『マー君鬼のかくれんぼ』Ⅳ
「イッソー、イッソ……?」
「……」
俺は無言で上半身を起こし、スライド開閉のドアを少しだけ開けた中央から、廊下の夜用照明の灯りでボンヤリ浮かび上げられたシルエットを見た。
部屋の扉をかすかに開けて外から呼びかけてきているのは、オトッチだった。
目覚める直前に身体を揺さぶられる感覚があったので、たぶん何度か呼びかけたあとにサッと部屋内に乗り込んで揺さぶってすぐにサッと出たのだろう。
よくある技だ。
「起きてる? 起きた?」
話しかけてくるオトッチは職員を呼ばないよう小声である以上に怯えている風だった。
「どした?」
「やばいかも」
またかよ。
俺は思いながらもスリッパをはいてベッドから抜け出した。
見ると外にはほかにマイヅカ君、シバ君、タケちゃんの姿もあった。
ドア前で合流したオトッチは俺の両肩を抱き着くみたいにつかんでくる。
廊下に出たところで、
「よかった。もし起きなかったらスバルを起こしてイッソ起こしてもらおうと思ったけど、かわいそうだからさ」
「そだな」
と笑っておく。スバルのベッドならドアを全開にすれば壁から手が届くけど、たしかにかわいそうだ。
「でも声出しすぎると、盗聴器ついてるからバレるじゃん?」
「ん」
これもガチ。
ある日に疑惑が持ち上がって集団で職員さんに問い詰めた結果判明したのだが、全病室には集音マイクが取りつけられていてナースステーションに拾われていた。
ナースステーションから遠い部屋で軽いトラブルがあった時やルームメイト同士遅くまで起きている時等にも、あまりにタイミングよく職員さんが飛んでくることに気づいたのがきっかけだ。
『1号室』と『2号室』には監視カメラと集音器がついていることは知っていたが、まさか全室とはだれも思っていなかったので当時の衝撃はすごかった。
分かって以降、部屋での会話も声は出しすぎないよう注意するようになったわけだ。
今回のオトッチの心配は他室訪問認定の有無だったろう。
それはともかく。
どうでもいい会話をするのも、なにかを紛らわすためだなという感じがある。
あらためて「どしたん?」と聞くと、タケちゃんが答えた。
「音がしたんだってさー」
「音?」
「そう。部屋の前。トイレの方から」
オトッチの『3号室』は、たしかにトイレの向かいにある。トイレで音がした場合、聞こえるだろう。
正確には真正面ではなく斜め向かい。手洗い場の列の前って感じだ。
「なんで?」
まだ眠かった俺が発した問いは俺でもいまいち意図不明だったけどオトッチなりに解釈して答えてくる。
「分かんない。とにかく、パァン、パァーン、ってさ。なんかモップを倒し続けてるみたいな音がしてて、目が覚めたんだけど」
「そんで俺が起こされたってワケよ」
「俺はなんとなく部屋で起きてたらオトッチ君がドア開けてきたんだけどね。正直そっちの方が怖かったわ」
「……俺も起こされた」
とタケちゃん、シバ君、マイヅカ君。笑える。
音ねえ。
……今はしてないな?
「トイレ見たの?」
トイレの中は見たか?という意味だ。
「見てない。怖いから。ねぇイッソー覚えてる? 『マー君』の話で、箒を倒すような音がしたって……」
「あぁ~あ……」
あったな。
「それで俺、思ったんだけど、トイレでモップの音がするわけないじゃん。用具入れは鍵かかってて開かないんだから……」
そういえばそうだな、と思いながら俺はようやく目が覚めてきた自覚が出てきていた。
モップ等のトイレの掃除用具は、トイレ内の個室列の一番端に収められ、鍵がかかっている。閉鎖病棟の患者は、そういうのにはほとんど触れられないのだ。
「それで俺怖くなって、音がしなくなるの待っててさ。それでタケちゃんとか起こして、イッソのところにいこって思ったの」
「うーん、職員さん呼べばよかったんじゃね?」
シバ君もうなづいている。
「ナースステーションいくの入口横切らなきゃいけないじゃん」
「なぁんだよ情けねぇな」
シバ君ごもっとも、と思いつつオトッチの気持ちも分からなくない。
『3号室』からナースステーションはかなり近いけど位置関係的にトイレ入口の真正面を通りすぎなきゃいけない。トイレに扉の類はないので中が丸見えで、トイレ内が視界の端をよぎることになる。
なるほど。
俺たちは、あらためて廊下の先にあるトイレの方を見る。
当然、今も音などはしていない。
そこだけは消灯無関係に一日中蛍光灯が焚かれているトイレは、無機質な白の光を入口からこぼしていた。
「じゃあ……見にいってみる?」
面倒だなぁと思って俺は一番早そうな案を口にした。
「え……いくの!?」
「うん……」
「せっかくここまできたのに!?」
ずっと部屋前にいる気なのかよ。
シバ君たちもそのうち帰っちゃうぞ。
ということを思っていたと思う。
まぁオトッチからすれば真正面ではないにしろトイレの入り口にニアミスしてまでこっちに駆け込んできたわけだしな。助けを求めたのに逆に連れていかれるのか!? という心境だったのかもしれない。想像だけど。
どっちにしろそのうち職員さんの巡回に捕まるけどな。
「お願いだ、イッソー。考え直してくれ」
しゃべりを続けて若干余裕が戻ってきたのだろう。オトッチは芝居がかった動きと声で俺の両肩をつかみ、半分笑いながら首を横に振ってきた。
俺も乗ることにした。
「分かった。いいだろう」
なにもかも分かってるという顔で俺はオトッチに笑いかけた。
そして、そのままトイレに向かって歩き始めた。
オトッチ以外がゲラゲラ笑っていた。声は潜めているけど。
オトッチが声を押し殺した悲鳴を上げまた肩をつかんでくる。
「なぁーんでだよっ。分かってなァいじゃん! イッソー! イイッソ!」
と言いつつ声は笑っているので割と大丈夫なんじゃないだろうか。
それより俺はすでにちょっと面倒になっていたのだ。
そーこうしてトイレ近くまできたが、そこからオトッチは本気の力を込めて俺を止めようとしてきていた。前に出てまで止めようとしてくる。
「ヤバいヤバいヤバい。もう待って。ヤバいって。じゃあせめてもうちょっと人呼ぼう?」
「オミズ呼ぶ?」
「オミズ役に立たないからぁ……!? なぁんでオミズ選ぶんよぉ……!?」
分かっていて言ったんだよ。
俺は「ナースステーション近いんだから静かにしろっ」と真面目に叱責してオトッチをその場の床に配置した。そういう感じの手つきでシャキーンと。
「そこにいていいから。ていうか待ってればいいじゃん」
と、かねてから思っていたことを言いながら俺はトイレに入っていった。
うしろでは「おっ、肝試し第一弾イッソー君いきました!」とシバ君の実況が聞こえていた。いつの間にかひとりずつ入る流れになってしまったな、オトッチ。
さて。
どういうところかっていうと、どうということもない。普通の共用トイレを思い浮かべてくれれば大丈夫だろう。
タイルの床。青いトイレ用スリッパ。
入って左側に小便器が三つ。その後ろ側に便座の個室が三つ。一番奥は幽霊が出るという話がある。
しいて普通との違いを言えば、入って一番奥の壁側の窓に案の定花模様の鉄格子がはまっているぐらいだろうか。その窓の外側は小さな林で、しかし林というほどの密度でもない。都会のド真ん中だからそんなものだが、それでも夜に見る大きな木の影は外を真っ暗闇に見せていた。
トイレ内はこの林の葉陰が夏の夜特有のぬるい風に鳴らされるさざめきと、煌々と灯された蛍光灯の『チー』という小さいうなり、換気扇の乾いた音だけに包まれている。
「……」
「イッソォ? 大丈夫……?」
入口正面まできたオトッチの姿が外から呼びかけてきて、俺は内部を見回しながら「うん」と答えていた。見事になにもない。
そういえば、トイレだけは改装の対象から外れていて古いままなんだよな。せっかくだから一緒に新しくしてくれればよかったのに。
なぜなんだろうか?
そんなことを考えていたと思う。
入口側の壁には一基の洗面台と雲った古い鏡。
オトッチが自分の耳にえんぴつをブッ刺した場所だ。
俺は思い起こす。
トイレ……
さまざまな逸話を生み出してきた場所だ……
オトッチの公開オ〇ニー勃発現場……オトッチえんぴつブッ刺し事件……オトッチ肝試し閉じ込め事件……
ほとんどお前じゃねえか。
お前とトイレはなんなんだ……。
個室も全部開け、あっという間に見るものはなくなってしまった。
俺はトイレを出た。
「なんかあった?」
「なんにも」
俺が答えると、シバ君が「じゃあ次俺がいきまーす!」と笑顔で入っていった。「もしもし『マー君』いますかー? ブッ殺しますよー」などと聞こえてくる。
それを無言で並んで見ている俺たち。
その時、オトッチが隣の俺の肩を叩いてきた。
呼ばれたままに振り向くと、オトッチは怯えたローテンションのまま、俺にこんなことを語りかけてきた。
「ねぇ、イッソー……もし俺がここで公開オ〇ニーしながらトイレに入ったら、英雄になれるかな?」
と。
こいつはなにを言っているんだろう?
「なれる」
と、俺は言っていた。
「なぁーんでっ!」
とマイヅカ君がツッコんでいた。ナイス。
「ほんと? なれるかな」
「なれる。間違いない」
「なになに、オトッチがどしたってー?」
「あのねタケちゃん。今から俺が公開オ〇ニーしながら入ろうかなって」
「おお~! ただの肝試しじゃ俺たちじゃないからな! それでこそ『E-6』だよー。よしオトッチやってやれ! 『マー君』に見せつけてやるんだ!」
「だからなぁんで! 俺たちってなんなの! ホワァイッ!?」
マイヅカ君最高だな。
そして「よっしゃあ……!」とやる気になったオトッチがその場でズボンとトランクスを下ろし始めた。さらにシャツまで脱ぎ捨てる。オトッチは靴下一丁の男になった。
「『マー君』をオカズにしてやるぜ」
とか言っている。いるなら早く逃げろよ『マー君』。
トイレから飛び出してきたシバ君がそんなオトッチにぶつかりそうになって「うおっ」と緊急回避。
「きっったねえなあ! なんで肝試しして出てきたらチ〇チ〇丸出しの男がいんだよ」
と若干キレぎみに己の運命を嘆いていた。
しかしすぐに俺たちは一体になった。全裸の男に向かって早く行け早く行けと煽り立て、両腕を広げながらトイレに消えていく姿を喝采で見送った。
だがすぐに静かになってヤツが脱ぎ散らかした人間性の残骸のような衣服を見下ろしていた。
「え? なに本当にやりに行ったの?」
「出るまで出てこない気かな。嫌なんだけど俺そのあとに入るの」
「俺もだ……」
俺たちはドン引きしていた。
オトッチがトイレに公開オ〇ニーという災厄を落とすのは、これが三度目である。
この地でかつて二度も、そのような災厄があったのだ。
だれかに強要されるでもない。なぜかヤツは最初から自分でおっぱじめ、そして逃げる俺たちに向かって発射しながら歩み寄ってきたのである。
あれは悪夢だった。
汚い話ですまない。でも英雄になりたかった男の話だから、飛ばすのもどうかと思ったんだ。
どうすんだ……このあと……。
突発的に発生した肝試し大会だがもはや着地点が見えなくなっていた。
なんとも言えない空気が俺たちを支配していた。
「マイヅカ君」
俺は真剣な顔でマイヅカ君を見た。マイヅカ君も真面目モードで応じてくれた。
「――なに」
「魔王の力でなんとかできないだろうか?」
「なぁんでっ!!」
「おー、魔王ってなんだっけ『魔鬼羅』クンだっけー。そうだよ魔王の力であのバカを止めてきてくれよ」
「やぁめてよ! 勘弁してくれ!!」
『魔鬼羅』というのは、マイヅカ君がその身の内に飼っているの魔王の名前だ。
俺たちの側からこの禁断の話を持ちかけるとマイヅカ君はこのように泣き笑いのようなテンションで必死に抵抗するのだが、魔王の力を用いれば『マー君』ごときたやすく屠ることができるだろう。
魔王が潜むこの病棟に迷い込んでしまった時点で彼は負けていたのだ。
普段は遊〇王や卓球対戦の劣勢を覆すような雑用レベルに使われているので、ここらで悪霊のひとつでも消し飛ばすぐらいの見せ場はあってもいいのではないか。
と、この時の俺は考えていたわけではない。別に。
やめろやめろと悶えるマイヅカ君に対し俺たちはシバ君まで面白がって加わって魔王コールを繰り返した。結果、マイヅカ君はどこまで本気なのか分からないキレ方で拳を打ち合わせてやる気を見せた。
「よし……そこまで言うならやってやる……!」
今度は俺たちはマイヅカ君を止め始めた。しかしマイヅカ君は「なにを言っている。貴様らが俺の力を欲したんだろうが今さら虫のいい話をするな……」とトイレに向かって歩こうとしている。
ところがトイレから「よしいくぞ『マー君』見てろよ」という声が聞こえてくると、ピタリとその歩みを止めていた。
「やっぱり、やめておく」
そうだぞ。
仮に魔王の力を発露して現場に向かったとて、そこにいるのは靴下一丁になって下半身をしごく華奢ヤンキーの姿をした変態がいるにすぎない。
力の使いどころを間違えないでほしい。
やがて「いくぞ、ドピューン、ドピュゥーン」という以前と同じ口頭効果音が聞こえてきて、俺たちは無残にその場に立ち尽くしていた。「ドピュゥ~ン、ドピュ~ン」
最悪だ……。
「オトッチ君、そのままこっちにきたらキレるからね?」
「そうだぞー。ちゃんと掃除してからこいよぉ、でなかったらお前ちょっとマジで覚悟しとけよなー」
「分かってるってぇ~~」
と能天気な声が返ってきた。
そんなトイレにシバ君が声を投げかける。
「じゃ、俺たち帰るんで。お疲れ様でしたー」
「えっ!? ちょ、待ってよ!?」
俺たちはダッシュで走り始めた。出てきた全裸のオトッチが追いかけてきたのでさらに全力ダッシュで逃げた。
その時の足音がさすがに職員さんを呼んで俺たちは怒られた。
「はぁーい、ちょっとうるさいよー! ……。なぁんでオトッチ君は全裸なの……」
こういう時はウソの言い訳をしたり逆に黙ったりというのはよくない。
ただしオトッチが全裸な件は、言い訳も説明のしようもなかったのでなにも言えなかった。
俺はオトッチに替わり起きていた経緯を伝える。トイレで異音を聞いた、ひとまず自分たちで調べ、その次に一応職員さんに報告して話を聞くつもりだった、その手前で少しふざけてしまった、と。
ナースステーションは位置的にはトイレの隣にある。
話をしながら俺たちは『3号室』の前まで歩いて戻ってきていた。
位置関係の話もあったことで職員さんは一応の興味を示してくれた。
「ふぅん……? こっちはなにも聞こえてないけどねぇ。3号室も聞こえたならこっちも聞こえると思うよ? 静かだから」
「ですよねー」
「でもほんとに音がしてたんです」
とここで、オトッチが元の深刻な顔に戻って挟まってきていた。
全裸で。
職員さんは一旦詰まってから、結局元々言おうと思っていたセリフを言うことにしたようだった。
「でもなにもなかったんでしょう? もうみんな寝てるんだから、あんまり騒いじゃダメだよ?」
「はい。それはすいません。でも、音は本当に聞いたんです」
と言うオトッチ。俺はあまり深く考えず、よほどはっきり聞いたんだろうなと思っていた。
幽霊の類は基本的に信じてはいない俺だけど、それは抜きにして単純に音が発生するぐらいならいくらでも起こり得るだろうと思ったからだ。
「ほかのみんなは聞いたの?」
「いえ、俺は聞いてないです」
「同じく」
とまぁ決まった返事をする。
腕を組んで応じていた職員さんは「んー?」と困ったように首をひねりながらトイレへ入っていった。なにが起こっていたか知っている俺たちは入らない。
オトッチは俺たちよりもっとうしろでストップしていた。怖さがぶり返したらしい。
「うん、なにも異常ないよねぇ。モップなんて出せるわけないし」
言いながら一応という感じで職員さんが用具入れの個室扉をガチャガチャ引いてみるが当然鍵はしっかりかかっていた。
俺もさっさと話を終わらせたくて一応だけ言ってみていた。
「虫が換気扇に飛び込んて弾かれたとかないですかねー」
「虫ー? ええ……?」
案の定な反応をしながら一応換気扇の下まできて眺めたりしている。
「うーんだったら虫がかわいそうだけどでもそんなに音しないと思うしねぇ。死骸とかもないもん」
「まぁ反響とかで。少し大きく聞こえたとか。いや俺もそんなにないと思ってますけど」
「ああ、そっか。うん。反響ねー。換気扇じゃなくてもなにかの拍子で反響とかはあるかもね。うん」
俺と職員さんはオトッチの方を見ながらうなづき合っていた。
「でもそんな音じゃなかったですよ」
と反抗ぎみのオトッチ。
「まぁ怪しいものはなにもなかったし。今から一応巡回するから、君たちはもう安心して戻って。明日起きられなくなるよ。あとオトッチ君は早く服着て」
「はーい」
と俺たちは言ったがオトッチは「……」とトイレ内の俺たち以外の空間を凝視したままだった。
シバ君たちもさすがに飽きたのか文句も未練も見せずさっさと自室に戻っていく。
オトッチが顔つきと目線は変えないまま「寝られないから今日は6号室に泊まっていいですか」と言い出すから俺と職員さんは笑ってしまった。
ダメに決まってんだろ。
「それはダメ」と笑いながら当然の職員さん。「かけ布団だけ持って俺は床で寝ます」と追いすがっているオトッチ。「お布団が汚れちゃうでしょ」と当然なんだかハズれてるんだか分からないツッコミを入れている職員さん。
このあとも「じゃあリネン交換自分でします」「そういう問題じゃないでしょ洗濯してくれる業者さんも大変なんだから」などという応酬があったが、今思えばどっちも真面目か。
正直言うと俺はこの時『他室の住人が一日だけ出張か』というあり得ない例外イベントの発生にわずかだけの期待感を持っていたが、結局あり得ないものはあり得ないまま終わった。
「分かった……じゃあ、眠れるようになるまでナースステーションの前にいていいから」
「ひとりじゃ怖いです」
「うんうん分かった。隣に座ってるから。とりあえずここにいてもしょうがないからいこう」
ということでオトッチは職員さんに連れられてナースステーションがあるホールへ。
俺は逆方向の『6号室』へ。
「イッソ君もありがとね。ゆっくり休んで」
「ウィース」
と言いつつ、一旦部屋に戻ってベッド上の棚からマイコップを取った俺はきた道をすぐ戻っていた。
ナースステーション沿いに置かれたソファにオトッチとそれをなだめる(というか説得と説教の中間?)ような口調で話しかけている職員さんの姿がある。
廊下とこれらの位置関係は一直線なので、トイレ前にさしかかるころには俺の姿は見とがめられていて声をかけられていた。
「えー、ちょっとイッソくぅん。もう夜遅いんだから寝ようよぉ」
「あーはい。でももう目ぇ覚めちゃったんで、一回お茶飲もうかなって……」
「ああそっかそっか。ごめんね、じゃあゆっくりして」
そんなやり取りをしながら、俺の目的が分かって手を振っている職員さんと座るオトッチの前を通りすぎてゆく俺。
ナースステーションが面するホールは四角い空間で、三面の壁際にベンチやソファが置かれ、中央には卓球台がある。卓球台はマイヅカ君のバトルフィールドだ。ちなみにここを遊〇王の決闘場に使うこともある。
消灯後もナースステーションと玄関口の灯りのおかげでホールだけはそこそこに明るい。
この安心感があるからちょっと眠れないけれど話し相手もいない独り状態の患者はよくここに座ってぼぅっとする。長居しすぎると職員から寝ろと言われる。ソファに寝そべっていい塩梅に眠れそうだと思っても部屋で寝てと言われる。
それに対して暗いのは食堂だ。
食堂はホールから続く病棟の一番奥、ホールと同じくらいな広さの四角い空間。
ホールの四角の斜め上に同じ四角をちょっと被らせたような図形を思い浮かべてくれればいい。そういう風につながっている。
で、そこに入って割とすぐのところにある給湯室の小窓の前にタオルを敷いたヤカンが置いてあって、これに入っているお茶を患者は自分で注いで飲むというシステムなわけだ。別に水道の水を飲んでもいいんだけどね。飲みたいのなら。
この時の俺はお茶を飲もうと思ったのだ。
うしろではオトッチたちの「俺も飲もうかな……」「うんうん飲みなよ飲んで落ち着いて。俺もいるから大丈夫だから。コップ取ってきな」的なやり取りが聞こえている。
俺はひとまず注いだ一杯をその場で飲み干して「っアー」とひと息。続いて二杯目を注いで、口をつけながら、なんとなく食堂内を眺めていた。
「……」
前述の配置の通りなのでホールの光も半分以上遮られ、完全にひとつの照明も落とされている食堂内は本当に暗い。
眠れないからといってここに居座る患者はまずいない。
俺は本当になんとなく、ぼんやりと、この食堂を眺めている。
そして、それを見つけてしまった。
俺は、マジなのか? と思いながらうしろの職員さんを呼ぶ意味も込めた「あっ」という声を出して食堂内の長テーブル群の方へと歩いていた。
「カイエダさん、これ……」
さすがに拾うことはせずにソレの前に立って、今度は手招きもつけて呼んだ職員さんの到着を待つ。
どうしたのよという顔の職員さんも、同じ場所にきて一瞬、言葉を失う。
俺たちの目の前の床には、無造作に転がされた掃除用モップの姿があった。