銀拳のルベルグリーズ
「どうして、どうして、わたくしばかり……」
倒れ伏した少女は、血に濡れた両手を握り込む。のろのろと見上げた先には、種々の剣や槍。
それらはみな、折れ、曲がり、柄を血で汚し、一つとして綺麗な姿をしたものは無い。
それは、彼女の足掻きの証。
それは、彼女の絶望の証。
白魚のようと褒めそやされておかしくない身分の彼女の手に、まめができ、破れようとも、世界は彼女を顧みない。
――ずるい。
――ずるい、ずるい。
――わたくしには与えられないというならば、わたくしは――。
「……夢、ですの?」
西日の差し込む窓辺で、ゆっくりと身を起こす。どうやら少し腰を下ろして休憩するつもりが寝入ってしまっていたらしい。
「いけませんわね、わたくしともあろうものが」
ルベルグリーズたる者、人目の無い場所だろうと気を抜くべからず。幼少期に叩き込まれた教えは、未だにお爺様の声で以って頭の中に鳴り響く。打ち消すように頭を振り、控えさせていた侍女を呼んだ。
悲喜交々の大舞台まであとわずか。ここから先、気を抜くことは許されない。
エメライン=ルベルグリーズは、建国以来王家に仕え、時の将軍やアイオディアの英雄をも輩出した名家、ルベルグリーズ侯爵家の令嬢である。高く結い上げた銀の髪に、吊り上がった翠の目。抜き身の剣のような美貌はその悪名と共に絶大な知名度を誇っており、この王立学院において、いや、この国の貴族社会において知らぬ者は無いと言っていい。
エメラインが足を踏み入れればダンスホールをざわめきが包んだ。
「――来たか、ルベルグリーズ」
エメラインに注がれる数多の視線の一つ、最上席にてその時を待っていた彼は、そうこぼすと表情を引き締めた。
人波が割れる。その間を、本来ならばつける筈のエスコートも無いというのに、エメラインは悠然と、しかし令嬢らしい足取りで彼らの前へと進み出でた。
「ルベルグリーズ侯爵家が長子、エメライン。只今、御前に参上いたしましたわ、殿下。」
「ふん、その虚飾がいつまで続くか見物だな、エメライン=ルベルグリーズ」
恭しく淑女の礼を取るエメラインに対し、少年は鼻で笑う。これは宣戦布告だ。眼前の女に突きつけるように告げた少年だったが、すぐにその顔を歪めた。
「……何がおかしい」
「ふふっ、いいえ?」
エメラインの視線がついと、少年の横を向く。彼女の視線から怯える一人の少女を守るように固まるのは、第二王子の乳兄弟である騎士、公爵の子息、国一番の商会の次期頭取、魔導官資格の最年少記録保持者。いずれも今は第二王子の取り巻きだが、将来、国の要職やそれに準ずる立場に就くと期待される者達だ。
「わたくしのエスコートに来ないと思ったら、あなたもこちらでしたの、ハーバート」
公爵子息が肩を揺らす。刺すようなエメラインの視線を遮るように、騎士が体を割り込ませた。ここに剣があれば今にも抜剣せんばかりの警戒心へ目を細めた一瞥をくれると、エメラインは第二王子へと視線を戻した。
「殿下? わたくし、本日の『出し物』楽しみにしておりましてよ」
「っ!? 貴様!」
「どうかわたくしを楽しませてくださいまし。――それでは、ご機嫌よう皆様」
挑発を血のように赤い唇にのせ、エメラインへ噛みつかんばかりの彼らと、彼らに守られる少女――ミリシア=サンズへ、エメライン=ルベルグリーズは薔薇のような笑みを咲かせた。
――笑顔とは、太古の昔、牙を剥く仕草であったという。
「『どうして』?『どうして』ですって?」
「簡単なこと。わたくしには何も与えられないのだもの」
美しく咲いた血色の華は、もう棘を隠そうともしなかった。
「あなたたちがなにかを積み上げるほど、なんにもないわたくしはおいてけぼり」
「だから、ね?」
「みんなが愛するあなた。幸福なあなた」
「あなたはわたくしが壊してあげる」
(――そろそろかしら?)
現在、フロアでは各学年優秀者の表彰が行われている。
「1学年の学年主席、ミリシア=サンズ。前へ」
「はい!」
衆目にさらされ緊張する中、それでも学年主席としての誇りを持って、ミリシアが進み出た。
優秀者の表彰が終われば、式次第ではその後ダンスの時間である。生徒たちが浮足立つ中、拍手に包まれ最後の表彰状がミリシアへ手渡された。
「それでは――」
「――お待ちいただきたい!」
「カーティス会長!?」
進行の声を遮った第二王子に対し、場内からはざわめきが起こる。しかしカーティスはそれを気に留めるでもなく、演台に立った。
「ダンスを心待ちにする皆には申し訳なく思う。しかし今少し、私の話にお付き合いいただけるだろうか」
落ち着き払った様子で会場を見渡しそう告げるカーティスの姿に、場内のざわめきは徐々に小さくなった。
「――ありがとう。
皆はこの1年、この王立学院にて、様々な思い出を作ったことと思う。それは楽しいことであったかもしれないし、苦しいこともあったかもしれない。だが、そのどれもが、皆の人生において糧となる貴重な経験だ。生徒会長として、皆の1年が実り多いものであったこと、また、皆の次なる1年もまた多くを積み上げていけることを願っている。
しかし、私は知ってしまった。そういった学院生徒の輝ける未来を……いや、学院だけではない。国民の未来をも脅かす巨悪がこの学院に潜んでいることを」
第二王子の不穏な発言に、生徒たちに動揺が走った。
「――エメライン=ルベルグリーズ。前へ」
貴族の子女が集まる王立学院、その学年末のダンスパーティー。
誰も彼もの集う舞台にて、一人の少女を連れた第二王子は声高らかに宣告する。
「エメライン=ルベルグリーズ、今日この場でもって貴様の所業を断罪する!」
人を食い、屍に根を張り、血も涙も吸い上げ破滅の華を咲かせる女へ、ついに正義の鉄槌が下されるのだ。
読み上げられる罪状、浴びせられる証言。エメラインは血を思わせる唇に笑みをのせる。
「ずいぶんと面白いことをおっしゃるのね?」
「多くの生徒を虐げておいて、白々しい……。ミリシア、こんな女にかける言葉など要らんだろう」
「いいえ、お願いします。言わせてください」
守られるばかりだった少女が壇上から見下ろすように、貴公子らを連れて棘花に対峙する。
「エメライン様、わたしは、あなたを罰したいんじゃないんです。ただ、わたしやみんなにしたことを謝ってほしいだけなんです」
「ミリシアに免じて、それで許してあげる」
「観念することです、ルベルグリーズ!」
「エメライン、悪いことは言わない。今なら……」
魔導師に次期頭取、彼らは嫌悪と侮蔑に冷えた目でミリシアを援護するように言い募る。後ろめたさか身内の恥か、エメラインの従兄弟たる公爵子息だけは彼女の顔を見ようともしない。だが彼の握りこめた拳はほかの者たちと同様、並みならぬ感情を抱いていることを示していた。
――エメラインはそれらを、鼻で嗤った。
「お断りですわ。だってわたくし、謝らなければならないようなことはしておりませんもの」
「エメライン嬢、貴方という人は……!」
騎士が声を荒げても、エメラインはそよ風に吹かれたほども揺るがない。
「ミリシアの恩情をも踏みにじるか、エメライン=ルベルグリーズ! もう良い、クライヴ! この者を拘束しろ! ニコラス、水晶ポータルで王宮へ騎士の派遣要請だ。『罪人を連行する』!」
「はっ!」
「わかった」
カーティスの一声で騎士と魔導師が動く。魔導師は学院と外界を結ぶ唯一の玄関口である水晶ポータルへ飛び、騎士は壇上からひらりと飛び降りた。クライヴの合図で、同じく控えていた学院在籍の騎士達がエメラインを取り囲む。
「エメライン嬢、殿下の命によりあなたを拘束させていただく!」
包囲され、逃げ場はないというのに、エメラインは笑みを崩さなかった。
「あら、これを見ても同じことを言えて?」
「――? あれは小型水晶ポータル?」
水晶ポータル。それは異なる空間同士を繋げる魔導具であり、人や物の行き来を可能とする。恒常的に、また複数の空間と繋げるには多大な維持コストを必要とすることから、通常は大型となり設置数も限られる。小型水晶ポータルとは、繋げる空間を限定し、使用回数を一度に制限することで、通常の水晶ポータルを携行できるサイズにしたものだ。
「無駄だ、この学院は王族も通う安全上、広間の水晶ポータル以外で学院の外と繋ぐことはできないようになっている。逃亡しようとしてもそうはいかないぞ」
「ええ、繋がらないでしょうね。学院外とは」
「わたくし、親切な方にお教えいただいたのですけれど、殿下たちが張り切って倒しに倒した試験用低ランク魔獣を何頭か補充しようとしたら、『手違いで』学院に高ランク魔獣がたくさん届いてしまったんですって?檻も鎖も役立たなくて困った先生方は、『仕方なく』魔導で眠らせて、出入口のない地下空間に一頭ずつ閉じ込めたらしいのですけれど。……明日には業者が来て引き取られるとのことでしたが、怖いことですわね?」
事態を察した公爵子息が顔色を青くし、騎士達は警戒をあらわす。
「じゃあ、あの水晶ポータルの繋がっている先は……」
「我々を脅そうと、エメライン嬢?高ランクとはいえ魔獣一頭に屈すると思われては心外です」
「脅す?まさか」
赤い唇がにま、と歪んだ。
「本日の『出し物』、とても楽しめましたわ。ですから、これはお礼でしてよ」
エメライン=ルベルグリーズは裾をつまみ、大きく淑女の礼を取る。そのドレスの裾から、いくつもの小型ポータルがばらばらと転がり落ちた。
「みなさまどうか、わたくしの『出し物』もお楽しみくださいまし」
悲鳴と怒号が飛び交う中、ミリシアは人の波に呑まれていた。この王立学院にはカーティス王子や騎士ニコラスのように自ら魔獣と戦える力を養成する学級に所属する者もいるが、大多数は一般的な貴族の子女である。安全な都市に住む彼らは、多くの、それも強力な魔獣が会場に現れるとわかるとパニックを起こし、我先にと逃げ出した。高ランクの魔獣が複数だなんて、とてもではないが生徒に倒せるレベルを超えている。それでも白の魔導を扱えるミリシアは会場に残り、少しでも前線に立つ生徒たちの力となりたかったが、気づけば人波に押され、すっかり会場から離れてしまっていた。
「どうしよう、はやく戻らないとみんなが……!」
「ミリシア、こっちだ!」
「ショーン先輩!」
おろおろとあたりを見回すミリシアの手を取ったのは、ミリシアを入学当初から気にかけてくれた先輩、アーヴィング商会の次期頭取であるショーンだった。
「ショーン先輩、わたしも早くダンスホールに戻らないと! みんなきっと魔獣と戦ってる!」
「分かってる。表からだとまた人波にぶつかるから、裏から行こう。道なら僕が分かるから付いて来て!」
ショーンに腕を取られ、ミリシアは木々の中、道なき道を駆けていく。
「せ、先輩! 本当にこっちなんですか?森の中、っはあ、なんですけど! それにダンス、ホールから、遠ざかって……!」
「――ああ、こっちで合っているよ」
「先輩……?」
「今頃、カーティス王子も、ハーバートも、エメラインも、みんな魔獣の胃の中だろうさ。ハハッ、今まで平民を食い物にしてきた連中が魔獣の餌だなんていい気味だ! あいつらの悲鳴を聞けないのだけが残念だけどな」
「先輩、何言って……!」
「君だってそうだろうミリシア」
ショーンはミリシアの腕を痛いほどに掴み、引き寄せる。ミリシアをのぞき込む目は血走っていた。
「貴族の父親に、君は何をしてもらえた?メイドだった君の母を孕ませ、捨てておきながら、君に白の魔導が使えると分かると呼び戻して。君の父親だけじゃない、この学院の貴族共だって、君が平民出身だと分かると君を見下げた!
なあミリシア、こんな思い散々だろう。僕もだ、僕ももううんざりなんだ。あいつらは腐ってる。あいつらがいるから、いつまでも僕ら平民はぺこぺこ頭を下げて、縮こまって生きていかなきゃならないんだ。――だから、変えるんだよ。今日、ここで」
「そんな、じゃあこの事態を引き起こしたのって……!?」
「ああ、僕さ。正確には、僕ら『ティクルの夜明け』だけどね」
それを聞いたミリシアはショーンの腕を振りほどこうと藻掻くが、かえって抑え込まれ、抱きすくめられてしまった。
「おっと、お転婆だねミリシア」
「はな、して……っ!」
「どうして逃げるんだい、君だって奴らに苦しめられてきただろう。君だって僕の同志のはずだ」
「違う、あなたとは……っ!」
「……なんだって?」
「ひどい人ばかりじゃ、なかったもの……っ! 貴族だって、平民だって……! こんな、誰も彼もを巻き添えに、するような! そんなことは間違ってる! こんな恐ろしいことを笑いながらできるあなたと、わたしはっ、違うっ!」
身を捩り、藻掻きながらも、ミリシア=サンズという一人の少女はその愛らしい容姿に似合わない強い瞳で、ショーンをねめつけた。
「――へえ。言うじゃないか」
息がかかるような近さでそのまなざしを受けて立った彼の背に、ゾクゾクとした感覚が駆け抜けた。
「今じゃなきゃ、組み敷いて噛みついてやりたいくらいイイ顔だ。だけど残念、早く脱出しないと僕の仲間が困るからね」
「脱出って……」
「もうじきこの学院内は魔獣の餌場になる。その前に広間の水晶ポータルからずらかるのさ」
「ポータル……そうだ、ニコラス!」
「あの水晶ポータルは王都になんて繋がっちゃいないよ、出口は僕の仲間が押さえてる。いくら最年少魔導官殿だって、空間移動直後の無防備なところを狙われちゃひとたまりもないさ」
「そんな……っ!」
「広間までの小型ポータルはここにある。さあ行こうかミリシア。今は分からなくとも、新しい国の形を見れば君の目も覚めるだろう。そうしたら、その時こそ、僕は――」
「いやっ、みんなが――っ!?」
ショーンの手の中で、水晶ポータルが転移陣の光を放った。
「――あ、れ?」
ポータルの光が収まり、眩む視界に最初に見えたのは煌びやかなシャンデリアだった。遠巻きに人がいて、足元には何かが散らばっている。
「――これは、小型ポータル!? なら、ここは!? っあ!?」
「っ!」
混乱でショーンの腕が緩んだ隙をつき、ミリシアがショーンを付き飛ばす。
「ミリシアが離れた! 今だ!」
「くそっ!」
騎士達が殺到する前にポータルを拾おうと、ショーンが手を伸ばす。しかしそれよりも早く、踏み込んだ影があった。
「残念でした。
――あなたの計画はわたくしが壊してあげる」
「お前は、エメライン=ルベ、がっ!?」
入ったのは、体の捻りも乗せた渾身の左ストレート。空間移動直後、状況把握もままならない中で、素人がまともな受け身など取れるはずもなかった。浮き上がったショーンの体は壁まで吹き飛ばされ叩きつけられた。
「かはっ……!」
「クライヴ、下手人を確保しろ!」
「はっ!」
ぼろきれのようになったショーンを、複数の騎士が抑え込む。
「くそっ……!」
「君のことは友人だと思っていたんだがな。
――ショーン=アーヴィング、今日この場でもって貴様の所業を断罪する!」
「あ、あの、わたしがここにいていいんでしょうか……」
「ミリシア嬢もあの日の功労者ですから。ね、殿下」
「むしろここにいるのが一番疑問なの、ハーバート様じゃないの?何してたのさ」
「無礼だなニコラス! 俺はその、あれだ、避難誘導とかだな」
「えっそれだけ?」
「仕方ないだろう、魔導師のお前や騎士のクライヴのように立ち回れる訳でなし! 俺は文化系なんだ!」
「あー、まあ君たちもその辺にだな……」
「まあ、賑やかですこと。猿山でして?」
「え、エメライン様!?」
「ひっ、エメライン!」
「よし、これで全員揃ったな。皆、掛けてくれるか」
集まった面々――ミリシア、クライヴ、ニコラス、ハーバート、そしてエメライン。彼らを見渡し、カーティスは口を開く。
「本日皆に集まってもらったのはほかでもない、先日の高ランク魔獣によるダンスホール襲撃未遂事件についてだ。私は多くの者の協力を得て事を収めることに成功したが、――主犯のショーン=アーヴィングが私と知己の仲であったことは言うまでもないな。事を未然に収めるためには、協力者といえども全てを話す訳にはいかなかった」
「内通防止か」
「そういうことだ。今日は、これまで伏せていた分も含めて、皆に事件の顛末を話したいと思う」
「いいんですか、聞いてしまって?」
「構わない。ここにいる者は信用に足ると判断した」
カーティスはひとつ頷くと、ミリシアに目を向けた。
「はじまりは、ミリシアからの接触だった」
――ミリシア=サンズには生まれた時から、ここではないどこかの記憶があった。そこではミリシアはミリシアでは無い名前で、家族があり、友だちがあり、ミリシアではない一人の人間として生きていた。そこでのミリシアはサブカルチャーと呼ばれるものが好きな人物であり、多くの物語や創作、表現の世界に耽溺していた。
そこでのミリシアが触れたひとつに、「ティクルティティアの夜明け」というフリーゲームがあった。やたら「ティ」が多いな、という第一印象だったが、レビューサイトなどを見ればレビューは少ないながらも高評価。隠れた名作と呼べるゲームだった。
「ティクルティティアの夜明け」は所謂学園系乙女ゲームと呼ばれるものであり、王立学院に入学した平民上がりのヒロインが勉学に励み魔獣を倒しながら、顔の良い男子生徒と仲を深めていくという分かりやすいストーリーライン。魔獣との戦闘や育成面にもストレスが少なく、フリーゲームにしてはレベルの高いUIだった、らしい。
なぜ「らしい」と付け加えたのかと言えば、理由は簡単。ミリシアはそのゲームをプレイしたことがなく、実況動画を飛び飛びで追うだけだったからである。だってパソコン開くの面倒いし、ダウンロードすれば容量も食うし。しかしほどなくして、ミリシアはそんな自分の物臭を激しく後悔する羽目となった。
ある日目覚めると知らない女性の腕に抱かれていたミリシアは、すわこれが流行りの憑依か異世界転生かと大歓喜したものだが、母と思しき女性に呼ばれた名前を聞くと一転、その表情が虚無へと変わった。デフォルト名ミリシア=サンズ、それはどのルートでも命の危機、選択死、バッドエンドに枚挙にいとまがない「ティクルティティアの夜明け」のヒロインの名だったからである。
「ティクルティティアの夜明け」は戦闘にも高評価を得たゲームだけあり、きちんとしたキャラ育成やスキル選択が求められる。どういうことかと言えば、レベル不足の状態で魔獣に挑めば死、装備の耐久値を気にせずまあいっかで突っ込めば死、スキルをミスしても死というシビアなゲームバランスということである。ポチポチゲーではないのだ。一応、死ぬと直前からオートでやり直せるので、うっかりずっとセーブしてなくて育成やり直しとかは無い安心設計だ。ちなみに死にやすいというのはヒロインだけの話ではなく、主要キャラだろうと容赦なくロストするし、当該キャラのルートに入っていればそれでバッドエンド直行である。
また、戦闘面以外でも日々の学院生活やキャラとの仲を深める課外行動の時間などもあるのだが、こちらは中盤以降、選択肢次第――例えば、移動教室のルートにどこを通るかなど――で容赦なく死である。意味が分からない。これはヒロインだけの仕様であり、とある人物が関わっているのだが、その説明は後回しだ。
しばし虚無顔を晒したのち、ミリシアはハッと覚めた。待てよ、こういう転生モノの場合、前世の記憶をノートに書き留めておくとかすれば死亡フラグを回避できるんじゃないだろうか。学院入りするまでの時間はあるのだし。ミリシアはむくむくと希望が湧いてくる心地がした。そうと決まればすぐにでも実況動画を脳内再生し、て……。
……。
ミリシアは絶望に包まれた。
思い出してしまったのだ、ミリシアはヒロインの死亡シーンを知らないということを。
さもありなん、ミリシアが見ていたのは実況動画。戦闘死も選択死も、最初はネタになるが、回数を重ねるごとに陳腐化していく。最初は盛大に反応していた実況者も、中盤に入るころには「ここまでに○回死にました」で倍速やカットをしてしまう。スムーズな進行とクオリティのためには仕方ないのだが、今のミリシアには文字通り、致命的な欠陥だった。
自分でプレイしていれば、こんなことには……。百面相の末、虚ろな目で中空を見るミリシアに、母らしき女性は大変優しかった。
なんやかやあって、ミリシアは王立学院の入学式を迎えた。迎えてしまった。そもそも学院に行かなければ良いとか、一応それなりに考えられる限りで色々と足掻いてみたのだが、全くの無駄だった。結局ミリシアは白の魔導が使えることが発覚し、実の父親である子爵に引き取られ、この学院の門をくぐることになってしまった。万策尽きたり。いや、大変に危険な賭けだが、まだ一つだけ手は残っている。それは。
「た、たのもーう!」
原作知識を武器に、唯一ルートを見た攻略対象にしてこの学院の最高権力者、そして「彼女」からわたしを守ってくれる可能性のあるカーティス王子にお縋りすることだった。
「彼女」、エメライン=ルベルグリーズは「ティクルティティアの夜明け」に登場しヒロインの前に立ちふさがる、所謂悪役令嬢というやつである。エメラインは王子の婚約者であり、王子に近づくミリシアを邪魔に思いいじめる……という訳ではない。
そう、という訳ではないのだ。
ここが「ティクルティティアの夜明け」を選択死たらしめている部分なのだが、別にエメラインは王子と親しくしているからヒロインの前に立ちふさがるのではない。ついでに言うと、ありがちな攻略対象の婚約者という立場ですらない。エメラインはただ、ヒロインが学院生活を送るだけで殺しに来るのだ。意味分からん。その理由を理解するには、エメラインの生い立ちを知る必要がある。
エメライン=ルベルグリーズは、武の名門ルベルグリーズ侯爵家の一人娘だ。父親はアイオディアの英雄と呼ばれた猛将だったけれど、撤退する軍の殿を務めて死亡。母親はエメラインの弟か妹となる筈のお腹の子と共に夫の帰りを待ったけれど、こちらもお産の時に親子共に死亡。家族は祖父が一人と、よその家に嫁いでいった伯母一家のみ。エメラインは厳格な祖父に育てられることとなったけれど、この祖父がとんでもない人だった。
ルベルグリーズは武門の名家。女だろうと、並みの男に勝るような武を身に着けろと幼いエメラインに様々な武術を教え込んだ。剣に槍、弓、馬……。それは将来一人でルベルグリーズを背負うことになる孫娘への祖父の愛だったのかもしれない。けれど、エメラインには武門の娘でありながら、どの武術も絶望的に才能がなかった。時には虐待のようなことをしてまで鍛錬を積ませても、エメラインの腕は素人に毛が生えた程度。とてもじゃないけれど表に出せない有り様に、エメラインの祖父は彼女を落ちこぼれの役立たずと見なすようになった。
……悲劇だったのは、彼女が勉学や裁縫、楽器といった武術以外の分野ならば才能あふれる理想の令嬢だったことだ。もし生まれたのがルベルグリーズ家でさえなければ、その才色兼備ぶりは未来の王妃だって目じゃなかっただろう。ルベルグリーズ家の恥として軽んじられてきた彼女はある日、貴族の子女が集められた王宮のお茶会で、自分より遥かに劣る令嬢が王太子妃に選ばれる瞬間を見てしまう。自分より劣っていて、血反吐を吐くような努力もしていないのに幸せそうに笑う王太子達に呆然とするエメライン。ここで――本当はこの間にカーティス王子が何か余計なことを言ったらしいけど、そこまでは描写が無かったから知らない。何言ってくれやがったの王子――それまで抑圧されてきたエメラインの鬱憤が爆発。「持てる者は何もかもを与えられて、持てない者には何も与えられない」と悟ってしまったエメラインは自分の破滅も厭わず持てる者、つまり、幸福そうな人々から全てを奪う生き方をするようになる、所謂、無敵の人と化すのだ。
話を戻そう。ミリシアがキャラ達と親しくなると、キャラ達を経由してミリシアがエメラインに認知される。エメラインが認知すると、「何あの子、平民から貴族になって学院生活謳歌とか幸せそうじゃない」ということで命を落としかねないような嫌がらせを受けるようになるのである。勘弁してほしい。
じゃあエメラインに認知されるようなことをせずひっそり生きればいいじゃないかという話なのだが、これまた厳しい。白の魔導を使える人間は少なく、白の魔導を使える=王立学院入学だし、入学すればその時点から未来の花形職、魔導官になるのではないかと注目の的なのだ。実際、一部のキャラとは白の魔導を使えるからという理由で入学早々強制的にコミュが発生する。なので、わたしが本当に平和に生きたいならば、白の魔導が使えることをひた隠しにするしかなかったのだが……お察しのとおりである。
そして王子に危ない人いますよー、危険なこと起きますよーと告げ口もとい情報提供をする代わりに守ってもらい、何とか1年間生き延びてここまで至る。のだが。
あのエメライン=ルベルグリーズが拳闘家とか、わたし聞いてないんですけど!?
――エメラインは幼少期、何にもできない子だった。他家の人間からすれば違うのかもしれないが、ルベルグリーズ家において能力とは武である。剣を持たせてもへっぴり腰、槍を振れば頭をぶつける、弓は引けず、馬には嫌われる。エメラインがあらゆる武から見放された子であると分かると、初めは熱を持って指導していたお爺様も、エメラインと顔を合わせる機会が減っていった。
――どうして。わたくし、こんなにがんばっているのに。
――ルベルグリーズの名に恥じない子になりたいのに。
――お父さま、お母さま、おじいさま。
悲しくて、悔しくて、自分がふがいなくて。ぼろぼろと零れ落ちる涙は止まることを知らず、いつしか泣き疲れて、訓練場の床で寝てしまった晩のこと。
わたくしは、夢を見た。
見慣れてしまった訓練場に一人立つ、今より少し大きな「わたくし」。よくも、よくもと第二王子の名を叫びながら、訓練用の人形に剣で斬りかかる。槍で突く、弓を射かける。それは素人目にも分かるほど無様で、なっていなくて、おじいさまなら顔を背けること間違いなし。やがて武器も自分の手もボロボロになった「わたくし」は、まめが潰れて真っ赤になった手を握り締めて、泣きながらうずくまってしまった。それを見た、わたくしは――。
(――まあ、そうなりますわよね)
こうして自分を客観視することで、エメラインは改めてよく分かった。自分は剣も槍も、鍛錬を続けたところであの「わたくし」程度にしかならないだろうことを。それは一流である祖父を見て身に着けた、確かな観察眼によるものだった。あの「わたくし」は、それが分かっていても諦めきれなくて鍛錬を続けて――そしてここで、ぽっきり折れてしまったのだ。
(わかっていましてよ、それくらい)
順当な帰結。いずれ訪れる未来。それが分かっていても、泣き伏す自分が痛ましくて目をそらす。その視線の先に。
(あら?あそこ、見たことのない武具があるわ)
訓練場の奥の、半開きになった扉の陰。今まで開けたことのない場所に、銀色に輝く、知らない武具があるのを見つけた。
(あれはなに、かし、ら――)
「……ゆめ、ですの?」
覚醒から一拍遅れて知覚した寒さに身震いする。先ほど見たはずの月は傾き、もう東向きの窓からは見えなくなっていた。エメラインはちらりと、訓練場の奥へ目を向ける。「あの扉」は閉じているが、変わらずにそこにある。
「かってに開けたら、おじいさまにおこられてしまうけれど、でも……」
でも、気になるのだ。あのきらりと輝く銀色が何なのか。見たことのないあれは、エメラインが試したことのない物。それならば、エメラインでも扱うことができるのかもしれない。
「すこしだけ、使ったらすぐもどすもの……」
そっと、奥の扉を開ける。果たしてその銀色は、夢と変わらずにそこにあった。
「きれい……!」
女児が母の指輪をはめるように、誰に聞かずとも本能的に、エメラインはそれを手にはめ込んでいた。
――メリケンサックを。
翌日、エメラインがメリケンサックを付けて練習用の人形を殴りつけているのを見た祖父は泡を吹いた。まさか死んだ息子が若気の至りで買ってきて、「ルベルグリーズともあろうものが、野蛮な拳で殴りつけるとは何事か!」と叱り飛ばし、奥へ仕舞いこんでいたものが、まさか孫娘に発掘されていようとは。すぐに取り上げようとしたが、エメラインの動きを見てさらに仰天することとなった。あのエメラインが、剣を持たせても槍を持たせてもまるでダメだったあのエメラインが、誰に教わったわけでもないのに、しっかりと腰の入った一撃を人形へ浴びせているのだ。
あまたの騎士を指導してきた元将軍としての勘が囁く。「この娘は拳闘家の才があるのではないか?」「きちんと育てれば、行けるとこまで行くのではないか?」
しかし同時に、祖父としての、貴族の当主としての心が囁く。「侯爵令嬢が拳闘家ってどうなんだ」
エメラインの祖父は悩み、悩んで……。
王宮で開かれたお茶会の日。一人の令嬢が第一王子の婚約者に選ばれた。祝福の拍手が鳴る中で、本日の主役の弟は無表情に佇んでいるとある令嬢に絡んでいた。
「兄上たちを祝いにいかないのか。こんな隅で突っ立ってるなんて陰気なことだ」
「……」
「ハーバートに聞いたよ。剣もダメ、槍もダメなルベルグリーズの落ちこぼれ、だったっけ?合わないことをさせられてかわいそうになあ。まあ、武術がダメでも女なんだ。見た目はわるくないんだし、あの義姉上を見習って令嬢らしくしてれば婿のなり手くらい見つかるんじゃないか。ほら、たとえば、その、王位をつぐ予定の?なさそうな王子とかがここに」
「――カーティス殿下」
「何だ、ぶごっ!?」
威力を殺した右アッパーは、それでも確かにノーガードの王子のアゴへクリーンヒットした。
「何を、」
「話が長くて途中から聞いておりませんでしたが殿下。
――次にわたくしをそのような名で呼ぼうものなら、こちらです」
親にだって殴られたことなど無いカーティスは呆然自失となりながら、その令嬢をよろよろと見上げる。エメラインが掲げたのは左の拳。ルベルグリーズ家の熊の紋章が入った特注のメリケンサックがきらりと輝いた。
「――まあ、詳細については割愛させてもらうが、私とエメライン=ルベルグリーズは旧知の仲。ミリシアの訴えはにわかには信じきれなかった。しかし、学院で不穏な動きが見られたのも事実。そこで皆にはそれぞれ開示する情報を限定しつつも、事件の未然防止に向けて協力してもらっていたわけだ」
本作戦の総指揮官たる王子からあらかたの説明がなされると、公爵子息は深く座り直しあごを撫でた。
「実際、俺もエメラインへ伝える分の情報しか知らされていなかったからな……。まさか反体制組織まで出てくるような大事だったとは」
「たしかに、そんなこと考えるとか驚き。
でもハーバート様はちょっと捻れば情報吐きそうだからじゃなくて?」
「い、言うじゃないか。そういうお前はどうなんだニコラス! お前は全部知ってたっていうのか、ん?」
「わざわざ言われないこと聞くわけないだろ面倒くさい」
「なら俺のことを言えた口か!?」
いつものようにヒートアップし始める同級生の魔導師と公爵子息を見て、ミリシアは呆れたように苦笑いをこぼした。
「あ、でも、それならわたし、エメライン様に謝らないと」
「あら、わたくし、あなたに謝られることなんてありまして?」
「だってエメライン様も協力者ってことは、学院の生徒にあんなことをしていたのもショーン先輩を油断させるための演技で、本当はそんな人じゃないんですよね?それなのにわたし、みんなの前であんな、吊るし上げるみたいなことを……」
ミリシアの視界のむこうで、それを聞いたカーティスとクライヴの主従が味わい深い顔をした。
「あー、いや、うん。それは」
「ええと、ですね……」
「え、えっと……?」
「そういうことでしたらご安心なさって、ミリシアさん。あなたが謝る必要なんてなくてよ」
「で、でも」
「なぜならすべて本当で、すべてわたくしの『趣味』ですもの」
「……へっ?」
ゲームの立ち絵と同じ顔が、にまと笑む。それを見たミリシアは熊に背後へ立たれたかと錯覚するほど、ぞぞぞと怖気が背を走った。
「わたくし、ただ幸福なだけの方をいたぶるような趣味は持っておりませんけれど……。
『自分は優位にいる』、『自分は関係ない』と慢心している方の横っ面をぶん殴るのは、大っ好きでしてよ」
ね?
目を細め、きゅっと口角の上がった笑みをエメラインが向ける。言い合っていたはずの向こうからもひっと悲鳴が上がっていたが、直接その笑みを浴びたミリシアはそれどころではなかった。
あ、これ、「悪役令嬢と仲良くなって死亡フラグ回避!これで異世界転生勝ちッスわ!」とか思ったのバレてるやつだ。
無いはずのタマがひゅんとなった。
「ア、アノ、自分チョーシコキマシタ……」
「あら、残念」
くすくすと笑うエメラインは女のミリシアからしても蠱惑的で魅力的だ。バックバクの心臓は、この美人から花咲くような笑みをいただいたからだと信じたい。切に。
ミリシアがこの先、エメライン=ルベルグリーズのナックルの錆となったのかは、神のみぞ知るところである。
・「ティクルティティアの夜明け」
死にゲーと名高いフリーの乙女ゲーム。学院生活中心の前編と革命の動乱を描いた後編に分かれており、後編は鋭意製作中。
・ミリしらさん
前世ヲタク、気が付いたら死にゲーヒロインになってた人。とりあえず唯一知ってた第二王子ルートで生存を図りたかった。実況動画で乙女ゲー部分だけをつまみ食いしていただけだったため、後編の制作予定があることも、後編でも自分の歩く死亡フラグっぷりが変わらないことも知らない。彼女の明日はどっちだ。
・ベアグリズリーさん
原作だと小型水晶ポータルで何体もの魔獣を呼び寄せたところをパックンチョされるはずだった。未実装の隠しルートを開拓したら性根は割とそのままに、フィジカルもメンタルも超強化された人。ある時は蠱惑的な侯爵令嬢、またある時は王国一の拳闘家。純粋暴力isパワーを掲げ、楽しそうな匂いのする方向へ銀拳令嬢は今日もゆく。
・公爵子息
原作だとバリバリ前衛職の俺様系だったが、フィジカルもメンタルも超弱体化した人。幼い従姉妹を落ちこぼれと揶揄したら、華麗な左フックで心身ともに鼻っ柱をへし折られた。今でもエメラインと目が合うとビクッとなる。9時17時な職場で働き、かわいい系の年下奥さんをもらう、つつましく穏やかな将来を夢見る文化系男子。
・第二王子
長文台詞ペラペラの助。読み上げた罪状は全部マジだが、エメラインが目をつけるのは皆、動物的嗅覚で探り当てた深堀りすれば黒確定な限りなく黒に近いグレーな連中なので、エメラインを処断するより泳がせておいた方が得。お茶会前に急に倒れた公爵子息の情報を仕入れていれば、慢心横面拳の餌食にはならなかったに違いない。……エメラインを名前で呼べないのはフクザツな男心というやつ、かもしれない。
・騎士、魔導師
原作と大差なし。
・お爺様
爺心も才能の前には勝てなかったよ……。とはいえ侯爵令嬢が拳闘家だと外聞が悪すぎ将来の婿選びに難儀するかもしれないので、第二王子血のお茶会事件は内々に処理し、関係者には厳重に口止めをした。
・伸―びんぐさん
無敵の人エメラインをそそのかし、学院の貴族共を皆殺しにする予定だった人。原作だと襲撃事件を起こしたあと逃亡に成功し、後編では革命家としてラスボスになるはずだった。貴族の父親に引き取られる前の晩、一緒に逃げようと手を差し伸べてくれた少年が彼であることをミリシアは知らない。