21. 樫の木の精霊は見ていた
・ ・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・
「ねえ……。何なの、これ? 町はずれどころか、森に入ってんじゃない。絶対に道を間違ったよ、町に引き返そうよ」
「いや、あってるよ。ここを抜けた先に店があるんだ。地元民向けの隠れ家風酒商、安くてうまいんだって」
「……」
「心配するなよ。大丈夫だから」
騒がしく喋る男女の声に、彼はふと目を覚ました。いつも通りに古い樫の木の洞にもぐり込んで夜を待っていたのだけれど、予定よりちょっと早く顔を出してみる。
自分の住まいのすぐ近くを通っている粗い野道を、がさがさ音を立てて歩み進んで行く男と女の姿が見えた。
ばっ! その時、女が振り払うようにして、男の左手につないでいた右手を乱暴に離した。
「もう嫌だ! こんな怖いとこ。あたし、帰る」
「そんなこと言うなって。もうちょっとなんだ」
女は明らかに苛立ち、怯えてもいた。対する男の声はやたらに静まり返っている。くるりと踵を返して、女は来た道を反対方向にたどり始めた……。
「ミリシュ! ミリシュ、待ってくれよ」
言いつつ男は追いかけて、すぐに女を捕まえた。背中からだいぶ荒っぽく抱きしめたらしい。
「ほんとの本当に、あとちょっとなんだ。……頼むから俺を信じて、……我慢してくれ。その後にはめいっぱい、楽しいことが俺らを待ってる」
女は何も答えなかった。
「俺はほんとに、お前が好いんだ。嫌な思いをさせてすまないけど……、最後のさいごには必ず、ミリシュを喜ばせてみせるから。だから信じて、ついてきて」
「……ほんとかな。何かだまくらかそうとしてるんじゃ、ないの……」
女のくぐもった言葉の終わりは、男の唇にのまれたらしい。静寂があって、……そして無言で二人は再び、歩き始めた。
「人をだまそうとしたら、大っきなばちがあたるよ」
「そうだね」
低い囁き声が流れて行って、辺りは静かになる。
がささ……。風が樫の枝葉をざわつかせた。彼は肩をすくめて、再び樹の洞の中に引っ込む。どうでもいいや人間のことなんて……。そう思いつつ、今見た男女のことが何だか気にかかる。自分が人間だった頃、あんな風に女の子の手を引いて歩いていたような……。
そんな虚ろな記憶が、一瞬よみがえってすぐに消えた。
今の彼は、永遠の命をどうやってやり過ごすか、としか悩まない。だから寝ることにした。眠るのが一番、終わりに近くなる。
・ ・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・
「何なんですかねー、これー! 町はずれどころか、森に入ってませーん?」
またしても声が聞こえてきた。二日前と違って、今度は間延びした若い男の声だ。声からして、毛深くもじゃついている……。
しかしあまりに面倒くさくて、樫の木に棲みついた小さな古い精霊は、寝返りを打っただけだった。
洞から顔をつき出して、彼の住まいの下の道を進んでゆく黄土色外套の一団を見下ろすことすら、しなかった……。