『マー君鬼のかくれんぼ』Ⅶ
「イッソ君……どうしたらいいんだろうか」
「とりあえず、言われた通り事件のことは言わないでおこう。かくれんぼ禁止令が出たことだけ。言っていいと思う」
「分かった」
短い道中で厨二モードのマイヅカ君とそれだけ取り決める。公園が見えてくると、いつものベンチには思ったより人がいた。
リュウさん。シバ君。セキッチ。タケちゃん。
座る彼らのベンチ前にしゃがんでいるのが、イデ君、オトッチ、オミズ、シミズ。
などなど……が、全員でタバコを吸っていた。今思えばなんという近所迷惑な光景であろうか。
近隣住民の皆さん、申しわけない。
彼らの顔がこっちに気づいて向く。俺とマイヅカ君は彼らの雰囲気に気づいて小走りで合流した。合流すると同時に道路のイデ君が腰を上げかけていたが、
「イッソ遅い」
その前にベンチ上にヤンキー座りのリュウさんがタバコをチュパっと言わせて地面を見ながら言う。地面を見てこちらは見ない。
おっとっとぉ。これは真面目不機嫌モードのサイン。
シバ君たちがいつ合流したのか知らないが、それまでは独りでタバコを吸っていたのだろう。時間的には二十分も経っていないけど、分かる。その時間はむなしい。
俺もちょっと真面目モードで応対する。
「すいません、タバコ吸いにいこっかってなったところで、そこでイシイさんとスギサキさんに捕まっちゃって……いやダブル担当ですよ。ついでに『かくれんぼ』のことも聞けないか粘ってみたんで」
「あー……そっか。んじゃだったらヅカだけでもこいよ」
矛先がマイヅカ君へ。
マイヅカ君は「……すいません」と舎弟謝罪モード。助け船は出す。
「あーいや、マイヅカ君つき合ってくれてたんで、怒らないであげてください。なにがあったかっていうと、ふたりに話しかける感じで抜けにくかったんですよ。アレでひとりだけ抜けるとタバコ吸ってるとこに合流すると思ってつけられたかもしれないし、俺がサイン出して止めてたんで、気づいてくれてよかったです。伝わらないでマイヅカ君が抜けようとしたら俺が止めてました。すいません」
「あ~……そりゃそっか。うん、分かった。イッソありがと、ごめんな。ヅカも。よくやったぞ」
とようやくリュウさんが俺たちを見る。マイヅカ君が「ありがとうございます!」とくの字で礼。
セーフ。
なかば黙認状態とはいえ、喫煙現場の取り押さえは本当のマジモンにシャレにならない案件だ。その場から複数名の職員さんに連行され、一週間、一か月以上の外出禁止があり得る。あるいはそれ以上も。
職員さんの見回り巡回は街中でもあるし、怪しいと思った時は居そうなところに一緒についていかされたり、刺客が差し向けられることもある。
特にイシイさんは厳しい方で、彼個人としては喫煙は許さないスタンスなので能動的だ。
だからまるっきし嘘というわけでもなかったのだ。お互いにとって。
「ところでなんか深刻っぽくなかったですか。なにかありました?」
話題を変えた俺にイデ君がすぐさま食いついた。立ち上がって腕まで触れてくるその姿は割と深刻だ。
「そうそうそう。イッソ君イッソ君、ヤバいかもしんない」
この時点で俺とたぶんマイヅカ君も『マー君鬼のかくれんぼ』の話だと予感していた。
「あ、イッソー。イッソーは怒るかもしれないけど、イッソーのタバコ一緒に取ってきておいた」
オトッチがタイミングを見ていたんだろう、ポケットから俺の箱を出してくれた。おお、ありがとう。怒るワケない。重いムードの時のオトッチはこういう言い回しになる。
一緒に出されたマイヅカ君の分にもマイヅカ君が「ありがちょおおおおお」と言いながら受け取っている。
みんながそろってるところに遅れて、独りで隠し場所に取りにいくのってさびしいんだよね。
このころの俺が吸っていたのはマイセンのチャコールフィルター、ソフトボックス。
それに火をつけ、火がつかないマイヅカ君にもつけてあげつつイデ君の話を聞いている。
「あのね、かくれんぼ。発狂したヤツが出た」
なにぃ?
しかし発狂というのは実は大げさで、ようするに大声で泣きわめいて調子を崩すやつが出たというのが正確だった。
「発狂ぉ? マジ?」
「そうそうそう。ウチの病棟でさ。暴れてるヤツを職員さん数人がかりで取り押さえて注射器のカバン持った医者もきて大変だった。でさソイツ、ベッドの下から『もぉいーかい』って聞かれたんだって」
その話を聞けたということはすでにその患者は落ち着いているんだろう。
なるほど。
単に奇声を発して暴れ回るヤツなら俺たちの感覚では珍しくもないが、場所が『W-1』となれば違ってくる。男女共同・解放病棟という響きからも分かるように、一番病状や事情が軽い子供の病棟だからだ。
かくれんぼを禁止にしようと話が持ち上がったのはすでにパニックの実害が出てきていたからだったのか。
「ひょっとして『S-3』でもあったのかね」
「え、知ってたんだ?」
と意外そうなイデ君に俺こそ意外そうに「知ってるの?」と聞いた。
「うん。最初『S-3』のヤツらだったっぽい。『S-3』のやつらに聞いたから、昨日」
やっぱりか。
俺がさっき話をした時にはすでに『S-3』には禁止令が出ていた。たぶんイデ君に話したあとの夕以降だ。
俺たちのところは、まだ。たぶん今夜ぐらいにくるんだろうなーとさっきまで思っていた。
イデ君のところが最初なら禁止令は『W-1』が先で『S-3』もウチと同じタイミングになるだろと思ったのだ。
しかし『W-1』? 『E-2』じゃないのか。
俺はこれはそのまま言った。
「『E-2』じゃないんだねえ」
「『E-2』? なんで『E-2』なの?」
その話はしてなかったのか。それをタケちゃんが補足する。
「今日の昼うちのモモたちが『E-2』に飛ばしたのさー。あんにゃろどもめー」
「あ、俺が『E-6』にいったよって話したあと?」
「そぉ」
一同でうなづく。
あとタケちゃんは別にモモに怒っていない。茶化してるだけだ。
「え? じゃあ……『E-2』がまたウチに飛ばしてきた、ってこと?」
それは『E-2』に聞かないと分からない。
ただ、俺は違和感を覚えていた。
仮に『E-2』が『W-1』に飛ばしたとする。では、『S-3』はなんで騒ぎが起こったんだ?
イデ君の第一報から数えた順番的には『S-3』→『E-6』→『E-2』→『W-1』だ。『W-1』の前に『S-3』が挟まって『E-2』→『S-3』→『W-1』ならまぁ、まだ分かる。
といってもこれは、『マー君』の霊現象が実在したらの話だ。
「『マー君』大忙しだな……」
なんとなく口に出すと何人かがブッと噴き出した。タケちゃん、シバ君とかだ。
「ほんとだよー。この何日かでどんだけ病院内回ってんだよー『マー君』」
「『マー君』人気者じゃね?」
俺たちはしばらく『マー君』を囃し立ててゲラゲラと笑っていた。
笑いながら俺は違和感の正体に気づいていたので、折を見てイデ君に聞いてみた。
「『W-1』で騒ぎがあったのっていつ?」
「ん? 早朝だよ」
やっぱりだ。
あーあ。
『マー君』終わったな。
と思っていた。
ここで俺の感じていた違和感を言うと、まず『マー君の伝達速度が速すぎないか?』ということだった。
判明しているルールに従うと、原則として『マー君』が他病棟に移る時は「次は〇〇!」と指定を受けているはずだ。その病棟の人間が『マー君』が飛んできていることを察知していなければならない。
たとえば俺たちがイデ君に教えられたようにだ。
もし『W-1』の騒動がついさっきだったとしても、モモたちが『E-2』に飛ばしたのが今日の昼で、『E-2』がそれを知って『S-3』に飛ばしてまた『S-3』が知って『W-1』に飛ばしてと……これは絶対に起こらないことなのだ。
なぜなら俺たち患者の連絡網はそんなに密じゃないし、携帯電話なんて便利で高級なツールもない。足と口頭での伝聞になるからだ。
そしてその伝聞の周期は、かならず外出時間という壁に制限されている。
わずか一日の間でこんなに頻繁・超速で患者同士の連絡が行き渡ることがまずあり得ないのだ。
これがひとつ。
もうひとつは『時系列が合っていない』。
今日の早朝なら『マー君』はまだ『E-6』にいたはずだ。
ついでに言うと昨日『S-3』で騒ぎが起きた時点でも『E-6』にいたはずだ。
時系列で言うとそうでなくちゃならない。
だからこれで決定。――パニックを起こした患者が勝手に妄想と緊張を膨れ上がらせて騒いだだけでーす! と。
俺がみんなより早めにこれらに気がつけたのは、さっきの段階で順番に情報を摂取できた強みだっただろう。しかし……。
これに気づいた時点で、俺はもうなんだか急速に冷めてしまっていた。みんなと一緒にちょっとスリリングで物々しい空気感を味わっていたかった。情報収集なんてするんじゃなかった……。
「まーもしまた『マー君』きたらぶっ殺せばいいべ」
それまで黙り気味で、まだ若干地面を見がちなリュウさん。あれ、まだ不機嫌なのかな。
「だいたい幽霊って時点でうさんくせぇんだよ。壁抜けんならコッチにも触れないし。俺霊感あっから。こういうの何度も追っ払ってきたし」
と思ったが、ああなんだ。これはナーバスモードだ。開幕の不機嫌はこれが入ってたせいもあったんだろう。
見ると、ベンチに座って煙を吐き出しているシバ君と目が合った。会話には参加しつつどことなしにつまらなさそうだ。彼こそ『マー君』のこと自体信じていないんだろう。そういう笑みを向けてきたので、俺も同じく返しておいた。
このころの俺もそうだった。
といっても本当に怖い怪談にはゾクゾクするし心霊写真特集とかを見てギャーとか言ったりもする。ただ目の前に本当に幽霊が現れるか、幽霊という現象はなんなのか、というのを考えると……スン。となってしまうのだ。
オカルトとか在ってもいいけど世間一般に言われるようなものとはだいぶ違うんだろうなという感じだろうか。
ところがだ。
本当の事件がこの日の夜に、起きた。
だがその前に少しだけ夕の時間を描写する。外出時間を終えた俺たちは病棟に戻り、そして俺は日勤のイシイさんを捕まえて『マー君鬼のかくれんぼ』についての続報を求めていた。悪あがきだ。
イシイさんは最初おもしろくない顔になり叱られそうになったが、前述の時系列などの話をした上で不可解な点があるから、安全の念のために情報の補強をしたいと説得したところ承服してもらえた。
ホールじゃなんだからと本棚の方のレクリエーションルームへ。レクリエーションルームは6号室の手前の廊下の両側に二部屋ある。片方が6畳ほどの畳部屋に14型TVが置いてある。もう片方が4畳ほどで本棚という名の古い金属ラックが壁際に置かれ、俺たちが買ったジャンプのバックナンバー等が鎮座。さらに部屋の中央にテーブルとソファが置かれて非常に狭苦しいレイアウトとなっている。だがこの狭苦しさがよくて俺たちグループはこっちの使用率が高い。小グループは畳部屋が多い。畳部屋の方が照明が明るい。
掃除のおっちゃんがよく休憩している場所でもあり、俺もよくこの部屋でおっちゃんと話をする。
この日もソファに座っていたおっちゃんに、イシイさんと一緒に断って退出してもらうことになってしまった。すまない……。
「さて、と! 本当はよくないんだけどなー、こういう話を患者とするの」
席に着き、あらためて苦い顔のイシイさん。ありがとうございますと言っておく。
「でも、時間が合わない話は聞けてよかったよ。なにかあったらほかの病棟の子を落ち着かせるのにも使わせてもらうと思うから、そのお礼ってことで。よく調べてたねそんなこと」
「はい。ははは」
俺が知りたかったのはみっつ。
ひとつは、『かくれんぼ』の今判明しているよりも詳細なルール。ある気がしたのだ。
勝手に勝利宣言して他棟に飛ばすとか、理不尽じゃないか?
というか、〝遊び〟になっていないと思うんだ。
これについては詳細が分かったというよりこの場ではあいまいな情報が増えてこんがらがっただけだった。各病棟の子が自己流でどう対応したか、ぼんやりした情報にすぎなかったからだ。
ただ、『昔に事件が起こった方』の『かくれんぼ』時のルールも知れたのはよかった。
というのも各子供に聴取した際の会話録的なものが記されていたからだ。そこまでしたのは、死人が出たから少しでも誠心誠意調査対応したという体が必要だったのかもしれない。
今では忘れている部分もあるかもしれないが、書いておく。
・まず、『マー君』がきていることを知った病棟は「マー君いらっしゃい」と言う。
・次に「参加するのは〇〇と〇〇と○○!」「マー君が鬼!」と参加者の宣誓と開始の合図を言う。ただし参加者の宣誓は、あったりなかったりしていたらしい。
・ここからあいまいになっていくが、数を数えるらしい。宣誓の段階でそのカウント数の指定をすることもある。そのカウントは患者が代行することもあるが、しないこともある。声でカウントしたら居場所バレるんじゃないのか? ともかく患者たちはその数が尽きるまでに思い思いの場所に隠れる。といってもそんなに隠れられる場所などないと思うが。
・そしてその数が尽きるころに「もーいーよ!」と言うらしい。
なんだろう。
普通のかくれんぼだなと俺は思った。
そして決着の条件が分からなくてモヤモヤした。
この勝負、いつ切り上げるのか?
イシイさんにはなるだけ詳細に思い出してもらったけど、ここだけはいまいちあいまいだった。勝負時間の数や時計の時間を指定することもあったようだが、それだと隠れたあとはなんだか単なる我慢大会みたいで少し笑えた。
ただ、気になる部分もあった。
〝賞品〟を用意した子たちがいたようなのだ。
噛み砕いて言うと、『マー君鬼のかくれんぼ』をしようと企んだ子たちの有志で『マー君が勝った時用』の賞品を持ち寄った。『マー君』が勝つというのは、つまり『マー君』がだれかを見つけた時、ということだろうか。それとも全員を見つけた時だろうか。それは分からない。
だがある日、その賞品の一部が盗まれたそうだ。
これは病棟内盗難として騒ぎになった。だから記録になり、イシイさんもそこを覚えていたそうだ。なるほど、スギサキさんたちの話で『盗難防止のため』というのはあながち建て前だけなわけじゃなかったんだな。
おお……これは。
『マー君の勝利条件』があるとしたらコレだな。と俺は心の中でこの案に支持票を送っていた。
その真偽……というか賞品を持っていったのが『マー君』なのかはさておきだ。いや普通に患者の盗難なんだろうけれど。
ここからは知っている通りだった。勝負の終わりを告げ、『マー君』の次の行き先を指定して終わり。
うんうん、やっぱり勝利条件がないとな。俺は賞品を用意した子たちに「やるじゃん」と賞賛を送っていた。盗難された子たちからすれば憤慨ものだったろうが、宝物は見せびらかしてはいけない。だれがほしがるか分かったものじゃないからだ。
実は俺も一度盗難に遭ったことがある。まだ『1号室』にいたころ、絵が趣味だった俺は唯一の娯楽として絵を描きまくっていた。ある日個人用ロッカーにしまっていたそのうちの一枚がなくなっていることに気づいた。俺は猛烈に怒って職員さんに通報し犯人捜しをしてもらったが、各持ち物を可能な限り見せてもらったにもかかわらず、結局絵が見つかることはなかった。
ムナクソな余談はいい。
体裁になる順に並べてみると、こんな感じだったろう。
……それにしても。
このルール、この時は深く考えなかったが、今思うと少々危うい感じもする気がする。
あの有名な『ひとりかくれんぼ』などは知っている読者も多いと思う。アレも含めて、アレらが出てきた時はそういった〝呪術〟にも通じるところのあるルールを踏襲する傾向があった気がする。ほかには『こっくりさん』とかか。
こうして並べてみると、この『マー君鬼のかくれんぼ』もなにかが成立しているように思えてくる。
まぁ、以上がルールというか、流れ。
知りたいことその二は、今のブームはどの病棟から始まったのか?
これはイデ君から第一報を聞いた時から気になっていたことだったが、イシイさんというより病院側がまだ把握できていなかった。それもそうか……。
なぜ気になっていたかというのは、〝昔〟に死んでしまった『マー君』の情報がどうやって今の病院内に再浮上したのか……ということだ。それはスギサキさんと話をしてさらに強く思っていたことだったが、分からないならしょうがない。
そして、みっつめ。
俺は踏み込む決意と、怒られないための迫真をなるだけ込めて、イシイさんを見た。
「二番目に死んだ子の名前は、『マー君』で通じる名前だったんですか」
「……」
イシイさんは一瞬、俺を怒るかどうか迷う感じだった。
しかし考えたあと、小さくうなづいた。
やっぱりか。昼の反応を思い出す。
それから「教えるけど、絶対にほかの子に言わないと約束してくれ」と前置きして、廊下側にだれもいないことを確認してから、教えてくれた。
「名前はぜんぜん違う。でもその子の記録で、口癖が『マ』とか『ンマー』っていう感じだったらしい。普段その子がなんてあだ名で呼ばれていたかまでは書いてなかったから結びつけてなかったけど、昼のイッソー君の質問で気づいたんだ。イッソー君も感づいてたでしょ。……そういうこと」
口癖が『マ』とか『ンマー』だから『マー君』か……。
自分で聞いておいてなんだがこの時だけは俺も二の腕とかの肌がサッと冷えるのを感じていた。
イシイさんも、気づいてぞっとしたんだろうな。あの反応を見るに。
でも実は聞きたいことの本命はそっちじゃない。今のはそのための前準備にすぎなかった。
「イシイさん、ありがとうございます……それで、今のを踏まえて聞きたいことがあるんですけど」
「いや、これ以上踏み込んだことはいくらなんでもダメ。今はもういないとは言え患者さんのことだから」
と案の定患者を怖がらせる体育会系の大人の顔を見せるイシイさんだが、俺はがんばって食い下がった。
「いや、違うんです。大事なことだと感じるんです。もしかしたらさっきの時系列の話と一緒に患者を安心させられる材料になるかもしれないし。もしあれなら答えてくれなくても、イシイさんの中だけで答え合わせして材料にしてくれていいんで。聞いてくれないですか」
と。
「……」
イシイさんはそれから憮然とした表情で腕を組んで構えた。
ちょっとしてそれが聞くだけ聞くという姿勢であるのに気づいた俺は、怒られませんようにと思いながら本題を口にしていた。
「一番目に死んだ子の名前は、もしかして『アッ君』で通じる名前だったりしないですか?」
と。
イシイさんの顔色が完全に変わった。
激怒する顔で。
「なんでだ。なんでそんなこと思った」
腕を組んだまま、めっちゃ怖かった。イシイさんは怒ると声と口調が静かになるタイプ。
だがすぐに態度と腕を解いて、身を乗り出してきた。
「いや、ごめん……。たぶん、合ってる……。でも、なんでイッソー君そう思ったんだ?」
マジかよ。
自分で言っておいて本格的に怖くなってきてしまった。
廊下に比べて寒々しい薄暗さで静かなレクリエーションルームにふたりきりなせいもあるだろう。ほかの患者たちの声が遠い分だけ無音よりも静けさが増しているから。
そういえばレクリエーションルームも改装の対象外だな。なんでだろう。
怖さを紛らわしたかったので俺は素直に話す。
時系列を考えたりしている時に、ちょっとだけ考えていたことなのだ。
公園にいた時の記述の通り、『マー君』の移動順序はつじつまが合わない。
ひとりだけならば。
じゃあ、実はふたりいたらどうだろうか?
ふたつの場所で同時に騒ぎが起こることは、これで可能になると。
スギサキさんの話を聞いたせいで、この推論が可能だと分かってしまったのだ。
ではなぜ『アッ君』なのか?
『捕まらなかったから俺たちの勝ち! 次は〇病棟! マー君が鬼!』
という宣言。
『マ』『アっ君』と……宣言した子の発音次第では、なるのではないか?
と思ったのだ。
これにより『マー君』が移動したり、『アッ君』が移動したりという違いが出てくる。
『ふたり』の居場所が重なったり、別々になることもあるだろう。
たまたま『マ』『アッ君』と識別できる時には『アッ君』が移動するということだ。識別できない時はその病棟に『アッ君』が残ることになる。
そうやって『S-3』病棟には『マー君』か『アッ君』のどちらかが残っていた。
と考えるとイデ君の第一報時点で無関係になったはずの『S-3』病棟で騒ぎが起こったことの説明がつくかなと思ったのだ。
などなどのことを俺はイシイさんに話した。
「……」
イシイさんは割と深刻な顔で黙り込んでいる。その顔怖いんだよ……。
「いやま、これはあくまで、もしも『マー君』が実在したらって考えた場合の考え方ですからね?」
俺は場を和ませたくてそう言う。イシイさんも「え。ああ……そうだな。実際はそんなことあり得ないからな」と生物本来の動きを取り戻した。
「ですよね」
「にしても、よっくそんなこと考えたなぁ~! それでほんとに別の子の名前を当てちまうんだから、年甲斐もなく怖くなっちゃったよお」
再び腕を組んでリラックスしながらイシイさんは心底呆れるような声を出す。
言うほど歳でもないと思うけどね、イシイさん。
俺もちょっと推理ごっこの続きをして溜飲を下げようとしていただけなのでまさか『アッ君』の名前を言い当てられるとは思っていなかった。だから保険として「ハズれていたら安心材料にできるかも」「答え合わせはしなくていい」なんて言っていたのだ。
この時の俺はビビっていたが、今思うと神がかってるレベルで冴えていたと思う。
自画自賛。
こんなことは滅多にない。だから許してほしい。はは。
ということで解散になった。相手が担当のイシイさんでよかった。俺とイシイさんがなにを話し込んでいるのか好奇心を持った子がドアを開けてもイシイさんの「ごめん今面談中なの」の一言で遮断できたからだ。
「教えてくれて、ありがとうございました。イシイさんから聞いたことは絶対に言いません」
「うん、それはお願いね。俺も少し楽しかった……というより感心してしまったな」
『アッ君』を言い当てたことでむしろちょっと怖くなってしまったが、これで俺の中でのこの件は決着かなとこの時の俺は思ったわけなのだ。
だが、もしかしたらこの時に得た知見が、俺たちを助けたのかもしれなかった。