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4.人中の虎

 佐々木景久は、生まれついての剛力だった。

 景久自身に覚えはないが、乳離れする頃には梅の実を種ごと握り潰していたという。

 のみならずひどく(はしこ)く、また観察が鋭かった。

 言葉を話す歳にもなればその天賦(てんぷ)は顕著で、父である清兵衛はこれを案じた。

 明らかに、景久には天性がある。

 だがそれは武技武術の才覚であり、つまるところ人を殺傷しうる天禀(てんぴん)である。人中(じんちゅう)の虎の如き我が子の(しょう)を、清兵衛はこのままに伸ばしてはならぬものと見た。

 人は脆く、儚い。虎にじゃれかかられれば十分に死ぬ。当の虎は軽く撫でただけのつもりであっても、だ。

 結果生じるであろう忌避と孤独は、景久の心を必ず歪むる事となろう。


 よって彼は息子を、秋月外記(げき)の元へと連れた。

 外記は七坂で道場を営む秀でた剣腕の持ち主であり、清兵衛の年来の友でもあった。故に清兵衛は彼が伝える秘剣を聞き及んでおり、我が子にそれを教授するようにと求めたのだ。

 如何に才ありとはいえ、まだ年端も行かぬ小童(こわらわ)に秘奥を譲れというのだから、地道に鍛錬を積み重ねた者からすれば張眉怒目(ちょうびどもく)の話である。

 だが清兵衛と昵懇(じっこん)なだけあって、外記もまた酔狂だった。

 彼は景久に素振りを命じ、次いで往来を走らせた。最後にいくつか問答をして、これならばと見定めた。

 斯様にして景久は、何にも先駆けてまず、梅明かりを修める次第となったのである。


 秋月での鍛錬は、景久にとって強くなる為のものではない。

 述べた通り、梅明かりとは観察の剣である。

 その修練とは即ち立ち合う者を瞬時に見極め、合わせて弱くなる為(・・・・・)の工夫であった。余人を下に見た仕儀ではあるが、景久には必要不可欠な枷だった。

 己の天与を殺す修練であったと知りながら、しかし景久は父と師とに深く感謝している。

 お陰で自分は嶮峻(しゅんけん)の高みの孤独ではなく、共に笑い共に泣く友たちがいる今を得られた。


 そうして育まれた景久であるから、彼は第二の天性は暴を嫌う。これを喜ぶ者などありはしないと思うからだ。

 他を読み()に重ねる技に秀でるからこそ、人が厭う行いは慎む。無論の事である。

 だが景久とて菩提(ぼだい)を得ているではない。己が愛するものを傷つけられれば牙も()く。

 梅明かりの枷はその折引きちぎられて然るべきものであり、つまり、今こそがそれだった。

 左馬助らが為したのは、虎の尾を踏む振る舞いであった。



 *



 裂帛(れっぱく)の気合と共に、景久の正面のひとりが動いた。

 月を映し、ぎらりと太刀が煌く。だが振り下ろされた輝きは、虚しく空を裂くに終わった。景久の(たい)はもうそこにない。実際に斬撃が起こるより早く、まるで知っていたかのように彼は動いている。

 景久の五感は、滲む梅明かりを的確に読み取っていた。

 夜と多数を相手取るというう観察に向かぬ状況においても、彼はこの秘奥を十二分に使いこなしている。


 ふわりとやわらかな動きで刃を躱した彼は、振り返りもせずに後方へ飛んだ。

 驚愕したのは、景久の背後へと忍び寄っていた別のひとりである。死角からの奇襲を目論んだこの男は、自らが逆に不意を討たれるなど思いもしていなかった。

 想定外の事態に固まったその奥襟(おくえり)を、やはり振り返らぬままの景久がむんずと掴む。そうして、猫の子にでもするように眼前へと引き出した。抗いをものともしない剛力だった。平素は細心の加減をしているだけで 生来の力は別段消え失せたではない。

 たまらず泳ぐ上半身。その盆の窪を手刀が打った。打たれた男は前にのめって倒れ、それきり動かない。完全に昏倒していた。


 左馬助が舌を打った。

 仲間の失態にではない。踏み込もうとした足先に男の体が転がされ、それ故に機を逸したからである。

 だが残る二人は機敏に動いていた。

 下がる事で欄干を背にした景久へ向け、ふた筋の刺突が走る。(いびつ)な十字に交錯する突きを、彼は高く真上に跳ね上がって避けた。避けるや勾欄の天辺(てっぺん)を蹴って飛び、二人の後背(こうはい)に降り立っている。天狗めいた身軽さだった。

 次いで足裏で押し出すように、供の一人を左馬助へ向け蹴り飛ばす。反作用を利しながら伸ばした腕で、もう一人の帯を掴んだ。

 振りほどく間もあらばこそ。

「よっ」という気の抜けた掛け声と共に、捕まった男が宙を舞った。その体は暗い水面へと落ち、またしても高く水音が上がる。


「何をしている!」


 怒声が、それに重なった。立て続けに動きを妨げられた、左馬助の勘気である。

 頭目の怒りに背を押されるようにして、態勢を立て直した最後の一人が前に出た。

 景久の見切りと速度に対応すべくであろう。構えを脇構えへと変じ、刀身を我が身の影に隠す。そのまま、すり足でにじり寄る。未だ抜かざる景久を、間境を越えるなりで一撃する心算(しんさん)であった。

 一寸。二寸。

 じりじりと距離が詰まる。男の中に緊張が張り詰めていく。刀を握る手にじっとりと汗が滲んでいた。

 あと、毛一筋。

 それだけで間合いに入ると思ったその時、動かざると見えた景久が動いた。無造作に一歩を踏み込む。

 反射的に逆胴を見舞わんとした男であったが、しかし刀はぴくりともしない。見れば彼の拳に、伸ばした景久の手が触れていた。男の満身の力を、添えられただけとしか見えぬ腕一本が制している。

 柄から手を離し、身を翻すべきだったろう。だが剣士としての性根が、男を刀に、力比べに固執させた。

 満身を振り絞るべく動きを止めたその瞬間、景久のもう一方の手が閃いた。下方から弧を描いた掌底が、狙い澄まして顎先を掠める。

 かくん、と男の膝が落ちた。強制的に意識を叩き出された体は、そのまま糸が切れたように崩折れる。


 左馬助が、もう一度大きく舌を打った。

 選んで側に置いただけあって、(とも)四名(よめい)はいずれも一流の使い手である。

 それが、まるで赤子扱いだった。

 侮っていた眼前の男が、尋常ならざる使い手であると認識せざるを得なかった。力と速度とに加え、恐るべき先読みと視野の広さを備え合わせている。

 憎々しいげな眼光を受け、景久は顎を撫でた。


「恨むなら、この顔にしてくれよ」


 人相定かならぬ夜間であり、また左馬助一派に景久を見知る者などないだろう。

 それでも景久が面体(めんてい)を隠さず晒して接触したのは、万一このような顛末(てんまつ)になった折、左馬助の憎しみが自身に向くようにという浅知恵である。

 だがそれをも余裕の現れと取ったか、左馬助はぎりりと歯軋りをした。



 *



 後藤左馬助は恨みの子である。

 だが泥の如き怨念は、元来彼のものではない。それは、母より注がれたものだった。


 将監の妻であった乙江(おとえ)は、高みを好む(さが)をしていた。人を、他者を見下ろすのを好いたのである。

 美貌で、家柄で、権勢で、金銭で。

 その他ありとあらゆるもので自他を比較し、悦に入る女だった。

 だから彼女にとって、後藤の凋落(ちょうらく)は許し難き事態であった。これまで見下してきたものに見下される。そのようなあり方は乙江に耐えられるものではなかった。

 療養と称して江戸に逃れた彼女であるが、周囲の全てに嘲られているという妄想を振り払う事は、とうとう叶わなかった。

 彼女は日がな一日自室に篭もり、ただ息子に己の怨念を注いだ。

 お前は池尾を誅戮(ちゅうりく)すべく生まれた子だと()き続け、苛烈と言う他ない教育を左馬助に施した。


 左馬助の不幸は、なまじっかに天賦(てんぷ)があった事だろう。

 彼の才覚は母の課したものを飲み込んで成長した。歪み、捻くれたまま、取り返しようもなく伸びてしまった。

 そうして我が母より詰め込まれた悪意は、左馬助自身のものを加えて(かさ)を増した。

 憎むべきは池尾のみに留まらずその周囲へ、城下へ、やがては藩そのものへと拡大した。ありとあらゆるを巻き込んで燃え広がる憎悪の火へと変質した。


 故に、左馬助の剣は侵食の剣である。

 剣腕もさりながら、対峙する者はまず、その気に呑まれる。火のような、或いは毒のような絶え間ない攻勢と威圧に気魂(きこん)を制され、或いは斬られ、或いは折れた。事によっては魅入られた。

 延焼するその熱は、自身をも灰燼(かいじん)とする狂気の火である。何の実も結ばぬ、咲かせてはならぬ徒花(あだばな)である。

 だが斯様な破滅の渦に惹かれるものがいるのも、また世の常だった。

 己ばかりは安全な距離を保てていると錯覚し、ある者は便乗し、ある者は利用しようとした。無論、このような暴れ馬を乗りこなせるはずもない。

 乙江はその最たる例と言えたろう。

 左馬助の七坂帰還が叶うと聞き雀躍(じゃくやく)していた彼女は、今や江戸屋敷で仏壇に向けて呟くばかりの生きた(むくろ)と成り果てている。


「ご安心ください、母上。池尾も後藤も七坂も、全部この世からなくして進ぜますよ。お望み通り、母上を見下す者など誰ひとりないようにして差し上げます。ええ、ご安心ください、母上」


 我が子に告げられたその言葉が、乙江の精神の平衡を奪ったのである。

 彼女はその時まで、自分が何を育て上げたのかに気づきすらしていなかった。



 *



 斯様にして肥え太った左馬助の火を、誰もが恐れた。

 藩の重臣たちですら、彼がただ黙ってじっと見つめれば、冷や汗をかいて(おもて)を伏せた。人は左馬助の宿す狂を恐れ、暴に圧されるはずであった。

 だが目の前の男は、この威をものともしてしない。まるで駄吠えか何かであるように、平然と受け流している。

 (おの)が生を軽んじるが如きその(たたず)まいを、左馬助は決して許しおけぬ。

 燃えるような殺気に応じて、景久もまた刀を抜き合わせた。

 この男の腕前は聞き及び、今また見知った。これまでのようにはあしらえぬ。

 両者は、向き合ったまま橋の中ほどへと動いた。

 左馬助は上段。景久は中段。

 やがてぴたりと足が止まる。器に水が満ちるように、夜の闇よりも濃密な何かが凝縮していく。

 彫像の如く静止した二者間に、どのような呼吸があったのか。余人にはまったく窺い知れぬまま、左馬助が斬り込んだ。


 それは氷に走る亀裂めいて、一瞬にして不可逆の変化だった。

 左馬助の太刀を契機に、静から動へと二人は転じる。回転する独楽のように目まぐるしく、火花を伴って両者は打ち合う。刃風が唸り、刃金(はがね)が鳴り響く。

 もしこれを見る者あらば、景久こそが不利と断じたろう。

 防ぎ、捌きこそしているものの、景久が送る太刀はない。ただ受ける一方で、反攻の糸口すらつかめぬかに思える。

 だが、違う。

 手数は圧倒的に左馬助である。しかし空を裂き闇を焦がす猛烈な太刀のいずれにも手応えがないと、誰よりも左馬助自身が悟っていた。全ての剣が、必要最小限の力で流されている。雲か(かすみ)を相手取るようだった。

 打ち込んでいるのではなく、打ち込まされている。

 それは左馬助もまた一流を逸して上回る剣客たればこそ及ぶ理解であった。

 景久のわずかな動き──深呼吸の肩、小さな足運び、柄の握り直し、視線の迷いといった(ことごと)くが罠なのだ。

 それらは左馬助の()ち気を巧妙に誘い、彼を景久の思い通りに踊らせている。まるで意のままに()られる人形か、掌上の猿の心地だった。


 実のところ、景久の防戦は余裕の現れでは決してない。

 景久からしても左馬助は油断ならない剣客であり、それ故に計り知れぬ懐を備えていた。だからこその受け太刀であり、それは(ほの)かな明かりを(しか)と見極めるのに要とした時である。

 が、左馬助はそうとは知らぬ。

 見切られている。読み切られている。

 その感覚が、彼に疲労を蓄積させていく。


「……ひひッ」

 

 猛撃を振るい続けた事もあり、さしもの左馬助とて息が乱れた。

 飛び下がって怨敵(おんてき)()めつけ、左馬助の喉が枯れた笑いを漏らす。


「お前、なに邪魔立てするんだよ。なぁに邪魔立てしてるんだよぅ」


 ちりちりと苛立ちが首筋を焼く。身の内を、癇癪(かんしゃく)にも似た(ほむら)が渦巻く。

 乾いていた。乾いて乾いて、どうしようもなくただ乾いて、だから水が欲しかった。

 このどうしようもなく邪魔で邪魔で邪魔で邪魔で仕方ない男の血が見たかった。死が見たかった。でなければ収まりはつきそうにもない。

 憎悪に更なる殺意をくべて、左馬助が構え直す。その、直後だった。


「踏み込んで袈裟懸け、切り返して片手薙ぎに首。防がれたら飛び退(すさ)って、ふむ、その距離は手裏剣かね」


 脳裏に描いたばかりの数手を言い当てられ、ぞくりと体が静止した。


「刺突と見せて足切り──いや、投げつけるのはやめておくべきだろう。貴殿が連れの刀を拾うより、俺が早い」


 梅明かり。

 その推察は、敵を知れば知るほどに深く鋭く正確となる。

 これまでの立ち合いを経て、景久はおよそいつ斬るも自在の域に到達していた。。


「ひ、ひひ、ひ……」


 我知らず、左馬助の喉がまた鳴った。

 世にはこんな化物がいるのかと瞠目(どうもく)する思いだった。それは、生まれて初めて彼が覚えた戦慄である。


「──ひぃぃィィィッ!」


 (ほとばし)った気合は、むしろ悲鳴に酷似した。 

 真っ向からの斬り下しを景久の刃が斜めに受ける。そのまま外へと受け流し、左馬助の(たい)を崩さんとした。

 が、捌かれつつも左馬助は完全には乱れない。粘り強く足腰で踏みとどまり、颶風(ぐふう)めいた逆袈裟を跳ね上げる。


「将監様、ご照覧あれ!」

「こんなくだらん喧嘩なぞ、目に入れたくもあるまいよ」


 叫びながらの一刀を、無論景久は読んでいる。低く這いずるように伏せて(かわ)すや、天へと吹き抜けた太刀行きを追って己の刀をすくい上げる。

 刃金が峰が食らいつく。物打ちの裏に強く思わぬ衝撃を受け、左馬助の佩刀(はいとう)は彼の手を離れ高く舞う。

 唖然とその様を見上げる左馬助の(くるぶし)を、景久は容赦なく打った。

 ぎゃっ、と苦鳴が上がった。

 刃を返しての打撃とはいえ、鉄の棒による手加減抜きの打擲(ちょうちゃく)である。景久の力を考えれば、太い骨までもがぐずぐずに砕けたはずだった。

 一瞬考えてから、景久は更に刀を打ち下ろす。今度は、足を抑えて屈み込む右肩だった。

 流石に限界を越えたのか、白目を剥いて左馬助が崩れる。


 そこでようやく息をつき、景久は刀を収めて額を拭った。

 毒蛇は半端な手を負わすのが一等怖いというが、ここまでしておけばもう武に携わる事もあるまい。左馬助が(たの)んだ暴力の理論からすれば、彼は何をされても仕方のない地位に落ちたのである。


 ──いっそ、斬ってやった方が親切かな?


 そんな考えが、片隅を()ぎる。

 だがすぐに(かぶり)を振って、景久は物騒な思案を捨てた。水に落とした奴輩(やつばら)が戻るより早く逃散(ちょうさん)しようと(きびす)を返す。

 そうして最後に、左馬助を一瞥(いちべつ)した。

 自分とは異なり、芸達者な仁のようである。生きてさえいれば、いずれ別の道も見出せよう。


「……剣術(やっとう)の腕前だけで、渡れる世ではもうないのだよ」


 言い聞かせめいた囁きが、ただひっそりと夜を流れた。

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