26. 恋と戦慄のクロムレク
・ ・ ・ ・ ・
しかし沼のほとりの事件現場、環状列石がぼんやりと前方に見えてきた時。
カヘル、ファイー、アルタの三騎は馬の常足をゆるめさせた。
月光を照り返して、鈍い光を湛えているその水面を背に、別の馬の姿を認めたからだ。だいぶ大きい、……凶悪精霊の水棲馬はいないはずではなかったか!
ファイーが、すぐに低い声で言った。
「……馬を連れた先客が、いますね」
「なーんだ」
アルタ少年はあからさまに安堵しているが、逆にカヘルはぴくりと胸騒ぎを覚える。何の気なしに予想してみたことだが、実際に願掛けをしている人がいたとは! 本当に事件の目撃者であるかもしれぬ。
「警戒させないよう、下馬して穏やかに歩いて行きましょう。ファイー侯」
「はい、カヘル侯」
「お、俺……天幕のほうで待っていて、いいでありますかぁー?」
沼のほとりにいるのが精霊でなく、生身の人間および馬だと知れても、準騎士の少年はやはりどこかで気味が悪いと感じるらしい。アルタに馬の手綱を任せて、カヘルとファイーはゆっくりと巨立石の環に向けて歩いて行った。
大きな馬が長い尻尾を振り振り、環状列石の外側に佇んでいる。その主人、人間のほうは一番大きな≪姉姫石≫の前に寄りかかるように立っていた。二人が近づいて行っても、身じろぎしない。
「福ある夜を」
石の環に入りかけるあたりで、ファイーが穏やかに挨拶をした。女はのろのろと頭を動かし、こちらに顔を向ける。気付いてカヘルはおや、と思い声をかけた。
「今朝、会いましたね。夜の散歩ですか?」
ロマルー農家、アーギィを雇っていたおかみさんの娘である。月光に慣れた目に、若い娘の哀しげな表情は容易に見てとれた。
「ここまで来るのに、誰かに会わなかった?」
細身の娘が発した唐突な問いに、ファイーは首をかしげる。
「いえ。……わたし達はヌーナー村から来たのだけれど、誰にも会いませんでしたね。どなたかと、待ち合わせですか?」
娘はうつむくように、うなづいた。
「うん。好い人を、待ってる」
それは大変お邪魔をいたしました、と言うべくカヘルが口を開けるより早く、娘は下を向いたままでぼそぼそと言葉を継いだ。
「もうずうっと、ここで待ってんだけど。全然来てくれないんだ……。おかしいよね? 毎日毎日、この石の環にお願いしてるんだから来るはずなのに」
ご本人に言わなければそれはもちろん来ないでしょう……と冷えびえ突っ込みたいところだったが、カヘルはどうにかこらえる。思いつめたような娘の話し方には抑揚がほとんどない。悩んでいるのだ、このうら若き乙女は。
「いつもはね、あの丘の上で待ってんの。見晴らしがいいから」
不意に顔を上げて、娘はあごをしゃくった。確かに沼の東側には、少しだけ樫の森が途切れて高くなった場所がある。丘……と呼ぶには少々低い気もするが。
「おとついの夜もね、いつも通りにここで石にお願いをして、それで夜更けまではあの丘で待ってるつもりだったんだ……。そいで、人が道の方から走ってくるのが見えたから。ああ、やっと来たんだって思って、馬に乗って近づいてったの。そしたら違ってた、女の人の声がした」
ファイーの少し後方にて、カヘルは息をのみつつ聞いている。娘の口からぼそぼそと語られているのは、まさに事件の目撃談ではないのか……!
「……あなたは、女性の声を聞いたんですね。それで?」
低くかすれるような声で、穏やかにファイーの声が問う。
「その人、一人っきりでぎゃあぎゃあ泣きわめいていて……。何言ってるのかもよくわかんなかった。けど、あたしが……その辺りかなぁ。向こう岸くらいまで来た時に、ばちゃばちゃ、ぼちゃんと水にもぐって。それっきりしーんと静かになっちゃった」
娘は岸辺を指さしながら言った。
黙って見ていたのか、助けられずとも声くらいかけられなかったのか、……そう言った類の非難をしてはならないとカヘルは思う。
今語られたのは、まちがいなくミリシュの最期だ。しかしごく近くにいたとして、このか細い娘に何ができたのだろう? 自身も恐慌で動けなかったのかもしれぬ。そしてこのファイタ・モーンは、泳げる者でも溺れかねない沼である!
「……それであたし、そのままここに……石の環に来て、沼を眺めていたら。後ろの方、道のほうから今度は蹄音が聞こえてきて、大っきな馬車が来たんだ。あれっ、て思って馬から下りたの、……そしたらさ! アーギィが、御者台から下りてきてさ!」
ぱあっ! 娘の顔がほころぶのと同時に、ファイーの背中がびくりと強張るのがカヘルの目に入る。
「……ええ? アーギィさんが……?」
「そう! やっとね、ようやく! 願いが叶った、アーギィが会いに来てくれた、って思って……。駆け寄ったらアーギィは、すんごくびっくりした。なんで君がここにいるの、って。東部系の女の人を見なかったか、ってぎんぎん乱暴な言い方で聞いてきて……」
そんな女知るもんかい、と娘は答えた。あたしはあんたを待ってたんじゃないの、もうずうっとここでさ!
男は娘を睨みつけて言った。ちがう、俺が探してんのは君じゃない。その手を放してくれ。
娘はその言い方、……いつもの静かで優しい彼と、ずいぶん違うその話し方にむっと腹を立てた。だからこう言ってやった。
≪さっき女が一人来ていたようだけど、わけのわからない言葉で泣きわめきながら、沼のあの辺りに沈んじまったよ! ずうっと前さ、もう生きちゃいない!≫
男は凍りついたように立ち尽くし、やがてぶるっと震えて沼の水面を見た。娘はその横顔を見つめていたけれど……やがてアーギィの目に涙が膨らんで、ぽろり・つうっと、下向きに伝って落ちた。
男は誰かの名前を呼んだ。娘の全然知らない、外国人のような聞き慣れない名を。
男が自分以外の女の名を呼び、そいつのために涙を流したと察して、娘はかぁっと怒りにもえた。腰に馬鞭をさげていることを思い出した瞬間、それを右手にして男の頭を打ち据えていた!
ばったり……。たったの一撃で、男は地に倒れてひくついた。倒れ込んだ拍子に、何かがちゃりんと音を立てる。アーギィが首に指輪をさげているのに気づいて、娘は今度は喜びに満たされた。
なぁんだ! やっぱりアーギィはあたしのことが好いんじゃないか。こうしてあたしに結婚指輪を差し出すつもりで、ここに来たんだねー! こっちの大きいのはアーギィの、少し小さい方があたしの……!
娘は嬉々として、鎖に通ったままの環を自分の薬指にはめようとした。……ぶかぶかだった、通しっぱなしの鎖の分を差し引いても、だ。
今度こそ、娘は心底から怒り狂った。あたしの指のふとさを知らずに指輪を買うなんて、アーギィのばか馬鹿ばか!
…… ……いや違う。もともとこの指輪をあたしのために買わなかったんだ、アーギィは……。
悔しさに焼かれて、娘はアーギィの首を絞めた。左手首にいつも巻いている、革と藁の編み紐をほどいて、羊の首をしめるのと同じ要領でぎりりと締め続けた。
「それで昨日からは、アーギィのこと早く返してください、って石にお願いに来てんの」
「……返す……?」
ひょろりと細長く儚げな体躯、……しかし語るところによれば紛れもない殺人者の娘に、ファイーは低く聞き返した。
「ほら、魂っていうのは死んじゃった後、丘の向こうに行ってからこっちに帰ってくるんじゃない? 早くねぇ、もと通り優しかったアーギィに戻って、あたしのうちに帰ってくるよう。アーギィを返してくださいって、石に頼みに来てるの。でもやっぱり、すぐには来てくれない……。どうしてなんだろう」
カヘルは胸の内で算段をしていた。恐ろしい話を聞いたものの、ファイーの前にいる真犯人はうら若い娘である。落ち着いてもいる、……このままどこか、静かに座らせてでもして。そしてゆっくり慎重に、側近らとマユミーヴ配下たちを呼ぶ……。
「あっ、もしかしたら」
その時だしぬけに、娘は妙に明るい声を出した。
「石にお供えが、足りないのかなっ」
ぐいっ!
娘の両手が、ファイーの腕を左右からつかむ。
「えっ、…… ……!」
ぐるうん!! ものすごい速さで女性文官の身体を宙に浮かせてひと回し、ぶううん!!
娘はファイーを、沼めがけて放り投げた…… ぼちゃッ。
水に浸かった五つの巨立石、そのうち二つのちょうど中間に派手な水しぶきが上がる。
「お兄ちゃん、あんたもだよ」
信じがたい光景にのまれかける。しかし電光石火の馬鞭の一撃を、無意識に避ける才覚がデリアド副騎士団長にはあった!
そのまま大股、カヘルは後方へ飛びすさり……ふいとしゃがみ込む。
ひゅい、ぶうん!
躍り込んでくる娘が、刺すような馬鞭の二撃目をつき出した。これもかわしたが風圧がすさまじく重い、カヘルは瞬時に間合いを取った。驚くべき筋力を持つ娘に、カヘルは戦棍を構えて対峙する。
「知ってるよ。騎士の兄ちゃんてのはさ、女を相手にぶったり切ったりしちゃあ、いけないんだろ?」
ひゅんひゅんっ。鞭で空を切りながら、娘は笑いもせず淡々と言った。対するカヘルは、ひゅーと喉に荒く呼吸をする。左手袖の内から、ふわりと何かを胸の前に放って……。
ぱこ――――んッッッ!!
素早く鋭く、いぼいぼ戦棍を振って打ち抜いた……。だん!
みぞおちに重い一撃を受け、くぅっと娘は二つに身を折る。こんなに離れているのに、どうして打たれたのかまだわからない。
すこ――――んッッッ!!
カヘル第二打、先ほどよりずっと小さな平石が、娘の目のあいだを直撃する。
「うっっっ」
こ――――んッッッ!!
第三打、……鎖骨間に命中した石が、娘の意識をはがすのに成功する。ずざん、と細身の怪物は倒れ込んだ。
「アルタ君――っっ! 舟と縄の準備ッッ」
天幕方向にここ一番の冷却咆哮でどなりつけ、カヘルは黄土色外套とその下の革鎧をどばっと脱いだ。
「ファイー侯ぉぉぉッッ」
ざばざばと沼へ分け入ってゆく、先ほど水しぶきが上がったのは……水中、右手二つの巨立石の間である。そこを目指してカヘルは進んだ。しかしすぐに、足が立たなくなる。
「……!!」
そこそこ泳げるカヘルではある……。しかし沼の水はねっとりと重く、通常の水ではないように感じられた。細やかな水草が巨大な生きもののように自分を捕まえ、ゆっくり飲み込もうとしているような感覚を、カヘルは冷え切った気合にて一喝した!
「ファイー侯! どこですかぁぁぁッ」
「侯ー」
低くかすれるような返答が聞こえる、カヘルは暗い左右を見回す。
「ザイーヴさーん!!」
「ここ、ここですー。石の裏ー」
ふぁっ! うっかり泳ぎ越した右から二つ目の巨立石に、貼りつくようにしてうごめいている女の姿があった。
白っぽい顔が月光に輝いているそこ目がけて、カヘルは全力で重い水を切る、蹴る。
でもって勢いよく抱きしめた。
もの言わず考えず、キリアン・ナ・カヘルは沼の中において、意中の女をひたすら腕の中に確保していた。彼女がどう思うかは想像せず、その感覚がひたすら柔らかいとだけ感じ取っていた。かたく濡れそぼった騎士作業衣の中身たる、その女の尊いやわらかさ温かさだけを、むさぼるようにして知覚していた。
「あの。巨立石にいくつか、とっかかりがあります」
くぐもる声で言われて、カヘルはばしばしとまばたきをする。
身を離してみれば、……ファイーの左手は風化しかけた石の表面、割れ目にしっかりつかまっていた。
「水の中にもありますので。足場にして下さい、カヘル侯」
「……」
「探しあたりませんか? では本官につかまっていて下さい」
〇 〇 〇 〇
青霊『ぬおおおおおお! サスペンス→アクション→ラブな展開やで、詰め込んだな!? これはさすがに行けるやろう、それゆけカヘル侯ぉぉぉッッ』
おでこ理術士「いやー微妙やよ、これ」
【宣伝】「僕を忘れて、還り来た君へ」 https://ncode.syosetu.com/n7448jn/
〇 〇 〇 〇