癇癪
逃げる、逃げる、逃げる——。
息を切らしながら、逃げる。
ボロボロになりながらも、結城はドラム缶、タイヤ、電子機器、それらが山となって積み上がっている瓦礫の山の間を走る。
胸が痛い。肺がやられた訳でもないのにズキズキと痛む。
この痛みは何なのだろうかと結城は自問自答する。
「(そんなの、分かり切っている)」
そう、分かり切っている。
それは罪悪感だ。
裏切ってはいけない人を失望させた。裏切ってしまった。
あの人のための人生だった。兵器だった。
なのに——。
「あぁっ!!?」
背中からの衝撃。
焼かれたような熱さが背中を襲う。
だが、炎ではない、背中を襲ったのは刃だ。
「どうした、反撃はしてこないのか? 裏切ったんだろう。敵意の1つでも見せて見ろ」
問いかけるのは1人の男。結城の恩人にして育ての親である石上恭也だ。
結城が歯を食いしばる。
反撃?出来るはずがない。
敵意?そんなもの元からありはしない。
何かを言おうと思っても、結城の口は開いては閉じてを繰り返すばかり。
何時も出会ったら子犬のように近寄ってお喋りをしていたのに、今日だけは出会えたことを呪った。
どうすれば良い、何を言えば良い。
頭の中ではその言葉が繰り返される。
「……もう逃げるな結城。お前があの男に肩入れする義理はないだろう。あいつは吸血鬼だ」
「違う‼」
鉛のように重くなっていた結城の口が突如として開く。
結城自身も石上に反論したことに驚いていた。
「違います。それは違うんです‼ あいつは、北條は吸血鬼じゃありません‼ 私と会う前に北條は三木さんとも会ってました。戦闘になっても北條は三木さんを殺さずに解放していました。街の人達にも傷はつけなかった。吸血鬼なら、戯れに殺していたかもしれないのに‼」
「それこそ戯れだろうよ。吸血鬼の考えは俺達には分からん。理解も出来ん。もしかしたら、お前も無意識に操られているかもしれないぞ」
「そんなことはありません‼ あいつが人を操ること何てしません。あいつは。知りもしない誰かの死を悲しむことが出来る人間です‼」
「全てお前の個人的な意見だな」
数十メートル離れていたのに、凄まじい速度で石上が結城との距離を詰めてくる。
これで衰えているのかと戦慄して、結城は異能で念力の障壁を張った。
だが、石上が振りかぶった蹴りは結城が張った障壁を通り過ぎ、結城の腹に直撃する。
呼吸が止まり、胃液が腹から逆流する。
乙女にあるまじき醜態を晒しつつも、結城は先程の奇怪な現象を見抜いた。
「幻術……」
「やっぱり、すぐに見抜いて来るな。それでどうする? 今度は全身に障壁でも展開するか?」
「そんなの意味ないでしょう。恭也さんの魔眼が障壁程度で防げるとは思っていません。それに——私が籠城すれば北條の所に行くつもりですよね?」
「あぁ、その通りだ」
ふらふらと立ちながらも、問いかけを投げる石上に背を向けて結城は走る。
すぐに距離を詰められると分かっていても、走っていた。
3秒もせずに追いつかれ、蹴りを放たれる。
「逃げるのなら異能を使えよ。その方が速く動けるだろうに」
「グッ——⁉ それを使ったら、恭也さんもそれなりに力を使うでしょう?」
「……なるほど、俺の性格をよく分かってる」
相手が全力で逃げるのならば全力で追う。向かって来るのならば迎え撃つ。だが、相手が弱弱しいと分かると手を抜いてしまう。
石上恭也がそういう男であることを結城は理解していた。
尤も、理解していたからわざと手を抜いていたのではないが——。
「恭也さんは、優しい人です」
口が勝手に開く。
自分は何を言おうとしているのか、結城自身も分からなかった。頭の整理も出来ていない。
だが、せっかく開いた口を閉じたらもう駄目だと直感する。
「あの時、ちゃんと私を見てくれました。死体の腐臭と血の匂いが充満したあの部屋で、私を怪物としてではなく、1人の女の子として」
「…………」
「あれは、魔眼の力とかじゃない。むしろ、魔眼は私を危険だと判断していたはずです。でも、でも‼ 貴方は私を救ってくれた‼ だから、だから——もう一度、北條を見て下さいっ。私みたいに助けて下さい‼」
結城自身、どれだけの無理を言っているのかは口走った後に気付く。
「珍しいな。お前がそこまで言うなんて……だが、無理な話だ。あいつは危険だ。例え、あいつ自身に人を害する意思がなかったとしてもな」
「北條が人を害することなんて——いや、もしかして恭也さん……気付いていたんですか?」
「あぁ、地獄壺の時には上手く隠れていて見えなかったが、最近起きた強盗犯との一件でようやく見ることが出来たよ」
結城が言葉に詰まる。
石上は北條を吸血鬼だとは本当は思ってはいなかった。中にいる存在にちゃんと気付いていたと分かったからだ。
「何で、北條が吸血鬼じゃないと知っているなら、殺す理由何て——」
「俺が化け物しか殺さない人間だとでも思っていたか? それなら、お前は俺を美化しすぎだよ。薄汚いことなんてこれまでいくらでもやってきたし、これからも変わりはしない。俺は優しい人じゃないんだよ」
「——ッ」
石上の言葉に結城が拳を握り締めた。
「だったら、何で——あの時私を助けてくれたんですかッ」
何故、結城えりを助けて北條一馬を助けられないのか。
女だったから、体目当てか。そんな下賤な輩じゃないだろう。
異能として戦力を期待されたからか。なら、今の北條の方が強力な異能を持っている。
両親と関係があったからか。何の関係もないと言っていたのに。
なら、吸血鬼が中にいるからか——。そんなことで、北條一馬は死んで良い人間じゃないというのに。
「ただの、気まぐれだ」
結城の叫びに石上は淡々と答える。
「もう一度言っておく。俺はあいつを捕まえる。そして、情報を絞り出した後、確実に消滅させる。中にいる吸血鬼諸共な。逃亡を援助する者にも容赦はしない」
「…………」
「お前はどうする?」
「私、は——」
未だに結城の頭は整理されていない。
自分はどうすれば良いのか。
戦うのか、助けて欲しい、戦いたくない、死んでほしくない。ずっと願望だけが渦巻いている。
初めてだった。こんなことは。
いつもはやるべきことを冷静に判断できるのに。決断出来るのに。今はそれが出来なかった。
だから、感情のままに叫ぶ。
「嫌です」
「…………」
「あいつに死んでほしくない。戦いたくない、痛いのも嫌、助けて欲しい、見逃して欲しい、協力して欲しい、どうにかして欲しいッ。これが私の要求です‼」
まるで子供だ。子供の癇癪だ。
駄々をこねて親にものを強請っているのと同じだ。
恥ずかしい。今自分の顔が真っ赤になっていないか、こんな状況なのにそれが気になった。
「無理だな」
「知っています。だから——折れて下さい」
文法が間違っている。言っていることが滅茶苦茶だ。
結城の体が戦闘態勢へと入る。
結城の目には涙が溜まっている。恩人と戦うことなど死んでも嫌だ。でも、戦わなければ北條が捕まり、死ぬ。
戦闘態勢に入ったのは、戦うためではなくどちらの選択肢も取りたくないという子供の抵抗だった。
「手加減はしねぇぞ」
そんな子供の意思表示に親である石上は全力の殺気をぶつけた。