12. 衛生文官は見た! 密談に向かう二人
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明朝に再開される捜査に備えて休むべく、誰もが早々と割り当てられた室に向かった。
広大なマユミーヴ伯父宅に、客用寝室はいくつもある。それは上司とファイー、マユミーヴらに各々使ってもらうとして、カヘル配下の側近ローディア、プローメル、衛生文官ノスコの三人は、地上階居間のひとつで横になることにした。
カヘルは、雑魚寝でも気にしない男である。やむを得ない場合は部下らと同室も厭わないし、その辺の長椅子に転がって寝ることもできる。……いや、この場合、彼は本当に睡眠をとっているわけではない。ただの仮眠である。だからして起きてすぐにも、平常稼働ができる。
ところがデリアド随一の寝起きの悪さを誇る副騎士団長は、一度深く眠ってしまうと、その不快感を増幅させずには起きられないのだ!
自宅カヘル邸の使用人たちは大変である。いかに若さまの視界に入らず、朝食や着替えのお仕度をするかが最優先事項となる。母上に一任できればよろしいのだが、一度目の結婚を機に若侯は新築離れに一人で棲息し続けているゆえ、それもかなわぬ。ああ面倒なり、キリアン・ナ・カヘル!
直近・春のテルポシエ遠征の際、野営天幕で一緒だったローディアは身に沁みて、寝起きの副団長を恐れている。多少狭っ苦しくても、他の同僚たちとくっついている方がずっとましだ。
そんなわけで彼らは三人まとめて、上階にある大型洗い場へと向かった。
マユミーヴの伯父夫人から渡された手巾および寝巻を手に、もそもそ気楽に話し合いながら階段をのぼる。
「せっかく貸してもらったけど、このねまき多分俺には小っさいよ。ぱっつぱっつになりそう」
「胸のぼたん全開にしても、だめそうですかね? ローディア侯」
「……どっちみち、全身剛毛で覆われてるんだし……。なしで寝たって、構わないんでないのかい?」
「いやー、着ないと長椅子の隙間に毛が巻き込まれちゃって痛いから、……ん?」
ローディアとプローメルの感覚が、同時にふいと異変を察知した。階段を上りきったところ、踊り場の石壁にぴたぴたりと身を寄せる。何もわかっていないが、若きノスコ衛生文官も二人に倣う。
「……どうしたんです?」
「しー……」
冷やっこく低い声で話し合う声が聞こえてくる……。恐らく発生源は正面を曲がって右方面に続く、廊下の向こう端あたりだ。壁の際からプローメルがそうっと顔を出してみれば、廊下反対側の突き当たりに、後ろ姿が一つ見える。
女性用の裾なが寝巻に毛織の肩掛けを広く羽織って、一瞬プローメルはマユミーヴ伯父の家人かと思ったが……いや! あの上背の高さは、どう見たってファイーではないか!
「……ええ、私は構いません」
その向こう、さらにもう一つ曲がった角の陰にかくれてしまって見えないが、冷やっとした調子で話しているのは、これも間違いなくカヘルの声だ。
「そこから屋上露台へ出られるようですから。行きましょうか」
「すみません。時間は取らせませんから」
相変わらずの低音でびしりと言ってから、ファイーはするりと歩み進み、プローメルの視界から消える。石の階段を上がってゆく足音、二人分……。
いまやプローメルの頭の上にはローディア、下にノスコが同様に顔半分を出して、様子をうかがっていた。三人の目に映るものは、石壁孔に置かれた蜜蝋灯りに照らされる無人の廊下だけとなる。
「大変なものを、見聞きしてしまったぞ……」
「ええ! 副団長とファイー侯が、いい雰囲気の密談をッ」
頭を突き合わせるようにして、プローメルとローディアは熱っぽく言い合った!
「いや、仕事の話じゃないですかね?」
カヘルとはまた違う冷静さにて、ノスコがしれッと意見を述べる。
「ああん、もう。ノスコ侯、水差さないでよ? どう見たっていい雰囲気じゃないかぁー。あんなに生ぬるい態度の副団長を、俺は見たことがないよ!」
「そうだそうだ、前代未聞級の生ぬるさだ。年上女性の魅力に、陥落寸前なのかもしれないだろ?」
全身全霊をかけて面白がる気満々のローディアとプローメルを交互に見つつも、若き衛生文官は肩をすくめて苦笑する。
「そりゃあ、副団長はそうでしょう。けど僕から見れば、ファイー侯にその気はありません。完ッ全に」
「何で言い切るッ」
「えー、だってファイー侯、ねまきの下にすててこはいてましたもん。男性用の寝巻すててこですよ? あんなに脱力ぶっちぎりなお休み準備のかっこうで、意中の男性に迫る大人女性っているんですかねー??」
「……」
「女性としてのファイー侯の眼中に、副団長は入っていないと僕は推測します。お湯ついでに通りがかりの副団長をつかまえて、何ぞ捜査関連のお役立ち情報やまめ知識を伝授しているのでしょう」
ローディアとプローメルは絶句した。あの短い時間内で、寝巻長衣の足首部分まで見通すノスコの魔眼がはかり知れない。
「と言うわけで。我々もさっさとお湯をもらって、すっきりさっぱり寝ようではありませんかー」
明るく言って歩き出す衛生文官につられて、ローディアとプローメルはもそもそ洗い場へと向かう。プローメルが、頭を振って渋く呟いた。
「……バンクラーナに、いい土産話ができたと思ったんだけどなぁ……」
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「……これから申し上げることは、あくまでわたしの憶測に過ぎません。しかも、資料やはっきりとした史実に根拠があるわけでもないのです。それでもやはり、カヘル侯には伝えておくべきだと判断しました」
びっしびっしと低音で言ってくるファイーに、カヘルは無言でうなづいた。
いつもと変わらぬ、冷静にして神妙な面持ちではいるものの……。何だ捜査の話かと、内心では結構がっくり来ている副団長である。
騎士外套と革鎧とを室で外し、手巾を肩にひっかけ洗い場へ入りかけたところで声をかけられた。作業衣姿でないファイーを見たのは、これが初めてである。胸奥が疼いた。
女性文官は、とっくに沐浴を済ましていたらしい。ゆるやかな麻の長衣に、これまたゆるやかな褐色の肩掛けを羽織って、半乾きの髪を揺らしている。ころんと借りものの木靴を鳴らして近寄られ、折り入って話があると言われた時には、さすがの冷えひえ副団長の胸の内も、生ぬるく融解しかけた。足元? 見るわけがなかろう。
しかして、マユミーヴ伯父邸・客室棟の屋上……。ぷかりと半月が浮かぶ闇夜の下、と言う絶好のあいびき向きの場において、女性文官が切り出したのは事件の話でしかなかった。
……キリアン・ナ・カヘルはもう少し、親しく近しい話を期待していたのである。
けれどカヘルは気を取り直すことにした。と言うのも、ファイーは自分との間合いをずいぶん短く取っている。他人に聞かれたくない話をする距離。屋上露台は広く、無人であると言うのに。
頭上に広がる夜空においては、晩夏と初秋とが出逢い、互いをやさしく抱きしめあっている。その下でカヘルとファイーとは、やたら近くに向き合っていた。
「……どうぞ。ファイー侯?」
カヘルに低く促され、ファイーはうなづいて話し始める。叡智圧のあるあの瞳が、ぎいんと強くカヘルを見た。




