プロローグ:環状列石の沼
はっ、はっ、はっ……!!
胸の中で、はげしく痛々しく息が弾む。もう次の瞬間にでも、自分の身体はばらばらに砕けて散ってしまうんじゃなかろうか? 女はそんな恐怖にかられつつも、走り続けていた。よたよた、ふらふら、ずるっ。足元の木の根や草々につまづきかけては、よろめく。
「ちくしょうッ。あんちくしょう!」
女はみじめに転びかけるたび、口の中で悪態をついた。……と言っても囁き声だ。こぶしを握って、女はにじみかける涙を乱暴にぬぐう。泣いたりわめいたりしちゃいけない、追手に自分の居場所を知られてしまう……!
月明かりだけを頼りに、女は暗い準街道の道脇、林と砂利道の境目のあたりをひた走りに駆けていた。
ここがどこなのか、女にはわからない。しかしとにかく、自分を捕まえようと追いかけてくる男から遠くへ……! それだけを考えて、走っていた。
――あたしのばか。大ばか!
いっぱしの人間に、なれたつもりでいた。
これまでへまばかりを繰り返して、自分はこういうくだらない中で生きるしかないのだろう、と女は思っていた。……しかし、そうではないと教えてくれる人に出会えたのだ。
働いて、人の喜ぶもの、誰かの役に立つものをこしらえることを学んだ。女は下に向けて歩いていた顔を、陽光に照らして歩くことをおぼえたばかりだったのだ。その、気持ちの良さといったら!
けれど女は、またしてもへまをやってしまった。すてきな男の笑顔にほだされ、どうしても嫌だと言い切れずについてきてしまった。久しぶりに泡酒を一杯……あれれ、こんな変てこな味だったっけ? まずい……!
気がつけば、自分のまわりの時間は何年か前に巻き戻っていた。
北へと向かう幌付き馬車の荷台の中に、それこそ白かぶの詰まった袋みたいに投げ込まれて、女は転がっていたのだ!
隙をついて、女は逃げ出した。そうして今、全力で森の道を駆けている……。失いつつある幸せな日々、明日のしっぽを泣きながら追いかけている。
突然、目の前がひらけた。視界いっぱいに広がったのは暗い水、水、水……。平たい湖面を前に、女は息をのむ。
からからから……。 ぽくぽくぽく…。
けれど耳の奥には、馬車のたてる音がこびりつくように響いてくる。本当に聞こえているのかどうか、追手が後ろに迫っているのか、混乱している女には判別がつかない。
「うううっ」
女はうめいて、一度後ろの道を振り返った。次いで湖の方を見る。暗い鏡のような水の周り、右手には鬱蒼とした森が迫り、左の方には曠野が広がっているばかり。女は左方向を見てためらった……。こんな見晴らしの良いところを突っ切って行けば、たちまち追手に見つかってしまう。けれど女は、森の深闇に身をかくすのも怖かった。山野のけもの、悪しき精霊、なにが潜んでいるのだか知れない!
ふと、湖の波打ち際に長細い岩々が何本も立っているのに気づく。
――あそこの岩の根元に、隠れたらどうだろう……?
じゃりじゃりじゃり……女は小さな石ころ浜を走って行って、その岩の陰にずざり、とすべり込んだ。
はあ、はあ、はあ……!
身体じゅうにどくどくと騒がしく打つ脈を何とか静めようとしながら、女は岩にすがる。やがてその陰から、ちょっとだけ顔を出す。そうっと後方を見てみた。
馬車の気配……追手のけはいは? わからない。聞こえない……。もしかしたら、うまくまけたのかもしれない! やった!
ぽく……。
その時、どこからか不気味な重い蹄の音が響いて、女は跳びあがりそうになる。車を引く、馬のひづめだ!
「わあ、わああ、ひぃいいいっ」
今度こそ、女は冷静さを完全に失って、おたおたと立ち上がり駆け出した。
ばしゃんっ!
湖水の中に派手に倒れ込む。女は無様に飛沫を上げながら起き上がり、また倒れる。ぽく、ぽく……。音に追い立てられてめちゃくちゃに逃げまどううち、女は次第に水と泥とに下半身をからめ捕られて……沈み始める。そこは湖のふりをした、沼だったのだ。
「わああん。うわぁああああん」
女は泣いた。もうだめだ。すぐ後ろの方でまた、あの蹄の音が聞こえる……。
捕まって、泥みたいな昔の暮らしに戻るのか。それなら今、この泥の中で溺れてしまうのも同じことだ。女はもがいた、もがいてもがいて水面を乱し、必死にもがいた……。 やがて、水面はぱたりと静まり返る。
それを見て、右手の方から汀にそそり立つ巨立石たちの間に差し掛かっていた巨大な牛は、首をかしげた。この沼に住む水棲牛は、半狂乱の女の様子を対岸に遠く見てはじめ引きまくったが……、それでもあわれな女の救援に向かっていたところだったのだ。しかし彼が彼なりに急いでゆくほど、女はますます恐慌していった。そうして最後は、自ら水の中へと潜ってしまったらしい……。
穏やかな精霊は、ゆっくり悲しげに首を振った。
緩慢な動きで踵を返す。仲よくしている巨立石たちの脇腹に自分の脇腹をこすりつけながら、汀のあわいを出て、どこかへのっそり歩いてゆく。……実体を持たぬかれの蹄は、濡れた砂利になめらかに触れても音をたてない。
ぽく……ぽく……。
水棲牛は、次第にその姿を薄くかすれさせ、闇に融かしながら歩いてゆく。身体を離れて丘の向こうへ旅立った女の魂に、静かなあわれみを向けながら歩いていって、やがて消えた……。