンは言葉を区切った。
彼の瞳が、花子の反応を探るように見つめる。
彼の説明は、花子にとってはまるでSF小説のようだったが、彼の真剣な眼差しから、それが冗談ではないことが伝わってくる。
「そして、その歪みを解析し、特定の条件を満たせば、理論上は……」
エルウィンは、もう一度言葉を区切った。
その沈黙が、花子の胸に重くのしかかる。
「……故郷へ戻れる可能性も、ゼロではありません。」
その言葉に、花子の心臓は大きく跳ねた。
「故郷に……帰れる……?」
信じられない、だが、確かに希望の光が見えた。
故郷へ帰れる?
家族や友人、そして日本のあの温かい日常に、戻れるかもしれない?
長い間、心の奥底に押し込めていた故郷への郷愁が、堰を切ったようにあふれ出す。
温かい風呂、コンビニのフライドチキン、真夜中のラーメン、賑やかな商店街、そして何気ない日常の風景。
それら全てが、現実味を帯びて目の前に迫ってきた。
(帰れる……かもしれない……! また、あの頃のように、一人で好きなものを好きなだけ食べられる……!)
胸が締め付けられるような、懐かしさと期待が入り混じった感情が押し寄せる。
故郷の匂い、音、景色が、鮮明に脳裏に蘇る。
だが、同時に、花子の脳裏には、この異世界での日々が走馬灯のように駆け巡った。
魔力ゼロと蔑まれ、王宮の片隅に追いやられ、どん底に突き落とされたあの日。
初めて焼きそばを振る舞った時の、ヴィクトリアの微かな驚きの表情。
お好み焼きを頬張り、満面の笑顔を浮かべたリリアーナ王女の、あの純粋な輝き。
カレーライスで病が癒え、安堵の表情を見せた王宮の人々。
菓子パンを分け与えた時、目を輝かせて「美味しい!」と叫んだ貧しい地区の子供たち。
そして、プライドを捨て、料理を学び始めたグスタフの真剣な横顔。
隣で、真理を探求するエルウィンの熱い視線。
いつも影のように自分を守ってくれたヴィクトリアの背中。
王宮の人々、街の人々、そして貧民街の子供たち。
彼らの笑顔が、次々と花子の脳裏に焼き付いていく。
彼らが「聖女フローラ様」と呼んでくれる、その声が耳にこだまする。
(私は、この世界で、たくさんの笑顔に出会った。私にしかできないことで、たくさんの人を救うことができた……)
花子の心は激しく揺れ動いた。
故郷は大切だ。
だが、この異世界で築き上げた絆、そして自分が果たした役割は、何物にも代えがたいものになっていた。
故郷に戻れば、また一人で食べ歩く日々に戻るのだろうか。
B級グルメの友人も少ない、あの孤独な日々。
この異世界で得た、誰かの笑顔のために料理をする喜びは、もう手放したくなかった。
この世界には、まだ自分がすべきことが山ほどある。
新しい料理を伝え、食文化を発展させ、多くの人々を笑顔にする。
それは、故郷では決してできなかった、自分だけの「聖女」としての使命だ。
この使命を投げ出して、故郷に戻ることは、果たして本当に幸せなのだろうか?
花子の心の中で、故郷への郷愁と、この世界での使命感が、激しくせめぎ合った。
「エルウィン様。」
花子は、真っ直ぐにエルウィンの目を見た。
その瞳には、迷いはなかった。
故郷への郷愁は、確かに胸の奥にある。
しかし、それ以上に、この世界で生きていくことへの、確かな決意が宿っていた。
彼女の心は、すでにこの異世界に深く根付いていたのだ。
「私は、故郷には戻りません。この世界で、生きていきます。」
エルウィンは、驚きつつも、花子の決意に満ちた表情を見て、静かに頷いた。
彼の顔には、花子の決断への理解と、そして深い尊敬の念が浮かんでいた。
彼の研究者としての好奇心は満たされたが、それ以上に、花子の選択がもたらすこの世界の未来に、大きな期待を抱いた。
「分かりました。聖女フローラ様の決意、確かに承りました。
ならば、私も、聖女フローラ様がこの世界で最高の『食の聖女』となれるよう、全力を尽くしましょう。あなたの『科学』の知識と、私の『魔法』の知識を合わせれば、この世界はもっと豊かになるはずです!
あなたの故郷の技術を、この世界に根付かせ、この世界の食文化を、そして人々の生活を、より豊かにするために、私も全力を尽くします!」
二人の間に、確かな信頼と、世界を変えるための強い決意が芽生えた瞬間だった。
花子は、異世界で生きていくことを選んだ。
彼女の心には、故郷への別れの寂しさよりも、この世界で生きていくことへの、確かな希望と喜びが満ち溢れていた。
彼女の物語は、この世界で、新たな章を刻み始めたのだった。