02. 偽装事故をかっ飛ばせ! カヘル副団長
「ああ……。何と言うことでしょう! お風呂で溺れてしまうだなんて」
深い悲嘆を体いっぱいに湛えた年輩女性は、うす紅色の麗糸の手巾を目元に押し当てた。
「わたくし、主人にはさんざん注意していましたのに……! 湯舟に浸かって居眠りなんてしてはいけない、と……。うううッ! こんなことなら四六時中、見張っておくべきだったのですわ……!」
寡婦となったばかりの老婦人に嘆かれて、若き騎士ローディアは気まずくうろたえた。
「奥さまのせいでは……、」
ふかふかした明るい栗色髪を振り、黄土色のデリアド騎士外套を羽織った大柄体躯を小さくかがめて、ローディアが婦人に慰めの言葉をかけようとした、その時。
目の前にいた上司が、やはり黄土色の外套裾をくるっと小さくひるがえして振り向いた。
「事故ではありません。これは殺人事件です」
ぎーん!!
全身に寒気を感じて、デリアド副騎士団長の側近騎士、ローディアは縮み上がった。
上司は自分をにらみつけたわけではない。しかし殺人事件現場の検証ときては、誰だって真剣まじめにならざるを得ないではないか。常にくそ真面目なキリアン・ナ・カヘル副団長が真剣になるのだとしたら、その鋭き青き冷えひえ眼光だって、いつも以上に凄みを帯びて当然なのである!
「旦那様は、足が不自由だったということでしたが。沐浴される際も、この洗い場で杖を使っていらしたのですか?」
冷えびえとした平らかな口調にて、若きカヘル副団長は年輩女性に質問した。
「え、ええ……。そこに転がっております、二本の杖を使っていました」
「そうですか。それでは、手だけを使って応戦したわけですね……。自分を押さえつけ、湯槽の中に沈めた殺人者に対して」
「ひいっ! そ、そんな恐ろしいことを……、どうして仰いますの?」
老婦人は手巾を握りしめ、顔を悲愴に引きつらせる。
「主人は、居眠り中におぼれ死んだのではないのですか?」
「ご主人の手中に、ごくわずかですが何か異物が巻き込まれています。湯の中に沈められながら、必死に手を振り回し、もがいたのでしょう」
カヘル副団長に代わり、湯船の中に横たわる年輩男性の右手を調べていた若い文官騎士が答えた。
「じ……、自分の肌を、引っかいたんじゃありませんの? 溺れかけて、もがいた時に……」
「それは少々、不自然です」
医師に準ずる知識と才覚を持つ、デリアド騎士団本部勤務・衛生担当文官のノスコ侯である。
「……第一発見者は、こちらの女中さんということでしたね」
ふい、とカヘル副団長は顔を振り向けた。
さほど広くもない洗い場。その扉近くに突っ立っていた中年の女が、あからさまに驚いてびくりと体を震わせる。
「えっ……、じゃ、じゃあ! マイワールが主人を? そういうことなのッ、マイワール!?」
夫に先立たれた年輩女性は、即座に激高の態度をとる。きんきんと甲高い声に糾弾されて、大柄な中年女性はこくこくこく、と頭をたてに振った。
「マイワール! あなたがわたくしの夫を! うちの主人を、お風呂に沈めて殺したのねぇえええッッ」
ほとんど絶叫のような雇い主の怒鳴り声に、女は目をぎゅっと閉じてうなづくばかりである。
すいっ……。
その女のそばへ、カヘルが静かに寄った。
「あなたが、こちらの旦那様を湯槽に沈めたのですか?」
おだやか、平らかに聞かれて女は目を開けた。……しかし、そのまるい双眸の中には恐怖と困惑しか見てとることができない。
五十を出たところくらいか、女中は肥り肉の身体をちぢこめるようにして怯えている。両手を揉みしだくだけで、一言も発さない。荒れた暗色髪を雑に結い、あか抜けないねずみ色の長衣に、しわの寄った前掛けをしめている。
カヘルは女中から視線をずらして、その後方を見た。扉の外、廊下に向かって声をかける。
「……プローメル侯」
長い鼻の印象的な、筋ばった騎士が近寄ってきて、女中に低く問いかける。
「お前が、だんなさ殺しだんが?」
「!」
一瞬息をのみ、女中は叫ぶ。
「まさがぁーっっ!」
副団長カヘルと側近ローディア、衛生文官ノスコの耳には、全くもって理解不能な言葉が女中の口から発せられた。
「あたっしゃあ、だんなさまっさ、めっげだだっげだーあ!!」
あまりに特徴的な抑揚、なまりの著しい潮野方言だ。それを駆使して、女中はもそもそと騎士プローメルに語る。身振り手振りが激しい。まくり上げた袖の下で、たるんだ肉がよんよんと揺れた。ふんふんと聞いてから、プローメルはやがてカヘルに告げる。
「この人は、いつも通りに午後四ツの鐘で裏口から屋敷に入りました。そこで奥様に、すぐに洗い場に行くようにと身振りで示され、ご主人の入浴準備をするのだなと理解して、あがって来たのだそうです」
そしてここ上階の洗い場で、家の主人の溺死体を見つけた。
「……すでに、溺れ死んで動かなくなっていたのですね?」
プローメルの通訳を経て、女中はカヘルの問いにこくりとうなずいて見せる。
「……と言うことで、奥様。大変ぶしつけですが、袖を上げてこちらノスコ侯に両腕を示していただけますでしょうか」
カヘルの冷ややかな言葉に、寡婦は引き結んだ唇をぐいっと開いた。噛みあわせた歯を、ぎりぎりと食いしばっている……。それを無理に笑いの形にゆがめて、絞り出すようにうなる。
「……主人の手を、本当によくよくご覧になりましたの? それはそれはきれい好きの夫でしたのよ! 同様の潔癖を押し付けられて、長年こちらは反吐をはきたかったくらいに。どの指爪もきれいに揃えられていて、血だの肉皮だのが入り込む余地なんてないじゃありませんか……!」
憎悪の視線をカヘルに、そして湯船の中にのびている夫の死体へと向けて、老婦人はせせら笑う。
「ようやく得たわたくしの自由を、ここで奪おうなんて。そんな非道は許しません、断固拒否いたしますわ」
黒ぐろしいその視線を、カヘルの青い眼光が冷たく受け止める。
「……たしかに。争った際に旦那様があなたを引っかいた証拠は、爪の間にはありません。指爪は丁寧に洗われていました」
超常の冷気が、ひそやかに老婦人の全身をからめ捕り始めた……女はぶるり、と悪寒を感じる。
「しかし、旦那様の握りしめた左手薬指と小指の内側に」
カヘルは振り返らず、右手だけ上げてふいと合図をした。それに応じて湯舟脇からひょいと立った衛生文官ノスコが、綿手袋の指につまんだものを掲げる。ばら色の糸くず、細い紐のようなものがそこに垂れていた。
「……明らかに女性もの、奥様世代に好まれる色みの縁飾りの一片ですね。今日お召しだった衣類の中に、かような装飾を使ったものはなかったでしょうか?」
老婦人は、顔を白くしている……。きれいに結い上げた銀髪と肌とがまじり合って同化するようだ、と側近ローディアは思った。
「奥様。衛生文官は、手中に異物と申しました。それなのに爪にこだわるあなた様の言動は、そもそも初めから不審です」
カヘルの青い双眸は今や氷点下の冷たさとなって、老いた女の罪を糾弾していた。
「袖は上げなくて結構です。どなたか別の使用人の方に、奥様のお召し物を確認していただきましょう」
「……指、指爪を……。あれだけ念入りに確かめたというのに……! その奥が、あっただなんて……」
身を切るような冷たい視線についにうつむき、地を這いずるような低い声で老女はうめいた。そこに無念がにじんでいる。