みずみずカブト
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
先輩先輩! 一大事ですよ、一大事!
――なにがそんなに一大事かって?
断水です。断水。私の住んでいる地域が、工事の関係でしばらく水が出ないんです!
しかもなにをまかり間違ったか、出かける時間になってもまだ水が出ないときたんですよ! ああ、顔洗ってないし、シャワー浴びてないしで、気持ち悪いったらありゃしない……。
む、なんですその「どうでもいい」って態度は。
そりゃ、普段から顔洗わない、シャワー浴びないの、きちゃない先輩には微々たることかでしょう。でもこう見えて乙女のはしくれな私にとっちゃ、死活にかかわるんです。
――ん? 俺だって顔は洗うし、シャワーも浴びるわい?
ええ、わかってます。あえていいました。えっへん! 相手にむげにされたら、一矢は報いないと気が済まない。それが私クオリティという奴です。
先輩も朝シャワーを浴びるクチなんですか? 心臓によくないとかいううわさがありますけど、起きると汗びっちょな私はやめられませんねえ。
でも、実のところシャワーを浴びるたび、いつもドキドキしちゃいます。昔を思い出しちゃって。
興味ありますか? じゃあ帰りにチョコパフェおごってくれれば、手を打ちますよ。
私、小さいころは柄にもなく、カブトムシを飼っていたんですよ。当時は虫にぜんぜん抵抗がなくて、毒がない虫ならなんでも手づかみでしたね。
にわかには信じられませんか? 今の私は虫を見たらぎゃあぎゃあ騒いで、先輩たちにおまかせですからね。そんな時代もあったんだと思ってください。
私の興味をひいてやまなかったカブトムシですが、飼う上での注意ごとがいろいろあります。特に私がおろそかにしがちだったのが、霧吹きで水をかけることですね。
――そこがまめじゃないのに、生き物を飼うのはどうかと思う?
いや、そこは若気の至りってものです。自分が気持ちよければそれでよく、釣った魚にエサをあげず……なんて、先輩は経験ありません? いや、ひょっとすると現在進行形だったりして。
……話を戻しましょうか。ついつい霧吹きを忘れてしまう私を注意してくれたのは、おじいちゃんでした。若いころ、というか小さいころは虫取り少年だったというおじいちゃんにとって、私のぞんざいな飼い方が目に余ったんでしょうね。
「しょっちゅうじゃなくていいが、今年の夏は暑い。2,3日に一回くらいはやっといたほうがいいじゃろ。
カブトは湿り気が好きじゃからな。水気がまったくないと魚ほどではないが、息苦しい生活を送っていることになるでな」
そう注意されるとですね、当初はちゃんと面倒見るんです私。でも、どんな理由があれ一度離れてしまうと、そのままずるずるとさぼってしまう。
自分でいうのもなんですが、やっかいな三日坊主気質なんですよ。
カブトムシの寿命は、およそ一カ月といわれています。例年、夏休みのはじめに捕まえるカブトムシも、9月を迎えるまでには大半がお亡くなりになっていました。
でもその年の一匹は10月も半ばだというのに、まだ生きていたんです。おじいちゃんいわく、こうして生きている可能性はなくはないが、自分以上のご老人だろうと話していましたね。
私は気をきかせたつもりでしたが、ちょっと友達との遊びに誘われましてね。本来、その日は水をやるべき日だったんですが、ぐったりしながら帰宅すると、頭から抜けちゃってました。
それから立て続けに頼まれごとに追われて、気づいたら一週間。はっとカブトムシの入った籠をのぞくと、土はからっからに乾いていたんです。ほぼ手つかずの状態が7日続いてにも関わらず、カブトムシは生きていました。
私の差し込んだ枝の先にぴったり停まり、じっとしていましたが、思い出したかのように動くことがあります。
いけない! と私は大慌てでしたね。7日分の遅れを取り戻さないと、って焦って霧吹きを乱射しちゃいました。カブトムシにかかろうがおかまいなしで、夢中でしゅっしゅっした結果、土の上に水たまりができてしまったんです。
気づいた時には、手遅れでしたね。びしょ濡れになったカブトムシが、枝の先からぽろりとすべり落ちました。
ぽちょっと、水たまりの中であおむけになるカブトムシ。この態勢になると、たいてい足をばたつかせてきました。ですが、今回はそれがありません。すべての足を空に向けたまま、動く気配を見せないのです。
私がつっついても、指で軽く押してもなんの反応もありません。びしょ濡れになったカブトムシは、息絶えていました。
生き物を見送る経験は何度もありましたが、今回のように、明らかに自分が手を下してしまったことは初めて。私は自分の不注意を詫びながら、その子を丁寧に葬りましたよ。
自分は生き物を飼うの、向いていないんじゃないかと、その時からぼちぼち思い始めたんですね。
カブトムシを弔った翌日。私は朝のシャワーを浴びていました。その日は休みということもあって、お風呂に入るくらい長く時間をかけていました。
ひと晩寝て落ち着いたら、ますます罪悪感が湧いてきちゃいまして。目を閉じながら、ずっと考えごとをしていました。
おじいちゃんにいわれておきながら、どうして注意できなかったんだろう。霧吹きの数秒程度に、どうして気をつかってあげられなかったんだろう。一週間を思い出して、反省したい自分と、言い訳したい自分がせめぎ合っていました。
私はぐっと蛇口をひねります。壁に架けたままのシャワーヘッドからは、更に勢いを強めたお湯が飛び出し、私の体中を打ち付けてきました。
このまま、自分のしたことも一緒に洗い流されてしまえばいい……そう思っていた矢先、シャワーの水が止まりました。
故障? と目を開けて入ってきた光景に、目を疑います。
水は確かに止まっていました。私を取り巻く、半径数十センチ以内の空中で、ぴったりと。
認識するや、周囲の水のつぶてが一気に私にくっついてきました。いえ、ひどく押されて体中が痛む。水たちはプレス機のように、私を押しつぶさんとしてきたんです。
喉まわりも同じ。ぎりぎりと締め付けられて、我慢できません。思わず口を開いて、酸素を求めてしまいます。
その口の中へ、ひゅっと何かが飛び込みました。水ではないとろりとした甘い液体が、私の舌をべっとり濡らし、喉の奥へと落ち込んでいきます。はちみつをそのまま流し込んだかと思いました。
水の拘束が解けます。桶をひっくり返したかのように、水たちは一斉に浴室の床の上に飛び散り、形を失いました。ほどなく、止まっていたシャワーからは先ほどと変わらない、熱いお湯があふれ出したんです。
私は口の中へ飛び込んできたものの正体を、測りかねていました。最初は口の中に指を入れて、なんとか吐き出そうとしましたが上手く行かず。ならばと、水とかご飯をいっぱい食べて下から出そうとしましたが、これもダメ。
特に異常が見られないままだったので、親にもいわず何年も過ごしたんですが、ある年の健康診断で、肺に妙な影があることが指摘されます。右下の下部にくっきりと。それでいて、再検査で撮りなおした際には、すっかり消え去ってしまっている。一発撮りの時だけ、たまに映り込むんです。
特にしっかり影が映った際には、小さい昆虫のようだとお医者さんにいわれましたね。どきりとしましたよ。見れば見るほど、影がカブトムシのように思えてくるんですから。
いちおう気管支鏡、肺カメラでの検査もしたんですけど、特に異物の影もなく。最近では、レントゲンに変なものが映り込むこともなくなりました。
あのカブトムシ。ひょっとしたら自分の味わったことを、私にも味わってほしかったのかもしれませんね。同時に、もっと生きたかったから、私の中へ潜り込んできたんでしょう。




