5.梅明かり
聞くところによればあれ以来、左馬助は家宅に引きこもったきりだという。
しかし藩の者の頻繁な出入りはあるそうで、ならば景久について、告発もできようものと思われた。
──いざとなれば、腹でも切ればよかろう。
ふてぶてしくそう居直って数日を過ごしたのだが、景久の元に、とうとう詮議は及ばなかった。左馬助が何を語り、何に口を噤んだのか。それは景久の窺い知らぬ事だ。
だが状況から憶測するに、城中はこの一件を、後藤将監の折と同じように取り扱うようだった。
即ち、知らぬ存ぜぬである。
後藤左馬助は急な病を得て、水に馴染んだ江戸の地で療養をする運びとなった。
元より、静まるが好ましい騒乱であったのだ。
迂闊に真相を探って藪から蛇を出すよりも、波風が立たぬ今の形のまま、暗がりに捨て置くべしとされたのだろう。
どうやら景久にも佐々木の家にも、余殃の及ぶ事はないように思われた。
だからその夕べ。
寝そべる己と白梅の間に彦三郎が立ったのを見て、「きっぱりと全て片付いたのだな」と景久は感慨をした。
「命拾いをしたようだ」
「そうらしいな」
柔和な微笑で、どこか恥じるように彦三郎が言う。むっくりと起き上がり、景久が返す。
それは何ら変わらない、いつもの光景だった。
「左馬助の病で、果し合いが取り下げられたのだろう? 運の太い事だな、彦」
知らぬ顔で友の幸運を喜んでみせたが、彦三郎はどうにも合点のいかぬ素振りである。
「だが解せん事もいくつかあってな。ここだけの話だがその左馬助、誰ぞに闇討ちをされたとの噂もある。……お前、心当たりはないか?」
「と、言われてもな。秋月道場どころか藩内を見回しても、あれに勝れる者は少なかろうよ。物の数にも入らぬ俺に、何ができたというのだね」
自嘲めいて肩を竦めると、彦三郎は憂い顔のまま嘆息をした。
「どうにも俺は、またしても助けられたような気がしてならんのだ」
「気の所為だろうよ。いや、地蔵に酒を供えるような陰徳の加護かもしれんがな」
茶化してから夕映えを眺めやり、まあ、と景久は続ける。
「強い弱いでどうなる世間でもないからなあ。果し合いだの立ち合いだのの無常が、ふっと身に染みたのだろうよ」
「先生の言いならば得心もできるが、どうした事だろうな、景。お前の口から出たとなると、途端に胡乱を帯びて聞こえる」
「酷い言い草だな、彦。お前、それでも俺の友かね」
「ああ、友だとも。だから」
言葉を切って、彦三郎は酒瓶を掲げて見せた。揺すればちゃぷんと良い音がする。
そうして二人、縁側に座り込んで手酌で呑んだ。
さして語らいが多からぬのも、またいつも通りの事である。ぼんやりと彦三郎の気配を感じながら、景久は梅を見上げた。
腕っ節などまるで役に立たない、奪うばかりで何一つ与えぬ代物である──などと綺麗事ぶるつもりは景久にない。
刀と同じだ。抜き時を誤らねば有用である。
少なくとも友との好日を守ったのはそれであり、誇り、満足すべき成果であろうと考える。
だが、同時に思う。
剣で打ち払える危難など、所詮一過性にして直接的なものでしかない。たまさかに役立ったからといって、これを頼み過ぎてはならない。
火花のように一瞬きり輝く力よりも、継続して地に足を着け、日々の暮らしを立てる力の方が余程に強く尊いのだ。
親父殿に初名。彦三郎に秋月先生。よねに道場の面々。
胸中にいくつもの顔が過り、そして感じる。
我こそが、彼らに守られているのだ、と。
「俺はな、感謝しているのだよ、彦」
「一体に何にだ、大虎め」
酔漢をあしらうように応じながら、彦三郎は耳を傾ける姿勢になる。
ごろりと仰向けに転がって、景久は心から告げた。
「お前たちがいてくれるから──俺のようなものも、こうして俺でいれるのさ」
その大きさ、温かさに比べたら、己の天賦など何ほどのものか。
ならば人殺しの才など、飼い殺して眠らせておけばよい。
存分に怠けさせておけるのがよいのだと、そのように景久は思う。
「お前はいつもそうやって、自分を低いもののように言うがな、景。俺はお前を、一角のものと見込んでいるぞ」
「……彦三郎ともあろうお方が、酔いで目を曇らせたかね」
照れ隠しの言いざまに、友は答えず、ただ小さく笑んだ。
*
「……上! 兄上!」
うとうとと漂う意識を覚醒させたのは、聞き慣れた妹の声である。
重たいまぶたをこじ開ければ、隣に端座した初名がゆさゆさと体を揺すっていた。どうも、寝入ってしまっていたものらしい。
景久が「ああ」とも「うう」ともつかぬ音を発すると、彼女は丸く頬を膨らませた。
「池尾様ならもう帰られましたよ。『景が風邪を引かぬようにしてやってくれ』と言い置かれたわたしの気持ちがわかりますか。まったくもう、いい歳をして恥ずかしいったら!」
叱りつけられ身を起こせば、掻い巻きがかけられていたのに気づく。
周囲には皿も酒盃も見当たらず、全ては初名の手際と思われた。いつもながら、兄の面目は丸つぶれである。
「ですが、まあ、今回ばかりは見逃して差し上げます」
だが再び唸った景久に向け、初名は格別にやわらかな声を出した。
「兄上様」とにっこり極上の笑みで呼びかけて、
「この度は、おつかれさまでした」
そうして小さく頭を下げた。
まるで、何もかもを見透かしたような物言いだった。
虚を突かれた景久が我に返ったその時には、初名はすらりと立ち上がっている。
既に日は落ち、夜が忍び入る刻限である。それだけで妹の細面は影に溶け、その表情は白梅の花明かりにも読み取れぬ。
「……」
男にとって、女という生き物は悉皆魔性だという。
よもや我が妹もそうであるのかと、景久は憮然と顎を撫でた。