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垂れ凶つ 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 ふう、やれやれ。もう少しで、この窓も拭き終わりそうだ。

 こうしてみると、雨って結構汚れてんだなあ。降っているときは意識しないけれど、こうして壁やガラスの表面に跡が残っているのを見ると、どうもね。

 小さいころは、暑い夏に雨が降ると、傘を差さずに走って帰るようなこともしたっけ。いま考えると、元気だとかより、ばっちい気持ちの方が強いけどね。

 どうも大人になると、リスクとか効率とか考えるようになって、どうにもきゅうくつな感が取れない。子供は無知ゆえに、無鉄砲で体当たりな臨み方ができるのが、うらやましく思えるねえ。


 そうして心構えに「かきね」がないためか。ともすれば危ないことに、首を突っ込んでしまうことがままある。

 私自身も、そうした奇妙な経験があってね。聞いてみないかい?



 あれは習い事の帰り。親の運転する車の中でのできごとだった。

 家に帰るまでの十数分の間、車内で食べる菓子パンと、外の景色を眺めるのが私のささやかな楽しみでね。その日も赤信号で車が停まったとき、助手席で頬づえつきながら、外をぼんやり見やっていたんだ。

 その日は習い事に行くまで雨降りだったが、お迎えに来てもらう前後あたりで止み、車の窓にはいくつものしずくが、張り付いているかっこうだった。


 ふと、視界の外から窓に新しくくっついてきたものがある。

 おそらくハエだ。黒っぽい腹をこちらへ丸出しにしながら、動く気配を見せない。

 これまでもしばしばあった。虫たちは何を思うのか、もっと平坦なところだったり、木の幹だったりと、休みやすい環境はもっとあるはずなのに、ここを選ぶ。

 人工的で、少しふくらむように傾いて、向こうへいけそうでいけない、この安全ガラスの上を。


 たいてい、ちょこまかと動いたあと、出し抜けに飛び立っていく彼ら。けれども今回のこいつは、一カ所にじっととどまったままs。

 何台か前の車の上で、信号が青になる。親はすでにブレーキを緩め出し、車体はじりじりと前へ出かけている。本格的に車が滑り出せば、あらゆる虫がそれに耐えかねて離脱していくのを、私は何度も見ていた。

 今度のハエも、「さて、何秒持つかな?」とじわじわなぶる悪役特有の上から目線で、じっと見守っていた私だが、事態は思わぬ方向へ。


 たらりと、窓の上部から垂れてきたものがある。

 張り付いていた、雨粒のひとつだ。左右へうねりながらも速く、ヘビか稲妻のようにガラスを駆け下りるその筋は、あっという間にハエの元へ。

 頭上からの接近に、ハエ自身は気づいていない。逃げる様子をちらりとも見せないまま、足元を濡らされ、窓から落ちていってしまう。

 そう、「落ちていった」んだ。

 普通、何か脅威があったなら、あの手の虫たちは羽を生かし、空へ活路を求めそうなもの。

 それがない。まるで不意を突かれたか、足を取られたかのように、ハエは真っ逆さまに窓の下へ落ちていってしまったんだ。

 ほどなく車が動き出す。私は無駄だと知りつつも、窓から下をしきりに見やっていた。

 すでにハエの落ちた地点は過ぎている。でも、あのような墜落の仕方が妙に印象に残ってしかたなかったんだ。

 

 

 それから私は、あの時の再現をしてみることに力を入れた。

 みずからバケツに水を汲み、ハエが窓や壁などにとまっているのを認めると、その上から表面を伝うように、水を流していったんだ。

 試みの大半は、水を流す前に終わった。ハエたちは私が近寄るのを、悠然と待ち構えてはくれなかったんだ。半径数メートルに近づいたあたりで、5割以上のハエが飛び去ったよ。

 私がバケツを掲げるあたりで、もう3割。残り2割ほどは、水を浴びせるところまで行くも、私の技のつたなさゆえに、ことごとくが飛んで逃げてしまった。

 

 もっと忍びやかに行わねばいけない。

 自分の未熟さが身に染みる私は、足の運び、服の衣擦れ、バケツにたたえられた水の揺れ……あらゆるものの気配を殺そうと、試行錯誤を繰り返した。

 ようやく7割近くのハエに、逃げられるより早く接近できるようになったが、望んだ成果にはまだまだ遠かった。

 私の流す水は、彼らを「落とす」のに至らない。やはりいずれのハエも、水に触れさせたところで、私の手が届かないような上空へ逃げ散ってしまうんだ。

 

 私は考える。

 雨水でなくてはならないのかとも思い、ある程度溜め込んだが、効果は大差なかった。

 車の窓に限った話なのかと目を光らせ、虫さえとまっていれば、たとえ路駐している人様のものだろうが、ペットボトルにストックしていた水で実験をしてみた。それでもかんばしい結果は得られなかった。

 

 

 私は考える。あの時の環境にあり、私の用意する環境にないものを。

 やがて至ったのが、「能動的に、水をいきなり垂らす」という行為の抑制だった。

 あの時、ハエを落としめた水は、降りしきる雨のものじゃない。あらかじめくっついていた水滴が、重力に引かれるように滑り落ちていったものだ。蛇行を繰り返しながらも。

 

 私は大量の水に頼ることを控える。代わりに、指や細いものの先で、わずかに壁や窓に水をつけていくんだ。

 今にもはじけ、崩れそうなほどにこんもりと、山の形に水を盛るのはなかなかの何台だった。環境のせいか技術のせいか、くっつけた水がただただ表面を濡らし、あっという間に垂れるということも多い。

 それではダメだ。すぐにこぼれず、かといって乾くまでとどまったままでもなく。あたかも時限爆弾のように、ある程度その場に控えたうえで、表面にとまりくるハエたちを正確にとらえなくてはいけない。

 

 

 以前にも増した、試行錯誤の日々だったよ。ハエの動きにくわえて、水のつけ方にも気を払わねばいけなかったから。

 暇さえあれば取り組んでいた私は、ほとんど病気のようなものだったろう。もはや何に引きずられているか、疑問を抱き始めるころ。

 梅雨も近づく、5月の下旬。私は学校の先生が乗る、スペースに停めた車の一台に、ハエの姿を見つけた。

 躊躇など、どこかに置いてきている。私の足は、ついっと車へ向き、カバンから水の詰まったペットボトルを取り出していたよ。

 蓋をゆるめ、ほんのわずか指へ垂らす。もはや意識しなくても、人差し指の先っちょに、卵のようにふくらんだ水を、とどめられるようになっていた。


 とまっているハエの上方。窓の端っこに、ちょんと指をつけ、わずかに間をおいてから、そうっと話す。

 ぷっくりと山が浮かんで、第一段階クリア。ハエもまだ逃げ出さずにいる。

 私は音も立てず、わずかにその場から下がって待つ。そう、待つのだ。

 あのふくらんだ水が、やがて崩れるのを。その軌跡が、ハエのとまるあのポイントに重なるのを。


 期待しながらも、望みは薄い。

 首尾よく垂れても、そのうねりを制御するのは不可能だからだ。運否天賦にかけるよりなく、そこでの私の白星は、いっさいない。

 誰かに見られたりする可能性も考えると、どっしり腰を下ろしてもいられなかった。早く結果を見たいと、私は小さく、つま先でとんとんと神経質に土を叩いていたよ。


 そして来た。

 私のくっつけたふくらみからだらりと、まるで涙のような水垂れが、車の窓を走る。

 あの時より、ずっとうねりは小さいが、それが向かう先にはきっちりハエがとまっていた。

「やった」と思った時には、きっちりハエのもとへ水が滑り込んでいたんだ。

 ようやく、あの時の再現がかなう。水が通り過ぎたあと、ハエはいつものように飛んでは逃げず、ポロリとあおむけになるかのような姿勢で、窓から落ちゆく。

 胴体と、それからひと呼吸おいて落ちる、ほこりのような粒の姿。

 一瞬、ぽかんとした後、ガッツポーズをしてしまう私。あの日から、すでに8カ月以上がたち、三学期も始まって10日が過ぎようとした矢先のことだった。


 ――更に極めれば、一発芸的なウケを狙えるかもしれない!



 おそらく無二の特技を身に着け、内心で得意になる私だったが、それは同時に崩壊の始まりでもあった。



 早くも序曲は、その日の晩に奏でられる。

 冷蔵庫から缶ジュースを取り出したところで、親に呼ばれた私は、テーブルに置いたまましばし席を外した。そして戻ってきた時には、ジュース缶の表面は結露していたんだ。

 ようやく飲めると、缶をおさえながらプルトップに指をかけたとたん。

 タラリと表面を伝う水滴。それがおさえる指と重なるや、激痛が走ったんだ。ぱっと離した時には、触れていた部分の指の皮がむけ、血がにじんでいたんだ。アルミ缶にも、うっすら私の血がにじんでいる。

 たまらず、私はティッシュで缶を丹念に拭うも、飲む気になれずに、そのままジュースを処分してしまったよ。



 そして翌朝。

 目覚め一番に雨戸を開ける私だが、わずかに開いていた薄いカーテンのすき間をのぞいてしまい、ぐっと息を呑む。

 窓一面が結露している。それこそ、濡れていないところを探すのが難しいほどに。

 昨日のことから手を出せずにいた私の前で、窓のてっぺんから同時に、いくつもの水滴が滑り落ちてきた。

 格の違いを見せつけるかのようだったよ。おもいおもいに蛇行しながら駆け下りるそれらは、窓へ接するカーテンのたわみ部分を、耳障りな生地の悲鳴と一緒に、次々に切り裂いていく。

 彼らがすべて、サッシの中へ飛び込んだ時には、クマの爪で裂かれたかのようなズタボロのカーテンの姿がそこに残るばかりだったんだ。


 あのとき、ハエの胴体に遅れて落ちたもの。それは窓に接していたハエの肢たちだったのだろう。

 どうやら私は、触れてはいけないものに、近づいてしまったらしい。これ以降、あのような試みをすることはなくなったよ。

 

 


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― 新着の感想 ―
[一言] 何かに取り憑かれたようにのめり込む姿は、側から見るとちょっと怖くも感じますが、あれほどの達成感を味わえるなんてそうない事だと思います。かきねを超えたからこその発展も実際にあるんだろうなと思っ…
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