『マー君鬼のかくれんぼ』Ⅴ
「ウッッ…………ソじゃああん!!」
一緒についてきていたオトッチが悲鳴を上げた。
「ええ……?」
食堂の薄闇の中、長テーブルと椅子の林に囲まれて人知れず転がっていたモップ。
職員さんもさすがに信じられない風味でそれを手に取っている。
これは別に職員さんにとっては怪現象がどうという話ではなかった。
俺たちにとっては怪現象認定するのに充分なネタだが職員さんにとってはミス問題になるからだ。
「なんでこんなところにあるんだろ……掃除の人のしまい忘れ……?」
とつぶやく職員さんにすかさず俺は反論した。
この病棟の清掃員さんは固定されている。
掃除のおっちゃんと一番仲がよいのは、俺だ。
そういう自負が俺にはあった。
おっちゃんは社会的には下の方かもしれないが仕事には誇りを持っている。掃除用具の扱いはもちろん、ほかにも鍵のかけ忘れはないか掃除中にチェックして回っているだとか、そういう自慢話をよく聞いているからだ。絶対とは言わないがおっちゃんのミスは考えにくい。
だいいち、おっちゃんが業務で入るのはせいぜい夕食前までだ。それまでには本棚がある方のレクリエーションルームで座って休憩し、帰っている。
今モップがここにあるのが置き忘れのミスであるなら給仕の職員さんか、夜勤の引継ぎ時にいた看護士さんが妥当な範囲だろう。カイエダさんも含めてだ。
「そうだよねぇ、うーん……」
などなどという俺の弁にカイエダさんも当然の納得を示した。職員さんも大人とはいえ人間。前後の話と合わせたことで、なんだかんだ動揺していたんだろう。
ということでさっそく職員さんは動き出す。
夜勤は最低二名制だ。ナースステーションで書類仕事をしていたもうひとりを呼び出して事情を説明し、鍵を持って手分けで用具入れを確認するようだ。
給湯室に入って確認したカイエダさんはすぐに出てきた。外で見ていた俺たちでも分かる。給湯室のモップ類はロッカーなどではなく裸で立てかけられているからだ。そして、給湯室のモップは元の通りだ。
というか、これはカイエダさんも分かっていたことなんだがモップには『トイレ』とシンプルなラベルが貼ってあったのだ。
つまるところほかに欠けている場所がないかの一応の確認で、本命はトイレにいった方の職員さんだ。
すぐにトイレから出てきた職員さんも不審顔で「足りてませんでした……」と首を振った。
「とりあえずコレしまっておいて……」「はい……」などというやり取りのあと、カイエダさんがさらにリネン室ほかひと通りを見回って合流。俺たちは適当にホールに突っ立ってその様子を見ていた。
「ねぇイッソォどうしよう……?」
その間オトッチがそんなことを言っていた。俺は「うん」とか「うーん」みたいなことを言っていた。
結局、トイレのモップ以外の異常はなかった。
「でもカイエダさん。職員さんだって消灯前見回るじゃないですか。こんなモップ見落とすって、あります? ハイ、俺はないと思います!」
手を挙げた俺にオトッチも同じ動きで「俺もないと思います!」と追従。
職員さんへの擁護と捉えたのか「そうだよね、ありがとね」とのお言葉。
しいて言うなら置き忘れを発見、もしくは用具入れのパーテーションに乗り上げる等して確保したモップをどこかの物陰に隠しておいて、消灯後にそれを食堂に放置するという患者のイタズラの線だ。俺はそれを告げた。
あまりないとは思いつつ、これって心霊現象ですよねと言うよりは現実味がある。
特に後者の方には説得力を感じたようで職員さんたちは踏み台を持ってきて再度トイレで用具入れ個室の上の隙間を覗いていた。俺も覗かせてもらった。
パーテーションの上はほかの個室と同じで、長年の細かいチリに薄汚れていた。手をかけたりした痕跡はなかった。
「あんまり考えられないけど、置き忘れをだれかが移動させたのかもねぇ」という結論になるのだった。
「明日は犯人探しですか」と言うオトッチに「まだ分かんない。けど置き忘れ自体はこっち側のミスだから、あっても『見つけたらイタズラせずに職員に言ってください』ってみんなに言うぐらいかなぁ」とのことだ。
この日はこれで終わり。翌日の朝食時にその通りのことが伝えられることになる。
もう遅いから寝なさいと言う職員さんにオトッチがかなりゴネていたが俺はそれを尻目にいい加減部屋に戻っていた。
しかしすぐに眠れるわけでもなく、俺はさっきまでのできごとを考えていた。
置き忘れやイタズラの線を自分で言ったが、実際はあり得るのだろうか。
絶対にないとは言わないが、あまりないと思う。
オトッチが聞いた音はあのモップだったのか?
そのまましばらくぼぅっとして、眠った。
翌日は当然その話で持ち切りになった。
ほかならぬオトッチが話したくてしゃべりまくっていたからなのもある。
『マー君』が病棟にきているのか――?
子供たちにとって関心の方向はもうそっちだけである。
全員が朝食を受け取ったあたりのタイミングで職員さんからモップの話をされたこともあって、普段は俺たちにあまり近づかない小グループの子たちも興味を持っているように遠巻きにして話を盗み聞こうとしていた。ただしリュウさんに「なにチラチラ見てんだっ☆ オイコラおいっ☆」的な声をかけられて散っていったが。
「結局さ、『マー君』も俺たちにケンカ売ってんの? じゃあその『マー君』ぶっ殺してやろうぜ?」
「おー……そーだよなー。俺たちの『E-6』に勝手に上がり込んで挨拶もナシとは上等じゃん。上下関係を分からせないといけないよな! なーオミズー!」
「よぉし、俺がシバいてやろっかな。シュッシュシュ! ヒャオウ!(←口頭効果音)」
ふざけ気味に言うシバ君に乗ったタケちゃん、オミズがそんなことを言っている。
タケちゃんとオミズは性質もジャンルもまったく違うのに不思議と波長が合っている。
「だからそんなシャドーじゃダメだってー。こうだこう」「え、うん。こう? シャオッ、シャオッ」「ダーメだってー!」といつものボクシング講座をやっている。
これもいろんな子供が集まる場所ならではの光景なんだろう。
「いやぁ、オミズ君(苗字呼び)だと『マー君』に殺されちゃうんじゃないかなぁー?」
「え……ちょ、ひどいよシバ君」
「そうだよオミズゥ。今のままのオミズじゃ到底勝てないから。特訓だな!」
「えっ、タケちゃんもひどくない?」
だれも『マー君』にオミズが勝てるとは思っていない。オミズかわいい。
シバ君、タケちゃん、オトッチ、オミズは割と波長が合っているメンバー同士。
それにしても俺を含めてだれも『マー君』を知らないのに、すでに病棟内の格付けに組み込まれている『マー君』……
「イッソーもさぁー、そういう時は俺も起こさないと」
と話題の中心になれなかったリュウさんが割と本気で恨みがましく言ってくるが……いやぁすいませんね。だってリュウさん起こされるとだいたい不機嫌になるし。
俺が原因で起こしたら大丈夫だろうけど、オトッチだったら小突かれてただろうな。
「ねーねーイッソー! イッソー! 『マー君』ってさ、決闘するかな!? 夜中にホントに部屋にきたらさ、決闘してあげようね! デッキ持ってなかったらさ、いらないカードあげてさ。最初にイッソーにあげたみたいにね。イッソーももうカード余ってるだろうし一緒に出してあげようね!」
スバル……いかに『マー君』といえども俺たちの決闘についてこられるとは考えづらい。余りカードをあげるのはかまわないけど。
「おっし。俺の一軍デッキで相手をしてやる……」
拳を打ち合わせたマイヅカ君が本気の顔をしている。コイツは今、大人げなくデュナミスエルフにデーモンの斧三枚を引っつけてボコボコにする絵を真面目に想定しているんだろうな……。
「ウチの部屋に『マー君』がきたらだからマイヅカっちはダメー! 他室訪問! 外出禁止!」
とスバルがこのころマイブームなエアハンコをマイヅカ君に押した。
俺はマイヅカ君の額に大きく『禁』の文字が捺印されるのを幻視した。
「……そんなこと言わないでよぉ!」
「やめろー! 絡んでくるなー! 元の席に座ってろー!」
「それにしてもオトッチも音が止むまで隠れていたとは情けない。俺たちが挑戦状を突きつけられたんだから、その場でボコボコにしてあげなきゃダメじゃないか!」
「タケちゃんあの音聞いてないから言えるんだよぉ。ほぉーんとに聞いたんだってぇ~~!」
分かると思うがこの時点でだれも『マー君』について真面目に取り合っていない。
ただ『心霊現象が起きた』という想定で突発イベントを楽しんでいるだけだ。
本当に音を聞いたらしいオトッチだけが悔しがっていた。
といっても人数が増えて余裕ができたのか笑ってはいるけど。
そんな調子で、ほどほどに騒がしくて楽しい朝だった。だいたいいつも通り。
朝食のあとは少しの自由時間と『午前の日課』というものがある。日課は午前と午後の二回あって、一週間の平日中で時間割のようになにをやるのかが決まっている。内容は週に一度のリネン交換といった自分のためにやるものから、ワーカーさんを呼んでの工作や、病棟内ミーティングなど様々だ。
そのあとから昼食前までが午前の外出可能時間。
いつものように外出……と言いたいところだが実はこのころの俺は『バイト』というものをやっていて午前の外出時間は少し潰れる。だがバイトの話は今はいいだろう。
というか午前自体、特になにもないので飛ばさせてもらう。
昼にちょっとした問題が起きた。大した問題ではないのだけれど。
このころに至って、先ほど少し言及した小グループの子たちも『マー君鬼のかくれんぼ』についてそこそこの情報を得ていた。
というのもほかの病棟でもこの遊びの情報はあるていど広がっており、そして午前中、義務教育の年齢の子たちは院内教室に通うからだ。マイヅカ君やスバルもそうだ。
この教室に他病棟の子もいるので、朝にリュウさんに散らされた小グループの子たちも彼らから情報を仕入れることができたというわけだ。
小グループの子たちも娯楽には飢えているので『マー君鬼のかくれんぼ』には興味津々だ。
おっかなびっくりトイレを覗き込んだり「モモ君がいきなよ」「えぅ、嫌だよキミがいってよ」なんて囃し立て合ったり「もーいーかい」とか言った瞬間笑いながら廊下の奥まで逃げて肩を叩き合ったりと微笑ましいはしゃぎ方をしている姿が見られた。だが鬼は『マー君』なんだから「もーいーかい」じゃなくて「もーいーよ」だろ。
ところがだ。
「捕まらなかったから僕たちの勝ち! 次は『E-2』で『マー君』が鬼!」
こう言ってしまった子が出た。
悪いことに、ちょうどリュウさんが通りかかったところだったのだ。
というわけで自室でスバルと決闘をしていたところにリュウさんの怒鳴り声が聞こえて、俺たちはトイレに向かったのだった……。
「テメーなに勝手なことやってんだよコラ」
「……」
だから俺が実際にこの目で見たのはここからになる。
場所はトイレ前の水道が並んだ洗面場。歯磨きとかをする長い流しの前だ。
すでに何人かの注目を集め始めていたその場では、まさか関わることになるとは思っていなかったリュウさんを前に縮こまっている小グループのひとりの姿があった。
あまりない場面にやばそうだなと思った俺はすぐリュウさんに声をかけていた。
「なんかあったんですか」
「イッソー。あのさぁ……!」
と質問したところで前述のようなできごとのあらまし。
「あー……」
この時の俺は場所柄からてっきりこの子がリュウさんに水でもかけてしまったのだと思っていたのでホッとした反面、予想外すぎてボケーっとした反応しか返せなかった。
つまり話の流れ的に言えば、『マー君』はもういない。
ほかの病棟にいってしまったことになる。
「その件は俺らがなんとかするつもりだったんだよ。お前なに勝手に横取りしてんだよ、おい」
そんなことはないんだが……。
リュウさんとしてはこれから俺たちでなにか楽しいことをするかもしれないというワクワク感があったのかもしれない。しかし明確になっているルールによってそれは断ち切られてしまった。横取りというのはそういうことなんだろう。
「……」
小グループの子は恐怖から完全にフリーズしてしまっている。
理解してもらうためにあえてぶっちゃけて言うが、この子は中学三年生ぐらいでマイヅカ君と同じだが、実際の精神年齢は小学校低学年ぐらいである。
小学生が金髪のヤンキーに詰められてると思ってくれればいい。
それは固まるだろう。
「黙ってんじゃねえよ」
「……」
「オァイ!」
「ごめんなさい……」
「ごめんなさいじゃねーんだよ」
「……」
「おいモモてめーもなに逃げて関係ねーみてーな面してんだこっちこい。こい!」
と、リュウさんが怒鳴った瞬間に逃げて遠巻きになっていたモモも呼び出される。
「あぉぅっ、リュウ君(苗字呼び)、ごめんなさい」
「君じゃねーだろ、さんだろブタ」
「ぇうっ、リュウさん、ごめんなさいぃっ!」
「言え。なんでこんなことしたんだコラ。言え」
やばい。完全に面倒くさい流れだ。リュウさん、そんなことを問い詰めても『マー君』は戻ってきはしないんだ……。で、それをいつまで続ければいいのだろうか。
こんなことで職員さんが飛んできて怒られるのも情けなさすぎる……。
「リュウさん、リュウさん。ちょっといいですか、リュウさん」
俺はまだ頭の中の整理がついてないままリュウさんに手招きで耳を呼び寄せた。
乗ってくるリュウさん。
内緒話のように、伝える。
「って言うけど、別に、俺たちもなんかする予定なかったじゃないですか」
「でもさぁ。これからなんかするかもしれなかったじゃん?」
「でも幽霊ですよ? 幽霊って、いなくないですか?」
「……」
と、こんな感じのやり取りである。
別になにかをしたとして、幽霊がいないのであれば全部空振りになる。むなしい未来が手に取るみたいだ。
そんなつもりだったと思うが、リュウさんがなにを思ったのかは知らない。
単純に『これからなにかする』のイメージ像が、ぼやけたのかもしれない。
「いや、そりゃそうかもしれないけどさぁ。イッソーそれ言っちゃオシマイっしょ!」
この時点でリュウさんは耳打ちもやめて笑っていたので俺も普通の話し声になる。
「とりあえず、たらい回しなら、またくるんじゃないんですか? その間にイデ君とかにまた話聞くとか。情報でも集めましょうよ」
リュウさんもなんとなくこの話の落としどころがないことに気づいたんだろう。「イッソーが言うならそうすんべ!」と決着をつけることにしたようだった。
「お前ら、今回は見逃すけどもう二度と勝手なことすんなよ」
「はい……」
「あぅ、はい……ごめんなさいリュウさん。あとイッソー君……」
いや、モモ。俺は別に『マー君』にそこまで熱い思いは持っていない。
「もういっていいぞ。職員さんに言うなよ」
はい……と言いながら小グループの子たちは食堂の方に逃げていった。
彼らにとっては人生最大級の災厄だったに違いない。
かわいそうに。
「じゃあ午後の外出でイデんとこいく?」
「いいですよ」
ということになった。
別に幽霊は信じていないが、イベントとしての『マー君鬼のかくれんぼ』は大歓迎だったからだ。
騒ぎの直後、オミズとオトッチに「イッソイッソ」と6号室前の空間に手招きされた。
「なんだったの? まさか、え? リュウさんってほんとに『マー君』のことであんなに怒ってたの?」
噂好きのオバサン的根性半分、怖いもの知りたさ半分といった感じのウキウキさのオミズに「みたいだな」と答えると、
「リュウさんってさ、大人げないよねっ」
はは。
でもそれは本人には言わない方がいいと思うぞ。言わないだろうけれど。
一応、笑ってうなづくだけしておいた。
午後の外出では話の通り情報を集めていってみることになった。
メンバーは俺、リュウさん、マイヅカ君。
ほかは暑いのでという感じで辞退。
たとえばシバ君はこういった実地調査はあまり興味がないんだろう。ヤンキーが好きなホラーはすでに出来上がっている話だけ。
タケちゃん、オミズ、オトッチなどは出かける直前までつるんでいた。
リュウさんは『マー君』を逃した溜飲を下げるような目的だったのかもしれない。マイヅカ君は、つき合いだろう。
この時点で真面目に『マー君鬼のかくれんぼ』の調査に乗り気なのは、実は俺だけだった。
外に出れば暑さとセミの鳴き声が圧力さえ持って押し寄せてきていた。
もしもこれが遊〇王だったら場はセミトークンで埋め尽くされていただろう。それぐらいにだ。
俺たちは『E-6』の階段を下りて丸い内廊下に出た時点から、すでにこの外出の過酷さを悟り始めていた。
内廊下の内側は小グラウンドになっているが、そこの土が砂漠のように見えていた。というか陽炎が見えている気がする。
「ンーー、ンハ、フッハ、ヒー……」
人もまばらで灼熱の内廊下に、そんな声が木霊していた。
グラウンドの揺らめきの向こうを職員さんにつき添われて歩いているのは『ヒーちゃん』だ。
『ヒーちゃん』は170cm以上ある大柄な体躯にパーマヘアというだいぶいかつい姿をしているが、その声だけが幼く特徴的なので病院内で知らない人間はおそらく少ない。そんなキャラだった。
「ンーハ、ンーー……ンハっ。お弁当、お弁当プレゼント!」
そう言い、鼻をほじっていた指を職員さんにくっつける。職員さんは「こーら、人にお弁当プレゼントしちゃダメでしょ。お弁当をプレゼントしてはいけません。自分で食べてもいけません。わかったー?」と慣れた様子で語りかけている。しかし『ヒーちゃん』は鼻に手を当てながら虚空を見ている。
『ヒーちゃん』は、院外外出ができない。院内外出だけが許されている。それも職員さんがかならず同伴しなければならない、院内同伴外出だ。
俺も最初のころは院内同伴、院外同伴と経てひとりで外出できるようになった時には歓喜したものだった。院外同伴の時も近くのファミマでひとつだけスイーツを買う許可をもらい、病棟に戻って食べた時はあまりの美味さに涙が出そうになった。
でも『ヒーちゃん』はそれもできない。病棟と内廊下だけが彼女の世界のすべてだ。
見るたび、少しかわいそうだなという思いに駆られていた。
「うーえ『ヒーちゃん』だ。気持ちわりぃ~~~」
リュウさんが心底嫌だという気持ちを声と全身で表現していた。
まぁ、分からないではない。このころの俺も直で接しろと言われたら嫌だなと思っただろう。お弁当はプレゼントされたくないし。
心配しないでもそんな機会はないので無害。という認識だったけれど。
「最悪なモン見ちった。早くいこーぜ」
「ウィース」
「はい」
さっそくイデ君に話を聞こうと『W-1』へと向かった。
『W-1』はほかの病棟と違って開放病棟だ。
簡単に言うと常に玄関が開いている。よって外出の自由度なども大幅に違う。あとは男女共同という点だろうか。玄関も大きな木製に青のペンキ塗りという取っつきやすい印象で、武骨でキズだらけなスチールフレームである他病棟とは雰囲気からして違う。
しかし掃除や用具管理なども自分たちでするといった日常のルールも多くて、面倒そうだなと俺は思っていた。
開け放たれた両開きの扉をくぐると玄関脇には署名するだけで外出できるチェック表があり、文字通り広々としてキャットウォークまである開放的なホールには、いろんな子たちが行き交っていた。
その半円形の靴脱ぎ場から俺たちは適当な子を呼んでイデ君に取り次ぎを頼んだが、あいにくイデ君はすでに外出済みだった。おい、名前書いてないぞ。そんなものか。
街を適当にブラつけば会えなくもないかもしれないが面倒だったので今回はあきらめた。
代わりにその子に『マー君鬼のかくれんぼ』についての情報を聞いてみる。
しかし、以前イデ君から聞いた以上の情報は得られなかった。
というかそれ未満だった。
ただ、この病棟でも『マー君鬼のかくれんぼ』の遊びはやったらしい。彼らが『飛ばした』のは隣の棟の『E-3』。女子病棟だ。
ちなみに、冒頭で俺が見た白い手の棟だ。
「とりあえず公園いく?」
話を聞き終わり次はどうしようかと考えたところで、リュウさんが言う。
早くも飽きてきたらしい。あとタバコが吸いたいんだろう。
「あー、俺もうちょっと回ってみます。暑いし途中で止まると嫌になっちゃいそうだし」
「マジ?」とリュウさんはうかがうようにして「やっぱり気が変わらない?」みたいな空気を出し、自分も続けるか迷っているようだった。
「んじゃ早めにきて。たぶん公園にいっから」
結局タバコ欲が勝ったようだった。
「ウィース。お土産になる情報あったら話しますね」
「あの。俺も調べてからいきます」
「んだよヅカぁ。俺のタバコが吸えないってワケ」
ヘンな言い回しに俺は噴き出してしまった。あと別にタバコは共有ではなく個人ごと所有だ。リュウさんは滅多に自分のタバコを分けない。
マイヅカ君は慌てて笑いながらこう弁解。
「ちぃがいますってぇ! 俺も気になるんです! ――ミキがなにか企んでるなら、潰さなきゃならないし」
と急に厨二モード発動。
いや、この時点で俺たちはもうミキのことなんてどうでもよくなってるんだが……
今まで忘れていたぐらいだ。
え? マイヅカ君まさか今までずっとそのつもりだったのかと俺は内心慌てた。
おそらく存在もしていないであろうアホの企み(笑)と戦うために我々は秘密裡の作戦を発動するのだった。とか果てしなく面倒で嫌なのだ。暑いし。
それはリュウさんも同じなようで、面倒ごとを避けるように「分かった。気をつけろよ」と言って廊下を歩いていった。
彼とは別方向に廊下を歩きながら、一応念のため俺はついてくるマイヅカ君に念押しした。
「いや、別にミキと戦うとかじゃないからね」
「あ、うん。分かってる。ただイッソー君(苗字呼び)の方にいきたかっただけだし。調べるのも好きだしね」
と冷静なご回答。そうだったか。やるな。
マイヅカ君の厨二モードは真面目な時と演技の時の区別が、分かりやすい時と分かりづらい時がある。ふざけてるのかと思っていたら真面目にキレていたりすることがあるせいだ。
「……イッソ君。『マー君』っているのかな」
――厨二モードの問いかけ。
――ふむ。
次の病棟に歩くまでのその会話に、俺は「分かんない」だか「少なくともどこから始まったのかとか元ネタはあるのかとかそういうのを知りたい」みたいなことを答えていたかもしれない。実はよく覚えていない。思い出せない。
ただ、メチャメチャ暑かった。
次の病棟……『E-3』に着くころには早くも汗が噴き出し始めていた感覚だけがたしかだ。
別にミキに用はない。外で出くわして万が一向こうから絡んでくるようだったらもう一度ケリのひとつでもぶち込んでやればいいぐらいに思っていた。
鬼ごっこについて知っている子ならだれでもよかったわけだ。
『E-3』の玄関は分かりにくい。
『E-6』や『W-1』の玄関は廊下側に面しているのに、この建物は路地裏みたいな場所に入った途中にある。薄暗い。
幸い玄関前でちょうど外出してくる子がいたのでゲット。
かくれんぼについて聞くと、意外な答えが返ってきた。
「その話、しちゃダメだって職員さんに言われてるから……」
なんて?
この時点で俺はなんとなく違うんじゃないかと思いつつも、念のため「それってこないだのミキ関連?」と聞いてみた。
答えは予感の通り。その子たちは顔を見合わせながら首を横に振ってきた。
「違うと思います。それは別で言われたから……」
そう。なんとなく雰囲気からだが「ミキがケンカ未遂騒ぎを起こしかけたから注意された」というニュアンスではない気がした。そして、それは当たっていたわけだ。
「ユウジさん今いる?」
と聞いてみるが答えは首振りでノウ。今日はいないみたいだ。
「分かった。ありがとう」
ミキになにかされたら言ってな、と言おうか一瞬迷ったがやめておいた。俺も安請け合いはしない。責任が持てないし、面倒くさい。ついでに病棟をまたいでちょっかいを出すのは普通に嫌がられる要因だ。
「……いったい、どうしたというんだろう」
病棟を離れながらの道でマイヅカ君。またしても厨二セリフモード。
俺も、思いもよらぬ手応えに気になってきていた。
なんの考えもなしに流れで連絡廊下を反時計回りに歩いていた俺は、次はどこに当たってみるか考えていた。ウチから『マー君』が飛ばされた『E-2』という考えも浮かんだが、あいにくウチの真下の階である『E-2』には患者も職員にも既知がいない。当たり前の話で小学生ぐらいがメインで収められた場所だからだ。そこに高校生ぐらいのメンツがオカルト話を目的に絡みにいくのはどう考えてもよくない。
モモあたりに頼んで院内教室で聞いてきてもらうというのは不可能ではないけれど、俺が近づけばモモは話はできるがひどく怯える。俺もちょっとモモには負い目を感じていた。
モモが入院して初期のころにぶつかったことがある。あのころのモモは今の姿からは信じられないぐらい本当にふてぶてしかった。結果はあっという間にお互いの力関係が露呈して一方的にこちらが締め上げる形になってしまい、今だ。俺も大人げなかったと反省していたが、後の祭りだ。
ほとんどの患者は院内の空気や共同生活のルール感を知らないまま剥き出しの個性で入ってくるため、入院初期のトラブルというのは本当に多い。俺がリュウさんに〝洗礼〟を受けたように……。
とにかく、モモはなるだけそっとしておいてやりたかった。
それにその方法は時間がかかるし。最低でも明日の昼になる。
あんまりいきたくないけど女子病棟に当たってみるか……? と考え始めていた。あの女子たちはオカルト大好きだし。その分情報の正確性も微妙かもしれないけれど。
と、そんな時にまるで天啓のように正面から歩いてきた人物と目が合った。
今歩いているのは外来方向。その右手方面、普段は俺たちはほとんどいかない事務棟方面からやってきた、看護士のスギサキさんとイシイさんだった。