16. 沼底の泥炭死体
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カヘル、ローディアは軍馬を駆り、マユミーヴとその部下らと共にファイタ・モーン沼へと走る。昨日よりずっと雲の多い空の下、沼水は青みをいっそう濃くして、今日も静かに佇んでいた……。その内側にはらむ秘密を、より強固に隠そうとでもしているかのように。
軍馬の上から、カヘルはぎらりと汀を睨みつける。
円い沼と重なり合う環状列石が右手に見えた……。だいぶ手前に、北域第十分団の天幕。黄土色を着た巡回騎士達が、その近くに集まっている。マユミーヴとアルタに続いて、カヘルはまっすぐ天幕前へと馬を進めた。
「マユミーヴ副長!」
現場捜査担当の班長が、大きく呼びかけながら近づいて来る。そこでマユミーヴは勢いよく下馬した。
「昨日同様、沼に浸かった巨立石そばの水面下を探っていましたところ。泥の中から、女性の死体が出て来たのです!」
作業衣姿の巡回騎士たちが、地面に置かれた蔓編み担架を囲んでいた。彼らはさっと広がって、マユミーヴとカヘルに場所を開ける。その向こう側にファイーのびしっとした立ち姿を認めて、カヘルの胸の中に安堵が湧いた。視線が交差した時、女性文官はカヘルにうなづき返し、例の青い叡智圧を投げかけてくる。
マユミーヴが屈みこみ、担架の上にかぶせた粗織り毛布を持ち上げた。カヘルとローディア、プローメルは腹に力を入れたのだが――そこにのぞいたのは、ほっそりと青白い顔だった。
「……溺死体、ではなかったのか?」
マユミーヴが現場捜査の班長に問いかける。その声は困惑していた。
「はい。確かに水中から引き上げたのですが、この遺体は沼底の厚い泥の中にあったようなのです。ゆえに膨張もせず、魚やざりがにに喰われてもいませんでした」
小舟の上から差し入れた探索竿の先に、たまたま髪の毛が絡みついて引っ掛かり、巡回騎士二人が力任せに引いて発見に至ったと言う。陸に上げてからだいぶ水をかけたらしいが、女性の遺体は全身が泥まみれだった。毛織の衣を着ているようにも見えるが、それが外套なのか長衣なのかも判別できない。
それに比べれば、血の気の失せた顔には、はっきりとした特徴があった。そして暗色髪、東部ブリージ系の若い女である。かたく閉じたまぶたに引き結んだ唇、それは苦しみもがいた最期の瞬間と言うよりは、あまりの悲しみに全てを閉ざす決意を示すような表情だった。
「できるだけ泥を取り除いて、天幕の中へ安置しましょう。軍医たちが追っ付け、到着するはずです」
マユミーヴの指示に従い、周囲の巡回騎士らが水を探しに立って行った。カヘルもまた、ファイーの前へと歩み寄る。
「典型的な、≪泥炭死体≫です。カヘル侯」
先ほどまでカヘルが胸中に抱いていた不安を、軽く吹っ飛ばすような頼もしい低音にて、びしりと女性文官は言った。
「≪泥炭死体≫……。話に聞いたことはありますが、実際に見たのは初めてです」
カヘルが低く答えるその背後で、側近ローディアとアルタ少年は俺も俺も、と内心で同調している。プローメルは少々蒼ざめて、両腕を抱えるように組んでいた。
イリー諸国にある沼の底や湿地帯には大量の腐敗植物が溜まり、≪泥炭≫の厚い層を形成していることが多い。冬場、乾燥が強まって固まった際にこの泥を切り出し、さらに乾かしてから火をつけると燃料になるので泥炭と呼ばれるのである。
こういった泥の中からは、時折予期しないものが出てくることもあった。≪泥炭死体≫あるいは≪湿地死体≫と呼ばれるその不思議な遺体は、深く眠っているように見えることが多いらしい。これにちなんでイリー諸国では、前後不覚におちいって深く眠るさまを≪泥のように眠る≫とも表現するのだ。
「男性の殺害と、何らかの関連性があると思いますか? ファイー侯」
「正直、微妙です。こういった沼底の泥と言うのは、人間やけものの死体を包み込んで、その時間の流れを止めてしまう。もしかしたら何の関連もない、ずっと昔に亡くなった女性という可能性もあります」
「……? 亡くなってあまり時間が経っていないように、見えるのでありますが……?」
気味悪そうに、しかし好奇心にも突かれる様子で、アルタ少年がファイーに問う。
「沼泥の中と外の世界では、時の進み方が違うんだよ。空気に触れていないから、と言われている」
先生の口調でファイーが語る説明に、少年は首をかしげている。
「所持品や身につけている衣を詳しく調べれば、昔の人なのかどうかはわかると思います。あるいはノスコ侯が臓のうちを探って、手掛かりを見つけてくれるでしょう」
自分に向き直りそう告げるファイーを、カヘルはまっすぐに見た。
「……もし。ごく最近亡くなられた方である、と知れたら」
「その場合は、男性殺害と大いに関連があると考えられるでしょう。この東部系女性はあの環状列石の、水に浸かっている部分すぐ側で発見されたのですから」
「では……」
「彼女もやはり、環状列石への捧げものとされた可能性があります」
ファイーの声はあまりに低く、そして最後のほうはしゃがれて消える。カヘル以外の者の耳には到底聞き取ることもできず、よって意味も成さなかった。
ちょうど石たちの間を通り抜けてゆく、沼からの微風のように。