妖怪絵師の通信教育
京より届いた封書を受け取った私の胸に湧き上がったのは、一言では言い表せない複雑な感情の動きだった。
喜びに期待、それに不安。
様々な感情が入り乱れ、どうにも落ち着かない。
「遂に届いたのか、私の書状の返しが…」
封書を開けようと力を加えたもの、思い止まってしまう。
これではまるで、愛しい女子衆から恋文の返しを貰った若旦那だ。
然しながら、私は女子衆の恋文に一喜一憂するような浮ついた歳では無いし、そもそも此度の封書は恋文の類では無かった。
此の大津旭泉、憚りながら絵師として筆を握る身。
今日こうして手にしている書状も、私の師匠に当たる円山派絵師の駒井永源先生より頂いた物なのだ。
地元である堺を離れられない事情を抱えた私に、京にお住まいの永源先生は書状を介した絵の指導を提案して下さった。
その寛大な御心遣いは、幾ら感謝しても感謝し足りない程だ。
だが、封書を開ける時の緊張と不安だけは、どれだけ経っても決して慣れる事はなかった。
何か不測の事態でも起きていないだろうか?
お送りした絵の出来栄えを酷評されたら、果たして耐える事が出来るだろうか?
そもそも、破門されたらどうしようか?
このような考えが、どうしても浮かんでしまうのだ。
「一日千秋の思いで待ち望んだ書状だが、開封するのが何とも恐ろしい。あれ程待ち焦がれたというのに、不思議な物だ…」
とはいえ、何時までもこうしている訳にもいかない。
私は震える手で封を切り、早鐘のように鳴る心の臓を押さえながら、恐る恐る書状を広げたのだった…
一筆啓達せしめ候。
誠に古今百鬼夜行画本、今般借進致し候処、早速御写し取りにて御返却、確かに相達し落掌致し候。
且つまた、御清書一枚差し出され、即ち披見致し候処。
貴兄の筆による播州赤穂皿屋敷の御菊たるや、憂いの込められし気品ある美貌に、此の世の者に有るまじき妖気が加わりて、誠に宜しき出来に御座候。
青山鉄山に恨みを募らせし御菊の様相も、恐らくは斯くの如くで有ろうと思わし得る。
此度御清書の播州赤穂皿屋敷の御菊の画、正しく軸装と箱書きを施す事を進言致し候。
貴兄の本領は幽霊画と妖怪画にこそ有り。
より一層の精進に励む事を願う。
依って返却致し候。
斯くの如く御座候。
以上
享和三年皐月八日 駒井永源
大津旭泉様
書状を読み終えた時、私は己の双眸から熱い雫が滴っているのを実感した。
「そうか…良かった…」
そうしてホウッと深い溜め息をつきながら、胸を撫で下ろしたのだった。
お借りした幽霊画の絵手本は、紛失も破損もなく、無事に永源先生の御手元へお返しする事が出来た。
そして、私が習作として写した幽霊画を先生は確かに御覧になり、その出来栄えを御誉めになった。
そればかりか、「幽霊画と妖怪画こそが本領である」と、私の行く末にお墨付きさえ下さったのだ。
こんな有り難い書状を、先程までの私は読むか読むまいかと逡巡していたのだ。
自分の気の小ささが、何とも歯痒くて情けない。
「とはいえ…何時までもこうして、己が不甲斐無さに呆れてばかりもいられないな。」
軽く頭を振って気を取り直すと、私は書状と一緒に返送されてきた幽霊画の写しを広げ、その出来栄えを改めて確認するのだった。
井戸を背景に一枚欠けた揃いの皿を手にした姿は、歌舞伎や浄瑠璃の題材として親しまれている「播州赤穂皿屋敷」の一場面を切り取った物だ。
特に紫色の矢絣模様の着物や島田髷に結った艶やかな黒髪などには、腰元である御菊の清楚な美しさが出るよう心血を注いだと自負している。
その努力が報われたようで、喜ばしい限りだ。
「次に播州皿屋敷の幽霊画を描くとしたら…今度は自分の画風で描くのも良いだろうな。美人画としても通用する美しい御菊を、描いてみたいものだ…」
返送されてきた幽霊画の写しと、先生より頂いた書状。
この二つを見比べていると、新たな創作の意欲が沸々と湧いてくる。
先程まで読むか読むまいかと逡巡していたというのに、全く現金な話だ。
「写しも良いが…次は構図の段階から手掛けてみるのも良いだろうな。以前に書画で見た骨女という妖怪は、何とも鬼気迫る形相だった。」
鳥山石燕翁の「今昔画図続百鬼」にも紹介されている骨女は、骸骨と化した顔が特徴の印象的な妖怪だ。
だが顔全体を骸骨にしてしまうのでは、既存の妖怪画を踏襲しただけで終わってしまう。
私なりに独自性を盛り込みたい所だが…
「そうだ…!この際だから骸骨にするのは顔の半分だけにして、もう半分は生身の美人画として描くのはどうだろうか?」
不意に脳裏を過ぎった構想は、我ながら素晴らしい閃きだった。
一つの顔に生と死の両面を共存させる事で、命の儚さを表現する。
そんな仏教画の九相図にも通じる骨女の絵は、きっと素晴らしい妖怪画として仕上がるに違いない。
「そうと決まれば、また永源先生に書状をお送りしなればな。何しろ永源先生は吉村孝敬先生と御一緒に腑分けに立ち会われたそうだから、素晴らしい助言が頂けるだろう…」
こうして新たな創作への情熱を燃やしながら、私は筆を墨に浸すのだった。