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終末ワインシリーズ

【終末ワイン】 ロクマルセルフィッシュ (34,000字)

作者: まさかす

需要もないけど、シリーズ5作目の短編です。

 寿命。人の命の長さ。それを人は知る事が無い。知る事が出来ない。知らないからこそ、明日を未来を信じ、生きていく。自分が明日、死ぬという事がわかっていたら? 死ぬ事が決まっていたとしたら、人はどういう行動を取るだろうか。


 1月31日 厚生労働省終末管理局

 月末の今日、1カ月毎に実行される『終末通知』の葉書を作成するプログラムが起動した。今月は、9001通の通知葉書が作成された。作成された終末通知葉書は、管理局職員により機械的に郵送の手続きが粛々と行われた。


 ◇


 60歳を超える名賀見達也ながみたつやは警備のアルバイトを生業としていた。とはいえ、それは50歳以降の話であり、それまでは1人親方の大工として生計を立てていた。


 名賀見が大工だった当時、作業中の事故により左足が若干不自由となった。自身の不注意によるそれは何らの保証金がある訳でもなく、治療費も自分がすべて引き受けざるを得ず、足が不自由な事もありそのまま大工を辞めた。


 大工を辞めてから暫くの間、名賀見は一日中家に引きこもるようになった。夜遅くまで起きている訳では無いものの、起きるのは昼近くの時間になってからだった。そしてようやく起きたかと思うと、1日中たばこを吸いながらテレビをボーっと眺め続け、夜11時には寝るという生活を送っていた。


 その当時は結婚もしていて1人娘もいたが、足が不自由とは言えいつまで経っても仕事も探さず、ご飯を食べてはタバコを吸いながらテレビを見て、夜になったら寝るというだけの名賀見に対して妻は叱責した。これからどうするのだと、貯金を取り崩しながら生活している今は続かないと、子供の事はどう考えているのだと、働く気はあるのかと、名賀見の亭主関白然としたその家に於いて、普段は何も言わない妻はキツイ口調で叱責した。


 そんな妻に対し、名賀見は瞬時に激昂し暴力を振るってしまった。


 名賀見は身長は高くないものの見るからに恰幅の良い体躯をしていた。腹も出てはいたが、長年大工をしていた事もありかなりの筋肉がついていた。そんな体から振るわれた平手は名賀見の想像以上の衝撃と傷を妻に与えてしまい、救急車を呼ぶ事態となった。それと同時に警察沙汰となった。


 妻の被害感情は強く目に見える傷跡も残った事から一旦は傷害事件として扱われた。だが夫婦間で起こった事でもあり、その後すぐに妻が申し立てた離婚にも名賀見が素直に応じるという姿勢を示し、計画的でもなく悪意も無かったと判断された事から過失傷害として扱われ、十万円程の罰金刑を受ける程度で済んだ。


 妻は1週間程度入院し、退院すると直ぐに離婚届を出すと共に娘を連れて家を出て行った。以降、妻はおろか娘とも全く会えずに10年近くが経過していた。


 離婚後、名賀見は市営の小さいアパートで1人暮らしを始めた。離婚後に初めて経験した1人暮らしではその大変さに四苦八苦した。風呂やトイレの掃除も初めての経験だった。自炊も初めてであり、食器を自分で洗うなど考えた事も無かった。そんな中で生活していかなければならない。掃除道具を含む生活用品や消耗品を買わなければならない。ゴミを捨てるにもゴミ袋を買わなければならない。勿論、食費や光熱費も得なければならない、お金を得なければならない。その為には仕事をしなければならない。


 高校を中退してから今まで大工一筋だった名賀見には、足が多少不自由な事に加えて50歳を超えているという事もあり、今更出来る仕事は限られ選ぶことなど出来なかった。それでも自治体の指導や支援もあり、アルバイトという待遇ではあったものの、道路工事等の警備に雇ってもらう事が出来た。賃金は決して高くはないが市営アパートに住んでいる事もあり、節約を心掛ければ名賀見1人が何とか暮らしていく事は出来ていた。とはいえそれに満足している訳では無い。


「まったく、何で俺がこんな思いしねえといけねぇんだよ。もっと楽に稼げる商売でもねえもんかねー。ああ、めんどくせー」


 名賀見は毎日の様にそんな事を口にしながら、日々を過ごしていた。


 ある日の夕刻。名賀見は夜間道路工事の現場へ向かうためにアパートを後に最寄駅へと向かって歩いていた。名賀見の左足は不自由とはいえ、その歩く姿をジッと観察してようやく違和感を感じる程度の物であった。既に怪我をしてから10年近くが経過し、名賀見も特に足を気にして歩く事も無かった。


 そして駅も近付き始めたその道すがら、名賀見は1軒のタバコ屋の前で足を止めた。名賀見は毎日のようにそのタバコ屋に立ち寄ってはいつものタバコを買っていた。名賀見の収入からすれば毎日のタバコ代は決して安い物では無かったが、止められないし、そもそも止める気が無かった。市営アパートに独りで暮らし、主に夜間の警備を生業とし、仕事が終わって家に帰れば350mlの発泡酒、それとタバコ。何を持っている訳でも無く何を目的としている訳でも無い今の名賀見にとって、タバコと酒は唯一の娯楽とも言え必需品とも言えた。


 名賀見の住むアパートの近くにもタバコの自動販売機があったが、そこで買うには認証カードが必要であった。名賀見はそれを持っておらず、それを手にする為の申請すら面倒だと言う事でいつも店頭で購入していた。


 そのタバコ屋は名賀見と同世代である生島八千代(いくしまやちよ)が1人で営んでいた。短い髪はまばらに黒髪が混じる程度でほぼ白く、疲れきっている表情も相まって、名賀見と同世代ではあったがより一層老けて見えた。


「いつもの頂戴」


 名賀見は店頭に座る生島にそう言うと、生島は名賀見がいつも吸っているタバコを1箱差し出した。名賀見は既に常連客と言えるほどに通っていたが、店主の名前が生島という名前は知らない。生島も常連である名賀見が購入するタバコの銘柄は知ってはいたが、名賀見と言う名前は知らなかった。


「そういえばお客さん、再来月にタバコの値段が上がるみたいですよ」

「又かよ? じわじわ上げやがってよー。いっそ麻薬みたいに法律で禁止にしろってんだよなぁ? そうすりゃ違法って事で流石に俺も止めるってのによー」


「ほんとですねぇ。とは言っても私からするとそれが生業だから禁止されても困りますけどねぇ。でもタバコを吸う人もどんどん減ってきてるし、どちらにしても店じまいを考えないとねぇ」


 そして名賀見はタバコ代を払うと、再び駅へと向かって歩き始めた。


 この時期の夜中の仕事はより一層寒さが非常に身に染みた。太陽が出ていると出ていないとでは体感温度が全く異なり、刺すような寒さであった。手袋は勿論、顔もマスクで防寒してはいるがそれでも寒く、吐いた息がマスクを通して真っ白に出ては消えて行った。名賀見はマスクで覆われた口でぶつぶつと文句を言いながらも警備をしていた。その都度マスクからは白い息が出て行った。


 休憩を何回か挟みながらも朝4時近くまで続いた工事も終わり、撤収作業までの全てが終わる頃には朝5時近くとなっていた。とはいえまだ空は暗く、太陽が昇り始めるまでには未だ1時間ほどあり、時間的にも朝方の寒さが最高潮に達していた。そんな暗く寒い中、名賀見は始発の電車に乗り込みアパートへの帰路に着いた。


 名賀見が寒さと眠気と戦いながらもアパートへと到着した頃、空には薄らと赤みが帯び始めていた。部屋の中は空の赤みが少しだけ入り始めて真っ暗では無かったものの、床に何か落ちていても気付かないような暗さではあったが、名賀見は照明を点けずに薄暗い部屋の中、部屋の角に置かれた石油ファンヒーターの前に腰を下ろすとヒーターのスイッチを入れ、十秒程が経って出てきた熱風に手をかざし顔を近づけ暖を取った。


 夕方から未明にかけて仕事をするという生活サイクルに於いては買い物も容易では無く、早めに起きて買い物をするしかなかったが、名賀見はそれを嫌って週末に一気に食材等を買い込んでいた。近くには24時間営業のコンビニもあったがそこでの購入は経済的に難しく、少し距離はあったものの安値を売りにするスーパーに赴き、生鮮食品を含めて値段だけを気にして両手一杯に買い込み、賞味期限を気にせずに1週間持たせるといった生活を送っていた。


 ファンヒーターにかざした手が暖まって来た頃、名賀見はおもむろに立ち上がると台所へと向かい、冷蔵庫の中から1個の菓子パンを取り出した。既に賞味期限が3日過ぎたその菓子パンを電子レンジの中へと入れ30秒程暖める。その間にコップの中へと水道水を入れた。そしてコップとパンを手に再びファンヒーターの前へと腰を下ろすと、早速パンに齧りついた。咀嚼するパンは口の中の水分を容赦なく奪い、それをキンキンに冷えた水道水で喉の奥へと流し込んでいく。その冷えた水は名賀見の体を一層冷えさせた。


 本当は電気代を惜しんで電子レンジは使いたくは無かったが、寒い中での寒い食べ物は体を一層冷えさせる事で使わざるを得ず、ファンヒーターも灯油を惜しんで使いたくは無かったが、あまりにも寒すぎて使わざるを得なかった。


 寒すぎる部屋の中では食事はおろか寝る事すらも難しく、以前に灯油を切らした時、掛け布団を被って冷えたパンをかじっていた事もあったが、その時には自分でも情けない程に無様だなと哀しくなった事もあり、金は惜しいがそこまでひもじい思いをしてまで生きていく事の意味が分からなくなる為に使っていた。


 名賀見は菓子パンと水道水という食事を終えると風呂場へと向かいシャワーを浴びた。名賀見の住む部屋には古びたユニットバスが設置され、小さいながらも浴槽が完備されてはいた。だが掃除が面倒という理由もあったが、ガス代を気にしてシャワーだけを浴びていた。とはいえ、そのシャワーも3日に1回のペース。寒さ厳しい季節と言う事もあり汗をかく事もなく、全く入らなくても名賀見自身は気にはならなかったが、殆ど人と接する事のない仕事とはいえ、電車にも乗るし人にも会う。そこは最低限のルールとして3日に一度は浴びておくかという判断でシャワーを浴びているに過ぎなかった。


 そしてシャワーを浴び終えると、着古しあちらこちらにほつれや破れが見られるパジャマへと着替え、仕事に行く時にも使用している冬用ジャンパーを羽織り、冷蔵庫から1本の発砲酒を取り出した。熱いシャワーを浴びたとは言っても体が温まる程にはならず、拭い切れない水滴が寒さを助長し身を竦ませた。発泡酒を片手にファンヒーターの前へと駆け寄り座り込むと、それがあたかもストーブかのようにして手をかざし、上半身の前面に熱風を浴び始めた。そして何をするでもなく、ただただ目の前のファンヒーターをジーっと見つめながら、缶ビールを片手にタバコを吸い始めた。


 築40年以上を経過した古いアパートの部屋は6畳一間の畳敷き。その部屋の左右の壁を繋ぐようにして物干し竿が天井付近に渡され、そこに下着やタオル等の洗濯物が干されていた。名賀見は洗濯物を仕舞わずにずっと干したままにし、そこを衣類箪笥の様にして使っていた。その部屋には誰が来る訳でも無く、シャツや下着にしわが出来ていたとしても気にならない。洗濯したての時にはある程度のタバコの匂いは消えるが、喚起をしない部屋の中でタバコを吸い、ファンヒーターの風が部屋中まんべんなくタバコの煙を周囲に行き渡らせ、干されたままの洗濯物はタバコの煙を吸い続けていた。


 そうこうしている内にすっかり陽も明け時刻は午前7時を回り、名賀見はファンヒーターのスイッチを切ると、ようやく万年床の布団の中へと潜り込んだ。


 午後4時。名賀見はジリジリと古臭い音を奏でる目覚まし時計により目を覚ました。昼間の時間帯であっても部屋の中は凍える程に寒く、布団から出た直後から冷え始める体を労わる様にして掛け布団を被り、這いずる様にファンヒーターへと近寄りスイッチを入れた。そして十秒程待って噴き出し始めた熱風で以って掛け布団を被ったままに体を暖め始めた。


 ようやく寒さがひと段落した所で掛け布団を脱ぐと、冬用ジャンパーを羽織って洗面所へと向かった。お湯で顔を洗い終えると簡単に歯を磨き、寒さに身を(すく)ませながら台所へと向かった。


 冷蔵庫の中から賞味期限切れの菓子パンを取りだし電子レンジで30秒程暖める。その間にコップの中へと水道水を入れる。そしてコップとパンを手に再びファンヒーターの前へと腰を下ろしてパンに齧りつく。


 名賀見の食事は経済的な問題でパンと水という組み合わせが多かったが、そもそもその組み合わせに当初は苦労していた。だが今となっては食べ辛さは残るが慣れてきてもいた。本当であれば牛乳等の乳性飲料を飲みながらパンを食べたかったが、酒以外の飲料を買う事に躊躇があった。タダとは言えないが水なら非常に安く済み、その浮いた費用の分でタバコを買っていると思って我慢していた。


 そんな食事を終えるとタバコを吹かし始めた。そして何をするでもなく過ぎていく時間をだらりと過ごし、そうこうしている内に午後5時が近付いてきた。名賀見は俯き嘆息すると、面倒臭そうに立ち上がり着替え始めた。


 そして5時になり、名賀見が玄関から外へと出ると、玄関脇に設置されている自分の郵便ポストに目を留めた。普段その中に入る物と言えば光熱費等の請求書兼領収書、それと宅配チラシ程度。ふと中を確認してみると、その日のポストの中には一枚の葉書が投函されていた。一見すると請求書の様な葉書の宛先には『名賀見達也様』と記載され、その左横には注意を引くような赤い文字で『終末通知』と記載されていた。名賀見は「よく分からない葉書だな」と、再びポストの中へ戻すとそのままアパートを後に駅へと向かって歩き出し、そしていつものタバコ屋の前で足を止めた。


「いつもの頂戴」

「いつも有難う御座います。はい、どうぞ」


「あーあ。何か今日は雨が降りそうだなぁ。めんどくせーなー。雨の中でもずっと立ってなきゃいけねーんだぜ」

「そうなんですか。毎日大変ですねぇ。風邪ひかないようにしてくださいねぇ」


 朝5時過ぎ。警備の仕事も終わり名賀見は帰路に着いた。アパートに到着し部屋に入って直ぐ、郵便ポストに葉書が来ていた事を思い出した。名賀見は「寒い寒い」と独り言を言いつつ外に出ると、ポストの中から急いで葉書を取り出し部屋の中へと戻った。そして直ぐにファンヒーターの前に座ってスイッチを入れると、手にしていた葉書に目をやった。葉書の裏側の差出人欄には『厚生労働省終末管理局』と記載されていた。裏返すと自分の名前が記載され、その左横には『終末通知』という注意を引くような赤い文字。


「ん? 何だこりゃ? 終末通知? 厚生省? 詐欺の何かか? 出す相手間違ってんじゃねーのか。ったくよー」


 寒い中わざわざ取りに戻ったのにと、名賀見はファンヒーターとは反対の部屋の隅に置いてあるゴミ箱に向かって葉書を放り投げた。が、放り投げられた葉書はゴミ箱まで全く届かず、ヒラヒラと名賀見の近くの畳の上へと舞落ちた。


 そして、その葉書が畳の上に投げられたままに1カ月近くが過ぎた。


 午後4時。いつもの時間に名賀見は目を覚まし、いつものようにパンと水の朝食を取り、午後5時になるとアパートを後にし、いつものタバコ屋へと立ち寄った。


「おばさん、いつもの頂戴」

「はいどうぞ。ああそれとね、お客さん。実は今日で店を畳む事になったの」


「えっ? まじかよ……じゃあ今度からタバコはどこで買うかなあ……しかし、そんなに商売きつかったのかあ。まあ、しょうがねえか。で、おばさんは明日からどーすんのよ?」


「そうねぇ……ちょっと旅行にでも行こうかしらねぇ」

「へー、いいねえ。俺もたまには豪華に食って飲んで遊びてえなあ。つうか、おばさんは子供とかいねえの? 店を継いでくれる人とか。つってもタバコ屋じゃ厳しいから店を畳むんじゃ継ぐ事も出来ねぇか」


「まあそうですね……どちらにしても駄目ですしね」

「ん? 駄目ってなにが?」


「以前は息子がいたんですけどね……随分と昔に交通事故にあってね……」

「ああ、そうだったんだ。そいつは悪い事聞いちゃったなあ……とりあえず元気でな」


 そう言って名賀見は駅へと向かって歩きだした。その名賀見の姿を見つめていた2人のスーツ姿の人間がいた事に、名賀見は全く気付かなかった。


 朝5時過ぎ。仕事が終わった名賀見は帰路に就いていた。アパートへと戻りいつもの食事をすますと、その日はシャワーも浴びずに早々に布団へと潜り込んだ。だがその日の冷え込みは厳しく、中々に寝付けず頭から布団を被り縮こまる程であった。寒気(さむけ)もして布団の中でくしゃみをすると鼻水が垂れた。名賀見は傍に置いてあったティッシュボックスへと布団の中から手を伸ばし、数枚のティッシュを手に鼻をかんだ。そして部屋の隅に置かれたゴミ箱へとティッシュを投げ捨てた。が、うまくゴミ箱には入らず床にポトリと落ちた。


「……ったく、めんどくせえなあ」


 名賀見はそう言って掛け布団を掛けたままに布団から這い出し、床に落ちたティッシュを拾うとゴミ箱へ入れた。すると、畳の上に1枚の葉書が落ちているのが目に入った。名賀見が何の気なしに拾い見ると、それは『終末通知』と書かれた葉書だった。


「……そういや、こんな葉書が来てたな。こんな所に落ちてたのか。ったく何の葉書だっつんだよ」


 名賀見はそのままゴミ箱へと捨てようとしたが、その葉書が圧着ハガキである事に気付いて、葉書の端を摘まんで中を開いた。


『あなたの終末は 20XX年 3月10日 です』


 見開いた葉書の中、名賀見の目に飛び込んで来たのは大きな文字で記載されたそんな文言で、3月5日である今日に対して名賀見の終末日、名賀見の命が消える日までは残り5日を意味する日付が記載されていた。


「はあ? 何だそりゃあ? 終末日ってなんだあ?」


 名賀見は終末通知の制度を知らなかった。耳に入った事はあったろうが気にもせず記憶にも残していなかった。名賀見はそれを悪戯と思いこみ、そのままゴミ箱へと投げいれ、直ぐに布団の中へと潜り込んだ。


 午後4時。いつもの時間に名賀見は目を覚まし、いつものようにパンと水の朝食を取り、午後5時になるとアパートを後にし、いつものタバコ屋へと立ち寄った。


『長らくのご愛好、誠に有難う御座いました。諸事情により閉店させて頂きます』


 タバコ屋のシャッターは閉じられ、シャッターにそう書かれた紙が貼ってあった。


「そういや、昨日でここ終わりだったんだな……」


 名賀見は仕方なくそこから歩いて程近くのコンビニへと向かった。コンビニのレジには若い女性がいた。特に理由がある訳では無いが入りづらいと思って避けていた。名賀見はおどおどしながらレジに向かうと女性店員にタバコ1箱だけを注文し店を後にした。名賀見は帰宅する朝5時位の時間がであればレジにいるのは男性店員であろう事から、今度からは帰宅時にコンビニによるかなと考えながら足早に駅へと向かった。


 午前2時を過ぎ、道路工事現場の警備をしていた名賀見は休憩時間に入っていた。といっても、極寒とも言える夜中の工事現場近くの歩道に座っているだけである。地面に座るとお尻が冷えるが仕事はずっと立ちっ放しの警備。故にお尻が冷えるのを我慢しながら座っていた。


 その名賀見の近くで、道路工事をしていた作業員2人も休憩していた。話すほどの仲でもなく、この現場が終われば会う事が無いかも知れない名前も知らないその2人とは、3メートル位の間を開けて横並びに休憩していた。名賀見は自宅から持参した水筒に入れてきた暖かいお湯を飲んでいた。いつもは麦茶のパックを中に入れていたが、今日は切らしていた為に仕方なくお湯だけを入れてきた。美味しいとか美味しくないとかは関係なく、今は温かい物を口に出来るだけましだと思って飲んでいた。そして、聞き耳を立てていた訳ではないが、その作業員2人の話が名賀見の耳へと入ってきた。


「実はさ、甥っ子が終末通知を貰っちまって大変なんだよ。今、家族の中で何かギクシャクしちゃってさ。別に悪い事したって訳じゃねえのに可哀そうでよう。勉強も頑張ってて成績も良かったってのに……こんな事もあるんだなあってよ」


 中年男性と20代と思しき若い男性の作業員。その中年男性が話した内容の中で、名賀見は聞いた事のあるフレーズが混じっていた事で聞き耳を立てた。


「えー! まじっすか? 確かそれっていつ死ぬって書いてある手紙っすよね? シャレんなんねーすね。その人の家族はどーしてんすか?」


「どうもこうもねえよ。弟も、弟の嫁さんも憔悴し切っちまって見てらんねえよ。俺はこんな現場の夜勤が多いから何かしてやれる事もねえしな」


「うわぁ……そーすね……俺も妹とか父ちゃんや母ちゃんがそんなの受け取ったら、どーなっちまうかなー。きつい話っすねー」


 名賀見は2人の作業員の近くへとにじり寄った。


「ちょっとすんませんね、今の話って何の話? 終末通知って何なの?」


 唐突に話しかけられた2人の作業員は、音もなく近寄り話しかけてきた名賀見に一瞬驚き2人同時にビクッとした。そして2人の作業員はお互いの顔を見合わせた後、若い作業員が口を開いた。


「おじさん、終末通知って知らないんすか?」

「うーん、聞いた事があるような無いようなって感じでよ。ちょっと教えてくんねーかな?」


 若い作業員は「まーいいすよ」と、簡単に終末通知の説明をした。


 朝5時。名賀見は警備の仕事を終えると帰路に就き、始発の電車に乗ってアパートへと戻ると直ぐにファンヒーターのスイッチを入れた。そして、今朝ゴミ箱の中へと棄てた終末通知の葉書を手に取り、見開いたページの『終末日』に目を留めた。


「……ふっざけんじゃねーよっ! 何なんだよ終末日ってよっ! 何で俺が死ななきゃならねーんだよ!」


 陽もまだ明けきらない朝6時の部屋の中、名賀見はそう叫ぶと共に葉書を畳の上へと投げつけた。といっても所詮は紙。投げつけた葉書はヒラヒラと畳の上へと舞い落ちていった。その名賀見の部屋をアパートの外から見つめるスーツ姿の2人の男性の姿があったが、以前に見詰めていた2人とは別人であった。


「何でもうすぐ死ぬってのが分かってて、おりゃ夜勤までして働いているってんだよっ! 何なんだよ……もう、あと4日しか生きられねえって事かよ……」


 名賀見は台所横の冷蔵庫へと向かった。そして冷蔵庫の扉を開け、中に入っていた3本の発泡酒を手にファンヒーターの前へと座り込んだ。週末に近くのスーパーでまとめ買いしておいた発泡酒。経済的な理由で一日一本しか飲まないと決めていたそれを、いつもはチビチビと飲んでいたが一気飲みするかのようにして全て飲み干した。そして気を落ち着かせるつもりでタバコを1本を吸うと、着替えないままに布団の中へと潜り込んだ。


 午後4時。名賀見は目覚まし時計をセットせずに寝てしまっていたが、いつも通りの時間に目を覚ました。この時には警備の仕事に行く事など考えてもいなかった。仕事を休むという連絡さえする気も無かった。


 寒い部屋の中、寝ぼけ眼で布団から這い出しファンヒーターへと近寄りスイッチを入れた。が、ファンヒーターはピーっという音を発し、灯油切れを示すランプを点灯させた。玄関付近に置いてある灯油のポリタンクは空であり、今週末に灯油を買おうと思ってた。そもそもファンヒーターは起きた時と寝る前にしか使わない様にしていて今週末までは持つ予定であったが、今日は寝る時にファンヒーターを消し忘れ、名賀見が寝ている間中、ファンヒーターは灯油が切れるまで動き続け、やがて灯油が切れて自動停止していた。


 名賀見は舌打ちをし、「くそっ!」と言いながら掛け布団を被ると、普段は電気代節約のつもりで殆ど見る事の無いテレビのスイッチを入れた。テレビ画面には夕方のワイドショー番組が映し出された。名賀見は縮こまりながら1本のタバコを口に咥えて火をつけると、何を思うでもなくテレビに目を向けた。画面には行列の出来る飲食店の特集、資産家の自宅拝見、かわいいペット特集と、そんな内容が次々と映し出されていった。


 そんなテレビを見るに、名賀見は自分の今を恨めしく思った。


 食べたい物を食べ、遊びたい時に遊ぶ等の贅沢を望んだ訳で無いのに、画面に映る人々と自分との間にあるこれ程の差は一体何なのだ。仕事をしているのにこれほどの差は一体何なんだ。


 電気代やガス代を削り食費を削る。エアコンも無く夏は古びた扇風機だけで過ごし、冬は石油ファンヒーターを灯油を節約しながら暖を取る。風呂にも入らず3日に一度のシャワーでガス代を節約し、唯一の娯楽は1日一箱のタバコと1日1本の発泡酒。食事に事欠き生きていくだけで精いっぱい。そんな生活しか送れない自分にとって、生きると言う事は贅沢というのだろうか。


 俺にこれ以上どうすればいいというのだ。自分が生きている理由は何だ。それとも生きている事が悪いのか、俺が邪魔なのか、不要とでも言うのか、俺が何をしたと言うのだ。働いてもこんな生活しか送れない俺は何なんだ。他の奴らとどう違うと言うのだ。学歴が無いからとでもいうのか。今の俺は生きる事すら身分不相応だとでも言うのか。どうして俺は……


 余裕のある生活をしている奴がむかつく。楽しく生きている奴がむかつく。充実している奴らがむかつく。


 名賀見の中で何かが沸々と湧き上がっていた。そしてそれを抑えるという思考は一切働かず、スクッと立ち上がると台所へと向かい、1本の包丁を手にした。そして包丁を手にしたまま玄関を出ると、そのままアパートの前の道へと出て、うろうろと歩き始めた。


 名賀見は約20メートル程先を歩くスーツ姿の1人の男性の背中に目を留めた。そしてその男性の元へと足早に向かい始め、男性にあと10メートルと言う所で奇声を挙げると同時に走り出した。


 名賀見に背を向け歩いていた男性は、後ろからの突然の奇声にビクッと驚くと同時に足を留めて振り返った。男性の目に飛び込んできたのは包丁を手に奇声をあげながら自分に向かって走ってくる名賀見の姿。一瞬それが何なのか判断できなかったが、すぐにその光景に戦慄すると同時に逃げようとした。だがその瞬間、足がもつれてアスファルトの地面へとうつ伏せに倒れこんだ。


 地面に転んだ男性目がけて、名賀見が手にした包丁があと1メートルで届くといった時、名賀見はガッと両脇を何かで抑えつけられた。直ぐに名賀見が横を見ると、見知らぬスーツ姿の男2人が名賀見を両脇からガッチリと掴んでいた。名賀見は見知らぬ男の1人に包丁を持っていた手をねじられると、痛みに耐えかね包丁を手放した。手放した包丁は甲高い音を立てて地面へと落ちた。男達は2人掛かりで名賀見を地面に突っ伏させると、1人の男が名賀見の背中に膝で以って地面へと押さえつけた。


 地面に座り込んでいる男性は時間にして数秒の、目の前で起こっている出来事が理解出来ていなかった。突然奇声を発しながら包丁を持って走って来た男、その男を無言のままに押さえつけた黒いスーツ姿の男達。その光景に現実感が全くなかった。


 スーツ姿の男の1人が無言のままに手早く名賀見の後ろ手に手錠をかけると、もう1人の男が地面に座り込んでいる男性の元へとゆっくり近寄った。


「大丈夫ですか?」


 そう言いながら男が差し延べた手を、男性は口を半開きに半ば呆然としながらも掴んだ。そうしてようやく起き上がった男性は、俯き加減にスーツの汚れをはたくと、ゆっくりと目線を上にあげ、改めて目の前の男の顔を見た。


「あ、はい、だ、大丈夫です……えっと……」


 男性は今だに何が起こっているか分からず、目の前の男の素性も分からず、何と言えば良いのか言葉に詰まった。 


「私達はこういう物です」


 スーツ姿の男はそう言いながらスーツの内側へと手を入れると、カードサイズよりもやや大きめの黒い手帳を取りだし、中を開いて男性に見せてきた。そこにはそれを見せる男の顔写真が貼られた社員証らしきカードあり、カードの右下には『厚生労働省終末管理局』と書いてあった。


「何か問題がありましたら警察の方へご連絡下さい」


 男が男性に向かってそう言うと、男の後ろの方から大きめの黒いバンタイプの車が現れ、徐々に近付いてきた。その車は男性の手前で地面に押さえつけられている名賀見の近くへとスーッと停車した。停車直後、後部のスライドドアが開き、車の中から更に2人のスーツ姿の男が降りてきた。その2人の男は地面に押さえつけられている名賀見の両脇をしっかり掴むと、無言のままに半ば強引に名賀見を立たせ、そのまま車の中へと押し込む様にして一緒に乗り込んだ。残った男達もそれに続いて車に乗り込み、すぐに後部ドアが閉じられた。閉じられると同時に車は発進し、男性の横をかすめるようにしてその場から去っていった。男性は目の前で起こった数分間の出来事を口を半開きにただただ見ていた。


「っだよ! 離せよっ! てめーらいったい何なんだよっ! ふざけんじゃねーぞっ! こんなの犯罪だろうがよっ! 聞いてんかよおまえらっ!」


 押し込まれた車の中、両脇を男達に挟まれ抱えれながら、身動き1つ出来ない名賀見は一人叫んでいたが、男達と同様のスーツを着た運転手も含め、誰一人口を開かず名賀見の声を一切無視して車は走り続けた。


 名賀見は未だに自分を拉致した男達の素性を一切聞かされていない。黒いカーテンが引かれた車内からは外の様子を一切窺い知る事は出来ず、名賀見は何処に連れて行かれるのかという不安を払拭するかのように叫び続けた。


 30分程走り続けた車は、とある建物の地下駐車場へと吸い込まれていった。そしてその地下駐車場の中、横3メートル程のガラス扉の玄関らしき場所の前に車が停車した。その玄関らしき場所に4人の警備員らしき男達が待ち構えていた。車が止まるや否や後部ドアが開き、名賀見は両脇を抱えられたまま車から降ろされ、警備員4人と脇の2人の男に掴まれ囲まれ建物の中へと連れ込まれた。


 名賀見は地下の廊下を暫く歩かされた後、とある部屋へと連行された。6畳程の広さの一面グレーのコンクリート打ちっ放しのその部屋は、窓の無い取調室といった様相で、天井には電球型のLED照明が1つあるのみという質素な部屋だった。部屋の中央に鎮座するグレーの事務机を挟み、向い合わせの椅子が2脚あるだけの部屋。その机と2脚の椅子は床にボルトで固定されていた。


 名賀見は部屋に入って奥側の椅子へと後ろ手に手錠をされたまま座らされると、更に椅子の足とくっつけるようにして足首にも手錠をされるという拘束状態にされた。そして警備員4人の内の2人だけが部屋の中に残り、スーツ姿の男2人と残りの警備員は無言のままに部屋を出て行った。


 部屋の様子は名賀見が10年程前に妻への傷害で警察署に連れて行かれた取調室に似てたが、その際の取調室には鉄格子は付いていたものの窓があり外が見えた。それにその時はここまでの拘束状態ではなかった。名賀見にはまだ状況が理解できてはいなかったが、何かただ事ではない事が自分の身に起きているという事しか分からなかった。


「おいっ! 何なんだよ、ここはよっ! お前ら警察かっ! ここまでしていいのかよっ! 俺の人権を無視してんじゃねーのか! おいっ! 聞いてんのかよっ!」


 名賀見は手足を拘束されている状態で叫び続けた。部屋のドア付近には2人の警備員が無言のままに両手を後ろ手に名賀見をジッと見つめながら立っていた。その2人が警察官で無い事は分かるが、だとしたらこんな拘束をするような組織が他にあるのだろうかと頭を巡らせるがさっぱり分からない。名賀見は今の状況に脅え、それを隠すかのようにして数分間叫び続けたが、何の反応も無い事に疲れ果て、諦めたかのように俯き沈黙した。


 沈黙から数分後、ドアをコンコンとノックする音がしてドアが開いた。そこには整えられたショートヘアに銀縁眼鏡、濃いグレーのスーツとそれより薄いグレーのネクタイを着用し、スーツの上からでもすっきりとした体躯が見て取れる20代後半と思しき男性が立っていた。男性は部屋へ入ると無言のままに手にしていた書類とタブレット端末を机の上に置き、名賀見の向かいの椅子へと腰かけた。尚も無言のままに上着の内側ポケットから1枚の名刺を取り出すと、机の上、名賀見の目の前へとスッと差し出した。


「初めまして。私、井上正継(いのうえまさつぐ)と申します。どうぞ宜しくお願い致します」


 軽く笑みを浮かべながら井上はそう言って、座ったまま頭を下げた。そしてここは「終末ケアセンター」という公的施設の中である事、その地下にある聴取室と呼ばれる場所である事を説明すると同時に、自分は終末通知の件で来た人を担当する終末ケアセンターの職員である事、職務としてはカウンセラーのような立場であると名賀見に説明した。


 名賀見は上目遣いに井上を見ながら説明を黙って聞いていた。そして井上が机の上の書類に目を落とすと、名賀見もその視線を追って机の上の書類に目をやった。するとそこには、名賀見のアパートに置いてあったはずの名賀見宛の終末通知の葉書が置いてあった。


「ちょ、おいそれっ! 何でお前が俺の部屋に置いてあったその葉書を持ってるんだよっ! まさか勝手に人の家に入ったのかっ! いくら警察でもそんな勝手な事していいのかよっ!」


「は? ああ、ひょっとして名賀見様を拘束した方達の事を仰られているのですか? あの方達は警察の方ではありませんよ。彼らは厚生労働省終末管理局に属する政府職員の方達で、いわゆるGメンと呼ばれている方々です。捜査権も逮捕権も持っています。拳銃の携帯すらも許可されている方々ですよ」


「政府職員? はああ? 普通の公務員ってことか? 何でそんな奴らが俺を捕まえたんだよっ! おまけにこんなにガッチリと手錠しやがってよっ! ここまでやっていいのかよっ!」


「はい。終末管理法で許されているんですよ。それに普通の公務員という訳ではありません。先ほども申し上げましたが捜査権も逮捕権も持っている少し特殊な部署の方達です。なので今、ここで、その様なお姿で名賀見様が拘束されている事に関しては一切問題は無いんですよ」


「は、はあ? 嘘つけよっ! 弁護士呼べよっ! すぐに呼べよっ! そーじゃねーと一切話さねーからなっ!」


 名賀見は弁護士費用など払えるはずも無いという事が頭を過りながらも、思いつく限りの言葉で叫び続けた。


「弁護士は呼べませんよ。これも終末管理法で決まっているんですよ」

「………………」


 井上の言葉に名賀見は、まるで別の国に来てるんじゃないかと思えた。以前に傷害事件で逮捕された時でも刑事からは「弁護士はどうするか」と聞かれた記憶がある。だが今は全く異なり、目の前にいる井上の言っている事がマンガの世界の話にも聞こえた。


「じゃ、じゃあ、い、いったい、俺をこれからどうしようってんだよ」

「はい、これからそのお話をさせて頂く為に私がここへ参りました。ではお話させて頂いて宜しいですか?」


 名賀見は鼻息荒く目を見開き口を閉じ、淡々と話す井上をジッと見つめた。


「――――です。以上が終末通知の制度の概要になります。ここ迄で何かご質問ありますか?」


「……いや……別にねーけどよ」


「では進めさせて頂きます。名賀見様の場合には監視要人物という事で、先程お話した終管Gメンの方達や警察の方達によって、終末通知の葉書が投函された頃から行動監視が行われておりましたが、お気付きにはなりませんでしたか?」


 よもや自分が誰かに監視されているとは誰が思うであろうかと、名賀見はいつから何処で監視などされていたのだろうと考えるが全く思い当らなかった。


「いや全く分からなかったな……でもよぉ……そもそも何で俺が監視されなきゃならねーんだよ?」


「対象になるかならないかの判断基準は過去の行動実績を基本としております。名賀見様の場合ですと十年程前に奥様に対する暴力事件で逮捕されておりますよね? こういった逮捕案件がある方はまず監視対象となります。とはいえ事件を起こしてから10年以上が経過していれば対象から外れていたのですが、名賀見様の場合にはギリギリ十年以内という事でしたのでレベル3の監視対象となりました」


「レベル3の監視対象?」


「はい。監視対象といっても幾つかあります。レベル1の不定期監視では、たまに見回るだけで警察がメインに行って頂いてます。レベル2の日中監視は主に昼間だけの監視で警察と終官Gメンが交互で行っています。レベル3の全日監視は24時間監視しております。これも警察と終官Gメンが交互で行っています。レベル4も全日監視ですが、レベル3では全日監視といっても1人で監視しても良いという少し緩めの監視に対して、レベル4では複数名で厳しく監視するといった違いがあるだけで、後はレベル3と同じです。まあ、名賀見様はレベル3ではありましたが、現場の判断でレベル4に近い監視がされていたようですね。そしてレベル5についてですが、これはもう監視ではなく、危険人物として即時拘束されます。拘束の方法は名賀見様の身に起こったような状況と同じですね。また、監視対象は過去の事案だけでなく、今までの蓄積されている膨大なデータからも選び出されています。終末通知を受け取ったら逆上するような精神状況になりかねないと、システムで判断された方も監視対象になります」


「システムで判断? つうかそもそもジーメンって何だ?」


「はい、GメンのGはガバメントのGで政府という意味です。つまり政府の役人って事ですね。で、システムで判断というのはですね、今まで社会のお手本のように真面目に過ごして来た方でも突然通り魔のような行動を起こしてしまう方が過去にいましたので、そういった事を起こしそうな人を選出するという仕組です。今後もどんどんとデータを増やし、そういった人を選出するシステム精度を増していく事になりますね。今回の名賀見様の行動もデータとして蓄積される事になるでしょう」


「あっそ……とりあえずもう分かったよ。悪かったよ。もうさっきみたいな事はしねーよ。って事で帰らして貰いたいんだけど。もう残り少ない命なんだしよ」


「残念ながら名賀見様はこの建物から出る事は2度と叶いません。残りの日数はこの建物で過ごして頂く事になります」


「……はあ? 何言ってんだ? 出られないってどういう事だよ? 確かに包丁持ち出して人を刺そうとしたかもしれねーけど結局殺してもねーし、誰も傷ついてねーだろ?」


「誰かが傷ついたかどうかの問題ではありません。終末通知を受け取った後の行動として、人を傷つけようとしたという行動自体が問題なのです。そういった可能性があるから監視されていたのです。そして、破壊衝動に駆られる人物であると判断され、社会から隔離するという措置を名賀見様は取られてここに連れてこられたのです。終末管理法の理念は残された期間を出来るだけ満足して頂く事ですが、社会に対して牙を剥くような行為に対しては毅然と対処すると言う事でもあります。隔離場所はここ『終末ケアセンター』という事になりますが、本来ここは終末通知を受け取った方が自らの足で来て、私どもカウンセラーと話をして、今後を話し合う事と安楽死を行う事を目的とした建物です」


「ちょ、ちょっと待てよ。じゃあもう2度と俺は外には出れねーって言うのか?」


「はい。残念ですがそう言う事になります。ご親族に来て頂く事は可能ですよ? お望みで有れば私どもから連絡は取って差し上げますが、いかがなさいますか?」


 名賀見は理解が追い付いていなかった。たださえ数日後には自分が死んでしまうという話にも未だに現実感が無い中で、もう2度と外を歩く事が出来ないという話に理解が追いつかない。


「ふっ、ふざけんじゃねーよっ! いいから手錠を外せっ! 外に出せってんだよっ!」


 名賀見は椅子に固定されて動けないなりに体を激しく動かし激昂したが、井上は何も反応せずに無言のまま名賀見を見つめていた。そんな井上の無反応な様子を見て、名賀見は鼻息を荒げたままに口を閉ざした。


「まあ、いきなりの話で驚かれたでしょう。ちょっと落ち着いて考える時間が必要ですかね」


 井上はそう言って席を立つと、名賀見を一人部屋に残して警備員と共に部屋を後にした。


「……はあ? 何なんだよ。俺が何したってんだよ。もうすぐ死ぬんだったら少しくらい大目に見てくれたっていいだろうがよーっ!」


 部屋に一人残された名賀見の叫びは誰にも伝わらなかった。それでも1人で数分間叫び続けたが、何の反応も無い事に疲れ果て、1人で騒いでいる事が馬鹿らしくなり、嘆息すると共に沈黙した。それから5分後、ガチャリと部屋のドアが開き、警備員2人と一緒に井上が部屋へと戻ってきた。そして井上は再び名賀見の前の椅子へとゆっくり腰を下ろした。


「ご気分はいかがですか? 落ち着かれましたか?」

「こんな所に閉じ込められて気分が良い訳ねーだろうが……おまけに手錠までされてよ……」


 名賀見は俯き加減に力無くそう言うと、井上を上目使いに見つめた。


「ですよね。失礼致しました。でも、先程よりは大分落ち着かれたようですね。では、先の話の続きを宜しいでしょうか?」


「……勝手にしろよ」


「では名賀見様の今後についてお話させて頂きます。先程も申しました通り、この建物から出る事は叶いません。まずはこの後、この部屋から別のお部屋に移動して頂きます。その部屋は8畳程の個室部屋となっておりまして、中にはシャワー、トイレ、ベッドと机と椅子が用意されています。その部屋で残りの時間を過ごして頂く事になります。そして最期を迎えるにあたってですが、名賀見様には2つの選択肢がございます。1つ目はその個室の中で何らかの理由により最期を迎える。何らかのというのは突然苦しみが襲い亡くなる、若しくは就寝中に亡くなる事が考えられます。2つ目は名賀見様のご希望があればですが、安楽死を選択する事が出来ます」


「安楽死? そういやさっきもそんな事を言ってたな? 確か毒を飲んで死ぬとかいうやつか? まーどっちにしても死ぬのは変わらねーんだろうけどよー」


「はい、どちらにしても名賀見様が終末日以降に生きられる可能性はありませんが、安楽死を選択する事により、少なくとも苦しまずに、ご自分のタイミングで逝く事が出来るというのが特徴ですね」


「特徴ねぇ。その毒を飲んだ瞬間も苦しくねーってのかよ?」


「はい。毒を服用すると言ってもマンガみたいなドクロマークのついた瓶の毒を飲んで苦しみもがいて亡くなるという事ではありませんよ。苦しんでしまうようでは安楽死とは言えませんからね。では少々お待ち頂けますか?」


 井上はそう言って席を立ち、名賀見と警備員を部屋に残して去って行った。


 数分後、片手でも持てそうな程の大きさの木箱を手に井上が部屋へと戻って来た。井上は木箱を机の上に置きつつ椅子に座ると、名賀見に対して木箱の中が見えるよう傾け「こちらは終末ワインと呼ばれる物です」と言って見せた。


 井上が持って来た木箱は高級そうではあるものの、使い古された感じの残る長さ30センチ程の蓋の無い木箱。その箱の中には、中身が入っていない事が傍目で分かる、薄茶色で細長い凝った意匠のある瓶が、青いサテン生地のクッションの中で横になって入れられていた。


「はあ? ワイン? それが何だってんだよ?」


 名賀見には『終末』が『週末』に聞こえて馬鹿にされているように感じた。


「こちらが安楽死の為の飲料となります。終末通知を受け取った方が自ら終末を迎える為に用意された劇薬です。厳重に管理が必要なため終末ケアセンターでしか提供が出来ません。承諾書に名賀見様の自筆による署名を頂いた後、当ケアセンター内、且つ職員立会いの下で服用頂けます。といってもこれ自体はサンプルですけどね。本物は本番に時に提供させて頂きます」


「あっそ。まあ、何でも良いけどよ。それ飲んだら楽に死ねるってのか?」


「はい、その通りです。こちらをお飲みになっても苦しみは一切ありません。こちらを服用直後から強烈な睡魔が襲ってきます。そのまま眠りにおち、徐々に呼吸数が落ち、長くても30分以内に呼吸が完全停止します。こちらを飲まれた方のほとんどが、良いお顔で亡くなっていかれました。ただし解毒剤も無く即効性がある物ですので、服用後は後戻りは出来ませんけどね」


「……ああ、そうかよ」


 名賀見はどうでも良くなっていた。結局死ぬ事には変わりないと。


「他に何か質問等あれば何でも聞いてください」


「……ん? ああ、もういいよ。じゃあ、とっととその個室ってのに案内してくれ。個室に行ったら手錠は外してくれんだろうな?」

「はい勿論です。では移動の準備をしてきますので少々お待ち下さい」


 井上はそう言って再び部屋を後にした。それから5分後、井上は新たに2人の警備員を引き連れ部屋の中へと戻ってきた。井上は警備員に指示して名賀見の後ろ手の手錠はそのままに足元の手錠を外させ、先に居た2人の警備員はその作業を名賀見の後ろに立って見守った。そして足錠を外された名賀見は警備員2人に両脇を抱えられながら椅子から立たされると、そのまま部屋の外へと連れ出された。そして警備員4人と井上、それと名賀見の6人は、窓1つ無い薄暗い天井の蛍光灯に照らし出された廊下を歩き始めた。


 すると、名賀見達が歩く廊下の反対側から、名賀見と同じように両脇を抱えられている1人の女性を中心とした5人の集団が歩いてきた。あと数メートルで名賀見達とすれ違う時、名賀見は相手の集団の中、両手を前に手錠を掛けられ俯き加減に歩く女性の顔を見てハッとした。


「あれ? おばさんっ! おばさんだろっ!」

「……あら?……あなた確か……いつもタバコを買いに来てくれてたお客さん?」


 そこに居たのは名賀見のいきつけだったタバコ屋の店主である生島八千代だった。生島も名賀見同様、警備員2人に脇を抱えられていた。2人が足を留めた事で双方の集団がその場で足を留めた。


「何でおばさん、こんな所にいるんだよ」

「えっ……じゃあお客さんも終末通知を貰っていたんですか?」


 井上達は2人の様子を一切制止せずに見守った。ここは警察署という訳でもなく、会話が禁じられている訳でもなく、終末を迎えるにあたり最大限の配慮という事で、問題が無い限りはこういった事も許されていた。


「ん? ま、まーそういう事なんだけどよ。しかし、おばさんも貰っていたなんてな。随分と奇遇な話だな。でもここでそんな風にしているって事は、おばさんも何かやらかしたのか?」


「……ええ……そうですね……」

「ああ、別に言いたくねーんだったら、かまわねーけどよ」


「お客さんには以前にお話したかも知れませんが、私は子供を交通事故で失いましてね。実際には夫も一緒になんですが……」


「ああ、そういや、そんな事を聞いた気がするな」

「その事故を起こした方は今は事業で成功したとかで、豪華なマンションで家族揃って幸せに暮らしているそうでしてね……」


「へえ、そうなんだ……ん? まさかおばさん……」


「ええ……私の夫も子供も奪っておいて、自分は家族と楽しく豪華な場所に住んでいるその人の事を……自分の中では赦したつもりではあったんですけどね……終末通知なんて物を貰ったら……なんだかね……突然にね……」


 生島は自分がもうすぐこの世からいなくなるという状況の中、自分の夫と子供を奪っておきながら幸せになっている、そんな人間が存在するという事に対して感情が抑えきれなかった。湧き上がる無意識の殺意に身を任せ、事故を起こしたその人を刺殺してしまった。


 名賀見は俯きながらそんな話をする生島に対し、何も言えずに黙りこんだ。


「では、そろそろ行きましょうか?」


 井上がその場にいた人達を見まわしながらそう言うと、生島は「それじゃあ、さようなら」と、力無い笑顔を浮かべながら名賀見に言って、警備員を伴って名賀見達とは反対の方向へと静かに去って行った。


「まさかな……あのおばさんが人を殺しちまうなんて夢にも思わなかったぜ。あのおばさんも監視されていたって事なのか?」


「詳しい事は聞いておりませんが監視対象では無かったようです。事故も随分昔の事だったらしいですしね。あくまでも過失の事故ですし、あの方も穏便に暮していたようでしたし」


「しかしよぉ、実際に事件を起こしてもこっちに送られんのか?」


「ええ、一旦は警察に逮捕されますが、終末通知受領者ですと裁判が終わるまで生きていませんしね。なので書類送検で処分が終わった後にこちらに移送されます。まあ、名賀見様の場合も殺人、傷害と言える事件を起こしそうな状況だった訳ですが、監視されていたお陰で未遂で済み、そのまま直接こちらに送られたという次第です」


 そんな話を終えると再び名賀見達は歩きだし、すぐに井上は足を留めた。井上が足を留めた場所にはエレベータがあった。そのエレベータの扉の上部にはエレベータがどの階にいるかを示す表示板があった。そこで初めて名賀見は今自分がいるのが地下2階である事が分かった。エレベータの扉が開くと同時に井上が先に乗り込み、操作パネル前に陣取ると「開」ボタンに指を当てた。その後に名賀見が2人の警備員に囲まれ掴まれながら中へと押し込まれると、残りの警備員2人が乗り込んだ。それを見た井上は、地下1階へのボタンを押し、すぐに「閉」ボタンを押した。


 エレベータの扉が閉まると3秒程で地下1階へと到着した。扉が開くと同時に2人の警備員が降り、その後に警備員に押されるようにして名賀見が降り、最後に井上が降りた。降りた場所は地下2階と違って真っ白と言える程に眩い天井の蛍光灯に照らし出されていた。そこから見えるのは四方に伸びる3メートル幅程の廊下だけではあったが、廊下の突き当たりは100メートル以上はあろうかと言う程に遠く、そこには名賀見の想像以上に広い地下空間が広がっている事を容易に想像させた。


 そして井上を先頭に名賀見達が歩きだすと、名賀見はすぐに目の前の光景に目を見開いた。左側の壁は真っ白い壁が突き当りまで続き、反対側には分厚いガラス壁を持つ部屋がずらり廊下の突き当りまで続いていた。


 ガラス壁から見える部屋の中は、打ちっ放しのコンクリート壁で3方を囲まれた殺風景な8畳程の部屋。カーテンで仕切るシャワーに1メートル程の高さのコンクリートで囲われている便器だけのトイレ。そのすぐ近くに簡素な洗面台。壁に固定された小さい棚にはタオルや病院服のような簡素な衣類が幾つか収められていた。そして病院で見るようなパイプベッドに灰色の事務机と椅子。そのベッドと机と椅子は床にボルトで固定されていた。


 そしてそのまま幾つかの無人の部屋を通り過ぎると、ベッドの上で男性らしき人物が寝転んでいる部屋の前を通り過ぎた。


「おい、今の部屋にいた奴も俺と同じ様に拘束されたって事か?」

「そうですよ。ここにいるのは名賀見様と同じような状況の方々です。現在この施設には50名ほどがあのような形で隔離状態となっています」


 そしてそこから2部屋程を通り過ぎると、井上は足を留めて名賀見の方へと振り返った。


「こちらの部屋が名賀見様のお部屋となります」


 井上はそう言って部屋を手で指し示すと、ネックストラップで吊り下げていた自身のIDカードを手に取り、壁面に設置されている電子錠にIDカードをかざした。すると、ピーっと言う音と共にガチャッと解錠される音がした。


 井上が警備員の1人に目で合図を送ると、警備員は無言で頷くともに鋼鉄製の扉を大きく開けた。そして井上は名賀見の脇を抱えている2人の警備員に「入れて下さい」と言うと、1人の警備員が先に部屋と入り、それに続いて名賀見が警備員に押し込まれるようにして部屋の中へと入って行った。そして井上も警備員1人を廊下に残して中へと入って行った。


 天井の眩い光に照らし出されて一見すると綺麗な部屋にも思えたが、窓1つ無く、外の様子すら分からないというその部屋を見て、名賀見は「綺麗な独房だな」と感じた。そこでようやく名賀見は手錠を外された。


「お食事は豪勢な物ではありませんが朝昼晩の3食用意させて頂きます。お食事する場所はこの部屋で、このドアの下穴から提供致します。食べ終わったらこの穴から食器を廊下に出して置いて下さい。勿論食べたくなければそのまま出しておいて構いません。こちらは時間通りに提供するだけで強制はしません。テレビは固定チャンネルでオンオフのみ操作できます。なお、テレビを見て貰えれば分かりますが壁に埋め込まれております。特殊強化プラスティックの板で覆われているので破壊は不可能です。御着替えは3日に1度こちらで用意し洗濯もこちらで致します。ベッドのシーツ類は1か月に1度洗濯させて頂きますが、名賀見様の残り期間は1週間もありませんので御取り換えする機会はありませんね。一応、筆記具とノートが一冊用意してありますのでご自由にお使い下さい。シャワー、トイレもご自由にお使い下さい。石鹸やシャンプー、トイレットペーパーは名賀見様の残りの期間を過ごすには十分な量が備え付けてあります。但し無くなっても補充しません。あとは見えずらいですが天井の4隅に監視カメラがあります。わかりますかね? ちなみにこの部屋の備品を破棄破壊されたとしても、この部屋が空くまで、つまり名賀見様がお亡くなりになってこの部屋から出るまで修理等は一切行いませんので、その旨ご了承ください。以上になりますが他にご質問ありますか?」 


「……ああ、分ったよ。もういいよ」

「ではこれで失礼します」


 井上はそう言い残し、警備員と共に部屋から出ていった。直後、鋼鉄製の扉が閉められ、それと同時にピーっという音と共にガチャリと音がして自動的に鍵がかかった。そしてそのまま井上は警備員と共にその場から去って行った。それを見た名賀見は靴を履いたままにベッドの上へと仰向けに寝転んだ。


「は~あ。こんな所で死ぬって事かよ。たまんねえなー。ったくよー。俺が何したってんだよ。つうか眩しくてこんな所じゃ寝られねーよ」


 天井を見つめる名賀見は無性に腹が立ってきた。結果的に誰も傷つけていないにも関わらず、拘束されると共に監禁までされた。そもそももうじき自分が死ぬという理不尽にも腹が立ってきた。


 名賀見はムクッとベッドから起き上がり、近くにあった投げられる物を手にして1人罵詈雑言を吐きながら壁に投げつけた。投げつけるといっても机の上に置かれていた無使用のノートに黒のボールペン、棚に収まっているタオルに衣類や布団位しか投げられる物など無かった。


 ここは警察でもなく監禁されているとはいっても、ボールペンといった鋭利な物も部屋には置いてある。名賀見は自分が壁に投げつけた後に床へと転がっていたボールペンを拾い上げると、天井の隅に完全防護で設置されている監視カメラに向かって叫び始めた。


「おらーっ! 見えてんのかーっ! 聞こえてんのかーっ! 今すぐこっから出さねーと、ここで自殺すんぞーっ!」


 名賀見は自分の首にボールペンの先を当てながら叫んだ。その名賀見の様子は井上らカウンセラーが集まるカウンセラー課内のモニタールームに於いて、数名の課員によって監視されていた。日中は課員が監視し、課員の就業時間外には警備員が監視するという24時間監視体制であった。


「おーい、さっき収監した人が何か叫んでるっぽいぞー。担当誰だっけ?」

「ああ、私の担当です。自殺の脅迫かな? ちょっと行ってきます」


 監視カメラには音声も拾う機能が付いていたが、ここでは名賀見のように叫ぶ者が多数いる為に音声は切って運用していた。名賀見の部屋を含むその隔離エリアは防音設備がしっかりしているので、隣の部屋同士でさえ叫んでも聞こえない造りであり、名賀見は監視カメラに向かって歌っているようにしか見えなかった。


 名賀見は監視カメラに向かって5分程叫び続けたが、一切反応が無い事に疲れ果てると、ベッドの端に力無く座った。


「何か叫んでいたようですが、どうかされましたか?」


 名賀見の部屋の天井のスピーカーからそんな声が聞こえてきたと同時に、名賀見は天井を見上げた。そしてふとガラス壁の方に視線を送ると、そこには両手を後ろに組みつつ足を揃えた姿勢で立つ井上がいた。井上はそれ以外に何も口にはしていなかったが、名賀見には井上のその表情が「面倒だなあ」と語っているように見え、瞬時に鼻息を荒くしながらベッドから立ち上がり、両拳を握り締めながらガラス壁の前、井上の前へと仁王立ちするかのようにして位置した。独房内と廊下側で話す場合には部屋の天井に埋め込まれているスピーカーを兼ねるマイクを要した。廊下側も部屋の中同様に天井にスピーカーが埋め込まれていた。


「ああっ! どうかしたかじゃねーよっ! 今すぐ、こっから俺を出せよっ! でねーと、このボールペンで首を刺して死んでやっからなっ!」


 名賀見のそんな言葉が天井のスピーカーから流れて来ると、井上は目を瞑りながら俯くと共に嘆息した。


「まだご理解出来ていない様ですので改めて申し上げますね。あのですね、名賀見様は数日後には亡くなられるのですよ? もしも名賀見様がそのボールペンで首を刺しての自殺を望まれるというのであれば、私達は名賀見様のそのお気持ちを最大限尊重致します」


「…………」

「私が話している内容はご理解頂けましたでしょうか?」


 ああ、忘れてた。俺はもうじき死ぬんだっけ。こいつらは別に俺が自殺しても構わねーんだった。どう死ぬかだけなんだな。ああ、そうか、そうだった。何をしても無意味なんだった……


 名賀見は自分の状況をようやく理解すると踵を返し、手にしていたボールペンを壁へと投げつけた。そしてそのまま無言でベッドへと向かい、力無く倒れるようにしてうつ伏せにベッドへと寝転がり目を閉じた。


「何か他にお聞きしたい事があれば、仰って下さい」


「………………」

「では、私はこれで失礼します」


 井上はベッドの上の名賀見に向かってそう言うと、マイクスイッチをオフにした。


「ふぅ。ま、理解しろと言っても直ぐには理解出来無いよな。しかし自殺を尊重するって言い方もなんだなあ。もう少し良い言い方は無いもんかなぁ」


 井上はそんな独り言を口にしながらその場を後にした。


「は~あ。もうどうでもいいかあ。あ~あ、つまんねえ人生だったなー」


 そしてその日、名賀見は提供された夕食を食べ終えると、服を脱ぎ棄てシャワーを浴びた。普段は直ぐに済ませるシャワーも、今回はガス代を気にせずに流しっ放しで頭と体を洗い、体が温まる程に浴び続けた。とはいえ名賀見がいる部屋を含めたその地下フロア全体が、少し動けば汗が出そうな程に空調が保たれ、シャワーで暖まる必要もなかった事で早々に切り上げた。そして棚からタオルを取りだし全身を拭き、同じ棚の中の病院服のような服を着ると、酒がある訳でもなくタバコが吸える訳でもない為に手持無沙汰となり、そのままベッドへと潜り込んだ。とはいえ、部屋や廊下の煌々とした照明は24時間消される事は無く、目を瞑っても眩しさからは解放されず、布団を頭から被る事で暗さを得て、ようやく眠りについた。実は机の上にアイマスクが置いてあったが、井上はそれを説明せず、名賀見もそれに気付かなかった。


 次に名賀見が目を覚ますと、天井の眩い明りに目をすぼめ顔を背けた。外も見えずに天気も分からず、今が何時なのかさえ分からない部屋。名賀見はおもむろに起き上がると、壁に設置されたテレビのスイッチを入れた。


 壁に埋め込まれたテレビには朝の情報番組が映し出されると共に、画面左上に時間が表示されていた。既に時刻は午前10時。ふと扉の方へと視線を送ると、扉の下には銀色のトレイが床に置かれていた。トレイの上には食パン2斤と小さいパックのいちごジャム。それと紙パックの小さい牛乳が乗っていた。名賀見は床に置かれたそのトレイを手に、床に固定された机の上へと持って行った。そして床に固定された椅子に座るとパンにジャムを塗り、牛乳を片手に食べ始めた。いつもならパンと水の組み合わせ。だがここにきてパンと牛乳と言う組み合わせになったことで、酒やタバコを飲む事は出来ない監禁状態とはいえ、いつもの自分の生活より豊かな生活になった事が不思議でならず眉をひそめた。


 食事を終えると扉の下に設置されている小さい扉から押し出すようにしてトレイを廊下へと出すと、ベッドの上へと仰向けに寝転んだ。名賀見はそのまま暫くベッドで横になっていたが、何かを思い出したようにガバッと勢いよくベッドから起き上がると、天井隅の監視カメラの元へと近寄りカメラを見上げた。


「おーいっ! 聞こえるかーっ! ちょっと来てくれーっ!」


 名賀見が5分程叫び続けてると、井上が名賀見の部屋の前へとやってきた。


「お早うございます。何かご用でしょうか?」

「お前、確か言ってたよな? 家族を呼ぶ事も可能だって」


「はい。言いました」

「じゃあ呼んでくれ。カミさんと子供。最後に会っておきてーからよ」


「以前、ご結婚なされていた時の奥様とお子様の事でしょうか?」

「そうに決まってんだろ! 他に誰がいるってんだよっ!」


「畏まりました。では早急に連絡してみます」


 そう言って井上が去って行くと、名賀見は洗面台へと向かい、歯を磨いて顔を洗った。そして病院服のような衣類を脱ぎ棄て、昨日着ていた自分の服に着替えると再び洗面台へと向かい、鏡に向かって顔に薄らと生える髭に目をやった。顎を手でさすると柔らかい髭を感じた。「ちょっと伸びてるな」と独り言を口にすると、洗面台の周囲を見回し髭剃りを探したが何処にも無かった。前回髭を剃ったのは4日前。元妻に会う前に剃っておきたかったがそれは叶わず、「ふぅ。まあしょうがねーか」と、名賀見は溜息を就いた。


 カウンセラー課に戻った井上は、自席に座りながら名賀見の資料を漁り、名賀見の元妻の携帯電話番号を探しだした。


「もしもし、名賀見様のお電話で宜しいでしょうか?」

「……どちら様でしょうか?」


「私、終末ケアセンターの井上と言いますが、名賀見様の元奥様という事で宜しいでしょうか?」

「終末ケアセンター?」


「はい、終末ケアセンターの井上と申します。それで名賀見様の元奥様のと言う事で宜しいでしょうか?」


「……はい、そうですが……といっても今はその苗字ではありませんが……それで私に何か御用ですか?」


「実は旦那様が……あ、失礼、元旦那様が終末通知をお受け取りになりまして、それで今私どもの終末ケアセンターにいらっしゃってます。それで元旦那様から最後に奥様、あ、失礼。元奥様とお子様にお会いしたいと仰っているので、こちらの方にご足労頂けないかとお電話させて頂きました」


「……そうなんですか。あの人が終末通知を……でも、何でそちらの職員の方がわざわざ電話してきたんですが? 直接言って来たらいいのに……電話番号忘れたのかしら?」


「実はですね、元旦那様は終末通知を貰った後に人に危害を加えそうになりまして、止むなくこちらの方に収監させて頂いています。なので私どもからお電話させて頂いております」


「……危害を加えた? まさかあの人、誰か殺したんですかっ?!」

「いえ、寸前の所で当局の人達に防いで頂きましたので誰にも危害を加えてはおりません」


「……そうですか……あの……多分そちらでも把握しているかと思いますが、あの人は以前に私に対する傷害事件を起こしましたし、そもそも大工の仕事をしていた時でも暴力ばかり振るっていたような人でした」


「はい、存じております」

「それに私、既に再婚しておりまして新しい生活を始めております。なので今更あの人に関わり合いたくありません」


「といっても、もうお会いする事は出来無くなりますが宜しいんですか?」


「はい、構いません。あの人は身勝手で他人を一切尊重せず、それが原因で周囲から人が離れていっても自分は正しい、相手が常に悪い、社会が悪いと思う様な自分勝手な人でした。ましてや、最後に人を傷つけよう等と思う様な人間なんて会いたくもありません。子供にも会わせたくありません。そうお伝えいただけますか?」


「本当に宜しいのですか? 最期の機会ですよ?」

「構いません」


「……分かりました。では、そのようにお伝え致します。失礼致します」


 井上は電話を切ると、俯き目を瞑り、深いため息を吐いた。


「名賀見様」

「おう、どーだった? 連絡ついたかよ。いつ来るって?」


「はい、連絡はすぐに付きました。ですが面会を拒否するそうです」

「……はあ? 拒否って何だよ、拒否ってよっ!」


「はい。拒否というのは、奥様が名賀見様にはお会いしたくないという事です」

「そーじゃなくってよっ! 俺が最後に会いてーって言ってるって、ちゃんと伝えたのかって聞いてんだよ!」


「はい、事の次第は全て伝えてのご返答です」

「んな訳あるかっ! 別れたっていったって夫婦だったんだぞっ! ちゃんと伝えたのかよっ!」


「はい、お伝えました。しかし『自分が死ぬ前に人を襲おうとした人間なんて会いたくもない』という事でした」

「はあ? 何でそんな事まで伝えたんだよっ! 言わなくても良かっただろうがっ!」


「こちらに収監されている理由を伝えるというのも決まりですので。それに奥さまは既に再婚なさっており、名賀見様とは関わり合いたくないとも仰せでした」


「ふっ、ふざんけんじゃねーよっ!」


 名賀見は床に落ちていたノートを拾うと、井上に向かってガラス壁へと投げつけた。だがノートはパサッと軽い音を立ててガラス壁に当たり、そのまま床へと落ちた。井上は名賀見のその行為を無言のままに見つめていた。


「てめぇは俺の事馬鹿にしてんだろ! 60歳にもなってこんな事を言ってる俺を馬鹿にしてんだろっ!」

「そのような事はありません」


「してるよっ! 人を馬鹿にしたような眼で見やがってよっ!」

「ですからそのような事はありません」


 その後も名賀見は井上に向かって罵詈雑言を浴びせ続けた。しかし一貫して無反応を示す井上に対し、一方的にしゃべり続ける事に疲れ果て、名賀見はようやく口を閉ざした。井上は真顔のままに無言を貫き、ジっと名賀見のその様子を見つめていた。


「他に何か仰りたい事はありますか?」

「……もう……いいよ……とっとと行けよ」


「そうですか。ではこれで失礼します」


 井上はそう言って名賀見の元から去って行った。が、すぐに名賀見の元へと戻ってきた。


「あ? 何だよ? まだ何かあんのかよ?」

「先日、名賀見様が廊下でお話されていた女性の事なのですが」


「……ああ、タバコ屋のおばさんの事か。それがどうした?」

「先ほど安楽死を御希望なされて、既にお亡くなりになったそうです」


 井上が去った後、名賀見はベッドの上に仰向けに寝転び天井を見つめていた。先日話したばかりの生島が既に亡くなっているという事に実感が湧かない。正確な時刻は分からないものの、あれからまだ24時間は経っていないにも拘わらず、生島がこの世にいないという事の現実感が無い。それほどに人は簡単にこの世から消えるという事が想像は出来ても実感できない。


 名賀見はゆっくりと目を閉じると、決して来る事の無い自分の未来では無く、自分の過去を頭の中で思い描く。


 勉強は嫌いだった。高校はギリギリの成績で入れたものの、喧嘩等を繰り返し親が呼び出される事態を度々起こした。それでも親や教員が手を尽くして真面目に取り組ませようとしたが、そんな事には一切耳を貸さず、結局自主退学した。


 退学した後、同じ様に高校を中退し大工の道へと進んでいた中学時代の先輩に誘われて、名賀見も大工の道へと進んだ。


 未成年とはいえ職業として働き始めていた事で社会人として見られてはいたが、建築現場に於いてもすぐに喧嘩をする始末で、客にまで暴言を吐いたりする事が度々あった。そんな名賀見の事を口汚く罵り殴りながらも丁寧に仕事を教え、名賀見を気に掛け見守ってきた先輩も流石に手に余り見放した。以降は現場を転々としながらも、何とか1人親方として仕事が出来るようにまでなった。とはいえ暴言や暴行を繰り返した。


 自分の言う事を聞かなければ殴った。自分が言った事を理解出来なければ殴った。少しでも癇に障る事を言われれば暴言暴行を振るう。名賀見はそれが正しい事だと思っていた。言って分かるならそんな事はしないのだと、言って分からないなら体で覚えさせる事が正しいのだと。


 名賀見はミスをすればすぐに暴力を振るい、客に対しても横柄な態度を取る人間と認知されるようになると、次第に敬遠されるようになっていった。


 名賀見の周囲からは仕事も人も離れていった。それは必然とも言えた。そんな状況の中、怪我をして大工仕事が出来なくなった。そもそも敬遠されるような人柄であったために、そこからは一層孤立していった。孤立し引き籠り、それを妻に叱責された事で暴力沙汰を起こし離婚された。最期に会ってもくれない程に名賀見は敬遠され疎まれていた。


 既に両親は他界している。親戚はいるが顔も覚えてはいないし親戚の葬儀にも行った事もない。名賀見は自分が生きる時間も自分を気遣ってくれる人もいない事を、自分には何も無い事を悟った。


「俺の何が悪いってんだよっ!」


 そう言って名賀見は不貞腐れるかのように布団を頭から被った。それから暫くの時間が経ち、名賀見はおもむろに布団を蹴飛ばすようにして剥いだ。


「あああっ! もう死ねばいいんだろっ! 死ねばよーっ!」


 名賀見は勢いよくベッドから起き上がると、再び天井隅の監視カメラの元へと近寄りカメラを見上げた。


「おーいっ! 聞こえるかーっ! ちょっと来てくれーっ!」


 名賀見が5分程叫び続けると、再び井上が名賀見の部屋の前へとやってきた。


「どうかされましたか?」


「……安楽死……するよ」


「はい?」

「だーかーらっ! 安楽死ってのをするから、とっととやってくれってんだよっ!」


 名賀見は鼻息荒く、納得のいかない憮然とした表情でガラス壁越しに井上を見つめた。


「畏まりました。では準備致しますので少々お待ち下さい」


 それから20分程の後、井上が警備員4人を連れて名賀見の元へと戻ってきた。名賀見はベッドに腰掛け俯き加減に両手を前に組み、口を半開きに呆然と床を見つめていた。


「名賀見様。準備が整いました」


 天井のスピーカーから聞こえた井上のその言葉に、名賀見はハッと気付くようにして顔を上げ、口を半開きのまま井上の方へと顔を向けた。


「……おう、そうかよ」

「場所はどう致しましょうか? 今名賀見様がいるお部屋でも良いですし、壁に囲まれてはいますが、一応外でも可能ですよ。今日は雲1つ無い青空も見えますしね」


「……ん? ああ、そうだな……じゃあ外で頼むわ」

「畏まりました。では、奥の壁に向かって立ち、後ろ手を組んでください」


「ったく面倒くせーなー」

「申し訳ありません。規則ですので」


 名賀見はおもむろに立ち上がると奥の壁へと向かった。そして壁を向いたままに位置すると後ろ手を組んだ。その様子を確認した井上はIDカードを手に電子錠を解除した。そして井上に随行していた1人の警備員がドアを開けると残りの警備員3人が部屋の中へと入り、次いで井上も部屋の中へと入った。


 井上は警備員を見ながら「手錠を掛けて下さい」と言うと、2人の警備員が名賀見の両脇に立って名賀見の腕を抱え、残る1人の警備員が、鈍い光を放つ鋼鉄製の手錠を名賀見の後ろに手に掛けた。井上は手錠が正しくかけられているのを確認すると「連行して下さい」と言って、2人の警備員は無言のままに名賀見の両脇を抱えながら部屋の外へと出て行った。井上は連行される名賀見を無表情のままに見つめながら、警備員の後に続いて部屋を後にした。


 廊下に出た井上と名賀見を含む6人の男達は、井上を先頭に廊下を歩いていた。先頭を歩く井上はキャスターのついたワゴンを、コロコロと軽い音を立てながら押し歩いていた。


 井上の押すワゴンの上には、一見ブランド品に見える焦げ茶色をメインに金色の装飾が施された万年筆。バインダーに挟まれたA4書類。そして使い古された感じの残る高級そうな木箱が乗せられていた。


 その木箱の中には、赤いサテン生地のクッションの上でシャンパングラスと呼ばれる細長いグラスと、細長い薄茶色の意匠のある瓶が横になって置かれていた。その瓶の中には、どす黒く見える液体が入り、スクリューキャップできっちりと封じられていた。


 名賀見達が歩いていると、廊下の壁際で名賀見達に向かってお辞儀をしている人物が名賀見の目に留まった。頭には三角巾を巻き、手にはモップを持っていた事から、その人物は清掃員だなと名賀見にも瞬時に分かった。


「あんた何だよ。何でお辞儀してんだよ。俺達の中に偉い人でもいるのかよ」


 名賀見のそんな言葉にその人物はゆっくりと頭を上げた。三角巾越しに見える髪は真っ白く、瞼や頬の肉は垂れ落ちると共に深いしわが刻まれ、一見して70は超えているであろう事が分かる1人の女性がそこに立っていた。


「いえ、あなた様は今からお亡くなりになるんですよね? 私はそういう方に対してお見送りする事にしておりますので、お気になさらないで下さい」


「ふ~ん、そうかい。まあ、別にいいけどよ」


 名賀見がそう言うと、再び名賀見達は歩きだした。


「あの方は旦那様をこの施設で看取ったんですよ。その後、ここでボランティアでもいいから働かしてくれって事で、非常勤の清掃員として働いて貰っているんです」


「へー、そーなのか。まあ、旦那さんも看取られて満足だったろーよ」


 名賀見は興味なさげに言った。そして一行は眩い真っ白な蛍光灯で照らされる廊下の突き当たり、両腕を広げた程に幅のある鋼鉄製のドアの前で立ち止まった。そして井上が壁面に設置されている電子錠にIDカードをかざすと、ピーっと言う音と共にガチャンッと言う重々しい音がした。井上が1人の警備員に目で合図を送ると、その無言の合図に警備員が頷き、外開きのその大きい扉を目一杯押し開けた。と同時に、開いた扉からは寒気が入り込んだ。


 扉を開けたその先は地下に造られた吹き抜けの庭といった様相で、見上げれば青空が見えていた。地面には芝生が敷いてある為に庭と言われれば庭と言えなくもないが、5メートル四方のコンクリート壁で囲われた空間であり、その四方の壁はゆうに3階に届きそうな高さをほこり、壁の向こうは一切窺い知れないといった場所だった。奥の壁近くには地面に固定されている事が傍から見ても分かる鈍い銀色の光を放つステンレス製の椅子が1脚と、丸い小さめのテーブルが置いてあった。


「外っていっても、これかよ……」


 確かに青空は見えたがコンクリート壁に囲まれたその空間に、名賀見は嘆息し俯いた。


「では、参りましょうか」


 そう言って井上は、落胆した様子の名賀見を無視してワゴンを押しながら庭の奥へと進み、その後ろを警備員と共に名賀見が付いて行った。


 井上はテーブルの傍まで来て立ち止まると後ろを振り返り、名賀見を連行している警備員に対して、名賀見を椅子に座らせるよう指示した。手錠されたままの名賀見が椅子に座らされた後、名賀見の足は警備員の手により椅子の足元へと手錠で固定され、後ろ手にしていた手錠の片方を外すと、今度は両手を前に手錠された。


「なんでこんな場所に来てまで拘束されなきゃいけねーのかねぇ。もう最期だぜ?」

「すいません、規則ですので」

「規則ねぇ……まあ別にいーけどよー」


 井上は「ではこちらをお願いできますか?」と、ワゴンの上のバインダーに挟まれた書類と万年筆を手に取り、テーブルの上、名賀見の目の前へと置いた。


「終末ワインを提供するにあたって承諾書に署名が必要となります。こちらが承諾書の書類になりますので、ご確認頂けますか? 質問や疑問があれば仰って下さい。ご確認頂き、問題等無ければ、こちらにご署名なさって下さい。ご署名なさって頂いた後、こちらの終末ワインを提供致します」


「はいはい。書きゃいいんだろ、書きゃよう」


【終末ワイン摂取承諾書】

 このワインを摂取すると、直ちに安楽死を迎える事になります。

 あなたがそれを望むのであれば、下記に自筆でご署名をお願いします。


 そんな短い文面の承諾書で、いちばん下に署名欄。名賀見は手錠されたままに承諾書を手に取り目を通した。短い文書なので確認する事も特に無く、目の前に置かれた万年筆を手に取りキャップを外すと、署名欄に自分の名前をサッと書き入れ、署名を終えた承諾書と万年筆をテーブルの上に放り投げた。


 井上は書類を手に取り、名前が正しく記載されている事を確認した後、担当者欄に自らの名前を署名した。


「確認致しました。ありがとうございました」


 井上は承諾書と万年筆をワゴンの上に戻すと、細長いワイングラスをテーブルの上、名賀見の目の前に置いた。そして終末ワインのボトルを手に取り、スクリューキャップの栓を開けた。


 井上はそのままワイングラスへとそっと注ぎ始め、そのまま全量を注いだ。全量といっても100ccといった量であり、井上は注ぎ終わった空のボトルのキャップを締め、再び木箱の中へと戻した。


「ではこちらの終末ワインを提供させて頂きます。ただ職員帯同の下でお飲み頂くという事がルールとなっておりますので、私は少し離れた場所で見させて頂く事を御容赦ください。それでは失礼します」


 井上は一礼すると共にそう言って、ワゴンを押しながら警備員4人を伴ってドアの所へと向かった。そして井上と警備員は名賀見の方へと向き直り、名賀見を監視するよう両手を前に組みその場に位置した。


 時刻は午前11時。見上げれば真っ青な空が広がっていた。とはいえ、名賀見に見える空は壁に囲まれ四角く切り取られた空。太陽はあるものの青い空が見えるだけで太陽の光を浴びれる訳でもなかった。季節的にも寒さは厳しく、コンクリート壁に囲まれたその場所は名賀見の想像以上に寒かった。そんな場所で最期を迎えると決めた事を、名賀見は少しだけ後悔した。


 名賀見は目の前のグラスを見つめていた。そして今の状況を肯定しようと試みた。この先、生き続けたとしても少ない賃金で働き続けて寿命を待つだけ。あと数年で年金を貰えるようになったとしても楽な生活が望める訳でもなく、単に節約を重ねて寿命を待つという生活を送るだけ。そんな生活を続けるくらいであれば、楽に死ねるという今の自分は恵まれているのかもしれないと言い聞かせてみた。


 だが頭の中には先日テレビで見た楽しく過ごす人達の姿がチラついた。その人達がいつどうやって死ぬのかは別として、少なくとも明るい未来を想像することが出来る。自分とはまったく異なる生活を送っている。同じように働き続けた自分と何故にそれほど差が付くのだと、そういった思考になり、今の自分を肯定しようとする考えを相殺してしまう。


 ならば最期は楽しい事を考えようと、楽しかった事を思い出そうとするも一向に思い出せない。学生の頃の楽しい思い出などあっただろうかと、今際の際に於いても悲観的にしかならない、自分の今を恨めしく思う事しか出来ない、誰かのせいとしか思えない、何故に自分がという考えにしか思考が及ばない。

 

「……ったく寒いしよー。何で俺がこんな目に合わなきゃならねーんだよ……他にも悪い奴とか死んでいい奴なんて腐るほどいるだろうが……なのに何で俺だけこんな所で死ななきゃならねえんだよ……」


 名賀見は俯き加減に1人そんな事を呟くと、無意識の内に涙を流していた。悔しくて泣いていた。面会にも来なかった元妻に子供に、ぶつける事も出来ない怒りが込み上げていた。しかし、今更何をどうする事も出来ない悔しさで泣いていた。


「……くっそーっ! どいつもこいつも皆死んじまえーっ!」


 名賀見は空に向かって最後にそう叫ぶと、目の前に置かれたグラスを手錠がされたままの右手でガッと掴んだ。そしてそのまま煽る様にして一気に飲み干した。


 ◇


 物言わぬ名賀見の最期の顔は悔しさで歪んでいた。名賀見の遺体は元妻を含めて誰からも引き取りを拒まれた為、行政の手により火葬が行われ、無縁墓地へと納骨された。納骨後、名賀見の為に無縁墓地に参り、手を合わせる人は誰一人として居なかった。


 名賀見よりも先に亡くなった生島には近しい親族がいたが、殺人を犯した生島の遺体を引き取る事を拒否した。同年代の親族は引き取る事を良しとしていたが、共に暮らす子や孫の強い反対もあって拒否せざるを得なかった。そこで遠い親戚を片っぱしから当たる事で、ようやく引き取ってくれるという親族が現れた。とはいえ葬儀をするでもなく、引き取られて直ぐに荼毘へと付され、その足で生島の夫と子供が眠る墓へと納骨された。生島の墓にも誰が参るという訳では無かったが、死後も迷惑扱いされた名賀見と違い、家族揃って1つの墓へと葬られたという点に於いては、死後の生島は名賀見よりも恵まれていると言えた。


 ◇


 20XX年『終末管理法』制定。

 制定されると同時に、厚生労働省には『終末管理局』が新設された。新設された終末管理局の役割は、当局の管理監督の下で、個人に対して、個人の終末日、つまり亡くなる日を通知する、というのが主な役割である。しかし、あくまでも医療行為、健康診断等の膨大な身体情報を基に、本省のコンピュータシステムで計算した物で有る為、事件事故等、不測の事態で亡くなる場合には無意味である。また大病を患っている、持病がある等の場合にも無意味である。この制度は、健康体の人物を対象とした、福祉の一貫として位置づけられている。


 個人に終末日を伝える方法は葉書とされた。毎月の月末日に、厚生労働省の本省に設置されているコンピュータシステムで終末日を算出し、同時に終末通知の葉書を作成する。作成後は、即刻、郵便として全国へと発送される。対象期間は、月末日から2か月以内に死亡予測が出た個人宛に発送される。

 

 また、葉書を受領した人達に対する精神ケアの為に、各自治体には『終末ケアセンター』を設置する事も義務付けられた。終末ケアセンターの役割は、通知葉書を受領した人達へのカウンセリング、そして安楽死の実施という、2つが主な役割とされた。


 安楽死の方法は飲料による服毒と定められた。安楽死が目的の為、飲む事によって苦しみを一切伴わず、且つ終末の飲料としても美味しい事も求められた。その要求に対して、飲んだ直後から急激な睡眠作用を誘導、同時に脈拍低下が始まり、数分後に完全な心停止する飲料が開発された。そしてその仕様を邪魔しない味を求めた結果、ぶどうを原料としたワインが開発された。


 財政的にも公的支援が図られる事になる。終末日を迎えた時に負債があれば公費で負担する事になった。そのかわり、終末日は保険金融業界にも連携され、クレジットカードは即時利用停止となる。終末日以降はローンも組めず、銀行の現預金か、現金決済のみとされた。


 終末日以降の自殺での保険金搾取も考慮し、生命保険も停止という措置がなされる。そのかわり傷病での医療費の負担は公費で全額なされる。資産の相続についても軽減措置がなされ、名義変更が必要な家や車と言った資産については、妻子を優先に自治体のシステムで、自動的に名義変更まで行われる。


 遺体の引き取り先が無い、若しくは引き取りを拒否された場合には、自治体により火葬、埋葬まで行われる。その際は、自治体の共同無縁墓地へと埋葬される。これは行旅死亡人(こうりょしぼうにん)と同様の扱いである。


 終末を通知された人が、自暴自棄になる事も想定され、人は勿論、社会に対して、破壊衝動に駆られる危険性を考慮の上、終末管理局にてそれらの衝動に駆られそうな危険人物の特定も行われる事になった。これも本省の最新のコンピュータシステムで、過去の実績等(事件事故等)の警察情報をデータベース化し、システムにより人物抽出される。これらを担うのは、終末管理局直轄の部門で『終管Gメン』と呼ばれた。終管Gメンは、警察庁との情報を含めた密な連携を取り、対象者の監視拘束を行う。そして一度拘束されると、終末日まで拘束される事になる。それ程の強権を発動する事に対して、賛否は拮抗しているが、終末日の通知は残りの時間を有意義に過ごすという、福祉の一貫であるにも関わらず、個人の身勝手な破壊衝動に対しては、社会の安定を第一に考え、強権を持って抑えるというものである。

 

 終末日を知らせる葉書は『終末通知』と呼ばれた。

 そして、安楽死を行う飲料は『終末ワイン』と呼んだ。

2019年 11月10日 5版 誤字含む諸々改稿

2018年 12月03日 4版 誤字修正、冒頭説明を最下部に移動

2018年 10月13日 3版 誤字修正、描写追加修正他

2018年 09月26日 2版 誤字修正、冒頭説明文追加

2018年 09月24日 初版

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