黒狐・白狐
嘘。
今は昔、丹波の国のある村に、一人の男がおりました。
男は腕の良い指物師として知られておりました。小物を得意とし、その指物師としての技量もさることながら、洗練された造形と可憐な彫刻は特に評判が高く、時には遠く都からわざわざ仕事の依頼があるほどでした。またその腕を買われ長者の家の欄間へ鶯の彫刻を施したり、請われて御神楽の面を彫ることさえありました。そうしてそのどれもこれもが素晴らしい出来映えで、一つ作り上げるごとに男の名声を否が応でも高めるのでした。
男はまた、仕事に対して大変厳しいことでも有名でありました。その態度は職人というよりはむしろ芸術家のそれでした。同じ物は二つとして作らず、作品の依頼も自分の意にそぐわなければ誰の頼みであっても決して聞くことはありません。男の家の裏には小さな小屋がありそこが仕事場なのですが、一度そこへ向かうと一歩も外に出ず何日も篭もってしまうこともしばしばでした。一心不乱に木を削りノミを振るい、仕事が佳境をむかえると食事を取ることすら忘れてしまいます。そうして頬もげっそりとやつれた頃に、眼をぎらぎらと光らせながら半ば獣のような出で立ちで小屋から出てきます。そして、その手には男の姿から想像もできないような、可憐な一品が抱えてられているのでした。
しかし男の関心は仕事のみに限定されているようで、世俗のことにはからきし興味がない様子でした。非常に無口で村人とすれ違っても挨拶はおろか会釈すらもせず、村の集まりなどにも一切参加したことはありません。親しい友の一人もいないようで、仕事をしない日は縁側で道具の手入れをしながら一日を過ごします。時々ふらりと山へ出掛けて野花や野鳥を愛でる日もあるのですが、それも趣味というよりは仕事の延長であり、男の生活と精神は己の作品一つに集約されているのでした。
そんな男ですから、金銭に関しても全く頓着ないようで、値の交渉など一切することなく、ほとんど相手の言い値で売ってしまいます。何ヶ月もかかって創り上げた作品をタダ同然の値で手放すことさえあり、取引の際に見かねた長者が口添えすることさえあったのですが、男はうるさそうに逆にそんな長者を追い返す始末です。男の家も端から見れば人が住んでいることを疑うほどの荒ら屋で、柱は腐り庇は傾き屋根は苔生し散々たる有様なのですが、当の本人は一向に構わぬ様子です。
男にとっては魂を込めて作品を創り上げることが総てであり、その中に命が宿りさえすればそれでいいのでした。命の宿った作品は、見るものの魂を揺さぶります。男にとって重要なことはそれだけで、それが幾らの値になろうと誰の手に渡ろうと、砂一粒ほどの興味もないのでした。
さて、山の緑も濃淡あでやかに蝉時雨も止まぬとある夏、男の元を訪ねてきた女がおりました。なんでも遠縁の親戚ということで、流行の病で両親を亡くして頼る宛てもなく、縁を求めて遙々西の方からやって来たということです。村人達は男に訪ねてくるような親戚がいたということにも、また十八になったばかりという女がたった一人で長旅をしてきたことにも驚きましたが、何よりも驚いたのはその美貌でした。長旅のせいかうっすらと日に焼けた肌からでもその地色の美しさが滲み出ている上、襟元から時折見える肌はきめ細やかな白磁のようです。伏し目がちな瞳が水のような静けさをたたえているのとは逆に、長い睫毛は挑発的に風に揺られています。まだ幼さの残る顔の中で唇だけがやけに紅く色めいていて、その危うい均衡が女を妖しくも艶やかに見せるのでした。
女は男の家に落ち着き、村の男衆はにわかに浮き足立ちました。一体誰が、あの女の美しさを独り占めできるのか、次第に村は話題でそれで持ちきりになりました。しかしそんな男衆のざわめきを横目に、一ヶ月も経たぬうちに、いつの間にか女は男の嫁になってしまいました。
これには村人達も驚きました。しかしそれにも増して、不思議に思いました。男に関しては、女性に興味がなく仕事一辺倒だった男も、あの女の美貌にはノミを持つ手を落とさざるを得なかっただろうと、幾分納得もできました。それ程に女は魅力に溢れていました。しかし女の方はどうでしょう? 幾ら腕の良い職人とはいえ、傾きかけた家に住み仕事以外の事は何も知らず人間的にもさして魅力を感じない、親子ほどにも年が離れた男の元へ嫁ぐ理由がどこにありましょうか。女が望めばこの村に限らず、どこの村のどの男とでも結ばれることができたはずです。そもそもあれほどの美貌をもつ女ならば、例え両親が亡くなったとしてもわざわざ遠くの親戚を頼らずに、嫁の貰い手など幾らでも探し出せたはずです。それがなぜ、こんな村の、よりによってあの男の嫁になったのだろうかと、皆首を傾げるばかりでした。
しかし月日が流れるうちに、村人達も少しずつその理由が分かってきました。なぜなら男の元へ嫁いでからすぐに、女のお腹が膨れていき、半年後に子を産んだからです。女によく似た、珠のような女児でしたが、それが男の子種でないことは誰の目から見ても明らかでした。
そうして村人達は思いました。女の両親が亡くなったというのは嘘で、恐らく前の居所で誰かしらの子を身籠もり、そのせいで勘当でもされたのだろうと。そう思えば女が男の元へ嫁いだことも、何となく理解できるような気がしました。しかし男はもちろんのこと、女もそんな村人達の囁きなど全く気にはしていない様子で、男は仕事に、女は家事にそうして娘の世話にと、それぞれの日々を静かに過ごすのでした。
そうして、四年の年月が流れました。
夫婦の暮らしはこの四年で一変していました。とはいっても、男の仕事に対する態度は以前と変わりません。結婚後も相も変わらず仕事三昧の日々で、それ以外のことには全く興味も示さずそれは妻にも娘にも同じのようで、家族での遠出はおろか娘と戯れる姿すら見られません。しかしその代わりに腕にはさらなる磨きがかかっていました。
変わったのは男のその作品の売買に、女が関わり始めたことでした。元々交渉ごとを厭んでいた男にとってはそれは好都合だったのでしょう。依頼の是非は男が決めるものの、それ以外のことは全て女任せになり、当然値の交渉をするのも女になります。元々不当に安く買い叩かれていた男の作品はすぐに真っ当な値に戻り、それから高い値がつくようになりました。
男の名声は日増しに高まる一方でした。作る品作る品方々で絶賛され、都でも男の名を知らぬ指物師は潜りと言われるほどになりました。傾きかけていた家も建て直され、今では村で一番立派な家へと変わりました。そうして村人達はその前を通る度に、あでやかな着物を身に纏った女が、これもまた立派な着物を着た娘と遊ぶのを、羨ましげに眺めることが日常になりました。
ただ男の仕事場だけは、以前と全く変わらずそのままなのでした。
そのうちに、男の元へと弟子入りを志願する者も現れ始めました。男の名と共にその苦行にも似た仕事ぶりも広く伝わっているのですが、それでも尚その技術を習得したいと思うものが後を絶ちません。しかし、そうした弟子志願者に対する男の態度は、いつも変わらず冷たいものでした。男には自分の技術を後世に伝える気などさらさらなく、弟子など仕事の邪魔になるだけでそこに何の価値も見いだせないのです。ですから志願者が現れてもその名を聞くこともなく一言「断る」と言ったきり、一瞥をくれようともしません。それでもと長く粘る者も中にはいるのですが、まるでそんな人間など最初からいなかったかのように振る舞う男の態度に諦めて、いつの間にか村から姿を消すのでした。
そうして、山々の木々がうっそりと、その葉を大きく広げ始めた初夏、また一人の若者が村を訪れました。彼もまた、男に弟子入りするためにこの村を訪れたのです。元々はとある村で指物師としての修行をしていたのですが、たまたま目にした男の品の気品溢れる佇まいを見て、
「残念なことに今の師ではとてもこれほどの品を作ることはできぬ。おれも一流の職人を目指すのならば、その師も一流でなければならんのは当然のこと、なんとしてもこれを作った方に弟子入りし、その仕事の業を習わねばならん」
と決心して、元の師匠に暇を申し上げ遙々この村へやってきたのでした。
しかし、そんな若者であってもやはり男からは一言「断る」と言われただけでした。もう戻るところもありません、という言葉にも、冷たく背を向けるだけです。それならばと、家の入り口に座し何時間も待ってみましたが、状況も変わる気配もありません。その上通りかかった村人に「そうして一週間座った者もいたが、未だに誰一人として弟子入りを許されたものはおらぬ。時間の無駄じゃよ」とまで言われる始末です。流石の若者の心も折れかけ、これから先を思案し始めたその時、彼は家の玄関から現れた指物師の嫁に目を奪われました。
女はこの四年ですっかり元の肌色を取り戻しておりました。以前あった幼さは消え、手入れの行き届いた黒髪や身に纏った美しい着物も手伝って、よりいっそうその妖しい美しさに磨きをかけておりました。女は座した若者に軽く会釈をしただけで、ついと村の方へと消えたのですが、その一瞬で彼の心に深く深く刻みつけられてしましました。
若者はなんとしても、この村に留まらねばならぬと思いました。例え幾月かかろうとも、必ず弟子となりその業を盗まねばならぬと思いました。ここには世の中の美しさが総てある。世の美を体現しているのが師でありあの女なのだ。それを一つも学ばずに、どうして帰れようか。彼はそう堅く心に誓うと、村はずれの空き地に小屋を建てそこに住み始め、毎日男の元へと通い始めたのでした。
男は若者を仕事場で見ても、もう何も言いませんでした。それは決して彼を許した訳ではなく、ただその存在自体を無視することに決めたからです。そうして一言も言葉を交わすこともなく、いつものように鬼気迫る表情で作品に打ち込みます。彼は物陰から或いは壁の隙間から、じっと男の一挙手一投足を見つめ技を盗みます。その姿は師匠と弟子という関係からはかけ離れていました。確かに、仕事を教えぬ師匠もいるでしょう。しかし男は若者を忘れたのです。男にとって若者は、入り込んだ蚊や虻と変わらないのでした。それが物音もなく視界に入らずに部屋の隅でじっとしているのならば、いるのもいないのも全く違いはないのでした。
そんな男の態度にもくじけることなく、若者は毎日仕事場を訪れました。彼の中には男の仕事に対する憧れであり尊敬であり畏怖もありました。そしてその上に、女の美がありました。例え師を超すことはできずとも、せめて肩を並べられるほどのあでやかな作品を、この手で作り出してみたい。そうして、一度でも、この無言の師から、またその妻から、嘆息の一つでも聞き出したい。そんな想いが彼の足を仕事場へと向かわせるのでした。
それからまた、二年の年月が流れました。
若者と男の関係は、未だ弟子と師のそれにはなっていませんでした。相変わらず、男は彼の存在自体を無視し続けていました。しかし、最初のうちあったあからさまな不快のまなざしは、いつの間にか消えていました。それは男が彼を認めた、ということではなく、何も感じなくなった、ということなのかもしれませんが。
しかし、若者と女の関係は、少しずつ変わっていました。女は彼を正式な弟子として扱い、言葉を交わすことも多くなりました。また時には出入りの商人とを引き合わせ、その取引に同席させることもありました。女と共に過ごす時間が増えるにつれ、彼の心は益々その美貌の虜になりました。そうして若者は女のすぐ側で蠱惑的な香りを嗅ぎながら、益々思慕の念を募らせていくのでした。
その日も若者が仕事場で、一心不乱にノミを振るう師匠の背中越しにその所作を見つめていると、扉の向こうから師の名を呼ぶ者がありました。振り返ることもない師の代わりに彼が扉を開けると、そこには見たことのある商人がおりました。何でも頼んであった指物を取りに来たのだが、家に女がおらず仕方なくこちらに来たと言うこと、そう言えば女は先ほど娘を連れて川へ洗濯に出掛けたばかりです。聞けば値もすでに折り合い済みで、後はただ品と金の受け渡しがあるだけ、それならば私が代わりにと商人を家へ案内する最中、彼はあることを思いつきました。
依頼は四方盆で、その四隅に梅をあしらった彫刻をというものでした。師の作品はすでに十日ほど前に完成していて、見かけは簡素な盆ながら梅の配置が絶妙で、それはそれは見事な出来映えでした。そうして、若者も見よう見まねで同じような品を作り上げていました。もちろん、師のそれと比べれば見劣りはします。しかし今までの彼の作品の中では最高の出来だと自負がありました。その自作の盆を、師の作としてこの商人に見せたらどのような反応を示すだろうと、彼は考えました。
自分の作品を師に誉めてもらうことはおろか、見てもらうことすらできぬ若者です。一体今自分はどの程度の技量があるのか、師のそれとはどれほどの距離があるのか知りたくなるのは当然のことでした。もちろん、作品に対する確かな自信が彼にはありました。心の中で密かに、これを師の作と見間違えてくれはしないかという期待すら、彼の中にはあったのです。
そうして若者は商人を家に案内すると、ちょっと小用でと席を外し急いで自宅へ戻り、盆を抱え舞い戻り裏口から家へと入ると、何事もなかったかのように自分の盆を取り出しました。そうして、
「こちらがご依頼の品になります」
と商人に渡しました。
「ほう、これはこれは」
商人はそう言いながら、恭しくしげしげと盆を眺めます。弾む息を必死で堪えながら、若者はその顔色を窺います。その中に少しでも、驚嘆なり感嘆なりの兆しが見えぬかと気が気ではありません。
しかし商人はしばらく盆を見つめた後、そっとそれを床に置き、真剣な顔で若者を見つめ静かに訊ねました。
「・・・これは、間違いなく主人が作られたもので?」
「えぇ、左様でございますが・・・」
そうですか、と商人は低く呟くと、なにやら思案しているようです。しばらくの沈黙がありました。そうして堪りかねた若者が、肝心の出来について訊ねようと口を開いた瞬間に、商人は、
「・・・失礼ですが、この作品はいつものものとは比べものにならないほど仕上がりがお悪うございます。とてもではございませんが、こちらを持ち帰る訳には参りません。残念ですがこの度のこの依頼は、なかったということで」
と言うと軽く頭を下げ、呆然と盆を見つめる若者を尻目に家を後にしたのでした。
若者はひどく落胆しました。長い間盆を見つめたまま、身動き一つ取れませんでした。自分の中にあった確かな柱が、見るも無惨に砕かれたのです。その悔しさ情けなさに一瞬視界が揺らめきました。それをぐっと堪えて立ち上がると、奥の間から師の作品を取り出し、自分のそれと見比べ始めました。確かにこうして二つを並べてみると、自分の腕の未熟さがよく分かります。
そうして改めて師の仕事に対して尊敬を新たにしていると、その時女が娘の手を引き帰ってきました。
瞬間彼は自分の盆を胸にしまい、何事もなかったかのように座り直しました。女は彼の目の前に男の盆があることを見つけ、それをどうしたのかと問いかけます。彼は返答に困りました。総てを正直に話そうと思いましたが、口から出たのは違う言葉でした。
「先ほど商人がこれを取りに来ましたが、思うような出来ではなかったということです。今回の依頼はなかったことにしてくれと、そう言っておられました」
彼は自分の責任で取引がなくなったことを女に咎められること厭いました。そして何より、自分の盆が師のそれと比べ格段に質が落ちるということを女に知られる事を厭いました。女にそれを知られることを考えると、堪らない想いがしたのです。そうして女の返答を聞く前に、逃げるようにその場から立ち去ってしまいました。
その夜の夕食でのことです。珍しく男が口を開きました。
「昼間、客が来ていたようが、盆を渡したか?」
その問いに、女が答えます。
「いえ、あれは依頼がなくなりました」
「はて、なくなった、と?」
「はい、思ったような品ではなかったようで」
その瞬間、男の顔色がさっと変わりました。
「思ったような、品ではないと?」
「はい、そのように申したそうですが」
男の箸が震えました。
「・・・あれが、か」
「はい、そうでございます」
「・・・・・・あれが、か?」
男の声が震えていました。そこには怒りの揺らめきが感じられました。女にではありません。客にでもありません。男が命を込めて品を作れば、その命は確かに伝わるはずです。そう信じて男は今までノミを振るい続けてきました。そして確かに、男の作品は人々の魂に響き魅了してきたのです。だからこそ、それだけの仕事を為し得なかった自分に対して、自分の魂に対して、男は怒りを覚えるのです。
そんな男を訝しげに見つめながら、女は静かに答えました。
「はい、左様でございます」
その声に、男はすっといつもの顔色に戻りました。そうして何かを悟り知ったかのように、遠くを見つめながら、
「そうか・・・」
とだけ呟きました。そしてそれきり、またいつもの無口な男に戻ったのでした。
次の日、若者が男の家に行くと、めずらしく娘が一人縁側で遊んでおります。仕事場へ向かうため彼がその横を通り過ぎたとき、娘の手に何かが握られているものに気が付きました。それは何かの面のようでした。その面が陽光にきらりと輝いたのを見て、はっとして彼は娘の手からそれを奪い取りました。
それは紛れもなく、師の作品でした。ある神社の依頼で師が彫った狐の面に間違いはありません。ですが、これはまた完成していないものなのです。彫り終わった面に下地の白を塗ったのが一週間前のことで、仕上げの筆入れはまだ先のはず。その面がなぜ、今こうして娘の手にあるのでしょうか?
あれだけ仕事に厳しい師のことです。出来上がった作品が気に入らずその場で壊してしまうことは多々あれど、まだ仕上がっていない作品を娘に渡すはずなどありません。しかしこれは仕事場の棚の上に大切に保管していた物ですし、師がいない時は仕事場には常に鍵がかけられ誰も入ることはできないはずです。悪寒が彼の全身に駆け巡りました。そうして面を握りしめたまま、慌てて家の裏へと走りました。
果たして、仕事場の鍵は開いておりました。そうして彼がそっとその扉を引くと、真っ二つに割られた盆の上で、
師は首を吊って死んでおりました。
若者は悔いました。そして、恥じました。師はもういません。主を失った仕事場には堅く錠が施され、その中にノミの音が高く響くことももうありません。その責任は、彼にあります。彼の醜い虚栄心が、師の仕事を辱め、死に至らしめたのです。そう思うと、自分の罪深さに身震いしました。
師は死にました。その業を再び目にすることは、もう出来ません。そうして己を振り返ってみれば、未だ、自分は師の足下にも及ばない半人前です。もう一度、あのノミ捌きを見てみたい。一片の木材が削り磨かれ、巧みな細工で他の木々と繋がれていく様を見てみたい。そう望んでもそれが叶えられることはもうありません。それを永遠に失わせたのは、他ならぬ彼なのですから。
・・・しかし若者はまた、心の何処かでそれを良しとしている自分がいることを感じておりました。そして心の奥の仄暗い場所に眠る、ひんやりとしたその魂に触れるとき、男は違う罪深さに身震いするのです。
若者は女を想いました。師の妻としてではなく、今や未亡人と変わった女をです。そう考えると、今まで憧憬するだけの女の姿が、違った姿で目の前に現れてきます。突然降りかかった悲劇をも糧にしたかのように、女はよりいっそうその美しさを増したかのようでありました。幾分か身もやつれ曇りがちなその眉も引き締まったその唇も、その哀しみを深く刻みつけたようにか細いその立ち振る舞いも、よりいっそう妖しさを増して目に映ります。彼は心の底から、女を欲しました。その躯を折れんばかりに強く抱きしめてたいと願いました。そうして腕の中でたおやかにしなだれかかる女の姿態を想像するその時だけは、彼は自分の責を忘れ、むしろ師の死を喜びさえするのでした。
しかしそのような目で女を見つめるのは、彼ばかりではありませんでした。
喪が明けると女の元へは、様々な者が訪ねてくるようになりました。むろん、馴染みの客が様子伺いに来ることもありましたが、そのほとんどが女に婚礼を求めてのことでした。隣町の長者やら庄屋の息子やら、また遠くは都から妾にと所望するものまで現れます。中には贈り物を山と携えて訪れる者もおり、若者はそれを見る度に肝を冷やしました。
しかし女はその中の誰一人として求めに応ずることはありませんでした。例え相手がどのように身分の高い者でも、また見たことのないような珍しい贈り物を結納として目の前に出されても、凜とした眼差しで相手を見据えたまま「お断りいたします」というだけでした。そうして女が申し出を一つ断る度に、若者は心の底から安堵の息を吐くのでした。
若者は自分も女に想いを伝えたいと思いました。しかし、我が身を考えれば未だ半人前にも満たない職人で、自分の食べる分を稼ぐのがやっとの有様です。そのような身でどうして、女に婚礼を申し込むことが出来るでしょうか? 今彼に出来るのは己の生計を立てるため、一心に仕事に励むことだけでした。
若者はまた、女の身の処し方をも危惧しました。何しろ男の稼ぎがなくなったのです。畑があるわけでもなく他に仕事をするわけでもなく、これから娘と二人、一体どうやって食べていくつもりでしょう。しかし、女はその彼の問いかけに、今までに貯めていたお金もあり、またまだ売っていない作品が幾つかあるから全く心配はいらないと答えました。そうして真っ直ぐに彼の瞳を見つめると、
「私どものご心配などなさらず、あなた様は仕事にだけ打ち込んでください。そうしてどうぞ主人の技を受け継ぎ、立派な指物師になってくださいまし」
そう、言うのでした。
「・・・分かりました。私も身を粉にして腕を磨き、師に負けずとも劣らない職人になりましょう」
そうしてその証には、という言葉を、彼はぐっと飲み込むのでした。
そうして、三年の月日が流れました。
ここ三年というもの、彼は亡くなった師に負けぬほど、一心に仕事に打ち込んできました。瞳に焼き付けた業を思い出し、その残像に身を重ねるようにノミを振るい木を組みました。その姿は師のそれと同じように鬼気迫るものがありました。村人達もその態度に、まるで師の魂が乗り移ったかのようだと噂しました。しかし彼の中には純真な仕事に対する情熱の他に、違う気色の炎があったのですが。
とは言うもののこの三年の間で、彼の腕は格段に上がっておりました。そうして、徐々に彼の作品にも値がつき始め、師とは比べられぬもののなかなかに見込みのある若手として名も知られるようになっていました。
女はまだ独り身でした。それほど亡くなった夫に対する愛情が深かったのか、それとも何か他に理由があるのか、頑なに再婚を拒み続ける女に、最近では婚礼を求める者もめっきり少なくなりました。また女もほとんど外出もせず家に篭もりがちでした。
しかしよほどお金を貯めてあったのか、果ては売れる品が数多くあったのか、女の生活は彼の目から見ても以前と変わらず、いやそれ以上に豊かに見えました。その証拠に開け放った窓から覗けば、美しい着物を纏いまるで人形のような娘の髪を、静かに梳かす女の姿を見ることが出来ました。それは歌人が見れば一句でも読みたくなるような、美しくも幻想的な親子の姿でした。
けれども男の仕事場はあの日以来、ぴったりと扉が閉められたままでした。そしてそのの遺作でもあるあの狐の面も、何処へ消えたのかあれ以来一度も見たことはありませんでした。
それは、その年の収穫祭の前夜のことです。
年に一度の祭の前ともあって、村は抑えきれぬ喜びに沸き立っておりました。この年は晴天が続き近年稀に見る豊作であればなおさらのことでした。祭は神事であり村の一大行事です。彼もまた村人の一員として、その準備に参加しておりました。
日も暮れ始め祭の準備も終わると、村人は境内に焚かれた薪を囲み車座になりながら、酒宴を始めました。毎年恒例の男衆だけの前夜祭です。赤々と登る炎に頬を焼きながら、男達は互いにこの一年を無事に過ごせたことを喜び合います。宴のしきたりではこの日は個々の慶事を讃え合う約束なのですが、それが守られるのは最初だけで、段々と杯を重ねるうちに場が濁ってきます。
都でのお世継ぎ問題に始まり、隣町の長者のごたごた、先頃その被害が急増している山賊が、実はあやかしの仕業ではないかという噂、そうしていつの間にか、話は指物師の妻にまで及んでいました。
村人達も、一向に再婚しようとしない女とその暮らしぶりに対して、幾分かの疑問を抱いているようでした。そのうち誰かが、女はすでに誰かしら相当身分の高い男の妾であり、それだから何もせずにあれだけの暮らしができるのだと言い始めました。そうして深夜に森の中へ急ぎ足で消えていく女の姿を見たことがあるが、あれはきっと男との逢瀬のために出掛けてるところだったのだと。
その声を受けて、確かにそのような女の姿を見たことがあると言い出す者が幾人か現れました。最初に妾なのだと言い出した村人が、勝ち誇ったように頷きます。しかし、そのような男がいるのならばこんな田舎にとっとと見切りをつければよいものを、なぜに女はここに留まるのかと、声高に叫ぶ村人もおります。その声に、お前は女に惚れているからこの話を信じたくないのだと囃し立てる声に、その村人は、いやおれが思うに女にはこれと決めた男がいて、そいつから申し込みがあることを待っているのだ、だから女はこの村から出ようとはしないのだと答えます。だったらその想い人とやらはお前じゃあるまい、お前はこないだ女に振られたばかりじゃないかと誰かが叫び、村人達は大いに笑いました。
しかし、この話を聞いていた彼だけは違いました。女に想う人がいる。それこそ自分ではないだろうかと彼は思いました。確かに彼はまだ一度も、その胸の内を女に伝えたことはありませんでした。そうして女に関わりのある人々を思い出してみたとき、その条件に見合う男性は自分しか見つかりませんでした。
彼はすでに酔っていましたし、また祭前夜独特の、あの身が疼くような心地よい興奮が身を包んでおりました。その頭で考えれば考えるほど、女が待っているのは自分自身であるかのように思えてきます。そうして掴んでいた杯を一気に傾けると、彼はすっと立ち上がり境内を後にしたのです。
女はまだ起きておりました。眠ったばかりの娘の側に座り、その短い睫毛を愛しそうにじっと見つめておりました。仄かな明かりに揺られる女の美しさに、彼は一瞬息を飲みました。しかし、ぐっと弾みをつけると、女の許しも得ずに部屋に上がり込み、どっかと目の前に座ると開口一番、
「おれの嫁になって欲しい」
と言いました。
女は一瞬、何が起こったのか分からぬようでした。その目を大きく見開いたまま、ぼんやりと彼を見つめています。しばらくの沈黙の後、女はようやく事を飲み込んだのか、口元を隠すようにして笑った後、
「今夜は前夜祭、沢山お酒をお召しになられたのしょうね。冗談としても、軽々しくそのようなことを言われるべきではありません」
と答えました。
「いや、おれは本気だ。本気で・・・」とそう言いながら、彼はしまった、と思っていました。訝しげに自分を眺める女の顔には、待ちわびた申し込みを喜ぶような気配は一筋も感じられません。彼の躯から、さっと酒が抜けていくのが分かりました。しかし、一度口に出した以上、今更撤回するわけにもいきません。長年思い続けたこの気持ちを、どうにかして伝えなければと言葉を紡ぎます。
「おれは一目見たときから、あなたに夢中だったのだ。あなたと結ばれるために、ここまで腕を磨いてきたのだ。だからお願いだ。おれと夫婦になっておくれ」
女は相変わらず口元を抑えたまま、彼をじっと見つめています。
「信じられないかもしれないが、おれは五年前初めてあなたを見たときから、あなたのその美貌の虜になってしまったのだ。だからこそ師の辛い仕打ちにも耐えられたし、ここまでやってこれたのだ。そんな顔で見ないでおくれ。おれは真剣なのだ。確かに酒に酔ってはいる。だからといってこの想いが真剣でないというわけではないのだ。おれは心底あなたに惚れているのだ。惚れて惚れて惚れ抜いているからこそ、酒の勢いでも借りなければ想いを伝えることができないのだよ。頼む、おれと夫婦になっておくれ。それとも、村の者が噂をしているように、誰かいい人がいるのかい? もしそうならばおれも潔くこの身を引くが、どうだ、そんな人がいるのかい?」
男のその問いかけに、女は急に真面目な顔をして、
「村にどのような噂があるのかは分かりませんが、わたくしは今は誰のものでもございません」
と答えました。
「それならば、おれの元へ来てはくれまいか。確かにおれは師より腕は劣るかもしれない。しかし、そなた達二人の暮らしを守っていくことぐらいできるはずだ。この三年の間身を粉にするように一心に腕を磨き、今ではこの腕を高く買ってくれる人もいるのだ。それに女二人の身では、なにかと不安も大きかろう。近頃はこの近辺でも山賊が現れるようになり、都への荷を襲ったりと治安が悪くなっているそうだ。女一人娘一人の暮らしでは、万一何かあった時頼りなかろう」
山賊、という言葉に、女の顔色がさっと変わりました。その一瞬の変化を、彼は見逃しませんでした。
「そう、山賊、山賊が出るのだ。なんでもその山賊は身ぐるみを剥ぐだけでなく出会った者全員を皆殺しにしてしまう、大層恐ろしいやつだそうだ。村の者はあやかしではないかとも噂していたが、万一そんなものがこの村まで来たとして、真っ先に狙われるのは村で一番大きなこの家ではないだろうか。そんな折、その細腕で娘を守ることは無理ではないか? 強い男の手が必要なのではないか?」
その言葉に、女は震える声で、
「本当に、そのような恐ろしい者が、この近辺にいるのですか?」
そう訊ねました。ここぞとばかりに、彼はまくし立てます。
「そうとも、なんでも恐ろしい奴がいるものだ。あまりにも被害が出ているので、都の方でも討伐対を出すという話だか、何しろこの広い山の中だ、どこに隠れているのかしれたものでもないし、追い立てられて村へ下りてくるとも限らない。そんな時どうするのだ。恐ろしい山賊に捕まれば、お前も、そして娘もどうなることだか分からぬ」
女の眉間が、不安げに皺を寄せました。そうして、つと手を伸ばすと、男の指に触れました。
「そのような恐ろしげなるものどもから、わたくし共をお守り下さるでしょうか?」
彼は大きく頷きます。
「守るとも、守るとも」
「この娘を守っていただけるのしょうか?」
「もちろん、守るとも守るとも」
「娘を我が子として、本当の我が子として大切にしていただけますか?」
「もちろん。血の繋がった子として、大切に育てるとも」
彼の言葉に、女はその瞳を潤ませて言いました。
「この家の蓄えもつきかけ、わたくしも不安でございました。けれども婚礼の申し込みに来られる方々は、みなお金はあるようですがすでに奥方やお子がおられる方がほとんどで、連れ子のこの娘が辛い思いをするのではないかと考えると、お受けする訳には参りませんでした。わたくしには、この娘しかございません。この子はわたくしの宝であり、命でございます。この命を育てるために、この命を守るためだけに、わたくしは今、生きているのです」
女の顔は真剣でした。その瞳には必死の決意が宿っていました。そこには親子の絆だけでは説明できぬ、強い力が感じられました。
そうして女は言いました。
「もしも恐ろしげなるもの共が現れたら、わたくしではなく娘を助けるとお約束ください。そうしてまた、この娘を我が子として大切に大切に育てることをお約束ください」
もちろん、約束する。天地天明に誓って、娘を大切にしようと、彼は答えました。本当のところ、彼にとって娘などいないも同然で、ただただ女と結ばれればそれでいいのでした。ただそう答えることで女が納得するのならば、喜ぶのならと思っただけのことでした。
しかし、女は彼の胸の内を知って知らずか、その誓いに姿勢を新たにし手をつき頭を下げると、こう言いました。
「分かりました。あなた様のお言葉を信じましょう。お申し込み、お受けいたします」
その言葉に、彼は思わず女の肩を抱きしめました。そうしてひしと胸に顔を埋める女を眺めながら、待ち焦がれた日が遂に来たことを、夢にまで見た女の躯を抱くことへの、この上ない喜びに身を震えさせるのでした
そうして、彼と女は夫婦になりました。
女と暮らし始めてすぐに、彼はあることに気が付きました。それは娘に対する女の、異常な程の愛情の深さでした。
女は娘に対して異常とも思える世話の焼きようでした。朝、娘が起きれば真っ先にその元へ飛んでいき、長く櫛をあて髪を梳き見るもあでやかに着飾らせます。それから食事なのですが、娘の寝室からそ居間までの僅か数歩でも、女が手を引き転ばぬよう細心の払います。そうして飯も女が一口ずつ箸で摘み食べさせてあげるのです。
また女は娘が外出するのを嫌いました。庭に出るのも石に躓いては危ないと、決して許すことはありませんでした。考えてみればここ数年、外で娘の姿を見なかったのは、そんな女の言いつけがあったのでしょう。遊びたい盛りの娘にそれでは可哀想かろうと彼が言っても、何事かあればどうするのですかと頑としてきこうとはしません。そうして娘は一日中、部屋の中で静かに過ごすのでした。
その娘もまた、非常に変わった子に成長しておりました。物を言うことを知らないのかと思うほど、言葉を発することがありません。とは言っても物が聞こえないというわけではなく、試しに大声を出すとこちらを向いたりもするのですが、その動作は非常に緩慢です。そうして、家事のため女が側を離れると、糸が切れたように動くのを止め一点を見つめたまま呆けてしまうのでした。
女はまた、彼の子を身籠もることを許しませんでした。いつまでも娘が一人では寂しかろう、そろそろ姉弟の一人でもとことあるごとに言うのですが、わたくしにはこの娘だけで十分でございますと、頑なに拒みます。彼としてはいくら師の娘とはいえ血の繋がらない娘よりも、自分の子が欲しいという想いもあるのですが、しかしこれ以上子が増えたらどうなるのだろうと考えると不安にもなりました。娘が起きている間、女の関心が彼に向くことはほとんどありません。これで子が二人になったらと考えると、二の句が告げなくなるのでした。
しかも女は師の仕事場に入ることを禁じました。なぜかと彼が訪ねると、主人が死んだ場所を使うのは縁起が悪かろうと言うのです。それならばせめて道具だけでも眺めたいと言っても見るのですが、女は扉を開けることさえ厭う始末です。彼はそれならば、いっそのこと小屋ごと潰すなり総て灰にするなりして、新しい仕事場を作れば良かろうと提案するのですが、思い出の詰まった場所のこと、失ってしまうのは忍びないと答えます。仕方なく彼は自分の昔のすみかを仕事場とし、日中はそこへ通うようになりました。
しかし、それでも彼は幸せでした。いや、世にこれほどの幸せ者もおるまいと、彼は何度もそう思いました。仕事の依頼も増え、暮らしの心配をする必要もなくなりました。師の影響もあってか、彼の名も広く知られるようになりました。そして何よりも代え難いのは、仕事を終えて家に帰れば、天女と見まごうばかりの美しい女が彼の帰りを待っているのです。この上何を望む事があるだろうかと、彼は何度もそう思いました。夜、彼は女に酌をしてもらい酒を飲みます。その頃には娘も寝ていて、女もその関心を男に向けるからです。そうして気持ちよく酔って女の肩を抱いては、身の幸福を噛み締めるのでした。
そうして、頭の中ではもうすっかり師匠への罪の意識など忘れておりました。
そして季節は巡り、桜咲き誇る春になりました。
彼はその日もいつものように仕事をしておりました。取りかかっているのは雌の鶯の彫刻でした。それは以前師に木彫りの鶯を頼んだものからの依頼であり、なんでも師と弟子の作を二つ並べてつがいにしたいということでした。元の鶯は彼が師の仕事場に通うようになってすぐ引き受けた仕事で、確かに立派な物だったと記憶がありました。そうしてこの数年磨きをかけてきた自分の腕を試す意味でも良い仕事だと思い、彼は依頼を引き受けたのでした。
しかし、いざ彫り始めて見るとその鶯がなかなかに上手く彫れません。どうも彼の使っている道具の具合が悪いようでした。よくよく思い返してみれば、師は鶯の彫刻の際にはその繊細な羽毛を表現するために、何か特別な道具を使っていたように思います。しかしそれがどんな形をしていたかまでは、いくら考えても思い出せません。しかし道具ならばまだ元の仕事場に残っているはずです。事情を話して女に開けて貰おうと、彼は家へと向かいました。
丁度、女は水を汲みにでも行っているのか、家にはおりませんでした。居間にちょこんと、まるで人形のように娘が一人で座っているだけです。この子なら告げ口などするまいと、彼は鍵を求めてあちこち探し始めました。そうして戸棚の奥に隠してあった鍵を見つけると、久しぶりにその扉を開けたのです。
その瞬間、彼は思わず声を上げました。
そこは確かに仕事場でした。使い古された棚も、作業用の机も、壁に並べられた道具類もあの日のまま何も変わらずそこにあります。しかし当時と一つだけ違うのは、見慣れた仕事場の中央に、折り畳まれた着物や反物が山のように積まれてあるのです。中には明らかに場違いな、香道の用具まで積まれてあります。その総てがどれもこれも高級な品ばかりで、どう考えてみても女の身に余るものでした。どれだけ師の作品が高かろうと、これだけの品を集めることは不可能です。一体どうしてこんなものが、ここにあるのだろうと彼は思いました。
そうして、はたと気が付きました。
女にはあの当時、やはり男がいたのだと。身を明かせない誰かの妾であり、これはその男からの贈り物なのだろう。これだけの品を贈れるのだから、それはそれは身分の高い方なのだろうと彼は思いました。そう考えれば師の死んでから三年もの間、何不自由なく暮らしていけたことも納得できます。
そして何かしらの理由で男が女を手放して、今後の不安を感じ始めたからこそおれの申し込みを受けたのだと、彼はそう思いました。女がこの場所を開けることを頑なに拒んだのも、妾の身を恥じた上なのだと思えば、よりいっそういじらしくも感じました。
彼は静かに扉を閉めると、鍵をかけ直しました。今日のことはなかったことにしようと、彼は思いました。いつか、女も話してくれるだろう。何しろ今ではおれの妻なのだ。過ぎたことをとやかく言っても仕方がない。昔の男には過去しかないが、おれと女には未来があるのだ。そう考えると微かにあった嫉妬の炎も消え失せました。そうしてその鍵も元の隠し場所に戻すと、何事もなかったかのように、仕事へと戻ったのでした。
・・・けれどもそれから数日が経ったある日のことでした。彼がいつものように仕事から戻ると、ふと娘の着物が替わっていることに気が付きました。それはいつもより更に輪をかけて美しい着物でした。そしてそれは彼が一度も見たことがない、あの仕事場でも見かけなかった柄をしていました。どうしたものかと訝しみ、女に着物のことを訊ねてみても、昔からあったものと言うだけです。その日は見落としか勘違いだろうと、彼もそう思いました。
しかし次の日もまた、娘は見たことのない着物を着ております。その上その髪に飾られた簪も、明らかに彼の稼ぎでは到底手の届かない高価な品物でした。そうしてそれも、あの日見た仕事場にはなかったものなのでした。
しかし女に訊ねてみても、昨日と同じように「昔からあった」と答えるだけです。そんなはずはあるまいと、しつこく問いただす彼を、女はあからさまに疎ましく思っているようです。
しかし彼も思い返しました。もしかするとまだ師の作が残っていて、こっそりとそれを売っているのではないだろうかと。そこで彼は会う客会う客手当たり次第に、近々女がその作品を売ったことがあるかと訊ねました。しかし、一様に答えは同じでした。何処の誰に聞いても、最近はおろか一度たりとも、あの日以来女から師の品を買ったものはいなかったのです。
彼は悩みました。そして女の目を盗み、もう一度師の仕事場へ潜り込みました。けれども想像に反して、小屋の着物は減ってはおらず、むしろこの前見たときよりも多くなっていました。そこで、彼は思いました。
きっと女は、以前の男と逢っているに違いないと。
そう思って考えてみれば、おかしなことがあります。夜中に女の姿が見えなくなる時が、月に何度かあるのです。今までは厠かと思いさほど気にとめてはいませんでしたが、それこそ女が忍んで男の元へ通っている証拠ではないだろうか。いや、もしかしたら、二人の関係はずっと続いていたのではないだろうかと、彼は思いました。そう考えればそれをはっきりと否定できるものは何一つないのです。そうして静かに酌をする女の顔をめがけて、「おれは何でも知っているのだ」と叫びたくなりました。しかし、女に否定されればどうしようもありません。あの仕事場の着物も、買った物だと言われればそれまでです。
おれという者がおりながら、昔の男に逢いに行くなんて。彼の中に燃え上がるものがありました。
そうして、仕事も手に着かない日々が何日も続きました。何日も何日も、彼は思い悩みました。日を追うごとに女への疑念は膨らみ、見知らぬ男への怒りは高まりました。その最中でも娘の着物は増えていきます。
そうして、彼はとうとう決意しました。
ある夜、微かな物音を聞いて、彼は目を凝らしました。どうやら女が起き出して、何処かへ出掛ける様子です。やはり、と彼は思いました。やはり、誰かに逢いに行くのだな。彼はこの日のために、昼間は仕事の振りをして眠っていたのです。そうして一晩中息を潜めて、女が動くのを待っていたのです。
物音は続きます。微かに裏口が開く音が響き、それから遠くで扉の開く音がしました。女はどうやら仕事場に入ったようです。彼はゆっくりと起き上がり、窓の隙間から様子を窺いました。そのうちに、着物を着替えた女が静かに現れました。
彼の胸は怒りに燃えました。男の残り香を消すために、わざわざ着物まで着替える女の姿に震えが来ました。そして今この瞬間にも飛び出して女を怒鳴りつけたくなっている、自分の躯を必死で止めました。ここで出て行っては何もなりません。逢い引きのその瞬間を掴まねばならないのです。そうして小さな灯りを頼りに女が森へと消えるのを、じっと見つめたその後で、彼も裏口を出ました。
どうやら女は裏山の獣道を、街道に向けて下っているようです。しっとりとした闇の奥で、その小さな灯りが揺れているのが分かります。それを目印に静かに後を追いながら、彼はこれからのことを想像しました。
何処かしらで、女は男と落ち合うはずです。それから、逢えなかった日々を語り、その辛さを語り合います。女の瞳には涙すら浮かぶかもしれません。
彼の中に、めらめらと炎が舞い上がります。
それから二人はどうするでしょうか? 男が用意しておいた輿に乗り、何処かへ向かうかもしれません。或いは手っ取り早く街道沿いの、小さな小屋にでも行くのかもしれません。おれはその後をこっそりついて行ってやろうと彼は思いました。そうして二人がその中へ入ったあと、一気に中に踏み込んでやるのだ。二人はどんな顔をして俺を見るだろう。女はどんな顔をするのだろう。おれに違うと弁解するのだろうか。それとも娘のためだと嘯くだろうか。或いはまた、男にしがみつきながらこちらを指さして、追い払ってくれと頼むだろうか。
それを見たら一体どうするだろう? 女を怒鳴りつけるのだろうか? 男を殴りつけるのだろうか? 女が組み付き許しを請うたらどうするだろうか? 女を許すのだろうか? それとも跳ねのけるのだろうか? 一体おれはどうするつもりなのだろう? 一体おれはどうするつもりで、今ここにいるのだろう?
彼の懐で、用意した小刀が燦爛とします。
おれは、おれは、おれは、おれは・・・
そう繰り返しながら、彼は坂を下るのでした。
・・・・・・気がついたとき、彼は一心不乱に山を登る自分を見つけました。
鼓動が早鐘のように鳴り続けています。喉は渇ききり意識も朦朧としています。尖った木の枝が着物を裂き血が滲みます。けれども彼の足が止まることはありません。
嘘であってくれ、幻であってくれ、彼は何度もそう願います。いつの間にか、そう叫びながら駆けていることにも気がつかずに祈り続けます。けれどもあの光景は、頭の中から消えてはくれようとはしません。なぜならこれは現実だからです。彼の目の前で行われた、紛れもなく現実の出来事だからです。
絡みつく闇を振り解くように、彼は走り続けました。それは永遠かと思える時間でした。しかし唐突に視界が開けると、彼は裏まで辿り着いていました。そうして今にも倒れそうな躯を引きずるように家へと入ると、水瓶に頭を入れ、張り付いた喉を癒しました。冷たい水が、疲れ切った躯と頭に染みるように入り込みます。夢ならば、覚めてくれ。無駄だと分かり切っているのに、彼はそう思いました。そうして壺から顔を上げ、居間の方を振り返った、そこに、
それがいました。
それは真っ黒な狐でした。
けれども躯は人の姿をしているのです。女物の着物を纏い長い黒髪垂らした、一匹の狐がじっとこちらを見つめているのです。返り血で真っ赤に染まった着物を纏い、両手に鮮血も生々しいノミを握りしめた狐が、ぎっとこちらを睨んでいるのです。
思わず、彼は後ずさりました。それに合わせるかのように、狐もゆっくりと躙り寄ってきます。そうして、
「見たのですね・・・、見たのですね・・・、見たのですね・・・」
それは女の声でした。酷く掠れていましたが、確かに彼の女の声でした。その声に、彼の動きが止まりました。
「見たのですね・・・」
けれどもその顔は、黒い狐なのです。女が狐なのでした。それはもう、彼には分かっていました。分かっていたからこそ信じたくはなかったのです。
彼は見たのです。
彼は知ったのです。
女が男に逢いに行った訳ではなかったということを。
女は逢い引きなどしてはいなかったということを。
そして、女がどのようにして、娘のあの着物を手に入れたかということを。
あの仕事場の着物や反物は、贈り物などではなかったのです。あれは、奪ったものなのです。街道を行く商人や旅人から、奪い取ったものなのです。彼は見たのでした。街道で蹲った女に、二人組の旅人が近づいたのを。彼は見たのでした。旅人の手が女の肩に触れた瞬間、その喉に隠してあったノミが突き刺さる光景を。彼は見たのでした。真っ黒な狐の顔に変わった女が、驚くもう一人の旅人に襲いかかる姿を。
そうして何かを彫るかのように、息絶えた躯にノミを振るい続ける狐の姿を。
「・・・・・・見たのですね」
静かに、狐はそう言いました。その姿さえ見なければ、その顔さえ見なければ、いつもの女そのものでした。毎晩晩酌を共にする、女そのものでした。甲斐甲斐しく娘の世話をする、女そのものでした。時に彼の腕の中で安らかな寝息をたてて眠る、女そのものでした。
それが彼にはよりいっそう恐ろしく感じました。すぐにでもここから立ち去りたいと思いました。何かを叫びながら闇雲に駆け出し、二度とこの家にこの村に戻っては来たくないと、心の底からそう思いました。けれども、彼の足は全く動きません。指先一つ、動かせません。視線を逸らすことすら出来ません。彼は女を見つめていました。女に、魅入られていました。初めて女に出会ったときのように魅入られていました。初めて女に出会ったときから、ずっと魅入られてました。そうして女に、狐に魅入られたまま、彼は女が自分の側まで来るのを見つめ、その手にしたノミがゆっくりと鮮血を滴らせながらゆっくりと振り上がるのを見つめ・・・・・・
その時、奥の扉ががらりと開きました。
はっと、狐が振り返ります。そうして、その両手からノミが床に落ちました。
狐の視線の先には、娘がいました。女の娘が、その目を大きく見開いて、こちらを眺めております。その娘を抱きしめるように、狐が両手を伸ばします。
しかし、娘はその腕を避けて、部屋の隅へと逃げてしまいます。狐はまたふらふらと、娘に近づいていきます。そうしてあと少しというところで、またも娘はひらりと身を逸らします。
なぜ、と狐が低く呟きました。けれども娘は逃げることを止めません。どうして、と狐が問いかけました。けれども娘は止まりません。おいで、と狐が娘を呼びました。いつもの声で呼びました。けれども娘はそれには答えず、立ちつくす彼の元へと走りました。思わず彼も、娘を抱き留めます。
その瞬間でした。
「どうして!!!!」
女が、狐が吠えました。
どうしてどうしてどうしてどうして、狐は叫び箪笥を倒します。
どうしてどうしてどうしてどうして、肘掛が囲炉裏に飛び込みます
どうしてどうしてどうしてお前は、火の粉がざっと空へ舞います。
どうしてどうしてお前は、お前は、その火の粉を浴びながら、狐は暴れ狂います。
どうしてお前は、お前が、お前が、狐の右手にはいつの間にか、ノミが握られています。
お前は、お前が、お前が、お前がっ、
「お前のために、わたしはわたしを捨てたのに、そのお前がどうしてわたしを拒むのだ!お前のために、わたしはすべてを捨てたのに、そのお前がどうして! お前のために、わたしは、わたしはっ! お前がいたから、お前がいたからこそ今まで! お前のために、お前のせいで! お前のために、お前のせいで、お前のおかげでっ! お前のっ、お前がっ! お前がっ!!!!」
そして、狐は娘に跳びかかりました。
・・・・・・彼には一瞬、何が起こったか分かりませんでした。目の前には、女がいます。その傍らに、娘がいます。
女は、床に寝ています。
娘は、それをじっと眺めています。
女の胸からは、溢れるように血が流れています。
娘は、それをじっと眺めています。
彼の手には、血の付いた小刀が握られていました。
そうして、女の傍らにはあの日の狐の面がありました。師の作った、あの狐の面がありました。けれども、その面はあの日の白ではなく、真っ黒でした。固まった返り血で、真っ黒なのでした。
彼は知りました。総てを知りました。
しかし、知ったからといってそれが何になるでしょう。もう、総ては終わったのです。
総てが終わってしまったということを知ったからといって、彼に何が残っているでしょうか。
「おう、おうおうおうおうおうおうおう、おれは、おれは、おれは、おれは、おれはおれはおれは」
泣きながら叫び続ける彼を横目に、娘は狐の面を手に取りました。そうして、微かに彼にお辞儀をすると、それから山へと消えてしまいました。
後には女の死骸と、抜け殻の彼だけが残りました。
それから幾日かの間、村人達は山へ入り娘を探しました。けれども何処へ消えたのか、娘を見つけることは出来ませんでした。そのうちに村人達も、もう生きてはいないだろうと諦めて、それから暫く経つとそんな娘がいたことも忘れてしまいました。
それから数年後、一人の村人が、娘の姿を見たと言いました。
娘は山の清水で、真っ黒な面を洗っていたと言うのです。
しかし数年前の娘が今でも生きているはずもなく、皆は狐にでも騙されたのだと笑いました。そしてそれっきり、娘の話をするものも、いなくなりました。
京の山奥に伝わるお話です。その周辺では今でも、清水で面を洗う娘の姿が見られると言います。
その面は、いまでは白く輝いているそうです。