蛍火(ほたるび)
気鋭の昆虫学者が数々の難事件に挑む!
柏木祐介の事件簿、シリーズ第三話。
紫外線を見、超音波を聞き取り、かすかな匂いやフェロモンを嗅ぎつける……。
昆虫こそが最高の捜査パートナーだった!
【登場人物/レギュラー】
柏木祐介(三十四歳) 昆虫学者 東京大学応用昆虫研究室の准教授
前園弘(三十二歳) 警視庁の鑑識官
堂島健吾(四十五歳) 警視庁捜査一課の警部補
澤村翠(二十八歳) [新登場] 蛍の研究者
【登場人物/第三話】
大隈源太郎(六十五歳) 目黒区にある有名ホテルのオーナー
大隈さくら(四十五歳) 源太郎の後妻
小森慎一(四十歳) ホテル支配人
鳥羽雄二(六十歳) 源太郎の友人。
アミューズメント施設のオーナー。
鳥羽敏子(五十五歳) 雄二の妻
刈谷実(四十五歳) 源太郎の友人。不動産屋。
刈谷優花(四十歳) 実の妻
梅雨入り前の好天に恵まれた六月二日の夕暮れ、柏木祐介は非番だった前園弘を伴って、目黒区にある有名ホテル、『翠嵐苑』で催される蛍の観賞会を訪れた。ホテルのエントランスに設けられた観賞会の受付では、東大大学院卒業の蛍研究者、澤村翠が柏木達を待っていた。翠は二十八歳。白地に青の露草模様の浴衣を着た姿が、清楚な印象を与える。
「柏木先生、お久しぶりです」
「やあ、澤村さん、招待ありがとう。こちらがメールでお伝えした、前園君です」
「前園弘です。すみません、ちょうど非番の日に柏木さんから声をかけていただいたもので、ちゃっかりついて来てしまいました」
「いえ、もちろん大歓迎です。こちらでホタルの飼育を担当している、澤村翠です。よろしくお願いします」
「その浴衣、よく似合ってますね」と柏木が言った。
「ありがとうございます。こちらの社長のご好意なんです。飼育係の作業服姿では、他のお客様にも職員だとわかってしまうから、浴衣を着て、お二人の案内に専念するようにと言ってくださって。あの、よろしかったら、お二人も浴衣をお召しになりませんか? 観賞会に参加する方々には、着付けのサービス付きで浴衣を貸し出しているんです」
「せっかくだし、お言葉に甘えようか」と柏木は前園に言った。
「ええ」
「どうぞこちらに」
着替えを終えると、柏木達は台地の傾斜を利用した人工の渓流が流れる庭園に向かった。渓流に沿って木製の遊歩道が作られ、すでに十数名の見物人が、ほどよく間隔を取って並んでいる。
「澤村さんは柏木さんの講義を受けたことがあるんですか?」と前園が尋ねた。
「いいえ、先生が講座を持たれたのは私が院を出る年で、間に合わなかったんです」
「彼女が学部生の頃は、僕はまだ助手だったからね」
「でも、実験の準備の仕方とか、実験ノートの書き方とか、色々と教えていただきました。ご自分の研究で忙しいのに、私たちのことを何かと気遣ってくださるので、講座を担当される前から、柏木先生は学生達の間で大人気だったんです」
「学生のフォローも助手の仕事だから、当然のことをしていただけだけれど、そんな風に言ってもらえると、やっぱりうれしいものだね。でも、本音を言えば、講義でもゼミでもいいから、一度は澤村さんの授業を受け持ってみたかったな。『人の話をよく聞き、自分でよく考える生徒だ』と、主任教授の持田さんがいつも言っていたよ。研究者に対して、これ以上の誉め言葉はないんじゃないかな」
「そんな、私なんて……」
「それはそうと、澤村さん、君は僕の生徒だったわけではないし、もう一人前の研究者なんだ。僕を先生と呼ぶ理由はどこにもありませんよ」
「柏木さんは先生と呼ばれるのが苦手らしいんです」
会話の間に、西の空にわずかに残っていた赤味が薄れ、夕闇が深まっていった。
「そろそろ始まります」
翠がそうささやくと、まるでその声を待っていたかのように、水辺の草むらのそこかしこから、一つまた一つと、黄緑色の明かりを灯した蛍が飛び立ち始めた。高く舞い上がった蛍が光を放つと、それに遅れまいとするかのように次々と蛍が飛び立ち、程なく、辺りは数百という蛍の乱舞の場となった。
「蛍の光り方というのは、何て言うか、生物特有のリズムがあって、LEDのイリュミネーションとはまったく別物ですね」と柏木が言った。
「ええ、感傷的すぎるかもしれませんが、時々、命を燃やしているんだなあと感じることがあります。『音もせで 思ひに燃ゆる 蛍こそ 鳴く虫よりも あはれなりけれ』 声もなく恋の思いに燃える蛍は、鳴く虫よりも深く心に沁みる……」
「誰の歌ですか?」
「源重之です。観賞会のパンフレットに入れるために、蛍を詠んだ和歌を探していて見つけたんです」
「いい歌ですね。それにしても、パンフレットも澤村さんが?」
「ええ、慣れないことばかりですが、一般の方々に興味を持っていただけるように工夫するのはとても勉強になります」
柏木は遊歩道を照らす照明を頼りにパンフレットに目を通した。
「和泉式部の歌も載っていますね」
「どんな歌ですか?」と前園が尋ねた。
「『もの思へば 沢の蛍もわが身より あくがれ出づる 魂かとぞ見る』 もの思いに沈んでいると、沢を飛ぶ蛍が、自分の体から抜け出てしまった魂のように見えてくると言うんだ。やはり名歌だな……」
「柏木さん、古典にも詳しいんですね」
「うちは父親が数学教師、母親が国語教師という教員一家でね、古文は母親に習ったんだ。知識が理系に偏りすぎだと言って、かなりみっちり仕込まれたな。でも、教え上手な人だったから、それなりに楽しかったよ。そういえば、蛍を見ているうちに子供時代のことを思い出したんだけれど、ちょっと不思議な体験でね」
柏木は少し間を置いて蛍の群れを見つめると、遠い昔の出来事を語り始めた。
「小学二年の夏の、もうすぐお盆を迎える八月上旬の頃だった。確か、母と一緒に近所のスーパーで夕飯の買い物をした帰りだったな。ふいに母が、お盆の間は虫捕りをしてはいけないと言ったんだよ。訳を訊くと、お盆には亡くなった人の魂が虫に乗って帰ってくるからだと言うんだ。母方の祖母が亡くなった年で、初めてのお盆でまだ慣れていないのに、乗り物がなかったらきっと困るだろうと。僕の母には、少し迷信深いところがあってね。別の時だけど、お盆のあいだはプールで泳いではいけないと言われたこともあったな……」
「ああ、水のタブーの話は僕も聞いたことがあります。水中にいる悪霊が溺れさせようとするとかいうんですよね?」
「うん、そんな話だった。各地に同じような言い伝えがあるんだね。それで、お盆の初日の八月十三日の昼頃に、母が居間から、お祖母ちゃんが帰ってきたと言って僕を呼ぶんだ。行ってみると、キュウリの馬やナスの牛を飾った精霊棚のまわりを、アオスジアゲハが飛びまわっていた。街中で普通に見られる蝶だけれど、家の中に舞い込んできたのは、後にも先にもその時しかない。確率を考えたらすごいことだよね。あの蝶は何と言うか、本当に神聖な存在のように思えたな……。翅の緑がかった鮮やかな青が、今でも目に浮かぶようだ」
「本当に、不思議なお話ですね……」
「あ、そうそう、確率の低い出来事がここぞというところで起きることを、ユング心理学ではシンクロニシティ、意味のある偶然、と呼ぶそうです」
「前園君、心理学に詳しかったっけ?」
「いえ、門脇さんの受け売りです。ポリスというバンドの『シンクロニシティ』というアルバムを聴かせてもらっていた時に、シンクロンシティのことを説明してくれたんです。歴史上の偉人の受けた啓示の多くがシンクロシティだとか、易占いというのは、シンクロニシティを意図的に生み出すシステムだとか、話が止まらなくって参りましたよ」
「あはは、彼らしいね」
「あの、門脇さんというのは?」と翠が尋ねた。
「門脇佑馬、前園君と同じで、東大のチェスサークルの仲間です。学部は文学部で、こだわりの強い者同士のせいか、前園君とは特に仲が良かったな。今は作家になっているんですが、前園君の言葉を借りると、コアなファンのいる怪奇小説家なのだそうです」
「ところで、蛍はどんな仕組みで光るんですか?」と前園が言った。
「光の素となるルシフェリンが、ルシフェラーゼによる二段階の反応で励起状態のオキシルシフェリンになって、それが基底状態に戻る際に発光するんです」
「酵素が触媒する酸化反応なんですね。確かに、命を燃やしているという言い方がぴったりくる」
「ええ」
「持田教授は昨晩見に来られたそうですね。わずか三年でこれだけのビオトープを作り上げるなんて本当に大したものだと、朝から会う人ごとにおっしゃっていましたよ。僕もまったく同感だ」と柏木が言った。
「ありがとうございます。実を言うと、柏木さんからうかがったお話が、この企画のヒントになったんです」
「僕の話が?」
「ええ。他の学部生に共生の話をされていて、通常の場合、共生というとミツバチと植物のような、お互いに利益を与えあう相利共生を思い浮かべるけれど、一方の生物だけが利益を得る片利共生もあるし、ヒメバチと獲物の昆虫のような寄生関係だって共生の一種だと」
「ああ、あの話か」
「ええ、それを聞いていて、人間の社会で受け入れられるのは、やっぱり相利共生だろうなって考えたんです」
「なるほど……、それにしたって、シビアな経営者を説得するのは並大抵のことではないはずだ」
「企画書の書き方なんて授業じゃ教えてくれないし、研究パートナーの企業を見つけるなんて、大学なら教授や准教授の仕事ですよね。すごい行動力だ」と、前園が感心しながら付け加えた。
「ありがとうございます」
「飛びまわる蛍の数がかなり減ってきましたね。活動に周期性が?」と、柏木が周囲を見まわしながら尋ねた。
「ええ。一晩に三回ピークがあります。一回目が最も規模が大きくて、日没直後から二時間ほどです。その後は、午後十一時前後と午前二時前後に、また飛翔が活発になります」
「光の洪水のような大乱舞ももちろんいいけれど、こうして数匹の蛍が飛んでいるのも風情がありますね」
「ええ。『ただ一つ二つなど、うち光りてゆくもをかし』清少納言の言う通りですね」
翠がそう答えた時、支配人の小森慎一が遊歩道につながる石段を足早に下りて近づいてきた。年齢は四十歳、極度の痩身で、角ばった黒縁の眼鏡をかけている。
「お食事の用意が整いましたので、ご案内に参りました」
額に汗をにじませながら小森が言った。
「小森支配人、わざわざありがとうございます。では、柏木さん、前園さん、そろそろ戻りましょうか」
「そうですね」
柏木はうなずきながら答えると、先に立って歩き出した小森に声をかけた。
「それにしても、ディナーまでご馳走になるなんて申し訳ないですね。着替えなくて大丈夫ですか?」
「ええ、皆さん観賞会にいらした方々で、浴衣をお召しです。内輪の集まりですから、どうぞお気を楽に」
オーナー社長を囲む内輪の集まりだからこそ、こちらは気を遣うのだが……、柏木はそう考えながら密かに苦笑した。とはいえ、支配人としては、他に言いようもないだろう。
翠は小森のすぐ後を歩いていたが、途中で歩調を緩めて柏木と並ぶと、声をひそめて言った。
「これから食事をご一緒する大隈社長のことですが……、少し強引なところがあるので、不快にお感じになることがあるかもしれません。でも、本当は気さくで面倒見のいい方なんです」
「心配要りません。多少性格に難はあっても、彼が度量の大きな人物だということは承知しています。僕に何を期待しているのかも、大体察しがついているし、うまくやりますよ」
「すみません。ありがとうございます」
柏木達が案内されたのは五階建ての別館の最上階にあるVIPルーム、『胡蝶の間』だった。別館は高台にある本館から斜面を百メートルほど下ったところに建てられていた。
「お三方をご案内しました」
ドアをノックして小森がそう告げると、社長夫人、大隈さくらの声が返ってきた。
「どうぞお入りください」
小森は三人に入室をうながすと、自身は廊下に残ったまま一礼してその場を去った。
「ご招待ありがとうございます。柏木祐介です」と、柏木は近づいてくる六十代半ばの男性に言った。
「どうも、柏木先生、ご高名はかねがね承っております。そちらがご友人の前園さんですね。よくお越しくださいました。大隈源太郎です。こちらは妻のさくら」
「よろしくお願いいたします。すみませんねえ、こんなところにお呼び立てして」とさくらが言った。彼女は源太郎とは二十歳違いで、元は愛人だったのだが、先妻の死後、五年前に正妻の座についていた。
「まあ、いいじゃないか、澤村さんも一緒なんだし。こちらは鳥羽雄二氏と細君の敏子さん。相模原でアミューズメントパークを経営しているんですが、多分、施設の名前はご存じないでしょう」
「これは手厳しいな。鳥羽です。よろしくお願いします」
鳥羽は源太郎の知人で、年齢は五歳年下、源太郎のぞんざいな口調は、長年にわたる親密な交友関係の現れでもあった。
「こちらは不動産仲介業をやっている刈谷実氏と妻の優花さん。お住まいをお探しの際はぜひ声をかけてやってください。掘り出し物の物件を見つけてくれますよ」
「よろしくお願いします」
刈谷は働き盛りの四十代、源太郎が彼の手腕を買って、交友を深め始めたところだろうと思われた。
「さ、こちらへどうぞ」
胡蝶の間は二十平米ほどの広さで、正面の窓からは、蛍の飼育されている渓流を見下ろすことができた。
「すばらしい眺めですね。斜面に立っていて渓流がまわり込んでいるから、高さの割に水辺が近い。これなら窓辺にも蛍が飛んでくるでしょう」
柏木の言葉に、源太郎は満足げにうなずいた。
「さすが、よくおわかりだ。水の流れをどうするのがベストか、澤村さんが知恵を絞ってくれたおかげです」
源太郎がテーブル上のワイヤレスチャイムを使って合図を送ると、アスパラガスを使った色鮮やかな前菜が運ばれてきた。
「ドビュッシーですね。『葉ずえを渡る鐘』か……、ここの眺めにぴったりだ」
柏木が館内放送で流されているピアノ曲に耳を傾けながら言った。
「曲名までご存じとは! 柏木先生はクラシック音楽にも通じておられるんですね」
「いえ、たまたまドビュッシーやラヴェルの曲が好きだっただけです。それはそれとして、印象派の曲は光や水のゆらめきを感じさせてくれるから、蛍観賞会にはぴったりですね」
「彼女の選曲なんですよ」
源太郎が翠のほうに目をやりながら言った。
「そうか、澤村さんはピアノが得意でしたね。新歓コンパの二次会で演奏してくれたことがあったな。あの時の曲も、ドビュッシーだったような気がする」
「ええ、『雪が踊っている』と『小さな羊飼い』です。暗譜で弾ける曲はそのくらいしかなくて……」
「澤村さんがピアノを? そりゃいい、ぜひ聴かせてもらわなくては。ちょうど三階のラウンジにピアノを置いたところだし……」
「恰好つけるのはおよしなさい。いつかだって、年末だから第九を聴くんだとか言い出してわざわざコンサートに行って、演奏が始まって十分もたたないうちに爆睡したじゃないの。挙句の果てにいびきまでかいて、あんな恥ずかしい思いは二度とご免だわ」
さくらにやり込められて、源太郎はきまり悪そうに口をつぐんだ。
ディナーは順調に進み、メインの肉料理が饗された。
「ところで、柏木先生は警察に協力して、数々の難事件を解決なさったそうですね」と源太郎が言った。
「いえ、協力したのは二件だけで……」
「いや、それだって大変なことだ。昆虫の専門家が一体どうやって謎を解くのか、ぜひそこのところをお話し願えませんか?」
「そうですね……」
柏木は申し訳なさそうに自分を見つめている翠の視線に気づくと、おだやかな微笑を浮かべながら言葉を続けた。
「最初のアゲハチョウの事件は雑誌やテレビでかなり紹介されたから、第二の事件のことをお話ししましょう……」
柏木は十分ほどかけて軽井沢の放火殺人事件の概要を語った。
「……というわけで、犯人二人は逮捕され、ティアラは無事に藤井博子さんの手に渡りました。来春の浦上さんとの結婚式で使われるはずです」
「なるほどねえ、テントウムシは一酸化炭素中毒にならないのか……。さすがは柏木先生だ」
源太郎に続いて、鳥羽雄二が憤慨しながら言った。
「それにしても悪賢いやつらだ。柏木先生がいらっしゃらなかったら、まんまと完全犯罪が成立してしまうところだったじゃないですか」
「いえ、完全犯罪などというものは、そもそも不可能なんです。殺人という非日常的行為は、犯人の心身と周囲の環境に過大な負荷をかける。何らかのひずみが必ず発生するんです。堂島警部補はこのひずみを長年の経験で直感的に捉えていた。それが彼の感じた違和感の正体です。今回の事件ではたまたまそのひずみが、昆虫の反応に表れていたので、僕の昆虫学者の知識が役立っただけのことです」
柏木の言葉に熱心に耳を傾けていた刈谷が言った。
「いや、そんな風に探偵の考え方を科学者の言葉で説明できる人なんて、どこを探しても見つかりませんよ。一流の学者であると同時に名探偵、とてつもない才能だ」
「その通り。刈谷君、いいこと言うねえ」
源太郎は上機嫌でそう言ってワインのグラスを空けると、不意に改まった口調で柏木に話しかけた。
「話は変わりますが、柏木先生はまだ結婚なさっていませんね?」
「ああ、はい……」
さくらはすぐに話の内容を察して、軽く咳払いしながら源太郎を睨みつけたが、夫のほうは一向に気づく気配がなかった。
「うちの澤村さんですがね、気立てはいいし、美人だし、実に魅力的な女性なんだが、研究熱心すぎて恋人を作る暇がないらしい。失礼だが、先生が独身なのも事情は同じでは? それで、研究者同士なら話も合うだろうし、お二人で付き合ってみてはどうかと……」
「およしなさい。経営の才覚しか取り柄がないんだから、余計な口出しをするもんじゃないわ。うまく行く話もぶち壊しになるじゃないの。まったく、何を言い出すかと思えば……」
さくらはたまりかねて源太郎の言葉をさえぎると、耳まで赤くしている翠に声をかけた。
「翠ちゃん、ごめんね。柏木先生も、うちの野暮天の言ったことなんか忘れて、気楽に景色と料理を楽しんでいってくださいね」
「ありがとうございます」と、柏木は苦笑しながら答えた。
「なあ大隈さん、先日送った増資の計画書なんだが、読んでもらえたかな」
話の機会をうかがっていた鳥羽が源太郎に言った。
「ああ、もちろん読んださ。鳥羽さん、ありゃだめだよ。そもそも樫の木パークランドには将来性がない。競合は多いし、規模も中途半端だ」
「いや、だからこそ増資して……」
「あの企画書に書いてあるのは、よそでやってることの真似ばかりだ。今さら言うのもなんだが、開業当初からコンセプトがなっていなかった。あそこでしかやれないことを考えるべきだったのに、あそこでやれることを選んでしまったのさ。競合する施設ができたら業績ががた落ちになったのはそのせいだ。じゃんけんで後出しされているようなもんだよ。勝てるわけがない。
うちの蛍の人工飼育は、天然の湧き水とこの傾斜があるから工事費が抑えられた。他社が真似ようとしても、投資額は三倍以上になる。後発でそれじゃ算盤が合わない、そこまで試算してあったから、俺は澤村さんの企画に乗ったんだ。どうしても追加の投資をして欲しいと言うんだったら、あの場所でしかやれないアイデアを盛り込んだ企画書を出し直してくれ。
まあ、正直なところ、これ以上傷口が広がらないうちに事業をたたむのが最善に思えるがね。敷地の売却とかは、この刈谷君がうまくやってくれる。なかなかの遣り手だよ。同業者からも一目置かれているくらいだ」
反論の言葉が見つからずに、鳥羽は不満げな顔で黙り込んだ。
「澤村さん、蛍って何のために光るんですか?」
それまで居心地悪そうに沈黙していた翠は、ほっとしたような表情を浮かべながら前園の問いに答えた。
「現在では雄と雌がパートナーを見つける役にも立っていますが、もともとは自分が毒を持っていることを夜行性の捕食者に警告するためだったという説が有力です。卵から成虫まで、すべての段階で光りますから。最近、中部大学をはじめとする研究グループが、一億年前の蛍のルシフェラーゼのアミノ酸配列を祖先配列復元の手法で解析して、当時のルシフェラーゼの復元に成功したんです」
「すごいな、一億年前の生物の色彩の再現なんて聞いたことがない。タイムマシンを使ったみたいじゃないですか」
「ええ、この実験で、一億年前の蛍が深い緑色の光を放っていたことが判明しました。この光は当時の夜行性捕食者である原始哺乳類や小型恐竜によく見えることから、警告説がさらに有力視されるようになったんです」
「蛍は毒を持っているんですか?」
「ええ。前胸部の赤も警告色だとされています。そういえば、京大などの研究グループが、中国にいるヤマカガシの仲間の毒蛇が、蛍の幼虫を食べて毒を蓄えていることを解明したんです。日本のヤマカガシはヒキガエルを食べて毒を得ているそうで、食性が違うんですね」
「なるほど、ヤマカガシは毒を生合成できないんですね。蛍の場合は?」
「進化のかなり早い段階で毒を持っていたわけですから、生合成だと思います。成分はヒキガエルの毒と同じ強心ステロイドのようです。ただ、それが蛍の体内でどのように生合成されるのかを解明した論文というのは、まだ読んだことがありません。ヒキガエルの強心ステロイドについて、生合成を示唆する論文はありましたが……」
「やれやれ、食事中に毒だのヒキガエルだの、飯が不味くなる」
突然、大隈源太郎が不機嫌そうにつぶやいた。
「あ、すみません。毒物は自分の研究分野なものだから、つい夢中になってしまって……」
「前園さんが謝ることなんて何もありません。謝るのはこの人のほうです」
さくらが夫を睨みつけながら言った。
「あなた、どういうつもり? 自分から食事の席で殺人事件の話をせがんだくせに、毒ぐらいで文句を言うなんて。それに、このお二人はご自分の研究の話をなさっているのよ。面白半分のあなたなんかとはわけが違うんですからね」
源太郎は放心したような表情で、言われるがままになっていた。気まずい沈黙の後で、彼は弱々しい声で言った。
「前園さん、澤村さん、申し訳ない。妻の言う通りだ。少し飲み過ぎたのかもしれないな……。ちょっと夜風にあたってこよう。さくら、後を頼む」
源太郎はそう言い残すと、少しふらつきながら部屋を出ていった。
「すみません。皆さん、どうかお気を悪くなさらずに」とさくらが言った。
「何でもありません。それに、ご自身で非を認めてきちんと謝罪された。立派なものです」と柏木が答えた。
「しかし、彼にしては珍しいね。そんなに飲んだようにも見えなかったがな」と鳥羽が言った。
デザートのシャーベットが運ばれ、会食が終わりに近づいても、源太郎は戻らなかった。
「どうしたのかしら、お客様をほったらかしにして……。すみません、ちょっと見てまいりますね」
さくらが出てゆくと、鳥羽が刈谷に言った。
「さすがの大隈源太郎も、さくらさんが相手だと形なしだな」
「銀座の一流クラブを切り盛りしていたというだけのことはありますね」
「大隈社長、ちょっと様子が変でしたね。急に機嫌が悪くなったし、顔色も悪かった」
前園が声をひそめて言うと、柏木も小声で答えた。
「うん、部屋を出る時も、少し足がもつれたように見えたけど、大丈夫かな……」
突然、階下の遊歩道の方から、さくらの叫び声が聞こえてきた。
「誰か、救急車を、早く!」
柏木達が駆けつけると、さくらは遊歩道に通じる石段の途中で、源太郎を抱きかかえてうずくまっていた。源太郎は頭部から激しく出血し、全く意識がなかった。
彼は直ちに救急車で病院に搬送されたが、転倒時に石段で頭部を強打したことによる死亡が確認された。
翌日の夜、堂島警部補の要望で、会食者と支配人の小森が胡蝶の間に集められた。通夜の後で、鑑識の作業服に着替えた前園とダークスーツ姿の堂島以外は、喪服を身に着けていた。時刻はすでに十一時をまわっている。
「あの……、警察の方がいらしたということは、主人の死に何か不審な点があるんでしょうか?」と、さくらが堂島に尋ねた。喪主として通夜を終えたばかりで、その表情には深い憔悴の色が現れていた。
「そうですね、柏木准教授とうちの鑑識の前園の証言、現場の状況から見て、さらに捜査が必要であることは確かです。ご主人の死因は、転倒による頭部の損傷ですが、その度合いが激しすぎるんです」
「激しすぎる?」
「ええ。ご主人は石段を下りていて、前方に倒れ込みながら頭部を強打している。このような場合、人間は反射的に、手をつくなり体を丸めるなりして、身を守ろうとするはずなんです。ところが、ご主人の遺体にはそうした行動の痕跡がまったくない。つまり、転倒時には完全に意識を失っていた可能性が高いんです。ご主人の健康状態は良好だったそうですね」
「ええ、先月人間ドックに入ったんですが、悪いところは何も見つかりませんでした」
「昨晩の酒量は?」
「当人は飲み過ぎたかもしれないと言っていましたが、倍の量を飲んでも平気だったと思います」
「そして、柏木さんと前園の話では、ご主人は食事の途中で急に不機嫌になり、体調も悪そうだった、と」
「はい」
「となると、源太郎氏の失神が何らかの人為的な要因、薬物等によって引き起こされた可能性は排除できません。そこで、昨夜彼と夕食を共にされた方々にこうしてお集まりいただいたというわけです」
「あの、すみません、ちょっと失礼します」
小森は右手でみぞおちのあたりを押さえながらそう言うと、足早に部屋を出ていった。
「小森支配人、急にどうされたんでしょう?」と堂島がさくらに尋ねた。
「狭心症の薬を飲みに行ったんだと思います。きっと、警察の方がいらして緊張したんです」
「心臓が悪いんですか?」
「ええ、なにしろ気の弱い男で、それが、ワンマン社長に一日中振り回されるものだから、ストレスをため込んでしまったんでしょうね、先日心臓発作を起こしたんです。なんとか命は助かって、今は薬を持ち歩いています」
「彼はこちらに何年くらい?」
「五年前、他のホテルから転職してきたんです。小心者ですが、そのぶん細かい気配りのできる男です」
刈谷が首を傾げながら、堂島に言った。
「薬物と言われましたが、食事の残りや食器などは、とっくに調べているはずですよね?」
「ええ、ディナーの料理に飲み物、食器、すべて調べましたが、体調不良を引き起こすような薬物は何も検出されませんでした」と、前園が堂島に代わって答えた。
「それなのに、なぜ?」
「検査は使用された可能性が高いと考えられる薬物に関して行なっただけで、こちらの想定していない薬物が使われた可能性は排除できないんです。万能の検出薬というものは存在しないので」
「なるほど、それにしても、前園さんて、警察の方だったんですね。その姿だとまるで別人のようだ」
「「すみません、別に隠すつもりはなかったんですが、プライベートでしたし……」
「警察関係者を快く思わない方もいらっしゃるので、捜査以外では進んで身分を明かさない習慣が身についているんです。ご容赦ください」と堂島が言い添えた。
「いえ、別に非難しているわけではありません。単なる感想ですから、気になさらないでください」
「それで、我々は容疑者ということなんですかね?」と鳥羽雄二が言った。
「いや、まだ薬物が使われたかどうかさえはっきりしていないんですから、容疑もなにもありません。我々はただ、昨日の状況を正確に把握しておきたいと考えているだけです。お疲れのところ恐縮ですが、どうかご協力願います」
堂島が話し終えたところに、小森が戻ってきた。
「失礼しました」
「ご無理はなさらないように。気分が悪くなったら、すぐおっしゃってください」
「ありがとうございます」
「で、我々はどうすれば?」と刈谷が言った。
「そうですね、皆さん、昨晩と同じ席にお座りいただけますか」
会食者たちは堂島の言葉に従ってそれぞれの席についた。
堂島はテーブルの傍らに立っている小森に尋ねた。
「料理を運んだのは?」
「給仕担当の女性社員達です」
「誰がどのお客に料理を出すといった取り決めは?」
「いえ、特に。どなたにも同じ料理をお出しすることになっていましたから」
「となると、薬物入りの料理を用意しておいて、大隈社長のところに運んでゆくというのは難しそうですね」と刈谷が言った。
「そうですね。どの料理が彼のところにゆくか、わからないわけですから。飲み物はどうですか? 大隈社長だけが口にしたものとか」
堂島の問いにさくらが答えた。
「ありません。ワインもミネラルウォーターも、同じボトルから注ぎ分けられていました」
「刑事さん、まさか、我々の誰かが彼の料理に薬を入れたと言うんじゃないでしょうね」と鳥羽が言った。
「いや、他の会食者の目の前で、それは難しいでしょう」
「前園君、大隈社長の昼食なども調べたはずだよね?」と柏木が前園に尋ねた。
「ええ、昼食は抜きでしたが、夕食の二時間前に飲んだスープは検査しました。大隈社長が毎日のように飲んでいたと聞いて、ちょっと気になったんですが、結果は異常なしでした」
「スープを毎日?」
「滋養強壮に効く有名な中華料理だそうです」
「佛跳牆というんです。あまりにもいい匂いだから、坊さんも塀を飛び越えてやって来る、という意味だそうです」とさくらが言った。
「面白い名前ですね」
前園がメモを取り出しながら話を続けた。
「シェフに食材のリストを書いてもらったんですが、高級食材がずらりとなんでいますよ。干しアワビに干し貝柱、フカヒレ、金華ハム、冬虫夏草、ああ、これは強精剤ですね。それと鹿茸、ゲンゴロウ……」
「ゲンゴロウ?」
堂島が不審そうに言った。
「ええ、そう書いてあります」
「高級食材の中に、ずいぶんけったいなものが混じっているな。柏木さん、ゲンゴロウって食べられるんですか?」
「昆虫食としてはポピュラーなものですよ。広東料理の食材だし、タイなどでもよく食べられています。ただし、油で揚げてスナック感覚で食べるのが一般的で、スープの材料にするというのは、かなり珍しいんじゃないかな」
「なんでも香港に旅行した時に、漢方薬局で勧められた特別な品物だそうで、効果てきめんなんだと言ってわざわざ取り寄せていたんです」とさくらが言った。
「トウチュウカソウというのはなんでしたっけ? そっちは聞いたことがあるような気はするんですが……」と堂島は柏木に尋ねた。
「セミやガの幼虫に寄生するキノコです。冬に幼虫だったものが、夏になると、草つまりキノコに変わったように見えるので、そう名づけられました。中華で食用にするのはコウモリガの幼虫に寄生するフユムシナツクサタケですね。これは薬膳の定番です」
「うーん、大隈社長だけが飲んでいて、毎日の習慣か、怪しい気はするんだが、異常はなしか……」
「それと、飲んだのが二時間前というのも気になります」と前園が言った。
「意識を失わせるような薬物を摂取したのなら、通常はもっと早く症状が現れるでしょう。もちろん、遅効性のそうした薬物が存在しないと断言できるわけではありませんが……」
柏木は考え込みながら窓の外に目をやった。窓の外では二度目の蛍の乱舞がピークを迎えていた。不意に、一匹の蛍が群れを離れると、窓辺に近づいてきた。蛍はガラスにぶつかりそうなところで向きを変え、横に波打つように飛んで姿を消した。
―酵素が媒介する酸化反応、ルシフェリンにルシフェラーゼ……。なるほど、そういうことか!
柏木はひそかにうなずくと、堂島に声をかけた。
「堂島さん、他に何か確認の必要なことがおありですか?」
「いえ、これで十分です。皆さん、夜分遅くまでご協力いただき、ありがとうございました。澤村さん、柏木さん、よろしければ車でお送りしますよ」
「ありがとうございます。でも、まだ電車で帰れますから……」
「酔客が増える時間帯だし、夜道も心配だ」と柏木が翠に言った。
「その通り。遠慮は無用です」
堂島と前園、柏木、翠の四人は、本館の入り口前でパトカーに乗り込んだ。
「柏木さん、先ほど何か気づかれたようですね」
エンジンをかけると、堂島はさっそく柏木に声をかけた。
「さすがは堂島さん、すべてお見通しだ」
柏木は微笑みながら前園にメモを差し出した。
「前園君、ここに書いた物質に対象を絞って料理の検査をやり直してもらえるかな? 無事に検出できれば、後は簡単な実験を一つ済ませるだけで事件は解決だ。それから澤村さん、明日の朝一番にホテルの厨房に行っていただけますか」
「厨房ですか?」
「ええ。仕上げの実験のための、特別料理を発注したいんです」
柏木は料理の内容を説明し始めた。
翌日の午後八時、柏木たち四人は、再び胡蝶の間でさくら、小森とともにテーブルを囲んでいた。
「葬儀が終わったばかりでお疲れのところにも関わらず、お時間をいただいて恐れ入ります。捜査の最終結果をご報告させていただこうと思いまして」と堂島が言った。
「ご苦労さまです。それで、結果というのはどのような?」
「結局、ご主人の死亡事故に関して、その原因となるような薬物は、どこからも検出されませんでした。つきましては、本日をもって捜査を終了させていただくことになります」
「そうですか……、わかりました」
「すみません、完全に僕の見込み違いでした」
柏木はそう言って頭を下げた。
「いいえ、主人のためにやってくださったことですから、気になさらないでください」
「ありがとうございます。それで、話は変わるんですが、前園君が食材を調べるために何度も厨房に足を運んでいるうちに、シェフとすっかり仲良くなって、その方から料理を差し入れていただいたそうなんです。せっかくだし、お二人もご一緒にいかがですか?」
「そうですねえ……」
さくらも小森も気乗りしない様子だったが、柏木は構わずチャイムのボタンを押して料理を運ばせた。
「お願いします」
給仕係は蓋のついた小さな白磁器のカップを各人の前に置いた。
「さあ、冷めないうちにどうぞ」
「これは美味い……」と、堂島が目を見張りながら言った。
「そうでしょう。中華料理のシェフが腕によりをかけた最高級のスープですから」
「あの、これって」
「ええ、ご主人のお気に入りだった、佛跳牆です」
柏木がそう答えると、突然、小森が青ざめた顔をして部屋を飛び出していった。
「スープを吐き出しに行っただけです。心臓発作ではありませんから、ご心配なく」と、柏木はさくらに言った。
「吐き出しに?」
「ええ。すみません、シェフの差し入れというのは、僕の作り話です。佛跳牆を飲んだお二人の反応で、共犯関係の有無を見極める必要があったものですから。おかげで、今回の事件が小森単独の犯行だということがはっきりしました」
柏木は戻ってきた小森に言った。
「せっかくのスープをもったいない。ゲンゴロウなんて入っていないよ。犯人に死なれては困るからね」
「どういうことなんでしょう?」とさくらが尋ねた。
「ゲンゴロウの強精効果の正体はシルデナフィルクエン酸塩、ED治療に用いられている薬品です。こんなものを添加した食材を健康食品として売りつけるなんて、ひどい薬局があったものだ。この薬には、一緒に服用してはならない、危険な飲み合わせ、併用禁忌とされる薬品があるんです。硝酸剤などの狭心症の治療を併用すると、相互作用と呼ばれる薬の効きすぎが起こって、過度の血圧低下が発生します。狭心症の治療薬を服用している小森支配人は、当然この禁忌を知っていた……。さくらさん、あなたと彼は愛人関係にありますね?」
さくらは不意を突かれてうつむいた。
「彼はあなたからゲンゴロウ入りの佛跳牆の話を聞いて、含まれている成分に気づいたんでしょう。そして、ディナーの料理に狭心症の治療薬を入れた。この薬だけでは害にはならないし、毒物として検出されることもない。うまく考えたものだ。と言っても、使われた薬品の見当がついてしまえば、後は何でもない。大隈社長が飲んだ佛跳牆からは、シルデナフィルクエン酸塩、ディナーのステーキに添えられたソースからは、狭心症の発作予防薬、硝酸イソソルビドが検出されました。小森支配人が常用している薬品と同じ成分であることも確認済みです」
「小森がそんなことを……」
信じられないという表情でさくらが小森を見つめると、小森はおどおどと目を伏せた。
「残りの課題は、先程も申し上げた通り、さくらさんが共犯者かどうかを明らかにすることでした。そこで、澤村さんを通じて中華料理のシェフにお願いして、佛跳牆を作ってもらったんです。さくらさんが共犯者だったら、佛跳牆を口にした時、小森支配人と同じような行動を取ったでしょう。三日もたっているんだから、硝酸剤が残留しているはずはありませんが、併用禁忌のことを知っていて、平静でいられるとは思えません。目の前であんなに慌てている人物がいたら、なおさらだ。堂島さん、いかがでしょう?」
「ええ、私も同意見です」
堂島は小森に歩み寄って逮捕状を示した。
「小森慎一、薬物を使用して大隈源太郎氏を事故死させた疑いで逮捕する」
堂島は小森に手錠をかけ、室外で待機していた若手の刑事に引き渡した。
「連れていけ」
小森は刑事に連行されて部屋を出ていった。
「小森が主人を、あんな気の小さい男が……」
「これは私の推測に過ぎませんが」
堂島が呆然としているさくらに言った。
「気の弱い男だからこそ、今回の犯行に及んだのかもしれません。源太郎氏のもとで支配人を務めるだけでも大変なのに、その妻であるあなたと関係を持ってしまった。源太郎氏にいつ真相を知られてしまうかと考えるのは、彼にとって恐ろしい重圧だったでしょう。いずれにしろ、犯行の動機については、取り調べで明らかにして参ります」
堂島は柏木のほうに向き直って礼を言った。
「柏木さん、ご協力感謝します。併用禁忌でしたっけ? あれを教えていただかなかったら、どうなっていたか……。会食者全員の食事に薬物が入っていたとは、思ってもみませんでした」
「蛍のおかげで気がついたんです。ルシフェリンとルシフェラーゼ、二つの物質がそろって初めて発光する。といっても、反応の種類はまったく別物ですが……」
柏木はそう答えると、前園に話しかけた。
「前園君、あの時、蛍が一匹だけやけに高く飛んで近づいてきたんだけど、あれもシンクロニシティなのかな」
「そうですね……、そのおかげで柏木さんがインスピレーションを得て、事件が解決したんだから、確かに『意味のある偶然』と言えるのかもしれませんね」
柏木は席を立って窓辺に歩み寄ると、蛍の乱舞を見下ろした。
「大隈さん、お疲れでしょう。見送りはここまでで十分です」
別館の正面玄関を出たところで堂島が言うと、さくらは無言で一礼して四人を送り出した。
「このまま帰るのはもったいないな。ちょっと寄り道して、蛍を見に行きませんか? 堂島さんは捜査ばかりで、蛍をほとんど見ていないでしょう?」と柏木が言った。
「いいですね。堂島警部補、事件は無事に解決したんだし、少しくらい休憩してもいいんじゃありませんか?」
「そうだな、蛍を間近で見る機会なんて、めったにあるものじゃないし……」
「よし、決まりですね」
「私は一件電話を。皆さんお先にどうぞ。そうだ、前園、ちょっといいか?」
前園が堂島に歩み寄る間に、柏木と翠は遊歩道に向かった。
「何でしょう」
「俺は口実を作って途中で抜けるからな。お前も上手くやれよ」
「どういうことですか?」
「にぶい奴だな。あの二人、似合いのカップルだと思わないか?」
「それはそうですけど、じゃあなぜ一緒に行くと?」
「お二人だけでどうぞ、なんて言ったら、かえって行きづらいだろ?」
「なるほど……、でも、どうやって二人だけにすればいいんですか?」
「しょうがないな、じゃあ、俺が携帯に電話してやるから、出るふりをして二人から離れろ」
「了解しました」
前園は敬礼して柏木たちの後を追った。堂島はその後ろ姿を見守っていたが、やがて首を傾げながら不安気につぶやいた
「本当に大丈夫か、あいつ……」